ジーコ
ジーコ(Zico、[ˈziku])ことアルトゥール・アントゥネス・コインブラ(葡: Arthur Antunes Coimbra、1953年3月3日 - )は、ブラジル・リオデジャネイロ出身の元プロサッカー選手、サッカー指導者。2018年7月からJリーグ・鹿島アントラーズのコーチ兼テクニカルディレクターを務める。
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![]() イラク代表監督時代(2012年) | ||||||
名前 | ||||||
本名 |
アルトゥール・アントゥネス・コインブラ Arthur Antunes Coimbra | |||||
愛称 |
Galinho de Quintino(クインティーノのチキン) 白いペレ[1] | |||||
ラテン文字 | Zico | |||||
基本情報 | ||||||
国籍 |
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生年月日 | 1953年3月3日(70歳) | |||||
出身地 | リオデジャネイロ | |||||
身長 | 172cm[2] | |||||
体重 | 72kg[2] | |||||
選手情報 | ||||||
ポジション | MF | |||||
利き足 | 右足 | |||||
ユース | ||||||
1967-1971 |
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クラブ1 | ||||||
年 | クラブ | 出場 | (得点) | |||
1971-1983 |
![]() | 635 | (476) | |||
1983-1985 |
![]() | 53 | (30) | |||
1985-1989 |
![]() | 97 | (33) | |||
1991-1994 |
![]() | 64 | (48) | |||
代表歴 | ||||||
1976-1986[3] |
![]() | 71 | (48) | |||
監督歴 | ||||||
1999 |
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2000-2002 |
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2002-2006 |
![]() | |||||
2006-2008 |
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2008 |
![]() | |||||
2009 |
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2009-2010 |
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2011-2012 |
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2013-2014 |
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2014-2016 |
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2018-2021 |
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1. 国内リーグ戦に限る。 ■テンプレート(■ノート ■解説)■サッカー選手pj |
サッカー界では既に引退済みでもおかしくない38歳で初来日したが、大活躍し40歳を超えても中心選手だった。小柄な体格であり、しばしば「白いペレ」と呼ばれることもあったが[4]、実力もペレ同様に高く、最も技術のあるフィニッシャー、最も優れたパサーの一人、1980年代初頭の世界一の選手とも評される[5]。さらに、歴史上最も優れたフリーキックのスペシャリストの一人としても知られており、速いスピードで曲がるボールを蹴ることができた。2004年3月には、ペレによる偉大な存命サッカー選手125人にも名を連ねた。歴代最も偉大なサッカー選手と言われるペレは、「今までの間、私に最も近づいたのはジーコだった」と述べた[6]。
ブラジル代表では、72試合に出場し52ゴールを挙げており、FIFAワールドカップでは1978年、1982年、1986年の3大会に出場した。これらの大会では優勝を逃したが、1982年のブラジル代表は最も優れたブラジル代表の一つと言われている[7]。1981年と1983年に、雑誌「ワールドサッカー」は、世界最優秀選手に選んだ。
日本代表監督として2006 FIFAワールドカップに出場し、AFCアジアカップ2004では優勝を果たした。また、フェネルバフチェSKを指揮し、UEFAチャンピオンズリーグ 2007-08で準々決勝に進出した。
選手経歴編集
幼少期編集
ポルトガルからの移民で厳格な家庭であったという[8]。祖母はイタリアのカターニャ出身[9]。パン職人(後に洋服仕立て屋)で生計を立てていた父はフラメンゴとプロ契約寸前まで行ったGKであった[10]。ジョゼ・アントゥネス・コインブラとイタリア系の母マチウデの5男1女の末子として出生[11]。母親は息子アルトゥールをピアニストにさせたかったが[11]、彼の兄弟アンツネスとエドゥアルト(エドゥ)の影響もあり多くのブラジル人と同様に、サッカー選手を目指す様になる[11]。家業の仕立屋も多忙で父ジョゼの遅い息子だった事もあり実兄のゼッカとエドゥが両親の代わりにジーコの面倒を見ていた。
フラメンゴ編集
1967年、14歳の時にブラジル・リオデジャネイロのフラメンゴのユースチームのテストに合格し加入。細身でフィジカルも弱かったが、身体を鍛え抜くなど、弱点を克服[12]、ユースチームで116試合81得点という記録を残すと1971年にジーコはフラメンゴのトップチームに昇格した。前年、現夫人となるサンドラ(エドゥの妻の妹)と出会い、4年後の1975年にサンドラと結婚[10]。
フラメンゴでは、10年以上に渡って在籍し中心選手としてプレーし、コパ・リベルタドーレス1981やトヨタカップ、4度のブラジレイロン(ブラジル全国選手権)1部リーグ(1980年、1982年、1983年、1987年)で優勝した。コパ・リベルタドーレス1981では得点を量産し、決勝のブレロア戦、1stレグで2ゴールを決めて勝利に貢献[8]、2ndレグを0-1と落としたが[8]、優勝決定戦となった3rdレグで2ゴールを決め[8]、優勝に大きく寄与した。同年トヨタカップではリヴァプールを3-0と破り優勝、ヌネスの2ゴールをアシストし大会MVPに選ばれた[13][14]。また在籍時の28歳の頃、ACミランへの移籍が進んでいたが、破談になった[15]。
