メインメニューを開く
USS Cero (SS-225).jpg
艦歴
発注 1940年7月1日[1]
起工 1942年8月24日[2]
進水 1943年4月4日[2]
就役 1943年7月4日[2]
1952年2月4日[3]
退役 1946年6月8日[3]
1953年12月23日[3]
除籍 1967年6月30日[3]
その後 1970年10月にスクラップとして売却[4]
性能諸元
排水量 1,526トン(水上)
2,424トン(水中)
全長 307 ft (93.6 m)(水線長)
311 ft 9 in (95.02 m)
全幅 27.3 ft (8.31 m)
吃水 17.0 ft (5.2 m)
機関 ゼネラルモーターズ278A16気筒ディーゼルエンジン 4基
ゼネラル・エレクトリック発電機2基
最大速 水上:20.25 ノット (37 km/h)
水中:8.75 ノット (16 km/h)
航続距離 11,000カイリ(10ノット時)
(18.5 km/h 時に 20,000 km)
試験深度 300 ft(90 m)
乗員 士官、兵員70名(平時)
士官、兵員80 - 85名(戦時)
兵装 (竣工時)4インチ砲1基、20ミリ機銃[5]
(1944年2月)4インチ砲1基、40ミリ機関砲、20ミリ機銃[6]
(1945年3月)5インチ砲1基、40ミリ機関砲、20ミリ機銃[7]
21インチ魚雷発射管10基

セロ (USS Cero, SS-225) は、アメリカ海軍潜水艦ガトー級潜水艦の14番艦。艦名は西インド諸島に生息するサバ科サワラ属のセロ・マッケレルに因む。その名を持つ艦としては2隻目。

セロ・マッケレル(Cero mackerel)

艦歴編集

セロはコネチカット州グロトンエレクトリック・ボート社で起工する。1943年4月4日にD・E・バーベイ夫人によって進水し、艦長デヴィッド・C・ホワイト中佐(アナポリス1927年組)の指揮下、1943年7月4日に就役する。8月17日にニューロンドンを後にして真珠湾に向かった。

第1の哨戒 1943年9月 - 11月編集

9月26日、セロは最初の哨戒で東シナ海および黄海方面に向かった。この時、アメリカ海軍で最初のウルフパックが編成され、セロはシャード (USS Shad, SS-235) およびグレイバック (USS Grayback, SS-208) とともに、セロに乗艦したチャールズ・モンセン英語版司令の指揮下で行動することとなった。10月12日未明、セロは北緯28度30分 東経137度28分 / 北緯28.500度 東経137.467度 / 28.500; 137.467父島の西南西300海里の地点で3隻の輸送船と2隻の駆逐艦を発見。9,500トン級輸送船、6,000トン級輸送船および5,000トン級輸送船に対し魚雷を6本発射し、3つの命中を確認する[8]。深深度潜航で爆雷攻撃に備えたのち、正午前の二度目の攻撃で、最初の攻撃で航行不能となった9,500トン級輸送船に対して魚雷を3本発射し、3本とも命中させたが沈む気配も何も起こらなかった[9]。この時雷撃されたのは第3009甲船団に加入していた特務艦間宮であり[10]、間宮は後部を大破し、丁四号輸送作戦に従事中の軽巡洋艦五十鈴などの救援を受けた[11][12]。10月27日未明、セロは前夜に会合したシャードがグレイバックとともにマ08船団を攻撃していることを示す複数の魚雷爆発音を聴取するが、おこぼれにすらありつくことが出来なかった[13]。11月4日夜、セロは北緯32度50分 東経125度57分 / 北緯32.833度 東経125.950度 / 32.833; 125.950ソコトラ岩近海で第111船団を発見し、北緯32度28分 東経125度18分 / 北緯32.467度 東経125.300度 / 32.467; 125.300の地点に至った所で、船団の先頭船3隻や船団から後落していた陸軍輸送船旭光丸(山下汽船、6,783トン)に対して魚雷を計9本発射し、10,000トン級輸送船に1本、7,500トン級輸送船に2本命中したと判断されたが[14]、旭光丸を初め第111船団に被害はなかった[15]。11月11日には北緯30度50分 東経150度17分 / 北緯30.833度 東経150.283度 / 30.833; 150.283の地点で特設監視艇に対して、4インチ砲と機銃による攻撃を行った[5]。11月16日、セロは52日間の行動を終えてミッドウェー島に帰投。艦長がエドワード・F・ディセット少佐(アナポリス1934年組)に代わった。

