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セルゲイ・ショイグ

セルゲイ・クジュゲトヴィチ・ショイグロシア語: Сергей Кужугетович Шойгу、ラテン文字表記の例:Sergei Kuzhugetovich Shoigu1955年5月21日 - )は、ロシア政治家。父はトゥバ人で母はロシア人1994年から2012年まで長らくロシア非常事態相を務めた。2012年よりモスクワ州知事に就任したが、資産売却汚職事件に関与し解任されたアナトーリー・セルジュコフの後任としてロシア国防相に就任した。経済学準博士。上級大将。ロシア連邦英雄の称号を持つ。ロシアで最も人気のある政治家の一人。

セルゲイ・ショイグ
Сергей Кужугетович Шойгу
Official portrait of Sergey Shoigu.jpg
セルゲイ・ショイグ
生年月日 (1955-05-21) 1955年5月21日(63歳)
出生地 ソビエト連邦の旗 ソビエト連邦 トゥヴァ自治ソビエト社会主義共和国チャダーナ
出身校 クラスノヤルスク工業大学
前職 建築技師、職長、管理人、ロシア民間防衛問題・非常事態・自然災害復旧相
現職 ロシア国防相
所属政党

ソ連共産党 (1991年まで)→)
(独立系(1991年–1995年)→)
我が家ロシア (1995年–1999年)→)
(統一(1999年–2001年)→)

統一ロシア (2001年から)
称号 経済学準博士上級大将ロシア連邦英雄
配偶者 イリーナ・ショイグ
サイン Signature of Sergey Shoygu.png

内閣 ドミートリー・メドヴェージェフ内閣
在任期間 2012年11月6日 -

在任期間 2012年5月11日 - 2012年11月6日

内閣 ヴィクトル・チェルノムイルジン内閣、
セルゲイ・キリエンコ内閣、
エフゲニー・プリマコフ内閣、
セルゲイ・ステパーシン内閣、
第1次ウラジーミル・プーチン内閣、
ミハイル・カシヤノフ内閣
第1次ミハイル・フラトコフ内閣
第2次ミハイル・フラトコフ内閣
ヴィクトル・ズプコフ内閣
第2次ウラジーミル・プーチン内閣
在任期間 1994年1月20日 - 2012年5月11日

内閣 ボリス・エリツィン内閣、
ガイダル内閣(ガイダルは首相代行)、
ヴィクトル・チェルノムイルジン内閣
在任期間 1991年4月17日 - 1994年1月20日
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経歴・概要編集

 
日本を訪問するショイグ国防相

1955年5月21日、当時のロシア・ソビエト連邦社会主義共和国トゥヴァ自治ソビエト社会主義共和国チャダーナ市に生まれる。1972年クラスノヤルスク工業大学に入学し、建築学を専攻する。

1977年クラスノヤルスク工業大学を卒業後、シベリアの各都市の企業合同体に勤め、建築技師や職長、管理人などを歴任する。1988年ソ連共産党アバカン市委員会第二書記、1989年ソ連共産党クラスノヤルスク地方委員会監察官、1990年ロシア連邦共和国国家建築・建設委員会副議長を歴任する。

1991年ロシア救助団総裁、ロシア連邦共和国国家非常事態委員会議長に就任したのを皮切りに、ソ連崩壊後は、非常事態、災害復旧のプロフェッショナルとして新生ロシアの危機管理に力を振るうこととなる。1994年ロシア連邦非常事態相に就任する。1996年ロシア連邦安全保障会議議員、核兵器委員会委員。1997年非常事態予防・除去省庁間委員会議長なども兼務する。

1999年下院国家会議選挙前に、エリツィン大統領の指令を受けて、結成された政権与党「統一」の党首に選出され、勝利を収めた。祖国・全ロシアと合流した統一ロシア設立後はミンチメル・シャイミーエフユーリ・ルシコフとともに共同代表を務めた。プーチン大統領を経て、メドヴェージェフ大統領就任後も引き続き非常事態相を務めた。

2011年東日本大震災ではメドヴェージェフ大統領の指示で援助隊を組織した。また、原田親仁駐露大使と会談し、日露両国が共同で災害対応体制に関する整備が必要との考えを示した[1]

2012年5月11日、長らく務めていた非常事態相を退任、モスクワ州知事に転出した。同年11月6日ロシア国防相に就任し[2]ロシア連邦航空宇宙軍によるシリア空爆などシリア騒乱への軍事介入に携わっている。

2018年9月、中国モンゴルも初参加してソビエト連邦最大の軍事演習「ザパド81英語版」を超える規模[3]となったロシア史上最大の軍事演習「ボストーク2018英語版」をロシア極東で行い、これにあたってショイグはモンゴルと中国を「同盟国」と呼んで注目された[4]

脚注編集

外部リンク編集