ジョヴァンニ・ジェンティーレ

ジョヴァンニ・ジェンティーレ(Giovanni Gentile、1875年5月30日 - 1944年4月15日)は、イタリア哲学者政治家ヘーゲルマルクスに影響を受けイタリア・ファシズムの理論家として知られる。

ジョヴァンニ・ジェンティーレ
Giovanni Gentile
Giovanni Gentile sgr.jpg
イタリア王立学士院総裁
任期
1943年7月25日 – 1944年4月15日
君主ヴィットーリオ・エマヌエーレ3世
前任者ルイージ・フェデルツォーニ
後任者Giotto Dainelli Dolfi
文部大臣
任期
1922年10月31日 – 1924年7月1日
首相ベニート・ムッソリーニ
前任者Antonino Anile
後任者Alessandro Casati
イタリア元老院議員
任期
1921年6月11日 – 1943年8月5日
君主ヴィットーリオ・エマヌエーレ3世
個人情報
生誕 (1875-05-30) 1875年5月30日
イタリア王国の旗 イタリア王国カステルヴェトラーノ
死没1944年4月15日(1944-04-15)(68歳)
イタリアの旗 イタリアフィレンツェ
墓地イタリアの旗 イタリアフィレンツェサンタ・クローチェ聖堂
政党ファシスト党
(1923年 - 1943年)
配偶者
Erminia Nudi
(m. 1901; his death 1944)
子供六子(フェデリコ・ジェンティーレ
出身校ピサ高等師範学校[1]
フィレンツェ大学[1]
専業教師、哲学者、政治家
署名
ジョヴァンニ・ジェンティーレ
時代 20世紀の哲学
地域 西洋哲学
学派 新ヘーゲル主義
研究分野 形而上学弁証法教育学
主な概念 Actual idealismファシズムimmanentism (method of immanence)[2]
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ジョヴァンニ・ジェンティーレ

生涯編集

1898年から1906年までピサ大学に学び、1903年ナポリ大学の講師となる。当時はイタリアのマルクス主義の父アントニオ・ラブリオーラの影響を受けた新ヘーゲル主義者であり、ベネデット・クローチェと協力して哲学雑誌《批評 Critica》を発刊した。1906年から14年にパレルモ大学1914年から1917年ピサ大学、1917年から1944年ローマ大学の教授を歴任する。

その間、1922年から24年にファシスト政府の文相として教育制度の改革を遂行。初等教育に宗教が導入・ラテン語教育が拡充される他、現在のイタリア教育法の主幹となる法律・複数の教育サイクル・学習への国家試験などが規定された。辞任後は上院議員、代表議会委員、イタリア大学連合会長となり、またジョバンニ・トレカーニ会会長として《イタリア百科事典 Enciclopedia italiana》を編集。その1932年版ではファシズムを規定して、以下のように記述する―「ファシズムでは、国家が自らの原理や価値観でもって個々人の意思や思想を律し、型にはめるための権威であるだけでなく、積極的に個々人の意思や思想を広く説き伏せていく強制力をもった機構となる。…ファシストはすべての個人及びあらゆる集団を絶対的な存在である国家のもとに統合する」。この項目は、《ファシストの原理》と呼ばれた。

全体主義の理論家として彼はかつての友人クローチェと訣別し、1944年3月にイタリア共産党のグループ《愛国行動グループ》のメンバーであるブルーノ・ファンチュラッチ(Bruno Fanciullacci)率いる反ファシストのゲリラフィレンツェの自宅前で暗殺される(it:Uccisione di Giovanni Gentile参照)。ファンチュラッチは7月にナチスにより逮捕され、逃亡を図ろうとして殺害された。

ジェンティーレの暗殺は反ファシスト陣営に亀裂をもたらす結果となり、21世紀の現在もなお議論の的となっている。

思想編集

彼の国家尊重、意志を重視する哲学はフィヒテヘーゲルに由来し、「純粋自我の思考活動こそが唯一の実在である」とする「行動的観念論(Idealismo attuale)」の立場をとる。哲学は歴史の自己展開と同一である、そして社会の歴史とは国家の歴史のことである、とも説く。自我はその発生と発展の全過程において社会性に滲透されており、単独の自己というものは存在しない。ジェンティーレの「自我の社会性」という理論は、個人主義の排撃と個人の自由の制限を正当化するものとして完成し、そのためファシズムと容易に同調し、公然と支持することができた。

同時期にファシストの獄中にいたグラムシはクローチェ哲学と比較しつつジェンティーレの観念論を批判している[3]。1930年代以降の日本ではアルフレート・ローゼンベルクオトマール・シュパンG・H・ミードなどと同様に関心を持たれたと考えられる[4]

著書編集

  • 『マルクスの哲学』 La filosofia di Marx (1899)
  • 『近代主義、そして宗教と哲学との関係』 Il modernismo e i rapporti tra religione e filosofia (1903)
  • 『純粋活動としての思考という活動』 L'atto del pensare come atto puro (1912)
  • 『ヘーゲル弁証法の改革』 La riforma della dialettica hegeliana (1913)
  • 『哲学としての教育学』 Sommario di pedagonia come scienza filosofia (1913-14)
  • 『芸術の哲学』 La filosofia dell'arte (1931)
  • 『イタリア哲学史』 Storia della filosofia italiana (1936)
  • 『社会の発生と構造』 Genasi e struttura della società (1946)

ほか多数。

脚注編集

  1. ^ a b Gregor, 2001, p. 1.
  2. ^ Gentile's so-called method of immanence "attempted to avoid: (1) the postulate of an independently existing world or a Kantian Ding-an-sich (thing-in-itself), and (2) the tendency of neo-Hegelian philosophy to lose the particular self in an Absolute that amounts to a kind of mystical reality without distinctions" (M. E. Moss, Mussolini's Fascist Philosopher: Giovanni Gentile Reconsidered, Peter Lang, p. 7).
  3. ^ A.グラムシ『グラムシ選集・2』合同出版社、1962年、P.144-146。
  4. ^ 鶴見俊輔『アメリカ哲学』講談社学術文庫、1986年、P.135。

関連項目編集