ジョージ・L・ストリート3世

ジョージ・レヴィック・ストリート3世George Levick Street, III, 1913年7月27日 - 2000年2月26日)はアメリカ海軍軍人。最終階級は大佐名誉勲章受章者。

ジョージ・レヴィック・ストリート3世
George Levick Street, III
海軍十字章を授与されたジョージ・L・ストリート3世(1945年10月19日)
生誕 1913年7月27日
バージニア州 リッチモンド
死没 (2000-02-26) 2000年2月26日(86歳没)
マサチューセッツ州 アンドーバー
所属組織 アメリカ合衆国の旗 アメリカ海軍
軍歴 1931 - 1966
最終階級

海軍大佐

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第二次世界大戦に活躍したアメリカ潜水艦艦長の一人であり、大戦末期に「ティランテ」 (USS Tirante, SS-420) 艦長として端島(軍艦島)近海などで戦果を挙げ、済州島近海の泊地への攻撃の功により名誉勲章が贈られた。

生涯 編集

前半生 編集

ジョージ・レヴィック・ストリート3世は1913年7月27日、バージニア州リッチモンドに生まれる。1931年にアメリカ海軍予備部隊に入隊し、2年後に海軍兵学校(アナポリス)を受験して合格[1]。1937年、ストリートはアナポリスを卒業[1]。この世代は、卒業年次から「アナポリス1937年組」と呼称された。卒業後は1937年6月に少尉に任官し、軽巡洋艦コンコード」 (USS Concord, CL-10) の砲術将校、戦艦アーカンソー」 (USS Arkansas, BB-33) の通信将校を経たあと潜水艦を志願し、1940年6月にコネチカット州ニューロンドンの潜水学校を受講する[1]。潜水学校の課程を終えたあと、ストリートは新鋭の潜水艦「ガー」 (USS Gar, SS-206) に配属され、1941年4月14日の竣工から1944年2月27日に退艦するまでの約3年間に9回の哨戒を経験し、砲術長や水雷長、TDC英語版担当および航海担当副長を歴任した[2]。その間、ストリートは1942年1月に中尉、1943年7月に大尉に昇進した[1]。また、「ガー」での勤務中にシルバースターを2個授けられた[3]

「ティランテ」艦長 編集

「ガー」を退艦したストリートは、第61潜水群司令付となって潜水群の機関担当スタッフとなる[1][2]。次いで7月にはニューハンプシャー州ポーツマスに赴いて、ポーツマス海軍造船所で建造中の「ティランテ」の艦長に任命される。「ティランテ」は1944年11月6日に竣工し、ロングアイランド湾での整調訓練およびパナマ沖、オアフ島沖で訓練を行ったあと、1945年3月3日に最初の哨戒で九州近海に向かった。この時点では日本商船隊はそのほとんどが撃沈されていたが、ストリートは艦を陸岸に近い浅瀬に乗り入れて、いくつかの目標を発見。3月25日に特設駆潜艇「富士丸」(関西汽船、703トン)、3日後の3月28日に貨客船「名瀬丸」(大阪商船、1,218トン)をそれぞれ撃沈し、4月9日にはタモ53船団を攻撃して貨客船「日光丸」(東亜海運、5,057トン)を撃沈した。

「ティランテ」最初の哨戒のハイライトは、4月14日未明に済州島北西部の飛揚島泊地に停泊していたモシ02船団への攻撃である。アメリカ海軍情報局からの通報に基づいて「ティランテ」を飛揚島近海に持って行ったストリートは、モシ02船団が停泊中の海域が浅海であることを考慮し、浅瀬や機雷に注意を払いつつ浮上したまま戦闘配置を令し、銃砲に人員を配置して泊地の北方からモシ02船団に接近していった[4]。この時点で「ティランテ」は魚雷を7本残していたが、そのうちの6本を特設運送船「寿山丸」(大連汽船、3,943トン)、海防艦「能美」および第31号海防艦に命中させて撃沈した。「寿山丸」に対しては魚雷を3本発射し、うち2本が命中した「寿山丸」は大規模な爆発を起こした。「途方もない美しい爆発」と戦時日誌に記したストレートは、続けて「白く、まばゆいばかりの炎を発する巨大なキノコ雲は、2,000フィートは達したであろうか。命中した瞬間は音はなかったが、間を入れずものすごい轟音がわれわれの耳に突き刺さった。撃沈は間違いないと確信した」とも記した[5]。「ティランテ」は全速力で外洋に向かい、追ってきた「能美」と第31号海防艦に対して魚雷を発射し、「能美」は瞬時に沈没して第31号海防艦にも魚雷が命中。後者は魚雷自体が不発だったが爆雷が誘爆して第31号海防艦も沈没した。モシ02船団への攻撃は高く評価され、ストリートに名誉勲章が授与されたほか[3]、「ティランテ」に殊勲部隊章英語版、副長エドワード・L・ビーチ英語版中尉(アナポリス1939年組)には海軍十字章がそれぞれ授けられた[6]

