ストーン・カーペンター・ゴッサードStone Carpenter Gossard1966年7月20日 - )は、アメリカ合衆国ミュージシャンシンガーソングライター音楽プロデューサーロックバンドパール・ジャムリズムギタリストとして最もよく知られ、それ以前にもグリーン・リヴァーマザー・ラヴ・ボーンで活動していた。他にもテンプル・オブ・ザ・ドッグブラッドでの活動で知られる。

ストーン・ゴッサード
Stone Gossard
パール・ジャムのライヴにて(2007年8月)
基本情報
出生名 Stone Carpenter Gossard
生誕 (1966-07-20) 1966年7月20日(57歳)
出身地 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国 ワシントン州 シアトル
ジャンル オルタナティヴ・ロックハードロックグランジパンク・ロックヘヴィメタル
職業 ミュージシャンソングライター音楽プロデューサー
担当楽器 ギターボーカルベースピアノドラムスパーカッションチェロ
活動期間 1984年 -
レーベル モンキーレンチ、ホームステッドサブ・ポップ、スタードッグ、マーキュリーA&MエピックSME、レッドライン、J、C/Z、グリッターハウス、ライヴワイアー
共同作業者 パール・ジャムグリーン・リヴァーブラッドマザー・ラヴ・ボーンテンプル・オブ・ザ・ドッグ
著名使用楽器
フェンダー・ストラトキャスター
フェンダー・テレキャスター
ギブソン・レスポール

パール・ジャムまでの活動 編集

グリーン・リヴァー 編集

1984年、後にパール・ジャムベーシストとなるジェフ・アメンマッドハニーのフロントマンとなるマーク・アームらと共にグリーン・リヴァーを結成する。翌1985年5月にホームステッド・レコードよりEP『Come on Down』でデビューし、1987年7月にサブ・ポップからの初リリースとなるEP『Dry as a Bone』をリリースした[1]1988年6月に唯一のフルアルバム『Rehab Doll』をリリースするが同年にメンバー間の対立により解散。

マザー・ラヴ・ボーン 編集

グリーン・リヴァー解散後にゴッサードはアメンと共にマザー・ラヴ・ボーンを結成。フロントマンはマルファンクションのメンバーだったアンドリュー・ウッドが務めた。結成からすぐにバンドはレコーディングとライヴを開始し、1989年始めにポリグラムと契約し、3月にEP『Shine』でデビュー。1stアルバムを1990年3月にリリース予定だったが、3月にウッドがヘロインオーバードーズにより死去し、バンドは解散。ウッドの死後4ヵ月後に唯一のアルバム『アップル』がリリースされた。

テンプル・オブ・ザ・ドッグ 編集

マザー・ラヴ・ボーン解散後の同年、子供の頃からの幼馴染であり、後のパール・ジャムリードギタリストとなるマイク・マクレディを誘いテンプル・オブ・ザ・ドッグを結成。このバンドはアンドリュー・ウッドを追悼するために結成され、同バンドにはグリーン・リヴァー時代からのバンドメイトであるジェフ・アメン、ウッドのルームメイトであったサウンドガーデンクリス・コーネルが加入。その後パール・ジャムのドラマーとなるマット・キャメロンも加入し、バンドはコーネルがウッドの生前に書いた楽曲やゴッサードとアメンが以前に作成したデモ曲のリハーサルを開始する[2]。またオーディションによりパール・ジャムのフロントマンとなるエディ・ヴェダーも、コーネルとのデュエットやバックコーラス等で参加した。1991年4月に唯一のアルバム『テンプル・オブ・ザ・ドッグ』をA&Mレコードよりリリース。

パール・ジャム 編集

パール・ジャムは1990年にアメン、ゴッサード、マクレディで結成され[3]、後にボーカリストのヴェダーとドラマーのデイヴ・クルーセンも加入。1991年エピック・レコードと契約し、デビューアルバム『ten』をリリースした。バンドは1990年代初頭のグランジ・ブームに乗り爆発的な人気を得、現在も活動を行っている。

パール・ジャム以降の活動 編集

 
オスロにて(2012年7月)

ブラッド 編集

1992年、ゴッサードはシアトルのロックバンド、サッチェルのメンバーらと共にブラッドを結成し、翌1993年4月にエピック・レコードよりアルバム『Shame』でデビューを果たした。ブラッドは現在までに5枚のアルバムをリリースし、現在も活動中である。

ソロ活動 編集

2001年に、SMEよりアルバム『Bayleaf』でソロデビューを果たした。アルバムではボーカルギターの他にベースギタードラムスパーカッションピアノ演奏なども一人で手がけた。ブラック・フランシスルーファス・ウェインライトローリング・ストーンズなどの影響を受けたメロウなサウンドを展開した[4]2008年9月には2ndソロアルバム『Moonlander』の楽曲がパール・ジャムの公式サイトでダウンロード可能となった。ハンク・ウィリアムズの影響を受けたフォークカントリー風の作風となった[5]

レーベル、スタジオ・オーナーとして 編集

1994年、ブラッドのメンバーであるリーガン・ヘイガーと共にルースグルーヴ・レコードを設立。当初はSMEの傘下だったが1996年インディーズレーベルとなる。レーベル設立以来ゴッサードはプロデューサーとして多くの作品制作に携わり、またシアトルに自身のレコーディング・スタジオであるStudio Lithoを竣工。サウンドガーデンスクリーミング・トゥリーズデフトーンズ他多くのバンドがここでレコーディングを行った。ルースグルーヴは2000年に閉鎖したが[6]、Studio Lithoは現在も利用可能である。

脚注 編集

  1. ^ Sub Pop Records biography”. Subpop.com. 2015年3月18日閲覧。
  2. ^ Alden, Grant. "Requiem for a Heavyweight." Guitar World. July 1997
  3. ^ Crowe, Cameron (1993年10月28日). “Five Against the World”. ローリング・ストーン. 2015年3月18日閲覧。
  4. ^ Cohen, Jonathan (2001年8月29日). “Gossard's 'Bayleaf' Falls From Pearl Jam Family Tree”. ビルボード. 2001年9月2日時点のオリジナルよりアーカイブ。2015年3月18日閲覧。
  5. ^ Thill, Scott (2008年10月17日). “From Ticketmaster to Trees: An Interview With Pearl Jam Guitarist Stone Gossard”. Wired News. 2015年3月18日閲覧。
  6. ^ Endino, Jack. "Endino Newsletter 5.0 (3/2000)". March 2000.

外部リンク 編集