CRフラメンゴの本拠地・エスタジオ・ド・マラカナンにおいて、ジーコはブラジレイロン1部リーグ・リオ州1部リーグ・ブラジル代表を含め333ゴールをマークし、同スタジアムの個人最多ゴール記録を2022年12月現在保持し続けている。
ウディネーゼ編集
1983年にイタリアのウディネーゼへ移籍、この移籍はフリウーリ地区のみならず、イタリア国内でも大騒動となり[16]、イタリアサッカー協会により移籍が合法的に行われたかの調査が行われた[17]。8月21日のコッパ・イタリア、グループリーグのボローニャ戦で移籍後初ゴールを決め、9月12日、セリエA開幕節のジェノア戦で2ゴールを挙げ[18] 鮮烈なイタリアデビューを飾り、更に第2節のカターニャ戦でも2ゴールを決め[18]、その後、更に2試合連続ゴールとセリエA開幕戦から4試合連続ゴール(合計6ゴール)を決めた[18]。ジーコ個人は1983-84シーズンに19得点をあげ得点ランキングの2位となった(怪我の影響で20得点で得点王となったミシェル・プラティニより試合出場が4試合少ない)[19]。これらの活躍によってサポーターの人気を集めた。1984-85シーズンは怪我での離脱[20]、長期の出場停止があったが[17]、3月31日のインテルで約半年振りのゴールを決めると[20]、次節のユベントス戦でもゴールを決めたが[21]、契約の問題で、このシーズンを最後にイタリアを去ることとなった。また、インテルへの移籍話もあったが上手く交渉がまとまらず実現しなかった。ジーコ自身インテルへの移籍に非常に乗り気だったので残念だったと語っている。
1989年にはブラジル代表としての引退試合をウディネーゼで開催した[10]。また2017年にチームを訪問すると、ファンから大きな歓迎を受けた[19]。
短い引退編集
1988年には日本のトヨタ入りの話が出て、条件などが話し合われていたが[22]、交渉はまとまらず、トヨタが1部昇格を逃したこともあり、移籍は消滅した[23]。 1989年3月27日にイタリアのウーディネでブラジル代表引退試合(対世界選抜)が行われ、同年12月のブラジル全国選手権、フルミネンセ戦がブラジル国内の公式戦最後の試合となった。フラメンゴ在籍中に731試合に出場し508得点の記録を残したが、得点はクラブ史上最多記録である。
翌1990年のブラジル初の大統領選挙によって誕生したフェルナンド・コロール・デ・メロ大統領は、ジーコをスポーツ担当大臣に任命した。ジーコはおよそ1年間任務を務めていたが、ルイス・アントニオ高崎を通じ、1991年に将来のプロリーグ参加を表明していた日本サッカーリーグ2部の住友金属工業蹴球団(現、鹿島アントラーズ)のオファーを受け[23]、サッカーでの町おこしという、これまでに無い挑戦に魅力を感じ、3年契約で入団した[24]。
住友金属、鹿島アントラーズ編集
ロッカールームには所属選手らの汚れたシューズが散らかっていた際は、「こんな汚い所では寛げないよ、次もこんな状態だったら僕が全部捨てるよ」と激怒するなど[25]、日本人のサッカーに対する姿勢の改善に苦心していた。1991年7月26日の磐田市長杯サマーサッカー、ヤマハ発動機戦で直接FKから住友金属移籍後初ゴールを決めると[26]、8月18日のJSL、三菱戦で公式戦初ゴールを決めた[26]。1991-92年の日本リーグ2部では21得点で得点王のタイトルを獲得する活躍で、チームの2部リーグ2位確保に貢献した[23]。1992年10月11日のJリーグカップ、サンフレッチェ広島戦ではハットトリックを決めるなど[27]、準決勝まで進出した。
1993年のJリーグが開幕前にして、サントスの他にもう一人外国人の戦力補強が必要だと考え、アルシンドを日本に呼び寄せた。イタリア遠征を行うが、セリエAのチームに次々敗北、クロアチア戦では1-8と大敗[28]、帰国後、カシマスタジアムのこけら落としとなった、フルミネンセFCとの親善試合で、ジーコはカシマスタジアム第1号となるゴールを決め[29](自身の現役通算800ゴール [30])、勝利した。迎えた開幕初戦、名古屋グランパス戦でいきなりJリーグ初のハットトリックを決め5-0で勝利した[31]。2節以降は怪我で欠場、6月23日ヴェルディ川崎戦で復帰したが、またも怪我で欠場したものの、アントラーズは1stステージ制覇。この年のJリーグオールスターサッカーのメンバーに選出されていたが、怪我で出場を辞退した。セカンドステージでは9月3日のジェフ市原戦での延長Vゴールなど[26]、13試合6ゴールの成績を残し[26]、天皇杯の2回戦、東北電力戦ではヒールボレーでその後も称賛され続けるゴールを挙げた[32]。しかしチャンピオンシップ、ヴェルディ川崎戦の2ndレグでは退場処分となった[33]。
1994年第1ステージは怪我の影響で5月14日のサンフレッチェ広島戦から復帰、6月1日のガンバ大阪戦でシーズン初ゴールを決め[26]、6月8日の浦和レッズ戦[26]、6月11日ベルマーレ平塚戦では2ゴールを決めた[26]。現役最後の公式戦となった6月15日のジュビロ磐田戦では直接FKを蹴り、これがバーに当たり1点目のゴールが生まれ[26]、前半21分に相馬直樹のパスからボレーシュートで、通算817ゴール目となる決勝ゴールを決めるなど[26][34] 怪我を押して後半11分までプレー[26] 、最後の3試合で3試合連続ゴールを決めたこととなった。試合後には磐田サポーターからもジーココールが続いた[26]。この日決めた41歳と3か月12日での得点は2023年5月の時点でJ1最年長ゴール記録である[9]。7月23日のJリーグオールスターサッカーに先発フル出場[35] したのを最後に、ブラジルへ帰国したが、1994年秋にはジーコカーニバル(引退記念イベント)の一つとして、カシマスタジアムで行われた、ロベルト・リベリーノ監督が率いたJリーグ選抜対アントラーズの試合に出場した。1995年に鹿島のテクニカル・アドバイザーに就任し、これ以降も日本との関係を維持し続けた。
プロとしての現役からは退いたものの、ビーチサッカーのブラジル代表ではプレーしており、ビーチサッカーチャンピオンシップ(後のFIFAビーチサッカーワールドカップ)では1995年と1996年の2大会で優勝し、1995年の大会ではMVPおよび得点王にも輝いていた。1996年にリオデジャネイロでCFZ(ジーコFootballセンター)を設立、ブラジル国内の選手育成や、かつては鹿島の若手選手育成の場として用いられていた。以降、このCFZ運営資金の為に、監督業に本格的に乗り出した。
ブラジル代表編集
1976年2月25日のウルグアイ代表との親善試合にブラジル代表として初選出され、その試合で得意のFKからゴールを決めるデビューを果たし[36]、次の29日アルゼンチン代表との親善試合でもゴールを決めた。FIFAワールドカップには1978年、1982年、1986年の3大会に出場した。
