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ゾフィー・フォン・デア・プファルツ

ゾフィー・フォン・デア・プファルツドイツ語: Sophie von der Pfalz, 1630年10月14日 - 1714年6月8日)は、プファルツ選帝侯ボヘミアフリードリヒ5世とその妃エリーザベト(エリザベス)の五女(第12子)。ハノーファー選帝侯エルンスト・アウグストの妃。ゾフィー・フォン・ハノーファー(Sophie von Hannover)とも呼ばれる。英語名はソフィア(Sophia)。

ゾフィー
Sophia
ハノーファー選帝侯
Electress Sophia, Princess Palatine.jpg
出生 (1630-10-14) 1630年10月14日
Statenvlag.svg ネーデルラント連邦共和国デン・ハーグ
死去 (1714-06-08) 1714年6月8日(83歳没)
神聖ローマ帝国の旗 神聖ローマ帝国
Flag of Hanover (1692).svg ハノーファー選帝侯領ハノーファー
配偶者 エルンスト・アウグスト
子女
父親 フリードリヒ5世
母親 エリザベス・ステュアート
宗教 キリスト教カルヴァン派
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ハノーファー選帝侯ゲオルク1世ルートヴィヒ(グレートブリテンジョージ1世)の母であり、現在のイギリス王室の祖先である。

目次

家系編集

兄にプファルツ選帝侯カール1世ルートヴィヒカンバーランド公ルパート、プファルツ=ジンメルン伯エドゥアルトが、姉に哲学者として知られるエリーザベト、画家として知られるルイーゼ・ホランディーネがいる。ブランデンブルク選帝侯プロイセン公フリードリヒ・ヴィルヘルムは父方の従兄、イングランドチャールズ2世ジェームズ2世兄弟は母方の従兄に当たる。

17世紀後半以降のイギリスは、ピューリタン革命王政復古名誉革命が相次いで起こり、情勢が混乱していた。そして、名誉革命以降に王座に就いたメアリー2世ウィリアム3世の夫妻、アンのいずれにも王位継承可能な嗣子がなかった。

ゾフィーの母方の祖父がイングランドスコットランドの王ジェームズ1世であり、かつ彼女がプロテスタントであったこと、そして兄・姉たちやその子孫がいずれも死去していたかカトリックであったため、ゾフィ―が唯一の適任者だった。

1700年、アンが36歳を目前に17回目の妊娠を死産で終え、さらに唯一成長していたウィリアム王子が逝去する。翌1701年王位継承法によってイングランドとスコットランド(合同してグレートブリテン王国となるのは1707年)のアンに次ぐ王位継承権者に定められた。

アンは1702年に女王に即位し、1714年に崩御した。しかし、ゾフィーはアン女王より2ヶ月早く逝去していたため、女王の崩御後はゾフィーの長男であるハノーファー選帝侯ゲオルク・ルートヴィヒがジョージ1世として王位を継承した。「ステュアート家の血を引いている者で、かつカトリックは排除する」と規定された王位継承法は2013年の改正法制定まで有効であり、かつ故人には遡及されない。そのため、ゾフィ―とエルンスト・アウグスト夫妻が、全てのイギリス王位継承権保持者最も近い共通祖先になっている[1]

生涯編集

 
インド人に扮したゾフィー、姉ルイーゼ・ホランディーネによる肖像画、1644年頃

1630年、両親の亡命先であるオランダハーグで生まれた。オランダで教育を受けていたが、1648年に兄のカール1世が三十年戦争を終結させたヴェストファーレン条約によりプファルツ選帝侯としてドイツへ戻ると、1650年にゾフィーもプファルツへ移住した。1659年に姪のエリザベート・シャルロット(リーゼロッテ)を兄から預けられると1663年まで彼女の世話を務め、1671年にリーゼロッテが政略結婚でフランスルイ14世の弟オルレアン公フィリップ1世に嫁いだ後は亡くなるまで文通を続けた。リーゼロッテと再会したのは1679年にフランスで行われたフィリップ1世と先妻の娘マリー・ルイーズスペインカルロス2世の代理結婚式に列席した時で、以後リーゼロッテと会うことはなかった[2]