第2、第3、第4の哨戒 1943年12月 - 1944年6月編集

12月13日、セロは2回目の哨戒でトラック諸島およびニューギニア方面に向かった。トラックとカビエン間の航路を哨戒し[16]、12月23日には北緯03度10分 東経150度45分 / 北緯3.167度 東経150.750度 / 3.167; 150.750の地点で「愛宕型重巡洋艦」を発見し追跡を行うが、駆逐艦と航空機の出現により追跡は継続できなかった[17]。この哨戒で攻撃機会はなく[18]、哨戒終了後はミルン湾に行くよう命令された。1944年1月12日、セロは29日間の行動を終えてミルン湾に帰投した。

2月4日、セロは3回目の哨戒でカロリン諸島方面に向かった。2月16日午後、セロは北緯00度10分 東経147度34分 / 北緯0.167度 東経147.567度 / 0.167; 147.567の地点で6,000トン級輸送船と2隻の護衛艦を発見[19]。追跡の上、日付が2月17日になってから北緯00度53分 東経146度26分 / 北緯0.883度 東経146.433度 / 0.883; 146.433の地点で魚雷を4本発射し、1本を海軍徴傭船常山丸拿捕船、1,086トン)に命中させて撃沈した[20][21][注釈 1]。翌2月18日午前にも北緯02度43分 東経143度48分 / 北緯2.717度 東経143.800度 / 2.717; 143.800の地点で輸送船団を発見したが、顔ぶれは前日に攻撃した船団に酷似していた[22]。近在のピート (USS Peto, SS-265) と連携して1日以上かけて船団を追跡し、2月19日夜に北緯03度22分 東経138度28分 / 北緯3.367度 東経138.467度 / 3.367; 138.467の地点で「浄宝縷丸級輸送船」に対して魚雷を6本発射[23]。魚雷は2本が命中して目標は沈没したと判断された[24][注釈 2]。2月21日午前にも南緯00度18分 東経139度42分 / 南緯0.300度 東経139.700度 / -0.300; 139.700の地点で8,600トン級輸送船と6,000トン級輸送船からなる輸送船団を発見し、午前に2つの目標に対して魚雷を6本発射して1つの命中を確認する[25]。午後にも8,600トン級輸送船に対して魚雷を3本発射し、1つの命中を確認したが損傷どまりであると判断された[26]。この8,600トン級輸送船は行き足を止め、セロは2月22日早朝に三度目の攻撃で魚雷を4本発射したが、目標が止まって爆発音も聴取したにもかかわらず魚雷は命中しなかった[27]。一連の攻撃で、陸軍輸送船八州丸(朝鮮郵船、2,655トン)[28][29]が損傷した[21]。2月27日、セロは23日間の行動を終えてミルン湾に帰投[30]。翌日出港してブリスベンに回航され、3月2日に到着した[31]

4月3日、セロは4回目の哨戒でレイ (USS Ray, SS-271) とともにパラオ方面に向かった。4月8日から10日までは、ホーランジアの戦いに先立ってタナメラ湾に偵察部隊を送り込む特別任務に就く[32]。特別任務の終了後は、1ヵ月以上も好目標になかなかめぐり合わなかったが、5月21日に北緯00度15分 東経128度59分 / 北緯0.250度 東経128.983度 / 0.250; 128.983の地点で中型輸送船と護衛艦を発見し、魚雷を4本発射して1つの命中を確認する[33]。2日後の5月23日朝、セロは北緯02度38分 東経128度08分 / 北緯2.633度 東経128.133度 / 2.633; 128.133モロタイ島西方海域カウ湾口で、セブ島からハルマヘラ島に向かうH26船団を発見[34]。H26船団に対しては前日5月22日にレイが攻撃を行い、輸送船天平丸(白洋汽船、6,094トン)を撃沈していた。7時32分、セロは船団に対して魚雷を6本発射し、輸送船大順丸大阪商船、2,825トン)に1本が命中して、大順丸は曳航の甲斐なく爆発して沈没[35]。また、レイと共同でタンカー建和丸(日東汽船、6,384トン)を撃破した[21][36][37]。6月2日、セロは60日間の行動を終えてマヌス島ゼーアドラー湾に帰投した。