初のワールドカップ出場となった1978年のFIFAワールドカップ・アルゼンチン大会では、初戦のスウェーデン戦で先発出場(フル出場は同試合のみ)。終了間際のコーナーキックからの得点が取り消された(ウェールズ人主審のクライブ・トーマスはジーコがシュート体勢に入る直前、ボールが空中にある状態で試合終了の笛を吹いたと主張。)。2次リーグのペルー戦ではゴールを決めたが[37]、この2次リーグではいずれの試合でも僅かな出場時間しか得られず[37]、最終節のポーランド戦では先発するも、僅か7分で負傷交代、チームは3-1と勝利したが[37]、最終節でアルゼンチンが大勝したことで、逆転され決勝には進出出来ず、また3位決定戦となったイタリア戦でも出番を得られないなど[37]、不本意な大会となった。
1982年、FIFAワールドカップ・スペイン大会では名将テレ・サンタナ監督の下でソクラテス、ファルカン、トニーニョ・セレーゾと共に「黄金のカルテット」(クワトロ・オーメンジ・オロ)を形成。技巧的なパスワークと攻撃力で優勝候補の大本命と目された。1次リーグでは第2戦のスコットランド戦では直接FKから1ゴール[37]、第3戦のニュージーランド戦で2ゴールを決め[37]、2次リーグに進出、アルゼンチン戦では1ゴール[37] 2アシストの活躍で勝利に貢献[38]、最終戦でのイタリア戦では、クラウディオ・ジェンティーレの執拗なマンマークにあう。5分にイタリアのパオロ・ロッシに先制されたブラジルは12分、ハーフウェイラインを超えドリブルして来たソクラテスがジーコにスルーパスを出すと、ジーコはクラウディオ・ジェンティーレのマークをターンで外し、そのままゴールに走り込んだソクラテスにリターンのスルーパスを出し、同点ゴールをアシストした[39]、しかし2-2で迎えた75分、ブラジルはDFのミスからロッシに3点目を決められて敗戦し、準決勝には進めなかった(現在の規定でベスト8相当)、しかし、この時に披露したサッカーは「ブラジルサッカー史上最も魅了したチーム」と称えられている。
1986年、FIFAワールドカップ・メキシコ大会直前のユーゴスラビアとの親善試合ではハットトリックを決めたが[37]、膝の負傷(国内リーグ戦の、対バングー戦で相手DFの悪質なタックルを受けた)によって数ヶ月間プレーを中断、膝の負傷は癒えず、控えに回った。最後のワールドカップは、グループリーグ最終戦の北アイルランド戦(カレッカのゴールをアシスト[40])、ラウンド16のポーランド戦でいずれも途中出場[37]、準々決勝のフランス戦では交代出場直後にみせたスルーパスによって獲得したPKを自らが蹴るが、これをバツに防がれ[41]、延長PKの末に敗れ、現役を通じてワールドカップ制覇を成し遂げることは出来なかった。
指導者経歴編集
この節に雑多な内容が羅列されています。 |
1998年に鹿島のテクニカル・アドバイザー在任中に、ブラジルサッカー連盟の要請を受けブラジル代表のテクニカル・ディレクターに就任し、FIFAワールドカップ・フランス大会にスタッフとして参加した。準優勝に導いたザガロ監督を補佐した[42]。
1999年シーズンでは鹿島アントラーズのゼ・マリオ監督が8月に解任されたことにより、ジーコは事実上の「監督」として残りのシーズンの現場の指揮を執った[43]。
2002年~2006年(日本代表監督)編集
2002 FIFAワールドカップ終了後、フィリップ・トルシエの後任として2002年7月22日に日本代表監督に就任。日本代表監督最高額の年俸だった。それまで監督経験は無かったものの、ブラジル代表のスタッフを務めた経験や、鹿島の選手やテクニカルディレクターとして同クラブの躍進に尽力した経験からの抜擢であり、日本サッカー協会会長の川淵三郎の意向でもあった。
ジーコはAFCアジアカップ2004に優勝。FIFAコンフェデレーションズカップ2005では初戦のメキシコには敗れたもののギリシャに勝利し、ブラジルとは2 - 2で引き分けた。またワールドカップ地区予選を世界中の国に先駆けて最も早く突破しW杯直前のドイツとの親善試合を引き分けるなどの結果を残した反面、細かな規律を設けない選手の自主性に任せた指導(後述)は様々な波紋を呼び議論の的となった。
日本代表監督での国際Aマッチ指揮試合(71試合)と勝利数(38勝)はいずれも歴代1位の記録であり、日本サッカー史において4年間通じて指揮を執りプレーオフも無くW杯地区予選突破を果たした最初の監督になった。成績等については下の諸項目を参照のこと。
- 2002年
- 10月16日、ジャマイカに臨み、これが初試合となった。中田英寿、中村俊輔、小野伸二、稲本潤一の4人を初めて同時に起用し(黄金のカルテット)話題を呼んだが、結果は1-1の引き分け。
- 11月20日のアルゼンチン戦で実母マチウデ訃報の連絡を受ける。本人はサッカー日本代表指揮を全うすることを優先して帰国を渋るも周囲の説得で翻意して母国へ緊急帰国、「僕個人の予定で他の人の手を煩わせたくない」との理由でジーコ帰国前日に葬儀。数日後に執り行われたミサに合流。ジーコ監督不在時は臨時で替わった山本昌邦コーチが監督代行を務めた。
- 2003年
- 4月16日、ソウルワールドカップ競技場での韓国との日韓戦で試合終了間際FW永井雄一郎のゴールで勝利を挙げる。
- 6月8日、キリンカップ2003でのアルゼンチン戦で1-4で完敗。これを機にディフェンスライン4人を全員入れ替えた。
- 6月18日からのFIFAコンフェデレーションズカップ2003のグループリーグ、1勝2敗の成績に終わり決勝トーナメント進出を逃した。
- 8月20日のナイジェリア戦でホームゲーム初勝利。
- 2004年
- 2月7日、ジーコの慣れ親しんだ鹿島にて、親善試合マレーシア戦を行う。このドイツW杯予選を控えた日本代表の鹿島合宿中に市内のキャバクラに久保竜彦、奥大介、小笠原満男、山田卓也、都築龍太、茂庭照幸、大久保嘉人、山田暢久(但し山田暢久は入店せず)が無断外出して問題を起こし、スキャンダルとして取り上げられてしまい、ジーコは「信頼関係を失った」とコメント、(「裏切り行為と感じた」とも)代表チームへの一時招集を見送られることになった。
- 2月18日、2006 FIFAワールドカップ・アジア予選(1次)初戦、オマーンと戦い、これを1-0で勝利。続くシンガポール戦も藤田俊哉の決勝点で勝利した。この内容を「苦戦」であるとした一部のサポーターが解任デモを行った。
- 4月に行われた欧州遠征で欧州の代表チームと相次いで親善試合を行った。初戦のハンガリー戦で敗れたものの、強豪チェコを1-0と破った。6月の欧州遠征ではイングランドと戦い小野伸二の同点ゴールで1-1のドローに持ち込んだ。
- 7月、中国で行われたAFCアジアカップ2004で優勝。大会2連覇を達成した。
- 9月、インド コルカタでW杯大会アジア1次予選第4戦でインドに4-0で勝利、ハーフタイム中にスタジアムの照明が停電するトラブルがあった。この時、ベンチにいたジーコは、多数の現地記者・カメラマンからサイン攻めに合う光景をテレビカメラがとらえ、インドでも、現役時代の名声が轟いていることを証明した。
