ジョン・ラッセル (初代ベッドフォード伯爵)

イングランドの廷臣、商人、貴族 (1485?-1555)

初代ベッドフォード伯爵ジョン・ラッセル: John Russell, 1st Earl of Bedford, KG, PC, JP, 1485年頃 - 1555年3月14日)は、イングランド廷臣、商人、貴族

ジョン・ラッセル
John Russell
初代ベッドフォード伯爵
在位 1550年1月19日 - 1555年3月14日

出生 1485年
イングランド王国の旗 イングランド王国ドーセットキングストン・ラッセル英語版
死去 1555年3月14日
イングランド王国の旗 イングランド王国、バッキンガムシャー、チェニーズ英語版
配偶者 アン・サップコート
子女 フランシス英語版
家名 ラッセル家
父親 ジェイムズ・ラッセル
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初代ベッドフォード伯爵ジョン・ラッセル(ハンス・ホルバイン画)

一介の貿易商からテューダー朝の廷臣に取り立てられ、1539年にラッセル男爵、1551年にベッドフォード伯爵に叙せられた。ベッドフォード公爵ラッセル家の貴族としての祖にあたる人物。

経歴 編集

1485年にイングランド・ドーセットキングストン・ラッセル英語版にジェイムズ・ラッセルの息子として生まれる[1][2]。ラッセル家はウェイマスを中心に貿易商を営む家だった[3]

彼も貿易商であったが、1506年1月にドーセットに難破した神聖ローマ皇帝マクシミリアン1世の長男フィリップとその妃フアナの通訳を務め[3]、その功績で1507年ヘンリー7世の宮廷官(Gentleman of the Privy Chamber)に取り立てられた。ヘンリー8世のもとでもその地位を維持した[4][1][5]

1513年フランス遠征軍に従軍した[1]1522年モルレーの戦いフランス語版にも参加し、同年7月2日に騎士に叙された[4][1]1523年にはナイト・マーシャル英語版に任じられた[4][1]1525年パヴィアの戦いにも参加[1]1528年にはドーセットサマセットシェリフを務めた[4][1]

1529年から1536年にかけてバッキンガムシャー選挙区英語版から選出されて庶民院議員を務めた[4][1]1538年には枢密顧問官となった[4][1]

1539年3月9日ラッセル男爵(Baron Russell)に叙された[4][1][6]。1539年7月にはスズ鉱山裁判所長官英語版に就任[4][1]。またイングランド西部に影響力があったエクセター侯爵ヘンリー・コートニー英語版が西部のカトリックの反乱(恩寵の巡礼)に参加して処刑されたため、新設の西部辺境評議会長官(Lord President of Council of the West)に任じられ、コーンウォールはじめ西部の統治にあたった[7]。反乱への対処として統監にも任じられた[8]

修道院解散でその荘園や土地を次々と奪って所領を拡大した。ベッドフォードシャーウォバーン・アビーの荘園をはじめ、コーンウォール、サマセット、デヴォンなどにあるタヴィストックの修道院に属していた30の荘園を獲得した。またロンドン中心部のコヴェント・ガーデンの土地も与えられた[6]バッキンガムシャーアマーシャムに屋敷も手に入れた[1]

1540年から1542年にかけては海軍卿英語版[9]、1542年から1555年の死去まで王璽尚書を務めた[4][1]。これにより西部での活動より中央での活動が多くなった[7]

ヘンリー8世の宮廷では重臣の粛清が相次いだが、彼は処刑されることなく、1547年に即位した少年王エドワード6世の治世まで生きのびた。ヘンリー8世の遺言でエドワード6世を補佐する高官の一人に指名されていた[10]1549年6月にイングランド西部でカトリックの反乱が発生するとその鎮圧軍の指揮官として出陣、反乱は鎮圧したが出陣中に政争が起こり、護国卿サマセット公エドワード・シーモアが失脚・ロンドン塔へ投獄された[11]。ラッセルは反乱鎮圧に手を焼き、事前に西部地域の反乱の芽を摘んでおく必要性を痛感し、再び積極的に西部統治に関与するようになり、庶民院議員選挙にも干渉するようになった[12]

1550年1月19日にはベッドフォード伯爵に叙された[4][1]1552年にはコーンウォール統監英語版デヴォン統監英語版ドーセット統監英語版に就任した[4][1]

1555年3月20日にバッキンガムシャー・チェニーズ英語版で死去した[1]。爵位は一人息子のフランシス・ラッセル英語版が継承した[4][1]

栄典 編集

爵位 編集

1539年3月9日に以下の爵位を新規に叙される[4][1]

  • ベッドフォード州におけるチェニーズの初代ラッセル男爵 (1st Baron Russell, of Chenies in the County of Bedford)
    (勅許状によるイングランド貴族爵位)

1550年1月15日に以下の爵位を新規に叙される[4][1]

勲章 編集

家族 編集

1526年にサー・ガイ・サップコートの娘アンと結婚した。この結婚でチェニーズ英語版の荘園を手に入れた[6]。彼女との間に一人息子でベッドフォード伯爵位を継承するフランシス・ラッセル英語版を儲けた[4][1]

脚注 編集

注釈 編集

出典 編集

  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u Lundy, Darryl. “John Russell, 1st Earl of Bedford” (英語). thepeerage.com. 2016年6月10日閲覧。
  2. ^ Archbold, William Arthur Jobson (1897). "Russell, John (1486?-1555)" . In Lee, Sidney (ed.). Dictionary of National Biography (英語). Vol. 49. London: Smith, Elder & Co.
  3. ^ a b 森護 1987, p. 207.
  4. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p Heraldic Media Limited. “Bedford, Earl of (E, 1549/50)” (英語). Cracroft's Peerage The Complete Guide to the British Peerage & Baronetage. 2016年6月11日閲覧。
  5. ^ 森護 1987, p. 207-208.
  6. ^ a b c 森護 1987, p. 208.
  7. ^ a b 青木康 2015, p. 16.
  8. ^ 松村赳 & 富田虎男 2000, p. 433.
  9. ^ 松村赳 & 富田虎男 2000, p. 432.
  10. ^ 森護 1987, p. 208-209.
  11. ^ 今井宏(編) 1990, p. 58-59.
  12. ^ 青木康 2015, p. 17.

参考文献 編集

公職
先代
サー・ウィリアム・ポーレット
王室監査官英語版
1537年 - 1539年
次代
サー・ウィリアム・キングストン英語版
先代
ウィリアム・フィッツウィリアム英語版
海軍卿英語版
1540年 - 1542年
次代
エドワード・シーモア
王璽尚書
1542年 - 1555年
次代
ウィリアム・パジェット英語版
先代
不明
コーンウォール統監英語版
1552年 - 1554年
次代
第2代バース伯爵英語版
デヴォン統監英語版及びドーセット統監英語版
1552年 - 1555年
サマセット統監英語版
1552年 - 1555年
次代
不詳
宮廷職
先代
初代エクセター侯爵英語版
スズ鉱山裁判所長官英語版
1539年 - 1555年
次代
第2代ベッドフォード伯爵英語版
イングランドの爵位
新設 初代ベッドフォード伯爵
1551年 - 1555年
次代
フランシス・ラッセル英語版
初代ラッセル男爵
繰上勅書により生前に爵位を譲る)

1539年 - 1553年