第5、第6の哨戒 1944年6月 - 11月編集

 
特務艦鶴見(1922年)

6月26日、セロは5回目の哨戒でフィリピン方面に向かった。7月1日、セロは北緯05度15分 東経125度38分 / 北緯5.250度 東経125.633度 / 5.250; 125.633の地点でダバオからタラカン島に回航途中の戦艦扶桑と駆逐艦朝雲満潮野分を発見するが、約22,000ヤード(約20キロ)まで接近するのが精一杯だった[38][39]。7月22日には北緯05度10分 東経128度37分 / 北緯5.167度 東経128.617度 / 5.167; 128.617の地点で1,000トン級小型輸送船と護衛艦を発見し、夜に入って魚雷を6本発射したが命中しなかった[40]。8月5日、セロは北緯05度53分 東経125度41分 / 北緯5.883度 東経125.683度 / 5.883; 125.683ダバオ・デル・スル州カヤポンガ北東20キロのダバオ湾英語版口で特務艦鶴見を中心とする輸送船団を発見し、セロは船団を東側に見る体勢で襲撃運動を開始。11時13分に鶴見に対して魚雷を6本発射し、うち4本が鶴見に命中して11時30分に横転沈没した[41][42]。8月20日、セロは56日間の行動を終えてブリスベンに帰投した[43]。この後、セロは9月13日にブリスベンを出港し、9月18日にダーウィンに到着した[44]

9月19日、セロは6回目の哨戒でミンダナオ島方面に向かった。10月17日、セロは第一の特殊任務のためビアク島南東のミオス・ウンディ島に立ち寄り、16名の陸軍兵士と17トンの物資、2名の海軍士官を受け入れた[45]。これら兵員と物資は、ルソン島西岸部中のうち北緯16度49分04秒 東経120度19分00秒 / 北緯16.81778度 東経120.31667度 / 16.81778; 120.31667のダリガヨス入り江と、北緯17度17分02秒 東経120度24分05秒 / 北緯17.28389度 東経120.40139度 / 17.28389; 120.40139のサンチャゴ・カーヴ、北緯15度01分05秒 東経121度32分05秒 / 北緯15.01806度 東経121.53472度 / 15.01806; 121.53472のルソン島東部マサンガ川河口付近の3箇所に揚陸することになっていた[46]。折りしもレイテ沖海戦直前であり、セロはギターロ (USS Guitarro, SS-363) が接触した栗田健男中将の艦隊に関する情報を受信しつつ、目的地へと向かう[47]。10月25日朝、セロは第一の目的地であるダリガヨス入り江に到着するが、合図の信号が見つからなかった上に日が昇って日本の航空機の姿がいくつか見受けられるようになった[48]。セロは潜航して機をうかがい、夜になって浮上して場所を変えての揚陸を試みたが上手くゆかず、やがてコッド (USS Cod, SS-224) が海軍徴傭船浅間丸(日本郵船、16,975トン)などを含んだモマ04船団を発見したため、特殊任務を中断してその迎撃へと向かったが、モマ04船団に対する攻撃は出来なかった[49]。10月26日夜と10月27日夜にも揚陸のための接触を試みるが、後者では機をうかがっている時に北緯16度58分 東経120度18分 / 北緯16.967度 東経120.300度 / 16.967; 120.300の地点で2隻の100トン級海上トラックが出現し、セロは4インチ砲と40ミリ機関砲、20ミリ機銃で命中弾を与えて座礁させた[50]。10月28日に至っても接触できなかったため、セロは第二の目的地であるサンチャゴ・カーヴに移動することとなった[51]。10月29日朝にサンチャゴ・カーヴに到着したセロは早速信号を取り交わすが、陸上側ではプランとは違う信号を出したり、現地の人間が海岸に出てきてセロをただ観察するのみだった[52]。翌10月30日朝にも接触を試みるが成功せず、損傷した10,000トン級輸送船を中心とする輸送船団攻撃に移った[53]。夜にも接触を試みたが応答はなく、セロは第三の目的地であるマサンガ川河口に向かった[54]。11月2日夜にマサンガ川河口に到着し、この時は現地ゲリラとの接触も上手く行き、兵士と物資を無事に揚陸[55]。その代わりに3人の兵員と1人の子供を引き取った[56]。4人の内訳は次のとおり[55]