- 10月、W杯大会アジア1次予選第5戦でオマーンに1-0で勝利、1次予選の突破を全試合勝利で決める。
- 2005年
- W杯ドイツ大会最終予選において、テヘランでイランに敗れた試合以外は全勝。1次予選との通算成績で11勝1敗で終え、B組1位通過を果たした。この結果により、世界最速で予選を突破し本大会への出場権(開催国のドイツは除く)を獲得することになった。
- 2005年FIFAコンフェデレーションズカップでは1勝1敗1分。メキシコには1-2で敗れたが、ギリシャに1-0で勝利、ブラジル戦でも2-2の引き分け。グループリーグ敗退に終わったものの、試合内容に対しては一部の現地メディアでも高い評価を得た。
- 7月から8月にかけての東アジアサッカー選手権2005では北朝鮮に0-1で敗戦。続く中国戦ではGKを含むスタメンを総入れ替えし若手選手を起用する采配をしたが、2-2の引き分けに終わる。韓国に1-0で勝して、2位という結果で終えた。
- 2006年
- 親善試合を消化。W杯メンバー発表までの7試合は3勝2敗2分。
- 5月15日、ドイツW杯23人のメンバーを発表。
- ジーコジャパンにおいて一番多く得点を決め(11得点)、本大会のエースとして期待された久保竜彦と、フランスリーグ・アンでアシストランク3位だった松井大輔をメンバーから外し、ドイツブンデスリーガで1得点の高原、日本Jリーグで1得点の玉田を招集したことに物議をかもした。特に久保は、2006年に行われたW杯メンバー発表前の代表戦すべてに先発出場した上での落選だったが、腰痛から復帰したばかりではあった。また、一番若い年齢の選手が駒野友一の24歳で、アテネ五輪代表メンバーからの選出は駒野・茂庭照幸の2名だけだった(茂庭の招集は田中誠の怪我による追加招集。茂庭はバカンスに入っていたハワイから緊急帰国、代表に合流した)。
- 6月12日、W杯本大会初戦のオーストラリア戦では残り15分で3失点を喫し1-3の逆転負け。続くクロアチア戦は0-0で引き分け、最後のブラジル戦では前半に先制するも、後半で3点を入れられ逆転負け。2敗1分でグループリーグ最下位で敗退した。W杯後、日本代表監督を退任、15年間に及んだ自身と日本との直接的な関係はここで一度途切れることになった[44]。最後の会見で日本が取り組むべき課題として「身長差、体格差を乗り越え怪我をしないためのフィジカルトレーニングの模索」「安定した判断力の涵養」を挙げた[45][44]。
2006年~2016年(日本代表監督退任後、各国でのクラブ・代表監督など)編集
2006 FIFAワールドカップ終了後、日本代表監督を契約満了により退任。2006年6月26日の退任会見では「チャンスがあれば、欧州で監督をしたいという気持ちもある」と話していたが[44]、直後の7月4日にトルコ・シュペルリガのフェネルバフチェの監督に就任。2006-07シーズンは、カップ戦は取れずに終わったが、リーグ戦では序盤で首位に立ってから一度もその座を譲ることなく2007年5月13日に優勝した。
2008年に行われたUEFAチャンピオンズリーグの決勝トーナメントへ同クラブを初めて導いた。決勝トーナメントではセビージャにPK戦の末勝利し、ベスト8に進出。準々決勝では強豪チェルシーと対戦。圧倒的な不利の下馬評の中、ホームでは2-1で勝利した。しかし、続くアウェイでの試合では0-2と敗れ、ベスト4進出はならなかった。2007-08シーズンの国内リーグでは2位。シーズン終了後、任期満了に伴い延長交渉を受けたが、クラブとの条件が合わず退任。
2008シーズンはウズベキスタンの強豪チームブニョドコルでリーグ戦途中から指揮を執ることになった。就任直後に行われたAFCチャンピオンズリーグはアデレード・ユナイテッドに敗退(1勝1敗・合計スコア 1-3)したが、ウズベキスタンカップとウズベキスタンリーグはともに優勝し、二冠に輝いた。また、ウズベキスタン代表のアドバイザーも兼任していた[46]。2010 FIFAワールドカップ・アジア4次予選(最終予選)の対日本代表戦(10月15日・さいたまスタジアム)に自身が来日して視察するのは断念したものの[47]、日本代表対策をカシモフ監督に伝授し、アウエーでの1-1の引き分け(勝ち点1獲得)に貢献した[46][48]。ブニョドコルとの契約期間は2009年12月までだったが、ロシアプレミアリーグのCSKAモスクワがガザエフ監督の後任としてジーコに興味を示した為に、クラブとの話し合いの末、円満退団した。
2009年1月、CSKAモスクワの監督に就任。契約期間は3年間。UEFAカップ 2008-09ではラウンド16で敗退した。ロシア国内では国内カップ戦で優勝したものの、リーグ戦は首位に勝点を大きく引き離され4位と低迷していた。CSKAモスクワはジーコが来る前の過去6シーズンで優勝3回、準優勝2回のロシアリーグの強豪であり、2009年9月10日にジーコは成績不振で解任された。ジーコが率いた2009シーズンの成績は巨額スポンサーと契約を結び、黄金時代が到来した2003年以降の中でワースト記録となっている(2014年現在)。
2009年9月16日、ギリシャ・スーパーリーグのオリンピアコスの監督に就任した。チャンピオンズリーグではベスト16に進出するも、国内カップ戦でフルメンバーを率いて2部チームに1回戦で敗退し、リーグ戦でも一時は勝ち点2差の2位に付けたもののその後勝ち点7差まで引き離されて解任された。
2010年1月28日、2022 FIFAワールドカップ日本開催招致アンバサダーに就任。
2010年6月にフラメンゴのテクニカルディレクターに就任したが、10月にはクラブ内での対立を理由に辞任を表明した[49][50]。
2011年4月、同年3月に起こった東日本大震災の惨事を悼み日本でのチャリティーマッチとは別に南米でチャリティーマッチを行った。Jリーグで活躍したブラジル人を中心にアルシンド、ドゥンガ、ロマーリオなどが参加した。なお、三浦知良にも参加を要請したが、「Jリーグに専念したい」と言う理由で辞退している。
2011年6月、5年ぶりに来日し、6月4日にカシマスタジアムで行われた慈善試合に出場し、決勝ゴールを決めた[51]。
2011年7月、リオデジャネイロで行われた2014 FIFAワールドカップ・ブラジル大会の大陸別予選組み合わせ抽選会のくじ引きでアジアを担当した[52]。
2011年8月、イラク代表監督就任の報道が出る。8月29日、正式にイラク代表監督に就任する。契約期間は、1年。元々イラクをW杯に出場させた経験を持つ、ジーコの兄エドゥに来たオファーだったが兄から譲られジーコがイラク代表監督に就任した。
