セルヒオ・オスメニャ

フィリピン大統領

セルヒオ・オスメニャ(Sergio Osmeña, 1878年9月9日 - 1961年10月19日)は、フィリピン政治家。第4代フィリピン共和国大統領。米領フィリピン自治領時代では2番目の大統領。1944年に65歳で大統領に就任。これはロドリゴ・ドゥテルテが2016年に71歳で大統領に就任するまで、同国の最高齢就任だった。

セルヒオ・オスメニャ
Sergio Osmeña


任期 1944年8月1日1946年5月28日

フィリピン自治領
初代 副大統領
任期 1935年11月15日1944年8月1日
大統領 マニュエル・ケソン

フィリピン自治領
第3代 公共教育保健福祉大臣
任期 1941年12月24日1944年8月1日
大統領 マニュエル・ケソン

フィリピン自治領
初代 公共教育大臣
任期 1935年1940年
大統領 マニュエル・ケソン

アメリカ フィリピン諸島自治領
第2代 上院議長代行
任期 1922年1934年
上院議長 マニュエル・ケソン

アメリカ フィリピン諸島自治領
第10地区選出上院議員
任期 1922年1935年11月15日

アメリカ フィリピン諸島自治領
初代 下院議長
任期 1907年10月16日1922年

アメリカ フィリピン諸島自治領
セブ第2地区選出下院議員
任期 1907年10月16日1922年

セブ州
知事
任期 1904年1907年10月16日

出生 (1878-09-09) 1878年9月9日
スペインの旗 スペイン領東インド
セブ州 セブ市
死去 (1961-10-19) 1961年10月19日(83歳没)
フィリピンの旗 フィリピン
ケソン市
政党 国民党
出身校 聖トマス大学
配偶者 エスペランザ・オスメニャ
宗教 カトリック
署名

セブ州知事、フィリピン下院議員兼初代議長、そして上院議員兼議長代行を務めた。1935年、マニュエル・ケソン上院議員の大統領就任の際、副大統領に就任、1941年の再選を経て、1944年に自身が大統領に就任するまで務めた。

人物 編集

1878年セブで生まれ、サン・フアン・デ・レトランカレッジに学び、後に聖トマス大学法学を専攻する。米西戦争の影響で学業は中断を余儀なくされたが、1903年最高裁司法試験の受験を認め、次席で合格した。

1900年、自らが創設したセブの日刊紙「エル・ヌエボ・ディア(新時代)」において平和的手段を通じた独立運動を推進。1904年セブ州知事に就任。1906年、独立を綱領とする政党禁止令解除後の民族主義政党合従連衡により結成された国民党の初代党首となった。1907年の第一回総選挙で国民議会議員に当選。1916年二院制議会では下院議長に就任。1923年には上院議員に選出された。

1933年、独立使節団として尽力したアメリカ議会のヘア・ホーズ・カッティング法(10年後の独立承認)はマニュエル・ケソンの反対によりフィリピン議会で批准されず、タイディングス・マクダフィー法を持ち帰ったケソンが1935年コモンウェルス成立時の大統領となり、その下で副大統領となる。1944年8月にアメリカでケソンが病没した事により亡命政府の大統領に昇格した。1944年10月23日、ダグラス・マッカーサーとともにレイテ島レイテ湾に帰還してタクロバンでコモンウェルス政府の復活を宣言、1945年2月27日、マニラに帰還した。戦後初の大統領選マニュエル・ロハスに敗れ、政界を引退した。

1961年10月19日、83歳で死去。1967年以降、2018年現在に至るまで50ペソ紙幣に肖像が使用されている。

家族 編集

息子は元上院議員のセルヒオ・オスメニャ・ジュニア、孫は元上院議員のセルヒオ・オスメニャ三世、元上院議員のジョン・ヘンリー・オスメニャ、元セブ州知事のリト・オスメニャ、元セブ市長のトーマス・オスメニャとセルヒオ以降オスメニャ家は政治家が相次いだ。

関連項目 編集

外部リンク 編集