セルジオ越後

ブラジルのサッカー選手

セルジオ越後(セルジオ えちご、Sergio Echigo、1945年7月28日 - )は、ブラジルサンパウロ出身の元プロサッカー選手日系ブラジル人(二世)。現役時代のポジションは右ウイング。現在は、サッカー評論家・指導者。

セルジオ越後
名前
愛称 セル爺(セルジイ)
カタカナ セルジオ エチゴ
ラテン文字 Sergio Echigo
基本情報
国籍 ブラジルの旗 ブラジル
生年月日 (1945-07-28) 1945年7月28日(78歳)
出身地 サンパウロ
身長 173cm
体重 68kg
選手情報
ポジション MF (OH), FW (WG)
利き足
クラブ1
クラブ 出場 (得点)
1964-1965 コリンチャンス 11 (0)
1967-1968 トレス・ポンターノ  ? (0)
1971 ブラガンチーノ  ? (0)
1971 パウリスタ  ? (0)
1972-1974 藤和 40 (3)
1. 国内リーグ戦に限る。
■テンプレート■ノート ■解説■サッカー選手pj

株式会社栃木ユナイテッド(HC日光アイスバックスの運営会社)代表取締役 兼 HC日光アイスバックスシニアディレクター。 日本アンプティサッカー協会(JAFA)最高顧問[1]

略歴 編集

ブラジル時代 編集

ブラジルサンパウロ州サンパウロで日本からの移民の両親の元に生まれる。17歳のときにサンパウロの名門コリンチャンスのジュニオール(ユース)のテストに合格する[2]。本人によれば、テストを受けた際に皆がミッドフィルダーに手を挙げたため、気圧されてつい手を挙げそびれた結果、あまった右ウイングとしてプレーすることになった[2]。しかしライバルが少なかったのが功を奏し、ミッドフィルダー志望者が5分ごとに交代させられる一方、セルジオは20分間もプレーすることができた[2]。同期は元ブラジル代表のロベルト・リベリーノで、今でもブラジルに帰った際は旧交を暖めている。

しかし1年で契約を解除されその後は、鉄骨関係の会社でセールスマンとして2年ほど働いた。元コリンチャンスの肩書きは大きく、商談相手とサッカーの話をしたり、草サッカーをするだけで物が売れていったという[3]。その後、ブラジルの2部チームを渡り歩いた後、日本の社会人チームからアマチュアサッカー選手としてのオファーが彼の元へ届いた。当時の職場の上司に相談したところ、「お前は馬鹿か。仕事をおぼえられてサッカーができる上に金までもらえる。もしお前が断るなら代わりに俺の息子を行かせる。」と言われ、日本へ渡ることを決意した[3]

JSL時代 編集

1972年日本サッカーリーグ(JSL)1部藤和不動産サッカー部湘南ベルマーレの前身)に入り、1974年までプレー。セルジオは当初、あくまでもアマチュア選手として仕事の余暇にサッカーをプレーするものだと考えていたが、実際には藤和不動産はほぼ一年中合宿生活を送っており[4]、プロ時代以上の練習量に驚かされることになる[5]。日本人の監督・コーチの非合理的な指導に対し、セルジオが戸惑うこともしばしばあった[6][7]

JSL初の「元プロ選手」の加入は大きな話題となり、日本デビュー戦となった1972年開幕戦の三菱重工戦には、同年のJSLの1試合平均観客動員数の4倍となる2万人の観客が国立競技場に集まった[8]日本サッカー協会では元プロ選手のプレーの是非を巡って議論が起き[9]、その後、外国人選手の試合出場は来日・登録から半年間は認めないとする新たな制限が設けられた[10]

1974年に藤和不動産の新外国人選手としてセルジオ自らブラジルで探し当てたカルバリオは、その後2度のJSL1部得点王に輝いた[11]

