スヴャトスラウ2世
スヴャトスラウ2世(ウクライナ語:Святослав Ярославич; ロシア語:Святослав Ярославич;1027年 - 1076年12月27日)は、リューリク朝のルーシ系公(クニャージ)である。洗礼名はミハイール。ヤロスラウ賢公の子、ヴォロディーミル聖公の孫。チェルニーヒウ公(在位:1054年 - 1073年)、キエフ大公(在位:1073年 - 1076年)。母はスウェーデン王オーロフの娘インゲゲルド。
スヴャトスラウ2世 Святослав Ярославич | |
---|---|
キエフ大公 | |
![]() スヴャトスラウと家族(1073年の『スヴャトスラウ選集』より) | |
在位 | 1073年 - 1076年 |
出生 |
1027年 |
死去 |
1076年12月27日 |
埋葬 | チェルニーヒウ、救世主大聖堂 |
配偶者 | キリキヤ |
オダ・フォン・バーベンベルク | |
子女 | 一覧参照 |
家名 | リューリク家 |
王朝 | リューリク朝 |
父親 | キエフ大公ヤロスラフ1世 |
母親 | インゲゲルド・アヴ・スヴェーリエ |
生涯 編集
この節の加筆が望まれています。 |
1054年、父ヤロスラフが亡くなる。長子ウラジーミルは既に死去していたため、キエフ大公位は、次子である兄イジャスラフ1世が継承した。この時の領地分配で、イジャスラフはキエフに加えてノヴゴロド、トゥーロフを獲得、スヴャトスラフはチェルニーゴフ、リャザン、ムーロム、トムタラカニを、フセヴォロド(後のフセヴォロド1世)はペレヤスラヴリ・ルースキー(モスクワ近郊のペレヤスラヴリ・ザレスキーではない)及びロストフ、スーズダリ、ベロオーゼロといったヴォルガ上流域の東北ロシアを領有した。また、ヴャチェスラフはスモレンスクを末弟イーゴリはヴォルィーニを支配した。
イジャスラフ、フセヴォロドとともに三頭政治を行う。1068年にスノウシク付近でクマン人の軍勢を破った(参照:アリタ川の戦い)。やがてイジャスラフと敵対し、1073年にはフセヴォロドと手を組んで、大公位を奪った。1073年と1076年の『スヴャトスラウ選集』を編纂した。1076年12月27日、癤の手術が失敗したため死去し、チェルニーヒウの救世主大聖堂に葬られた。
妻子 編集
最初の妻は出自不明のキリキヤ(またはキキリヤ、ツェツィリヤ[注 1]という女性であり[1][2]、以下の人物の母と考えられる。
- グレプ[3] - トムタラカニ公、ノヴゴロド公、ペレヤスラヴリ公
- ロマン[4] - トムタラカニ公
- ダヴィド[5] - ペレヤスラヴリ公、ムーロム公、スモレンスク公、ノヴゴロド公、チェルニゴフ公
- オレグ[6] - トムタラカニ公、チェルニゴフ公、ノヴゴロド・セヴェルスキー公
このうち、ダヴィドはダヴィド家(ru)、オレグはオレグ家(ru)の祖である。両家は12世紀のチェルニゴフ公を出した代表的な家系となった。
2人目の妻はハンガリー辺境伯レオポルト(バーベンベルク家)の娘と考えられているオダ(ru)であり、ヤロスラフ(ムーロム公、チェルニゴフ公)を産んだ。また、A.ナザレンコ(ru)の説では、オダとの間に、ビザンツ帝国に嫁いだ娘も産まれているとされる。
その他、母親を確定できない以下の子がいる[7]。
脚注 編集
注釈 編集
- ^ Килликия、またはКикилия、Цецилия。
出典 編集
参考文献 編集
- Dimnik, Martin (1994). The Dynasty of Chernigov, 1054–1146. Pontifical Institute of Mediaeval Studies.
- Raffensperger, Christian (2012). Reimagining Europe: Kievan Rus' in the Medieval World. Harvard University Press.
- 田中陽兒、倉持俊一、和田春樹(編)『世界歴史大系 ロシア史1』山川出版社 1995年
|
|
|