2012年7月28日、ジーコ自身の公式HPで、ジーコは5か月間、スタッフは10か月間給料未払いであることや9月11日に予定されている2014 FIFAワールドカップ・アジア4次予選B組第4戦日本戦に出場予定のイラク代表選手7名の所属クラブが無く、練習が困難という状況に対してイラクサッカー協会が何ら手を打たないことを理由として、イラク代表監督辞任を示唆したが[53]、8月7日から弁護士を通じて、給与未払い問題については支払先の銀行口座を再確認するなどの条件のもと、2014年夏までの契約継続を確認した[54]。契約の細部の見直しなどを終えてからイラクでの監督活動を再開した。9月11日には予定通り対日本代表戦(埼玉スタジアム)を指揮した。試合後の会見では、1-0で勝利した日本代表を称賛し、(6年前の日本代表監督退任時に指摘した)フィジカルの問題は、日本の選手の多くが欧州に渡り問題なくプレーしていると評価した[55]。翌日午前中には古巣・鹿島アントラーズを訪問し、リーグ12位に苦しむチームを激励し、同日夜離日した[56][57][58]。しかし、11月27日イラク代表の監督を辞任した[59]。
2013年8月、カタールのアル・ガラファの監督に就任。しかしわずが5ヶ月後の2014年1月に成績不振により監督を解任された。ジーコは「結果がついてこなかった。残念だがサッカーとはこういうものだ」と自身のフェイスブックで語った。CSKAモスクワ、オリンピアコスに続きクラブチームの監督として3回連続で成績不振で解任となった[60]。
2014年7月19日~24日まで来日し、23日にはJ1第16節・鹿島アントラーズ対大宮アルディージャ戦(鹿島スタジアム)を観戦した[61]。
2014年9月、インディアン・スーパーリーグのFCゴアの監督に就任[62]。
2016年以降(日本サッカー殿堂入り、鹿島のテクニカルディレクター・クラブアドバイザー)編集
2016年8月、日本サッカー殿堂顕彰が日本サッカー協会より発表された[63]。
2016年12月、FIFAクラブワールドカップ2016・決勝では、ヨーロッパ王者のレアル・マドリード(スペイン)を相手に延長戦の末2-4で敗れた古巣・鹿島アントラーズの健闘を称え、「鹿島のことを誇りに思う」とコメントした[64]。試合前に自身がデザインされたビッグフラッグが登場したことについては、「このような大きな試合の前に、スピリット オブ ジーコのフラッグを見た時は、ものすごく感動したよ。日本を離れてもう随分と日が経つが、まだこのような形で敬意を示してくれていることは、すごく嬉しい」と、コメントした[64]。
2017年8月10日~17日まで来日して、8月15日にはさいたまスタジアムでのスルガ銀行チャンピオンシップ2017・浦和レッズvsシャペコエンセ戦を観戦し[65]、その試合前には前年に掲額された日本サッカー殿堂の記念セレモニーが行われた[66]。8月17日には、鹿島アントラーズのクラブハウスを約5年ぶりに訪問した[67]。
2018年7月、鹿島アントラーズのテクニカルディレクターに就任すると発表され[68]、8月にはコーチとして役員登録された[69]。
2021年シーズン終了をもって、鹿島アントラーズのテクニカルディレクターを退任してブラジルに帰国[70]。2022年からは、クラブアドバイザーとしてブラジルから鹿島の側面支援を行う[71]。
人物編集
学歴編集
カステロブランコ大学体育学科出身。
愛称編集
ブラジルサッカー界の英雄であるペレになぞらえ「白いペレ」とも呼ばれていた[4]。また、長く選手として在籍したフラメンゴのホームスタジアムエスタジオ・ド・マラカナンの名称から「マラカナンの英雄」とも謳われた。
幼少時代に兄が所属するチームが得点する度に雄鶏(galo ガーロ)の掛け声(cocorecoo!)をしていた事から愛称は「ガリーニョ・デ・キンチーノ」(キンチーノ地区の雄鶏小僧)[注釈 1] と呼ばれた。サッカーを目指した華奢で小柄なアルトゥール少年は周囲から「アルトゥルジーニョ」と呼ばれ、アルトゥールズィッコ(Arturzico)となり、最後は語尾の「ZICO」だけとなり以後定着している。フラメンゴ時代やブラジル代表時代、また鹿島アントラーズ時代の選手、親しい関係者間では「ガーロ」の愛称で呼ばれている。
フェネルバフチェ監督時代は、ファンから本名のアルトゥールと同じ綴りであるアーサー王伝説から「アーサー王(King Arthur)」と呼ばれていた。
家族編集
1975年にサンドラ夫人と結婚。3人の息子をもうける。長男のジュニオールは元サッカー選手、サガン鳥栖でプレイしていた時にはジーコも鳥栖まで訪れた。なお、ジュニオールの妻は日系人である[72]。次男はブラジルで有名な歌手ブルーノ・コインブラ。実兄はエドゥ(元鹿島アントラーズ監督、元日本代表テクニカルディレクター)。
ジーコレーベルとサンバ編集
ブラジルは、サンバやボサノヴァ、またブラジル音楽などで知られる音楽大国であるが、彼もまたブラジル音楽を好むことで知られる。1994年には友人であるファギネルが来日した際のアルバムにコーラスで参加。ポニーキャニオンでは、ホベルト・メネスカルと組んでジーコレーベルと称して、何組かのアーチストのアルバムを発売、また息子であるブルーノもパゴージ(サンバの一形態)でCDデビューを果たした。エスコーラ・ジ・サンバ・ベイジャ・フロールの大ファンとして知られ、その一員としてパレード会場を行進する姿が日本のメディアでも紹介されている。
退場処分など編集
人格者として知られているが、ウディネーゼでの2シーズン目には審判への暴言で長期出場禁止処分を受けた[17]。また1994年1月に国立霞ヶ丘競技場で行われたJリーグチャンピオンシップ第2戦では三浦知良のPKの際にボールへつばを吐く非紳士的行為で退場(この日2枚目の警告)となった。のちにジーコ本人は「Jリーグ初年度の優勝決定戦という歴史的な記念試合であのような行為をした事を申し訳なく思う」と反省の弁を語っている。愚行に至った理由としては相手チームに有利な開催地に不満があったことと、ビハインドの展開での不利な判定に対する憤りがあったと振り返っている[33]。上記の様にプレー中は熱くなることもある。
その他編集
ロベルト・バッジオは幼少の頃ジーコに憧れ、フリーキックの蹴り方を真似ていた[73]。またバッジオから、自身のフリーキックの精度向上のため、フリーキックを蹴る映像を送って欲しいと依頼され、ジーコは自ら多くの時間を割いて、映像を編集したビデオを送付した[74]。
毎年12月になると、ブラジルリーグのシーズンオフを利用してジーコ主催のチャリティーマッチを行なっている。チャリティーマッチにもかかわらず会場のマラカナンには5万人もの観客が集まり、歴代ブラジル代表の名選手たちが一堂に会する。また、試合の収益はリオの貧困にあえぐ子どもたちに経済的支援という形で寄付される[75]。
主な監督成績編集
- 鹿島アントラーズ
- 1999年 ヤマザキナビスコカップ 準優勝
- 日本代表
- 2003年 FIFAコンフェデレーションズカップ2003 グループリーグ敗退(通算1勝2敗)
- 2003年 東アジアサッカー選手権2003 準優勝
- 2004年 AFCアジアカップ2004 優勝