引退後 編集

引退後は一旦ブラジルに帰国するが、1975年永大産業コーチに就任[12]日本人とブラジル人との連係を深めると共に、その指導で日本人選手の技術も向上させ、チームの5位躍進に貢献[13]。しかし、永大産業は本業の不振の煽りで1977年シーズンを前に活動を停止してしまう[14]1978年からはコカ・コーラの後援のもと、日本サッカー協会公認の「FIFAさわやかサッカー教室」(後の「アクエリアス・サッカークリニック」)を開き[14][15]平田生雄とともに北は北海道から南は沖縄まで全国津々浦々を回り少年サッカーの指導普及に努めセルジオ越後杯を開催。延べ50万人以上の少年少女を直接指導した[10]。これが評価され、2006年に文部科学省の2006年生涯スポーツ功労者表彰、2013年には外務大臣表彰を受けた[16]。2017年4月、旭日双光章を受章[17]。さらに2023年度日本サッカー殿堂に選出された[18]

日本サッカー協会の強化委員会で委員をやった時期があり、ハンス・オフトを続投させようと思っていた川淵三郎に反対し、実績のある監督を呼ぶべきだと言った[19]。その後、ファルカンが日本代表監督を務めた時に代表スタッフの一員となっている。

2006年8月よりアジアリーグアイスホッケーチームH.C.栃木日光アイスバックス(当時は、日光神戸アイスバックス)のシニアディレクターに就任。まったく畑違いの競技であるが、「選手たちにプロの心構えを教えてやってほしい」の一言がきっかけだった。試合では自身もベンチに入り、ハーフタイムに選手たちを鼓舞するほか、TV出演の際にはアイスバックスの宣伝を欠かさないなど精力的に活動している[20]

日刊スポーツにて、「ちゃんとサッカーしなさい」というコラムを2013年から[21]、また週刊サッカーダイジェストに於いても「セルジオの天国と地獄」のコラムを担当している(2021年8月現在も続行中)。主に日本代表について講評している。

エピソード 編集

戸籍には含まれていないが、親からは「ヨシオ」という日本名で呼ばれていた[要出典]。現役当時、他のブラジル人選手同様、帰化して日本代表になってくれるよう頼まれたが、「自分は中身はブラジル人だから」と取り合わなかった。

ロナウジーニョリベリーノがドリブル時に使うことで有名な「エラシコ (エラッスチコ、Elástico)」という、外に行く振りをして内に進み相手を置き去りにする(ボールを素早く外に叩く振りをし、内に叩き進む)フェイントを考案し、リベリーノに伝授した[22][23]。本人によれば、ペレガリンシャの技を真似して、自分流にアレンジしてやっていたところ、当時のチームメートであったリベリーノが面白がって自分でもやるようになったということである。リベリーノによれば、あるテストマッチのときに、越後がエラシコをし、フルバックのエドアルドがピッチ外に出されそうになるほどのフェイントになった。リベリーノは自分の見たものが信じられず、越後に何をしたか問うと、越後はやり方を教えてみせた。越後はリベリーノに「僕が発明し、君が完璧なものにした」と言っている[22]

来日当時日本サッカーの故郷ブラジルとのレベルの差とサッカー人気の低さに大きな失望と戸惑いを感じたが、サッカー教室を清水で開いた際子供たちのレベルの高さとサッカー熱を見て「日本にもブラジルがあった」と感激したと語っている。

娘のエチゴ由衣はタレントとして活動していた。

その他の活動 編集

辛口批評家

選手に対して辛辣なコメントをすることで知られ、イビチャ・オシムフィリップ・トルシエ同様に日本のマスメディアのあり方に苦言を呈することも多い[24]。セルジオは自らの批評スタンスについて「厳しく言うのは、日本サッカー界に良くなって欲しいから。サッカー人気とメディア露出が落ちていけば、スポンサーも減少する。そうなると自分達の仕事も少なくなる」と理解を求めている[24]

コーチ

セルジオサッカークリニックを毎年開催(大陽日酸の社会貢献活動の一環として、セルジオ越後をはじめとする講師による実技指導と交歓試合を小学生など向けに行っている)[25]。 この他サッカー日本代表のレベルを上げるための施策として、Jリーグの外国人枠の撤廃もしくは拡大、アジア人枠の設置、海外組ブランド選手の見直しを提唱している。