5月20日からの二度目の哨戒では早くもウルフパックを統率する立場となり、「ストリーツ・スウィーパーズ」 (Street's Sweepers) として9隻の潜水艦を指揮。6月11日、ストリートは「ティランテ」を操って再度大胆な要地攻撃を行った。長崎から約11キロしか離れていない端島と野母半島間の海域に侵入し、端島南東部の岸壁で石炭の積み込み作業中の輸送船「白寿丸」(白洋汽船、2,220トン)を発見して魚雷を2本命中させて撃沈。攻撃後、「ティランテ」は端島から離れようとしたが、右側の潜舵の調子が悪くなり、「ティランテ」は意を決して浮上でこの海域を脱出することとした。沿岸砲台からの砲撃が「ティランテ」の至近に着弾したが「ティランテ」は速度を上げ、この間に潜舵の調子が戻ったので、再び潜航して海域を離脱した。一連の攻撃の様子は、映像として残された。その後は黄海の奥深くに入り、7月8日に輸送船「済通丸」(大連汽船、1,037トン)を撃沈したほかジャンクなど撃ち沈め、7月19日にグアムアプラ港に帰投。要地侵入の末の「白寿丸」撃沈の戦功により、ストリートに海軍十字章が授けられた[3]

ストリートの「ティランテ」は8月12日に三度目の哨戒に出撃するも、3日後に日本が降伏したため引き返し、8月23日にミッドウェー島に帰投。その後は東海岸に回航され、10月にワシントン海軍工廠に到着。10月6日、ストリートはホワイトハウスに招待され、ハリー・S・トルーマン大統領から名誉勲章を授けられた[5]

戦後 編集

ストリートは、「ティランテ」がいまだ太平洋戦線にあった1945年7月に中佐に昇進していた。間もなく1946年1月に「ティランテ」を去り、海軍省が製作したドキュメンタリー映画 "The Silent Service" に技術顧問として製作に参加する。1946年夏には海軍調査研究所に異動となり、最初の海中シンポジウムの開催に奔走した。1946年11月には潜水艦「レクゥイン」 (USS Requin, SS-481) 艦長となり、1948年6月まで務めた。「レクゥイン」では、レーダーピケット潜水艦が空母任務部隊を支援する演習を行う。1949年には、バージニア州ノーフォークアメリカ統合軍幕僚学校英語版で教員を務めたあとフロリダ州キーウェストの音響学校受講を経て、1951年に対潜掃討用として特に改装された駆逐艦ホルダー英語版 (USS Holder, DD-819) 艦長となる。1952年から1953年にかけては第62潜水群司令となり、レーダーピケット潜水艦を集団として運用できるかどうかの評価策定にあたる。第62潜水群司令としての任期を終えたあとはアメリカ海軍作戦部入りし、同時に国軍政策事務局スタッフと統合参謀本部アシスタントの職を兼ねた。[1]

1955年7月、ストリートは大佐に昇進。この1955年には、「ティランテ」時代の部下であるビーチが、ストリートに名誉勲章をもたらした「ティランテ」最初の哨戒をモデルに小説『深く静かに潜航せよ』を執筆した[5]。1956年7月に国防大学の課程を卒業後は大西洋艦隊司令部のスタッフとなる。1958年7月から攻撃輸送艦フレモント英語版」 (USS Fremont, APA-44) 艦長を1年務め、マサチューセッツ工科大学海軍予備将校訓練隊英語版司令官と海洋科学科の教授となった。1961年10月、ストリートは第5潜水戦隊司令に就任し、海軍大学校の講師陣にも加わる。1964年12月からのサンフランシスコ湾エリア潜水艦グループおよび太平洋保管艦隊メア・アイランド地域部隊の司令がストリートの軍歴の最後となった職務であり、ストリートは1966年8月10日付で大佐の位で海軍を退役した。

退役後のストリートはジョージ・ワシントン大学大学院に入学し、国際情勢を学ぶ[2]。1967年3月28日からはマサチューセッツ州ウーバンのウーバン・シニアハイスクールで海軍インストラクターと海洋科学科の講師となり、海軍を志願しようとする学生に対して海軍における諸活動のボランティアを勧める海軍公認の活動を行った[2]。晩年はマサチューセッツ州アンドーバー老人福祉施設に住む傍ら[5]、市民活動に参加したりゴルフテニス、庭いじりなどに興じる自適の生活を過ごした[2]。ストリートは2000年2月26日にアンドーバーで86年の生涯を終え[5]、遺体は遺言に従って半分は火葬にして海に散骨し、残りは2000年3月15日にアーリントン国立墓地に埋葬された[2]