  • 空母プリンストン (USS Princeton, CVL-23) 乗り組みで、9月21日の戦闘で墜落してルソン島北部に着地したウィリアム・ランブ大尉
  • 空母イントレピッド (USS Intrepid, CV-11) 乗り組みで、10月29日の戦闘で墜落してルソン島東部に着地したダン・ノートン少尉
  • 開戦劈頭のフィリピンの戦いで日本軍の捕虜となり、1944年に脱獄したアール・スチール陸軍上等兵
  • 「ジェームス・バーネット中佐の息子」と名乗る12歳の子供

任務終了後、セロは11月3日に「日本の呂号潜水艦」から雷撃を受けたが回避した[57]。11月4日ルソン海峡に到達し、11月14日にサイパン島タナパグ湾英語版に寄港[58]。11月24日、セロは62日間の行動を終えて真珠湾に帰投。メア・アイランド海軍造船所オーバーホールに入った[59]。また、艦長がレイモンド・バートン少佐(アナポリス1938年組)に代わった。オーバーホールを終えたセロは1945年3月18日に真珠湾に戻った[59]

第7、第8の哨戒 1945年3月 - 7月編集

3月31日、セロは7回目の哨戒で日本近海に向かった。この時期は日本側には目ぼしい船舶は残っていなかったとはいえ、セロは多くの戦果をあげた。4月19日には北緯31度08分 東経136度59分 / 北緯31.133度 東経136.983度 / 31.133; 136.983の地点で特設監視艇第三五十鈴丸(後藤商店、74トン)を発見し、魚雷を2本発射して1本を命中させて撃沈[60][61][62]。4月22日にも北緯31度38分 東経139度00分 / 北緯31.633度 東経139.000度 / 31.633; 139.000の地点で特設監視艇網地丸(辺見安之助、107トン)ともう1隻の特設監視艇を発見し、1本のMk27誘導魚雷英語版による攻撃を行ったものの成功せず、浮上しての砲撃で網地丸を撃沈してもう1隻を敗走させた[60][63]。4月29日7時58分には北緯39度15分 東経144度58分 / 北緯39.250度 東経144.967度 / 39.250; 144.967釜石湾沖150度24海里の地点でタンカー大修丸(大阪商船、6,925トン)を発見し、魚雷を4本発射して1本しか命中しなかったが、大修丸は爆発を起こして6分ほどで沈没した[64]。5月4日には北緯39度28分 東経142度04分 / 北緯39.467度 東経142.067度 / 39.467; 142.067とどヶ崎灯台183度4.5海里の地点で3隻の輸送船からなる輸送船団を発見し、輸送船神変丸(藤山海運、884トン)に対して魚雷を2本発射して1本を命中させ、二度目の攻撃でも魚雷を2本発射したが命中しなかった[65]。さらにMk27誘導魚雷を護衛艦に向けて発射したが、これも命中しなかった[66]。それでも最初の攻撃による損傷により神変丸は沈没した。5月6日正午ごろに北緯39度06分 東経141度56分 / 北緯39.100度 東経141.933度 / 39.100; 141.933の地点で発見した中型輸送船に向けて発射された3本の魚雷は命中しなかったが[67]、5月13日には北緯39度07分 東経141度57分 / 北緯39.117度 東経141.950度 / 39.117; 141.950気仙郡吉浜村沖で輸送船神南丸(拿捕船、1,025トン)を発見して魚雷を3本発射し、1本が命中して撃沈した[68]。5月20日夕刻には北緯37度40分 東経143度12分 / 北緯37.667度 東経143.200度 / 37.667; 143.200の地点でトロール船を発見し、Mk27誘導魚雷を1本発射したが命中しなかった[69]。深夜に入ってから北緯38度06分 東経142度24分 / 北緯38.100度 東経142.400度 / 38.100; 142.400金華山灯台沖で捕鯨船第五関丸西大洋漁業、377トン)を発見して魚雷を2本発射し、1本は確実に命中してもう1本も命中と推定され、これを撃沈した[60][70]。5月27日、セロは56日間の行動を終えてグアムアプラ港に帰投した。