はじめはブラウンシュヴァイク=リューネブルク公ゲオルク・ヴィルヘルムと婚約していたが、美しかったゾフィーが嫁ぐ前に天然痘にかかってしまい、婚約を破棄された。その後ゲオルク・ヴィルヘルムは、愛妾であったフランスの小領主の娘エレオノール・ドルブリューズと結婚したため、ゾフィーは深くゲオルク・ヴィルヘルムを恨むようになった。

1658年にゲオルク・ヴィルヘルムの弟エルンスト・アウグストと結婚したが、成人したうちでも4番目の男子であった夫には当時、公位を継ぐ可能性はほとんどなかった。しかし兄たちが嗣子なくして死去したために、エルンスト・アウグストは父ゲオルクの遺領を相続し、さらに1692年には選帝侯位を授けられた。

息子ゲオルク・ルートヴィヒは、1688年にゲオルク・ヴィルヘルムの娘ゾフィー・ドロテアと結婚したが、過去のいきさつやゾフィー・ドロテア自身がこの結婚を嫌がったことなどから、嫁姑の関係は良くなかった[3]

ゾフィーは政治力に優れよく夫を助けた。孫のゲオルク・アウグスト(後のジョージ2世)の妃選びにも奔走し、ブランデンブルク=アンスバッハ辺境伯ヨハン・フリードリヒの娘カロリーネ(キャロライン)を見つけ出した。ゾフィーの嫁選びの目は確かで、カロリーネは聡明な女性であり、ロバート・ウォルポールと共に国王になった夫を後によく助けた。唯一の女子ゾフィー・シャルロッテは初代プロイセン王フリードリヒ1世の妃となった。哲学者ゴットフリート・ライプニッツとも交流を持ち、リーゼロッテとゾフィー・シャルロッテにライプニッツを紹介している[4]

1714年8月1日にアン女王が崩御するが、約2か月先立つ6月8日、ゾフィーが逝去していたため、彼女が王座に就くことは無かった。ゲオルク・ルートヴィヒが英国王ジョージ1世として即位し、今日まで続くハノーヴァー朝となった。

子女編集

系図編集

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
ジェームズ1世
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
エリザベス
 
チャールズ1世
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
ゾフィー
 
チャールズ2世
 
メアリー
 
ジェームズ2世
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
ジョージ1世
 
 
 
 
 
ウィリアム3世
 
メアリー2世
 
アン
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 


ゾフィーから今のイギリス王室までの系図は「イギリス王位継承順位」を参照。

脚注編集

  1. ^ ゾフィーの兄姉のうち、子孫を残したのはカール1世ルートヴィヒ・カンバーランド公ルパート・プファルツ=ジンメルン伯エドゥアルトの3人の兄だけである。このうちエドゥアルトは自身がカトリックに改宗し、カール1世ルートヴィヒの正嫡子孫で生き残ったのはやはりカトリックであるオルレアン公妃エリザベートの子孫である。カール1世ルートヴィヒのその他の子供と、カンバーランド公の子供は全員が非嫡出子(庶子)扱いで、イギリスに限らずどこの欧州王室も非嫡出子の継承は最初から排除されていたため(2013年王位継承法でも非嫡出子の継承は認められていない)、やはり継承権は無かった
  2. ^ 宮本、P42 - P54、P116 - P117。
  3. ^ 森、P182 - P186。
  4. ^ 森、P198 - P200、宮本、P73 - P74。

参考文献編集

  • 森護『英国王妃物語』三省堂、1986年。
  • 宮本絢子『ヴェルサイユの異端公妃―リーゼロッテ・フォン・デァ・プファルツの生涯』鳥影社、1999年。

関連項目編集