- 2005年 FIFAコンフェデレーションズカップ2005 グループリーグ敗退(通算1勝1敗1分)
- 2005年 東アジアサッカー選手権2005 準優勝
- 2005年 2006 FIFAワールドカップ出場権獲得(通算11勝1敗 アジア予選B組1位通過)
- 2006年 2006 FIFAワールドカップ本大会グループリーグ敗退(通算2敗1分)
- 通算成績 33勝12分15敗
- フェネルバフチェ
- トルコスーパーリーグ2006-07
- トルコスーパーカップ2007
- UEFAチャンピオンズリーグ2007-08 ベスト8
- ブニョドコル
- ウズベキスタンリーグ2008
- ウズベキスタンカップ2008
- CSKAモスクワ
- ロシアカップ2009
- ロシアスーパーカップ2008-09
監督として編集
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日本代表監督時代はチームに細かい約束事やペーパープランは与えず、大まかな指針を決めた後は選手間で協議をさせることで、現場の現実を組織全体の方向性に反映させるというやり方をとった。オシムやベンゲルを始めとした日本で指導した有識者達の多くから、日本人は実際に起こっている現実から判断をせず、現実と乖離する決まり事に従うという独特の短所があると指摘されており、ジーコはそれが実践的な戦いの大きな妨げになっているとし「自主性」を大きなテーマとしたのである。ジーコが就任した前後の時期は、日本人選手が次々に海外リーグへと進出していく時期と重なり、中田や中村や小野など、過去の日本にはない「才能と欧州経験を兼ね備えた選手」が揃っていたため、彼らのセンスと閃きに期待が大きかったが、W杯での惨敗を受け、中田をはじめ多くのコメンテーターが「日本にはまだ早かった」と総括した。また近代サッカーにおいては、ミスの有無こそが勝敗を大きく左右すると考えていたために、特に中盤の選手には一定の技術水準を求めた[注釈 2]。この選考基準に対して、走力を優先する後任のオシム監督は「水を運ぶ選手(豊富な運動量でチームを支える選手)が福西しかいなかった」と批判したが、一方でW杯予選を勝ち抜いたことを「ジーコの果たした仕事は大きくトルシエより上だ。それは単純に予選を突破したという意味でね」と一定の評価をしている[注釈 3]。そのカリスマ性と人柄から多くの選手に慕われる一方、マスコミから「序列」と揶揄されてしまうほどレギュラーメンバーを欧州組に固定し、そのレギュラーが欠場しないと控えの国内組選手になかなか出番が与えられなかったり、召集メンバー発表の際に「今日がキックオフならこのスタメン」と、試合の何日も前に予定スタメンを発表し『序列』を明確に示してしまい、サブメンバーの士気を落とさせてしまうなど、選手のモチベーションコントロールでの失敗も多く見られた。実際、2004年2月に起こった選手の無断外出キャバクラ事件も、入店せずに引き返した山田を除く全員がサブのメンバーで、合宿をする前から起用される選手が決められている事への不満が原因とされている。同年11月にはW杯アジア1次予選を1試合残して突破を決めた事で、消化試合となった最終戦に三浦知良や中山雅史や相馬直樹など、フランスW杯の頃の功労者を召集するプランを発表するが、「今までチームを支えてきたサブの選手を起用してあげるべき」との世論が巻き起こるなど、ベンチに座り続けている控え選手への配慮を欠く事が多かった。また2006年W杯では、そのような控え選手を励ましたり、レギュラーとサブの意識を纏めるようなベテランをチームに加えなかったことで、またしても選手の士気をコントロールできず、レギュラーとサブの結束が不安定な状態で迎えた初戦に敗れた事で、チームは空中分解してしまった。初戦のあとその空気に、普段温厚なジーコが今までに見せた事のないほど激怒し選手を怒鳴ったが状況は改善されず、チームは「史上最強」と言われながら良いところなく敗退した。
日本代表監督として招集した人数はとても多く試合出場選手の総数は57人である。[1](トルシエは総数で64人 [2])。定着はしなかったものの、オシム時代に選出されたアテネ世代の主要選手の多くは鈴木・闘莉王以外、ジーコ時代にフル代表デビューしている。
日本代表退任後、トルコリーグ所属フェネルバフチェ監督に就任した。トルコカップは敗退したが、リーグ戦では2位に勝点差9をつけて優勝した。これは1990年以降のトルコリーグで最大勝点差である。 また、翌年のチャンピオンズリーグではクラブ史上初めてグループリーグを突破、最終的にはチームをベスト8にまで導いた。
日本とジーコ編集
- 初来日
1990年に住友金属に入団する前からフラメンゴの選手として1981年のトヨタカップ、1986年のキリンカップで来日、1989年にも日本で開催されたワールドウドマスターズサッカーでもプレーするなど日本とは縁があった。現在は日本を「第二の故郷」とコメントするほどの親日家であり、来日した時は飛行場で必ず「タダイマ」と挨拶をする。大きな影響力を持つ母国ブラジルでは、そのおかげで日本がリスペクトされるようになり、「ジーコによって日本の印象は変わった」と言われている。
- 愛車
1981年トヨタカップのMVP副賞で獲得した1983年型トヨタ・セリカ(セリカ2.0 GT)を、2020年代時点まで40年に渡り大切に保有している[78]。1981年型でないのは、当時不況が深刻なブラジルは外国製品に対して厳しい輸入制限を設けていて納車が1983年になったためである[79]。
- 親善大使
2015年、日本とブラジルの外交関係が樹立して120周年を迎えるにあたり、在リオデジャネイロ日本総領事館より親善大使に任命された。
その他編集
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- ファミリーコンピュータソフト「キャプテン翼II スーパーストライカー」に「アルツール・アンチネス・コインブラ」という選手がゲームのラストボスとして登場する。
- また、スーパーファミコンで発売された続編「キャプテン翼V 覇者の称号カンピオーネ」ではクリア後に戦える隠しチーム「カナリアスターズ」の一員としてアンツネスの名で登場する。ブラジルの名選手たちを一堂に集めたオールスターチームで、本来のジーコ自身はこちらの方。
- 1994年、エレクトロニックアーツよりスーパーファミコンソフト「ジーコサッカー」が発売された。
- 1994年6月22日、当時の総理大臣羽田孜より、日本サッカー界への貢献を評価して内閣総理大臣顕彰が贈られた。2011年現在でも外国人個人として唯一の受賞者である。
- 嫌いな日本食は、きつねうどん[80]。「新・食わず嫌い王決定戦」の企画コンセプトは、「この食べ物の、ここが嫌い」であるため、実際は他の日本食同様に、好物であると思われる。
- 1998年のブラジル映画「陽だまりのイレブン」(原題 Uma Aventura de Zico ズィッコの冒険)にジーコ本人役と、厳格なジーコと陽気なジーコに分裂した「ジーコピー」の3役で出演。なお、夫人と息子もカメオ出演している。