6月27日、セロは8回目の哨戒で日本近海に向かった。この哨戒では近日第38任務部隊ジョン・S・マケイン・シニア中将)による大規模な空襲が実施される予定なので、主に搭乗員救助と日本側の出方を探る監視役の役目を担った。7月15日、セロは搭乗員3名を救助した後、尻屋埼灯台を艦砲射撃して損害を与えた[71]。3日後の7月18日、セロは北緯45度14分 東経148度41分 / 北緯45.233度 東経148.683度 / 45.233; 148.683択捉島の沖合いに移動して哨戒していたが、突然天山の爆撃を受けた[60][72]。セロは深度130メートルにまで避退して爆撃を避けたつもりだったが、それでも被爆した。潜望鏡が使用不可能となり、セロの内部機材やジャイロコンパスが破壊され船体自体もねじれてしまった[73]。セロは任務続行を断念した[74]。7月30日、セロは33日間の行動を終えて真珠湾に帰投した。

戦後編集

セロは帰還する途中の1945年11月5日にニューオーリンズに寄航した後、1946年6月8日にニューロンドンに到着、予備艦となった。1952年2月4日に再就役し、キー・ウェストを母港として主にカリブ海で海軍のソナー訓練の支援を行った後、1953年12月23日に再び退役。ニューロンドンに係留された。1960年からはミシガン州デトロイトにある海軍予備役訓練センターで、前年に除籍されたタンバー (USS Tambor, SS-198) の後継艦として1967年まで予備役訓練艦の任務に就いた。訓練艦任務をパイパー (USS Piper, SS-409) に譲って後、1970年にスクラップとして売却された。

セロは第二次世界大戦終結までに8回の哨戒を行い、これらの戦功で7個の従軍星章を受章した。セロが行った8回の哨戒のうち、第2回以外で戦果を挙げ、総トン数18,159トンの船舶を撃沈した。

脚注編集

注釈編集

  1. ^ #Roscoe ではカウントせず。
  2. ^ The Official Chronology of the U.S. Navy in World War II Chapter VI: 1944” (英語). HyperWar. 2012年3月26日閲覧。では、この目標の船名を "No.18 Shinsei Maru" とするが、"but does not score any damage on her quarry" (同船は損害を記録しなかった)とも付記されている。