記録と栄誉 編集

ジョージ・L・ストリート3世の哨戒記録
  出撃地 出撃日 日数 戦時中認定の戦果
隻数/トン数
JANAC[注釈 1]認定の戦果
隻数/トン数
哨戒区域
ティランテ-1 真珠湾[7] 1945年3月3日[7] 52[8] 8 / 28,300[8] 6 / 12,621[8] 東シナ海[8]
ティランテ-2 真珠湾[9] 1945年5月20日[9] 57[10] 3 / 7,400[10] 2 / 3,265[10] 東シナ海[10]


 

ジョージ・L・ストリート3世の撃沈スコアランキング
順位(隻数) 哨戒回数 隻数/トン数
戦時中認定
隻数/トン数
JANAC
49[11] 2[11] 11 / 35,700[11] 8 / 15,886[11]


 

名誉勲章 編集

名誉勲章感状
アメリカ合衆国大統領は議会の名において、1945年4月14日の「ティランテ」の最初の哨戒におけるジョージ・レヴィック・ストリート3世少佐の朝鮮済州島泊地における日本艦船への攻撃の際に示した際立った勇敢さと義務をも超越した勇気に対して、名誉勲章を贈る。
ストリート少佐は島の南岸、海岸から1,200ヤードしか離れていない海域から水上攻撃の態勢をとらせた。水深が10ファゾムしかなく、多数の哨戒艇と5つのレーダー施設、威嚇のための航空機をものともせず、機雷と浅瀬に守られた泊地に入り込んだ。ストリート少佐は敢然として攻撃を行い、日本の大型弾薬輸送船に対して致命傷となる魚雷を2本撃ちこみ、目標は白い炎と激しい閃光を発して爆発した。その閃光は新たな敵を照らしだし、「ティランテ」は退却しつつ魚雷の諸計算を行って追撃してくる大型護衛艦と同型艦に対して最後の2本の魚雷を発射し、海岸線に沿いつつ全速力で泊地を脱出した。後続は先行した地点で爆雷を投下しただけであった。
「ティランテ」の最初の戦闘哨戒におけるストリート少佐の輝かしい記録は、彼を大胆かつ熟練した指揮官として印象付けると同時に最高位の信用を与え、その勇敢な任務遂行は同時にアメリカ海軍の精神を象徴している。[3]

もっとも、ストリート自身は「すべての乗組員は私とともにあった」という信念により、「ティランテ」そのものに授けられた殊勲部隊章に名誉勲章以上の価値を見出していた[5]

脚注 編集

注釈 編集

  1. ^ JANAC英語版

出典 編集

  1. ^ a b c d e f #Street
  2. ^ a b c d e f Portrait of a Shipmate - CAPT George Levick Street III” (英語). USS Holder Homepage. USS Holder Association. 2013年1月28日閲覧。
  3. ^ a b c d #Hall of Valor
  4. ^ #SS-420, USS TIRANTE p.16
  5. ^ a b c d e f #The New York Times
  6. ^ #Blair p.844
  7. ^ a b #SS-420, USS TIRANTE p.5
  8. ^ a b c d #Blair p.971
  9. ^ a b #SS-420, USS TIRANTE p.64
  10. ^ a b c d #Blair p.979
  11. ^ a b c d #Blair p.986

参考文献 編集

サイト 編集

  • "ジョージ・L・ストリート3世". Find a Grave. 2013年1月28日閲覧
  • "ジョージ・L・ストリート3世". Hall of Valor. Military Times. 2013年1月28日閲覧
  • George L. Street, 86, Commander of the Submarine Tirante in World War II” (英語). The New York Times. Richard Golrstein / The New York Times. 2013年1月28日閲覧。
  • Captain George L. Street III, USN, (1913-2000)” (英語). NAVAL HISTORY & HERITAGE COMMAND / PEOPLE--UNITED STATES. US Navy. 2012年9月25日時点のオリジナルよりアーカイブ。2013年1月28日閲覧。
  • この記事はアメリカ合衆国政府の著作物であるDictionary of American Naval Fighting Shipsに由来する文章を含んでいます。 記事はここで閲覧できます。

印刷物 編集

  • (issuu) SS-420, USS TIRANTE. Historic Naval Ships Association. https://issuu.com/hnsa/docs/ss-420_tirante 
  • Roscoe, Theodore. United States Submarine Operetions in World War II. Annapolis, Maryland: Naval Institute press. ISBN 0-87021-731-3 
  • Blair,Jr, Clay (1975). Silent Victory The U.S.Submarine War Against Japan. Philadelphia and New York: J. B. Lippincott Company. ISBN 0-397-00753-1 
  • 駒宮真七郎『戦時輸送船団史』出版協同社、1987年。ISBN 4-87970-047-9 
  • 木俣滋郎『日本海防艦戦史』図書出版社、1993年。ISBN 4-8099-0192-0 
  • 林寛司(作表)、戦前船舶研究会(資料提供)「特設艦船原簿/日本海軍徴用船舶原簿」『戦前船舶』第104号、戦前船舶研究会、2004年、92-240頁。 

関連項目 編集