ジョン・スペンサー・スミス

ジョン・スペンサー・スミス英語: John Spencer Smith FRS FSA1769年9月11日1845年6月5日 カーン)は、イギリスの外交官、政治家。在オスマン帝国イギリス臨時代理大使英語版(在任:1798年 – 1801年)、庶民院議員(在任:1802年 – 1806年)、在ヴュルテンベルクイギリス特命公使英語版(在任:1803年 – 1804年)を歴任した。

生涯 編集

ジョン・スミスと妻メアリー(Mary、旧姓ウィルキンソン(Wilkinson)、ピンクニー・ウィルキンソン英語版の娘)の息子として、1769年9月11日に生まれた[1]。1790年7月6日、オックスフォード大学ウスター・カレッジに入学した[2]。1790年7月10日にエンサイン英語版(歩兵少尉)として近衛歩兵第1連隊に入隊[3]、1792年1月28日に歩兵第8連隊英語版の中尉に昇進したが[4]、同年2月11日に半給になった[5]。1801年4月21日に歩兵第43連隊英語版に転じ[6]、1803年11月29日に引退した[7]

1793年には兄シドニー・スミスとともにコンスタンティノープルに旅した[1]トルコ語を話せたため、在オスマン帝国イギリス大使英語版ロバート・リストンの秘書官として雇われ、1795年11月4日にリストンがコンスタンティノープルを発った後は臨時代理大使を務めたが、正式に公使館秘書官に任命されたのは1798年4月4日のことだった[8]。同年9月30日には兄シドニーとともにオスマン帝国との交渉における全権を与えられた[8]。10月14日に大使としての信任状が発行され、12月初に信任状を奉呈した後、1799年1月4日に兄とともにオスマン帝国との条約を締結した[8]。次期大使に任命された第7代エルギン伯爵トマス・ブルースは1799年11月8日にコンスタンティノープルに到着したが[8]、スミスがエルギン伯爵の部下になることを拒否したため、外務大臣初代グレンヴィル男爵ウィリアム・グレンヴィルはやむなく1801年1月にスミスに帰国許可を出し、スミスは1801年3月にコンスタンティノープルを発った[1][8]

1802年6月にイングランドに戻ってくると、スミスは同年の総選挙ドーヴァー選挙区英語版から出馬した[1]ドーヴァーはスミスの父が長年住んだ都市であり、政府が五港長官英語版(このときは小ピット)を通じて勢力を有したが、兄の選挙活動もあって534票(得票数2位)でウィリアム・ハスキソンを破った[1][9]

1803年3月10日、王立協会フェローに選出された[10]。また、ロンドン考古協会フェローにも選出された[10]。1805年6月26日、オックスフォード大学よりD.C.L.英語版の学位を授与された[2]

1803年6月25日に在ヴュルテンベルクイギリス特命公使英語版に任命され[11]、10月5日に信任状を受けた[12]。1804年2月16日にシュトゥットガルトに到着、19日に信任状を奉呈した[12]。4月3日にフランシス・ドレイク英語版の召喚を受けてザルツブルクに向かい、以降7月6日に召還されるまでオーバーエスターライヒに留まった[12]

公使就任により不在の時期もあり、庶民院では演説の記録がなく、時の内閣に反対票を投じた記録もなかった[1]1806年イギリス総選挙では財政上の理由により出馬せず、政府の候補への支持を呼びかけた[1]

1807年3月に政府より1,200ポンドの年金を与えられ、以降ノルマンディーに移住して著述に専念、1845年6月5日にカーンで死去した[1]

家族 編集

1798年、コンスタンス・ヘルベルト英語版(在コンスタンティノープルオーストリア公使ペーター・フィリップ・ヘルベルト・フォン・ラトケアル男爵の娘)と結婚、2男をもうけた[1]

出典 編集

  1. ^ a b c d e f g h i Collinge, J. M. (1986). "SMITH, John Spencer (1769-1845).". In Thorne, R. G. (ed.). The House of Commons 1790-1820 (英語). The History of Parliament Trust. 2021年11月23日閲覧
  2. ^ a b Foster, Joseph, ed. (1891). Alumni Oxonienses 1715-1886 (S to Z) (英語). Vol. 4. Oxford: University of Oxford. p. 1317.
  3. ^ "No. 13216". The London Gazette (英語). 6 July 1790. p. 423.
  4. ^ "No. 13382". The London Gazette (英語). 24 January 1792. p. 47.
  5. ^ "No. 13387". The London Gazette (英語). 7 February 1792. p. 92.
  6. ^ "No. 15356". The London Gazette (英語). 18 April 1801. p. 418.
  7. ^ "No. 15649". The London Gazette (英語). 26 November 1803. p. 1653.
  8. ^ a b c d e Bindoff, S. T.; Malcolm Smith, E. F.; Webster, C. K., eds. (1934). British Diplomatic Representatives 1789–1852 (英語). London: Offices of The Royal Historical Society. p. 165.
  9. ^ Collinge, J. M. (1986). "Dover". In Thorne, R. G. (ed.). The House of Commons 1790-1820 (英語). The History of Parliament Trust. 2021年11月23日閲覧
  10. ^ a b "Smith; John Spencer (c 1770 - 1845)". Record (英語). The Royal Society. 2021年11月22日閲覧
  11. ^ "No. 15595". The London Gazette (英語). 21 June 1803. p. 740.
  12. ^ a b c Bindoff, S. T.; Malcolm Smith, E. F.; Webster, C. K., eds. (1934). British Diplomatic Representatives 1789–1852 (英語). London: Offices of The Royal Historical Society. p. 194.

外部リンク 編集

グレートブリテンおよびアイルランド連合王国議会
先代
チャールズ・スモール・パイバス英語版
ジョン・トレヴァニオン英語版
庶民院議員(ドーヴァー選挙区英語版選出)
1802年1806年
同職:ジョン・トレヴァニオン英語版
次代
ジョン・ジャクソン英語版
チャールズ・ジェンキンソン英語版
外交職
先代
ロバート・リストン
大使として
在オスマン帝国イギリス臨時代理大使英語版
1798年 – 1801年
次代
エルギン伯爵
大使として
空位
最後の在位者
チャールズ・アーバスノット英語版
在ヴュルテンベルクイギリス特命公使英語版
1803年 – 1804年
空位
次代の在位者
ブルック・テイラー英語版