出典編集

  1. ^ #海と空p.170
  2. ^ a b c #SS-225, USS CERO, Part 1p.3
  3. ^ a b c d #Friedman
  4. ^ #Bauer
  5. ^ a b #SS-225, USS CERO, Part 1pp.23-24, p.37
  6. ^ #SS-225, USS CERO, Part 1p.68
  7. ^ #SS-225, USS CERO, Part 2p.39,127
  8. ^ #SS-225, USS CERO, Part 1pp.11-12, pp.30-31
  9. ^ #SS-225, USS CERO, Part 1pp.12-13, pp.32-33
  10. ^ #四根1810pp.27-28, p.36
  11. ^ #丁四号輸送部隊pp.10-11
  12. ^ The Official Chronology of the U.S. Navy in World War II Chapter V: 1943” (英語). HyperWar. 2012年3月23日閲覧。
  13. ^ #SS-225, USS CERO, Part 1pp.18-19
  14. ^ #SS-225, USS CERO, Part 1pp.21-22, pp.34-36
  15. ^ #佐防戦1811p.4
  16. ^ #SS-225, USS CERO, Part 1p.50
  17. ^ #SS-225, USS CERO, Part 1pp.51-52
  18. ^ #SS-225, USS CERO, Part 1p.58
  19. ^ #SS-225, USS CERO, Part 1p.76,89
  20. ^ #SS-225, USS CERO, Part 1pp.77-79, pp.91-92
  21. ^ a b c The Official Chronology of the U.S. Navy in World War II Chapter VI: 1944” (英語). HyperWar. 2012年3月26日閲覧。
  22. ^ #SS-225, USS CERO, Part 1p.79,89
  23. ^ #SS-225, USS CERO, Part 1pp.80-81, pp.93-94
  24. ^ #SS-225, USS CERO, Part 1pp.93-94
  25. ^ #SS-225, USS CERO, Part 1pp.80-81, pp.95-96
  26. ^ #SS-225, USS CERO, Part 1p.86, pp.97-98
  27. ^ #SS-225, USS CERO, Part 1p.87, pp.99-100
  28. ^ #輸送船要目表pp.82-83
  29. ^ #戦時遭難史p.96
  30. ^ #SS-225, USS CERO, Part 1p.88
  31. ^ #SS-225, USS CERO, Part 1p.114
  32. ^ #SS-225, USS CERO, Part 2pp.162-167
  33. ^ #SS-225, USS CERO, Part 1pp.131-132, pp.150-151
  34. ^ #SS-225, USS CERO, Part 1p.133
  35. ^ #野間pp.271-272
  36. ^ #SS-225, USS CERO, Part 1pp.134-137, pp.152-154
  37. ^ #SS-271, USS RAY, Part 1pp.156-158
  38. ^ #SS-225, USS CERO, Part 1pp.174-175, p.211
  39. ^ #四駆1907p.3
  40. ^ #SS-225, USS CERO, Part 1pp.186-191, pp.228-230
  41. ^ #SS-225, USS CERO, Part 1pp.201-204, pp.231-233, p.235
  42. ^ #三十掃1908p.39, pp.52-53
  43. ^ #SS-225, USS CERO, Part 1p.208
  44. ^ #SS-225, USS CERO, Part 1p.248
  45. ^ #SS-225, USS CERO, Part 2pp.5-7, p.188,190
  46. ^ #SS-225, USS CERO, Part 2p.188
  47. ^ #SS-225, USS CERO, Part 2p.191
  48. ^ #SS-225, USS CERO, Part 2pp.192-193
  49. ^ #SS-225, USS CERO, Part 2pp.193-194
  50. ^ #SS-225, USS CERO, Part 2p.24, pp.195-198, p.213
  51. ^ #SS-225, USS CERO, Part 2pp.199-200
  52. ^ #SS-225, USS CERO, Part 2p.200
  53. ^ #SS-225, USS CERO, Part 2pp.200-201
  54. ^ #SS-225, USS CERO, Part 2p.202
  55. ^ a b #SS-225, USS CERO, Part 2p.203
  56. ^ #SS-225, USS CERO, Part 2p.203,248
  57. ^ #SS-225, USS CERO, Part 2p.204
  58. ^ #SS-225, USS CERO, Part 2p.11,204
  59. ^ a b #SS-225, USS CERO, Part 2p.39
  60. ^ a b c d The Official Chronology of the U.S. Navy in World War II Chapter VII: 1945” (英語). HyperWar. 2012年3月26日閲覧。
  61. ^ #SS-225, USS CERO, Part 2pp.67-68
  62. ^ #特設原簿p.94
  63. ^ #SS-225, USS CERO, Part 2pp.81-82, pp.228-229
  64. ^ #SS-225, USS CERO, Part 2pp.69-70
  65. ^ #SS-225, USS CERO, Part 2pp.71-74
  66. ^ #SS-225, USS CERO, Part 2pp.230-231
  67. ^ #SS-225, USS CERO, Part 2pp.75-76
  68. ^ #SS-225, USS CERO, Part 2pp.77-78
  69. ^ #SS-225, USS CERO, Part 2pp.232-233
  70. ^ #SS-225, USS CERO, Part 2pp.79-80
  71. ^ #SS-225, USS CERO, Part 2p.120,127
  72. ^ #木俣敵潜1989p.287
  73. ^ #SS-225, USS CERO, Part 2p.122
  74. ^ #SS-225, USS CERO, Part 2pp.122-123