個人成績 編集

日本サッカーリーグ成績

国内大会個人成績
年度クラブ背番号リーグ リーグ戦 リーグ杯オープン杯 期間通算
出場得点 出場得点出場得点 出場得点
日本 リーグ戦 JSL杯 天皇杯 期間通算
1972 藤和 JSL1部 -
1973 8
1974 8 -
通算 日本 JSL1部 40 6
総通算 40 6

脚注 編集

出典 編集

  1. ^ 協会概要”. 日本アンプティサッカー協会. 2017年1月26日閲覧。
  2. ^ a b c 加部、100頁。
  3. ^ a b 加部、106-107頁。
  4. ^ 加部、96頁。
  5. ^ 加部、107頁。
  6. ^ 加部、107-109頁。
  7. ^ 賀川浩. “第10回 セルジオ越後(2)リベリーノと競ったブラジルの技術の高さをJSLで披露”. 賀川サッカーライブラリー. 2012年8月12日閲覧。
  8. ^ 加部、96-97頁。
  9. ^ 加部、97頁。
  10. ^ a b 加部、109頁。
  11. ^ 加部、116頁。
  12. ^ 加部、111頁。
  13. ^ J前夜を歩く第7回】 - サッカーマガジンWEB
  14. ^ a b 賀川浩. “第11回 セルジオ越後(3)遊びの中でヒントを出し、手本を示す日本の隅々まで広めたセルジオ流”. 賀川サッカーライブラリー. 2012年8月12日閲覧。
  15. ^ 賀川浩. “第9回 セルジオ越後(1)ボールテクニックの指導に新機軸”. 賀川サッカーライブラリー. 2012年8月12日閲覧。
  16. ^ 平成25年度外務大臣表彰』(プレスリリース)外務省、2013年7月25日https://www.mofa.go.jp/mofaj/press/release/press6_000467.html2013年8月6日閲覧 
  17. ^ “春の叙勲4080人 森元首相、作家の佐藤愛子さんら受章”. J-CAST. (2017年4月29日). https://www.j-cast.com/2017/04/29296877.html 2023年1月26日閲覧。 
  18. ^ 第19回日本サッカー殿堂 掲額者決定
  19. ^ 武智幸徳. “川淵三郎 「いつも強行突破。だから変えられた」”. 2017年11月18日閲覧。
  20. ^ 日光バックスに賭けるセルジオ越後氏の決意 - Number Web
  21. ^ セルジオ越後「ちゃんとサッカーしなさい」 - サッカーコラム : 日刊スポーツ”. nikkansports.com. 2020年11月24日閲覧。
  22. ^ a b Japan's home away from home” (英語). FIFA.com. 2014年3月21日閲覧。 '"Though the popular belief is that Ronaldinho inherited the trick from the one and only Roberto Rivellino, the fact is that it was patented by Sergio Echigo, a nisei – a child of Japanese immigrants – who played for Corinthians in the 1960s. Years later Rivellino, a FIFA World Cup™ winner with Brazil at Mexico 1950, recalled the first time he saw Echigo perform the move: “He was playing in a trial match when the ball came to him out wide and he just did it. Our full-back Eduardo just about ran off the pitch.” Explaining what happened next, Rivellino said: “I couldn’t believe it. I looked over to him and said: ‘Hey, Japanese guy. What did you do there?’ And he showed me how to do it. All Echigo says is that he invented it and I perfected it.”"'
  23. ^ RIVELINO Rivelino: A very special left foot” (英語). FIFA.com. 2012年8月12日閲覧。 '"Rivelino has been attributed with inventing the elástico, although he has always maintained that he learned the dribbling trick from Sergio Echigo, a midfielder of Japanese descent who was a youth-team colleague of his at Corinthians."'
  24. ^ a b セルジオ越後氏 日本サッカーに対し辛口批評する理由を語る - NEWSポストセブン
  25. ^ 大陽日酸セルジオサッカークリニック

参考文献 編集

関連項目 編集

外部リンク 編集