ジョン・ジェイ
アメリカ合衆国の政治家、外交官
ジョン・ジェイ(John Jay, 1745年12月23日 - 1829年5月17日)は、アメリカ合衆国の政治家。連邦最高裁判所の初代長官、ニューヨーク州知事などを務めた。「アメリカ合衆国建国の父」(ファウンディング・ファーザーズ)の一人とみなされる。
ジョン・ジェイ John Jay | |
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アメリカ合衆国初代最高裁判所長官 | |
任期 1789年10月19日 – 1795年6月25日 | |
ノミネート者 | ジョージ・ワシントン |
後任者 | ジョン・ラトリッジ |
第2代ニューヨーク州知事 | |
任期 1795年7月1日 – 1801年6月30日 | |
副知事 | スティーヴン・ヴァン・レンセラー |
前任者 | ジョージ・クリントン |
後任者 | ジョージ・クリントン |
アメリカ合衆国国務長官代行 | |
任期 1789年9月15日 – 1790年3月22日 | |
大統領 | ジョージ・ワシントン |
後任者 | トーマス・ジェファーソン |
アメリカ合衆国外務長官 | |
任期 1784年5月7日 – 1789年9月15日 | |
大統領 | ジョージ・ワシントン |
前任者 | ロバート・リビングストン |
第6代大陸会議議長 | |
任期 1778年12月10日 – 1779年9月28日 | |
前任者 | ヘンリー・ローレンス |
後任者 | サミュエル・ハンティントン |
個人情報 | |
生誕 | 1745年12月23日 13植民地 ニューヨーク植民地ニューヨーク |
死没 | 1829年5月17日(83歳) アメリカ合衆国 ニューヨーク州 ウエストチェスター郡 |
政党 | 連邦党 |
配偶者 | サラ・リビングストン・ジェイ |
子供 | ウィリアム・ジェイ ピーター・オーガスタス・ジェイ サラ・ルイーザ・ジェイを含む6人 |
出身校 | コロンビア大学 |
署名 |
生涯
編集ニューヨークで豊かな商人の家庭に生まれた。キングズ・カレッジ(後のコロンビア大学)に学ぶ。アメリカ独立への機運が高まる中で開催された大陸会議に参加し、一時は議長も務めた。アメリカ独立戦争においては外交官として活躍し、1783年に締結された講和条約であるパリ条約の草案作成に尽力した。政治的にはフェデラリスト(連邦主義、合衆国政府の権限強化を支持)の立場をとった。ジェームズ・マディソン、アレクサンダー・ハミルトンとともに、ザ・フェデラリスト論文の執筆者となる。独立後、初代大統領のジョージ・ワシントンは、イギリスとの関係改善を図り、ジェイを特別使節としてイギリスへと派遣した。ここで成立したのがジェイ条約(1794年)であったが、イギリスに対して有利な条約であるとの批判もみられた。1795年にニューヨーク州知事に就任し、1801年までその職にあった。1829年5月15日、ジェイは自宅で息を引き取った。
外部リンク
編集- John Jay at MetaLibri
- United States Congress. "ジョン・ジェイ (id: J000065)". Biographical Directory of the United States Congress (英語).
- Columbia University's Jay Papers Project
- Today in History: December 12 on the Library of Congress's American Memory website.