参考文献編集

  • (issuu) SS-225, USS CERO, Part 1. Historic Naval Ships Association. http://issuu.com/hnsa/docs/ss-225_cero_part1?mode=a_p. 
  • (issuu) SS-225, USS CERO, Part 2. Historic Naval Ships Association. http://issuu.com/hnsa/docs/ss-225_cero_part2?mode=a_p. 
  • (issuu) SS-271, USS RAY, Part 1. Historic Naval Ships Association. http://issuu.com/hnsa/docs/ss-271_ray_part1?mode=a_p. 
  • アジア歴史資料センター(公式)(防衛省防衛研究所)
    • Ref.C08030052400『自昭和十八年十月一日至昭和十八年十月三十一日 第十四戦隊戦時日誌』、11-33頁。
    • Ref.C08030052500『丁四号輸送部隊任務報告』。
    • Ref.C08030251100『自昭和十八年十月一日至昭和十八年十月三十一日 第四根拠地隊 第二海上護衛隊司令部戦時日誌』、21-38頁。
    • Ref.C08030373700『自昭和十八年十一月一日至昭和十八年十一月三十日 佐世保防備戦隊戦時日誌』。
    • Ref.C08030146000『自昭和十九年七月一日至昭和十九年七月三十一日 第四駆逐隊(隊及満潮)戦時日誌』。
    • Ref.C08030617500『自昭和十九年七月一日至昭和十九年七月三十一日 第三十号掃海艇戦時日誌』、36-82頁。
  • 深谷甫(編)「写真 米国海軍」『増刊 海と空』、海と空社、1940年。
  • Roscoe, Theodore. United States Submarine Operetions in World War II. Annapolis, Maryland: Naval Institute press. ISBN 0-87021-731-3. 
  • 財団法人海上労働協会(編)『復刻版 日本商船隊戦時遭難史』財団法人海上労働協会/成山堂書店、2007年(原著1962年)。ISBN 978-4-425-30336-6
  • 防衛研究所戦史室編『戦史叢書62 中部太平洋方面海軍作戦(2)昭和十七年六月以降』朝雲新聞社、1973年。
  • Blair,Jr, Clay (1975). Silent Victory The U.S.Submarine War Against Japan. Philadelphia and New York: J. B. Lippincott Company. ISBN 0-397-00753-1. 
  • 駒宮真七郎『戦時輸送船団史』出版協同社、1987年。ISBN 4-87970-047-9
  • 木俣滋郎『敵潜水艦攻撃』朝日ソノラマ、1989年。ISBN 4-257-17218-5
  • 伊達久「第二次大戦 日本海軍作戦年誌」『写真 日本の軍艦14 小艦艇II』雑誌「」編集部(編)、光人社、1990年。ISBN 4-7698-0464-4
  • Bauer, K. Jack; Roberts, Stephen S. (1991). Register of Ships of the U.S. Navy, 1775-1990: Major Combatants. Westport, Connecticut: Greenwood Press. pp. 271-273. ISBN 0-313-26202-0. 
  • Friedman, Norman (1995). U.S. Submarines Through 1945: An Illustrated Design History. Annapolis, Maryland: United States Naval Institute. pp. pp .285-304. ISBN 1-55750-263-3. 
  • 野間恒『商船が語る太平洋戦争 商船三井戦時船史』野間恒(私家版)、2004年。
  • 林寛司(作表)、戦前船舶研究会(資料提供)「特設艦船原簿/日本海軍徴用船舶原簿」『戦前船舶』第104号、戦前船舶研究会、2004年。
  • 戦前船舶研究会(編)「輸送船要目表(甲)」『戦前船舶資料集』第113号、戦前船舶研究会、2007年。

外部リンク編集