ジョヴァンニ・アントーニオ・ボルトラッフィオ

ボルトラッフィオとも呼ばれるジョヴァンニ・アントーニオ・ボルトラッフィオ(Giovanni Antonio Boltraffio、1467年 - 1516年6月15日)は、イタリアの画家である。レオナルド・ダ・ビンチの弟子の一人であった。

G・アントーニオ・ボルトラッフィオ
Giovanni Antonio Boltraffio
ミラノのダ・ビンチ像の傍のボルトラッフィオの像(Pietro Magni作)
誕生日 1467年
出生地 ミラノ
死没年 1516年6月15日
死没地 ミラノ
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略歴 編集

ミラノで生まれた。はじめベルナルド・ゼナーレ(Bernardo Zenale)やベルゴニョーネ(Bergognone)、 ヴィンチェンツォ・フォッパ(Vincenzo Foppa)といった画家のスタイルの作品を描いていた。フィレンツェで働いていたレオナルド・ダ・ヴィンチが1482年にロレンツォ・デ・メディチの意向でミラノ公国に派遣され、1499年までミラノで働いた間、レオナルドの工房で、マルコ・ドッジョーノ(Marco d'Oggiono)やジャン・ジャコモ・カプロッティ(別名、サライ)とともに働いたと伝えられる[1]。ボルトラッフィオは1491年にドッジョーノとともにミラノの教会(Chiesa di San Giovanni sul Muro)のためにキリストの復活を描いた「Resurrezione di Cristo con i Santi Leonardo e Lucia」を制作し、この作品は現在、ベルリンの絵画館に収蔵されている。ボルトラッフィオは2人の聖人などを描いたとされている。レオナルドの影響はこの作品に見られている。

1499年に、ミラノ公国がイタリアに侵攻したフランス軍に敗れ、レオナルドがヴェネツィアに避難した時、ボルトラッフィオもミラノを離れ、その後はボローニャで働き、1500年には代表作の「Casio Madonna Altarpiece(カシオ家の祭壇画)」を制作した。1514年にはローマで働いた。

1516年にミラノで没した。49歳であった。

1872年にミラノに設置された、ダ・ビンチの記念碑では、ジャン・ジャコモ・カプロッティ(Gian Giacomo Caprotti)、チェーザレ・ダ・セスト(Cesare da Sesto)、マルコ・ドッジョーノ(Marco d'Oggiono)とともに、ダ・ビンチの像の台座の周りにボルトラッフィオの像が配置された。

作品 編集

脚注 編集

  1. ^ Mina Gregori (a cura di), Pittura a Milano, Rinascimento e Manierismo, op. cit. p. 208

参考文献 編集

  • Maria T. Fiorio: Giovanni Antonio Boltraffio. Un pittore milanese nel lume di Leonardo, Jandi Sapi, Mailand 2000, ISBN 88-7142-041-1
  • Rodman R. Henry: Giovanni Antonio Boltraffio. A stylist; a study of his work, Dissertation, Universität Boston, Mass. 1989
  • M. T. Fiorio, Giovanni Antonio Boltraffio: un pittore milanese nel lume di Leonardo, Milano 2000
  • C. Geddo, Un trittico ricomposto e il problema dello Pseudo-Boltraffio, in "Arte cristiana", 2003, pp. 345–354
  • M.T. Balboni Brizza e M.Sambuy con la collaborazione di F.Cologni, Museo Poldi Pezzoli Milano (I grandi musei del Sole 24 ore), Mondadori-Electa, Milano 2005
  • Mina Gregori (a cura di), Pittura a Milano, Rinascimento e Manierismo, Milano, Cariplo, 1999, BNI 99-3199.