- 茨城県鹿嶋市にあるショッピングセンターチェリオ1階には「ジーコ広場」があり、ジーコのブロンズ像が置かれている。普段は休憩スペースとして使われているが、営業時間内に鹿島アントラーズの試合がスカパー!で放送される場合は、無料で放映している。2004年2月8日には直筆の特大サイン、アントラーズに在籍したブラジル人選手のサイン寄せ書きを壁面に配置し、「ジーコ・ミニ・ミュージアム」と呼称し、当時日本代表監督だったジーコ本人が除幕を行うイベントを行った[81]。
- 1991年の天皇杯予選では、当時日本大学1年生の岡野雅行(後に浦和レッズ加入)と対戦している。当時、日本大学サッカー部は大学リーグ二部であり、翌年からプロチームとなる住友金属としてはずっと格下であったため、ジーコはベンチスタートであった。しかし岡野雅行が2得点、他の選手も得点し前半終了時点で3-0で負けている状況に、ジーコが慌ててウォーミングアップを開始。後半最初からジーコ投入となった。岡野雅行の感想によると、「ジーコがピッチに出た途端、全ての空気が変わった。まずレフェリーの態度が変わった。明らかに相手(住金)のファウルでこちら(日大)のボールのはずなのに、判定は相手ボールだという。さあ、ジーコさん、フリーキックどうぞって。」結局、後半のジーコの活躍により住友金属が勝利したとのこと。結果は日大4-5住金(前半 日大3-0住金、後半 日大1-5住金))[82]。
- ジーコが加入した当時の住金サッカー部は選手たちのアマチュア意識が抜けなかった。そのため夕食後に寮を抜け出してスナック菓子などのジャンクフードを買いこんでくる選手たちが多かった。ジーコは彼らにプロ意識を叩きこむため、毎晩選手寮の出入りを見張り、「プロ選手のカラダ造りに菓子は必要ない」と激怒した[25]。
統計編集
所属チーム | ゴール数 | 試合数 | ゴール確率 |
---|---|---|---|
フラメンゴ | 508 | 731 | 0.69 |
ウディネーゼ | 56 | 79 | 0.69 |
住友金属、鹿島アントラーズ | 54 | 88 | 0.61 |
ブラジル代表 | 48 | 71 | 0.68 |
オリンピック | 1 | 8 | 0.12 |
マスターエイジ | 10 | 18 | 0.55 |
ティーンエイジ | 81 | 116 | 0.69 |
その他 | 50 | 52 | 0.90 |
総合計 | 826 | 1180 | 0.70 |
個人成績編集
国内大会個人成績 | |||||||||||
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
年度 | クラブ | 背番号 | リーグ | リーグ戦 | リーグ杯 | オープン杯 | 期間通算 | ||||
出場 | 得点 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | ||||
ブラジル | リーグ戦 | ブラジル杯 | オープン杯 | 期間通算 | |||||||
1971 | フラメンゴ | 全国1部 | 15 | 2 | |||||||
1972 | 6 | 0 | |||||||||
1973 | 35 | 8 | |||||||||
1974 | 50 | 32 | |||||||||
1975 | 55 | 41 | |||||||||
1976 | 47 | 32 | |||||||||
1977 | 47 | 36 | |||||||||
1978 | 22 | 19 | |||||||||
1979 | 22 | 27 | |||||||||
1980 | 45 | 21 | |||||||||
1981 | 41 | 28 | |||||||||
1982 | 36 | 20 | |||||||||
1983 | 48 | 42 | |||||||||
イタリア | リーグ戦 | イタリア杯 | オープン杯 | 期間通算 | |||||||
1983-84 | ウディネーゼ | セリエA | 24 | 19 | |||||||
1984-85 | 16 | 3 | |||||||||
ブラジル | リーグ戦 | ブラジル杯 | オープン杯 | 期間通算 | |||||||
1985 | フラメンゴ | 全国1部 | 3 | 2 | |||||||
1986 | 4 | 3 | |||||||||
1987 | 17 | 6 | |||||||||
1988 | 18 | 4 | |||||||||
1989 | 19 | 4 | |||||||||
日本 | リーグ戦 | JSL杯/ナビスコ杯 | 天皇杯 | 期間通算 | |||||||
1991-92 | 住金 | 10 | JSL2部 | 22 | 21 | 2 | 1 | - | 24 | 22 | |
1992 | 鹿島 | - | J | - | 10 | 6 | 2 | 1 | 12 | 7 | |
1993 | 16 | 9 | 3 | 1 | 4 | 2 | 23 | 12 | |||
1994 | 7 | 5 | 0 | 0 | - | 7 | 5 | ||||
通算 | ブラジル | 全国1部 | 530 | 327 | |||||||
イタリア | セリエA | 40 | 22 | ||||||||
日本 | J | 23 | 14 | 13 | 7 | 6 | 3 | 42 | 24 | ||
日本 | JSL2部 | 22 | 21 | 2 | 1 | - | 24 | 22 | |||
総通算 | 615 | 384 |
その他の公式戦
- 1993年
- Jリーグチャンピオンシップ 1試合0得点
- Jリーグ初出場:1993年5月16日 対名古屋グランパスエイト戦(茨城県立カシマサッカースタジアム)
- Jリーグ初得点:同上
- JSL(2部)初出場:1991年9月7日 対大塚製薬戦(住友金属鹿島総合グラウンド)
- JSL(2部)初得点:同上
タイトル編集
選手時代編集
- フラメンゴ
- カンピオナート・カリオカ : 1972, 1974, 1978, 1979, 1979 (extra), 1981, 1986
- カンピオナート・ブラジレイロ・セリエA : 1980, 1982, 1983
- コパ・ウニオン : 1987
- コパ・リベルタドーレス : 1981
- トヨタカップ : 1981
監督時代編集
- フェネルバフチェ
- スュペル・リグ : 2006-07
- ブニョドコル
- ウズベク・リーグ : 2008
- ウズベキスタン・カップ : 2008
- CSKAモスクワ
- ロシア・カップ : 2008-09
- 日本代表
個人タイトル編集
- ブラジル最優秀選手 : 1974, 1982
- 南米年間最優秀選手 : 1977, 1981, 1982
