ズビグニェフ・ボニエク
ズビグニェフ・ボニエク(Zbigniew Boniek, 本名:ズビクニェフ・カジミェシュ・ボニエク、Zbigniew Kazimierz Boniek、1956年3月3日 - )は、ポーランド・ビドゴシチ出身の元同国代表サッカー選手、サッカー指導者。選手時代のポジションはFW、MF。
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2015年のボニエク | ||||||
名前 | ||||||
本名 |
ズビクニェフ・カジミェシュ・ボニエク Zbigniew Kazimierz Boniek | |||||
愛称 | ジビ、Bello di notte(美しい夜) | |||||
ラテン文字 | Zbigniew Boniek | |||||
基本情報 | ||||||
国籍 | ポーランド | |||||
生年月日 | 1956年3月3日(68歳) | |||||
出身地 | ブィドゴシュチュ | |||||
身長 | 181cm | |||||
体重 | 75kg | |||||
選手情報 | ||||||
ポジション | FW / MF (CF, OH) | |||||
ユース | ||||||
1966-1973 | ザヴィシャ・ブィドゴシュチュ | |||||
クラブ1 | ||||||
年 | クラブ | 出場 | (得点) | |||
1973-1975 | ザヴィシャ・ブィドゴシュチュ | 41 | (14) | |||
1975-1982 | ヴィジェフ・ウッチ | 172 | (50) | |||
1982-1985 | ユヴェントス | 81 | (14) | |||
1985-1988 | ローマ | 76 | (17) | |||
通算 | 367 | (95) | ||||
代表歴 | ||||||
1976-1988 | ポーランド | 80 | (24) | |||
監督歴 | ||||||
1990-1991 | USレッチェ | |||||
1991-1992 | ASバーリ | |||||
1992-1993 | サン・ベネデッテーゼ | |||||
1994-1996 | USアヴェリーノ | |||||
2002 | ポーランド代表 | |||||
1. 国内リーグ戦に限る。 ■テンプレート(■ノート ■解説)■サッカー選手pj |
スピードに優れ、ディエゴ・マラドーナは世界最高のカウンターアタック選手と評した[1]。
経歴
編集地元のサッカークラブ、ザヴィシャ・ビドゴシチでサッカーを学び、1975年にヴィジェフ・ウッチと契約して選手キャリアをスタートさせる。当初はDFとしてプレーしていたが、後にFWへ転身した。1976年にポーランド代表デビューを果たすと1978、1982、1986年と3度のワールドカップ出場に導いた。1978年のワールドカップ・アルゼンチン大会ではメキシコ戦で2ゴールを挙げた[2]。またチームは2次リーグまで進出した。1982年のワールドカップ・スペイン大会ではペルー戦で1ゴール2アシスト[2]、ベルギー戦でハットトリックを決めるなど[1][2][3]、チームを準決勝に導いたが、累積警告でイタリア戦には出場出来ず、チームは敗れたが[1]、3位決定戦のフランス戦でも1アシストで勝利に貢献し、チームの3位入賞に貢献、MVP投票で4位に入る活躍で、同年のバロンドール投票では第3位に選ばれた[4]。代表チームでは80試合に出場26ゴールを挙げた[1]。
1982年、イタリアのユヴェントスへ移籍すると直ぐにレギュラーの座を掴み、また特にミシェル・プラティニとは良い連携を見せた[3]。1983-1984シーズンのセリエA優勝、チャンピオンズカップでは決勝でハンブルガーSVに破れた[3]。翌1984-1985シーズンのスーパーカップでは2得点を挙げて優勝[5]。また同年のUEFAチャンピオンズカップ決勝のリヴァプールFC戦では相手DFの裏に抜け出し、PKを奪取[1][3]、そのPKをプラティニが決め、ユベントスは初の欧州制覇を成し遂げた[3]。それらの活躍によりユヴェントス会長のジャンニ・アニェッリから「 Bello di notte(美しき夜) 」の愛称を与えられた[1]。
その後1985年にASローマへ移籍、1986年にはコッパ・イタリア決勝でサンプドリアを破り優勝[3]、同年のワールドカップ・メキシコ大会ではラウンド16まで進出したが、ブラジルに敗れた。1985-86シーズンは古巣ユベントスに競り負け優勝を逃したがリーグで2位に貢献[1]、1987-88シーズンを最後に現役引退をした。
引退後は指導者の道へ進み、主にイタリアの地方クラブで指揮を執った後に、2002年7月からはポーランド代表監督に就任したが同年12月に退任している。その後はイタリアの放送局 Rai Due の Domenica Sportiva という番組で解説者を務めていたが、2012年ポーランドサッカー協会の代表に就任した[1]。2019年にはイタリアサッカー界の殿堂入りも果たした[1]。
個人タイトル
編集- ポーランド年間最優秀スポーツ選手賞(1982年)
- 20世紀の偉大なサッカー選手100人 87位(ワールドサッカー誌選出 1999年)
- FIFA100(2003年)
脚注
編集- ^ a b c d e f g h i “BIGNIEW BONIEK”. ASROMA 11 March 2021閲覧。
- ^ a b c “Boniek National team”. transfermarket 7 January 2021閲覧。
- ^ a b c d e f “THE FANTASY FOOTBALL OF ZBIGNIEW BONIEK”. thesefootball 7 January 2021閲覧。
- ^ Ballon d’Or Winners-liveabout.com
- ^ “Liverpool FC's history with the UEFA Super Cup” (英語). リヴァプールFC (2019年8月13日). 2022年4月16日閲覧。