ジョーイ・カーボーン(Joey Carbone)は、アメリカ合衆国出身の音楽プロデューサー作曲家編曲家。映画『里見八犬伝』での音楽担当を皮切りに、矢沢永吉のツアーへ同行、その後、邦楽シーンでの作曲・編曲、その他日本での音楽プロデュースを数多く担当する。

ジョーイ・カーボーン
基本情報
出身地 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国 ニューヨーク ブルックリン
ジャンル ポップロック
職業 音楽プロデューサー作曲家編曲家

来歴 編集

アメリカ合衆国ニューヨーク市ブルックリン地区にてイタリア系の家系に生まれる。5歳の時にカトリック修道女からピアノを学び始め[1]、後に幼なじみで同じく音楽プロデュースで名を馳せたリッチー・ズィトーとバンド活動を行い、ベースと歌を担当。アトランティック・レコードとバンド契約したがヒットに恵まれず、カーボーンは同社で郵便仕分けのアルバイトを始め、有名音楽家らの録音風景を目にしたことで音楽制作に興味を持つ[2]キーボーディストとして多くの音楽家をサポートしたほか、1980・1990年代に放映されたテレビのオーディション番組「スター・サーチ」の音楽スタッフとしても9年間携わる[2]

日本との関係は1982年からで、「スター・サーチ」のパイロット版で優勝した歌手のジョン・オバニオンをズィトーとプロデュースしたことがきっかけで、第11回東京音楽祭へ出場するオバニオンと一緒に日本に赴いた[2]。その時の縁で、日本での仕事を増やしたいと考え、外国人アーティストのプロモーターとして知られていた永島達司に手配を依頼し、日本映画『里見八犬伝』(1983年)のサウンドトラック担当という仕事を得る[1]。翌1984年にはソニーカセットテープコマーシャルソングとして制作・発売されたテリー・デサリオによる「オーバーナイト・サクセス」が大ヒット。

そして矢沢永吉ドゥービー・ブラザーズの日本ツアーにキーボーディストとして同行した。1985年に手がけたホンダのスクーターDJ・1のCM曲でシブがき隊がカバーした「DJ in My Life」をきっかけにジャニー喜多川と知り合い、ジャニーズ事務所のタレントへの楽曲提供を手掛けるようになった[2]。徐々に日本での活動に重きを置くようになり、月光恵亮のプロデュースや、ジャニーズ事務所所属ユニット作品などのJ-POPに1000曲以上を提供、ヒット曲も多い。エイベックスSony Recordsのアドバイザーのほか[2]、「東京スクールオブミュージック」など滋慶学園グループが経営する音楽系の専門学校で特別講師も務める[3]

楽曲提供 編集

  • ☆:Dennis Belfieldと共同作曲
  • ★:LISA HUANGと共同
  • ※:STEVEN LEEと共同
  • ○:ANTHONY MAZZAと共同
  • ●:Jeff Carruthersと共同

作詞・作曲 編集

作曲 編集

作曲・編曲 編集

編曲 編集

  • 浅井ひろみ「南風に抱かれて(須貝幸生と共同、作詞:朝野深雪)」
  • atsushi yokozeki projectMORE THAN ENOUGH
  • 今井大介「Color me you(●、今井大介と共同編曲)」
  • 小野正利「それぞれの朝」
  • C.C.ガールズ「SKY-WALKERな午後(●)」
  • 田村直美「maybe tomorrow 」「真夏の雨」「自由の橋」「あきらめられない夢に」「永遠の一秒(以上、鷹羽仁と共同)」「CARRY ON」「NAKED LOVE」「ママの恋人」「すべての未来に光りあれ」「地上に舞い降りた天使達」「SILVER SPOON」「Beatlesも戦争も知らないけれど(以上、月光恵亮、鷹羽仁と共同)」「River of tears」「やがて 訪れる春が(以上、Kim Bullard、アーサー・シェアと共同)」
  • 中西礼奈「RAINY DIAMOND(●、作詞:売野雅勇)」

プロデュース 編集

  • Mylin
  • ZOOM

関連項目 編集

参照 編集

脚注 編集

出典 編集

  1. ^ a b Whyte, Wilson (2009年3月14日). “From the New York streets to the king of Japanese pop” (英語). The Japan Times. 2023年2月27日閲覧。
  2. ^ a b c d e Joey Carbone keeps the hits coming” (英語). Japan Today. 2023年2月27日閲覧。
  3. ^ 業界特別ゼミ・特別講義東京スクールオブミュージック&ダンス専門学校