- カンピオナート・ブラジレイロ・セリエA得点王 : 1980, 1982
- コパ・リベルタドーレス得点王 : 1981
- トヨタカップ最優秀選手 : 1981
- FIFAワールドカップベストイレブン : 1982
- JSL2部得点王 : 1991-92
- IFFHS選定20世紀世界最優秀選手 14位 1999
- IFFHS選定20世紀南米最優秀選手 7位 1999
- 英誌ワールドサッカー選出世界年間最優秀選手 : 1983
- 英誌ワールドサッカー選出20世紀の偉大なサッカー選手100人 18位 1999
- ビーチサッカーワールドチャンピオンシップ得点王 : 1995
- ビーチサッカーワールドチャンピオンシップ最優秀選手 : 1995
- フラメンゴ クラブ歴代最多得点記録(508得点)
- マラカナンスタジアム歴代最多得点記録(333得点)
- FIFA 100 2004
- ゴールデンフット賞 (all time legend) 2006
- アントラーズ功労賞 2009
- 日本サッカー殿堂 2016[83]
脚注編集
注釈編集
- ^ 〜ニョは小さい、可愛らしいの意、日本語の「〜ちゃん」に相当。
- ^ 「昔はゲームの中に時間とスペースがあったが今はそれが全くない。30m位のスペースの中に20人が互いにプレッシャーを掛け合っている。相手が強ければ強いほどプレッシャーが厳しく巧になり、ミスが起こりやすくなる。確かにワンタッチで相手の裏をとれれば効果的に突破できる。しかしカットされカウンターをかけられる確率はさらに高い。今のサッカーはミスの数が少ない程勝つ確率が高いんだ。どんな美しいサッカーをしても負けてしまっては歴史は作れない。何年後かに記録を見た時に残るのは“0-1で負け”の一行でしかない。そうならない為に最も確実な“止めて蹴る”が必要になるんだ。判断の早さと正確性が身についていれば、ダイレクト・プレーと比較しても時間的なロスはほとんどない!中盤はシンプルに確実に・・・相手が一番嫌がるエリア(つまり敵陣ペナルティエリアの付近)に達した時に、躊躇せずに持てる技術の全てを発揮しろ」と述べている。(鈴木通訳のブログより引用。なお、文中の「ダイレクトプレー」は実際は「ワンタッチプレー」の意である)
- ^ フェネルバフチェの監督時代にも、PSV戦での選手たちの走行距離が一人途中退場者が出たにもかかわらず、108kmだったというデータについてコメントを求められて「相手にいかにプレッシャーをかけたかを示していると思う。適切に走って相手スペースを消していけばこちらのものだ。それがこの試合でわれわれのしたことだ。PSVは特にホームで強いので厳しいゲームになると思っていた。しかし考えて走り、プレスをかけ、キッチリと相手をマークし、チーム一丸で攻めれば相手の脅威を減殺できる。相手の強力な選手たちに本来の実力をださせなかったわけで、この数字はその結果を示すものだ。」と回答している様に、判断力と技術が近代サッカーには不可欠と考える一方、それらを支える走力・フィジカルバランス等の肉体強化の重要性を、選手時代から一貫して主張している。
出典編集
- ^ “「偉大なジーコがもたらした」鹿島のクラブW杯躍進 礎を築いた“神様”の功績に欧州が再注目”. FOOTBALL ZONE.WEB (2016年12月16日). 2017年4月7日閲覧。
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- ^ Oswaldo Tinhorão Bot generated title
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- ^ a b c “【ジーコの想い】兄・エドゥーの存在なくしてスーパースター誕生はなかった 母の希望はピアニスト”. zakzak. 2021年2月26日閲覧。
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- ^ 1998年3月26日放送 とんねるずみなさんのおかげでした【新・食わず嫌い王決定戦】石井竜也×ジーコ
- ^ チェリオのHPのジーコ広場の紹介ページ
- ^ 新潮社刊「野人伝」著者:岡野雅行
- ^ “第13回日本サッカー殿堂 掲額者決定のお知らせ”. 日本サッカー協会 (2016年8月1日). 2016年8月1日閲覧。
参考文献編集
- 『1990-1991JSLイヤーブック』日本サッカーリーグ編、南雲堂、1990 ISBN 4-523-31032-7
- 『1991-1992JSLイヤーブック』日本サッカーリーグ編、南雲堂、1991 ISBN 4-523-31033-5
- 『日本サッカーリーグ全史』日本サッカーリーグ、1993
- 『Jリーグオフィシャルガイド1992-1993』、小学館、1992 ISBN 4-09-102301-0
- 『Jリーグオフィシャルガイド1993・サントリーシリーズ』、小学館、1993 ISBN 4-09-102303-7
- 『Jリーグオフィシャルガイド1993・ニコスシリーズ ヤマザキナビスコカップ』、小学館、1993 ISBN 4-09-102305-3
- 『Jリーグオフィシャルガイド1994・サントリーシリーズ』、小学館、1994 ISBN 4-09-102310-X
- 『Jリーグオフィシャルレコード&データ1994』、小学館、1994 ISBN 4-09-102309-6
- 『Jリーグオフィシャルレコード&データ1995』、小学館、1995 ISBN 4-09-102317-7
- 『J.LEAGUE YEARBOOK 1999』、トランスアート、1999 ISBN 4-88752-099-9
関連項目編集
- ジーコサッカー(ジーコが監修したゲームソフト)
- エドゥアルド・アントゥネス・コインブラ (ジーコの実兄)
外部リンク編集
- 公式ウェブサイト (ポルトガル語)
- 公式ウェブサイト (日本語)
- ジーコ (ZicoOficial) - Facebook (ポルトガル語)
- ジーコ (@ziconarede) - Twitter (ポルトガル語)
- ジーコ - National-Football-Teams.com (英語)
- ジーコ - Soccerway.com (英語)
- ジーコ - FootballDatabase.eu (英語)
- ジーコ - WorldFootball.net (英語)
- ジーコ - Transfermarkt.comによる選手データ (英語)
- ジーコ - Transfermarkt.comによる指導者データ (英語)
- ジーコ - FIFA主催大会成績 (英語)
- ジーコ - UEFA (英語)
- ジーコ - J.League Data Siteによる選手データ
- ジーコ - J.League Data Siteによる監督データ
- ジーコ - IMDb(英語)