タイロン・ウッズ

アメリカ合衆国出身の元プロ野球選手

ウィリアム・タイロン・ウッズWilliam Tyrone Woods , 1969年8月19日 - )は、アメリカ合衆国フロリダ州出身の元プロ野球選手内野手外野手)。

タイロン・ウッズ
Tyrone Woods
IMG 1874 Tyrone Woods.jpg
中日時代
(2008年6月1日、西武ドーム
基本情報
国籍 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
出身地 フロリダ州ブルックスビル
生年月日 (1969-08-19) 1969年8月19日(51歳)
身長
体重
6' 1" =約185.4 cm
225 lb =約102.1 kg
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 一塁手外野手
プロ入り 1988年 MLBドラフト5巡目
初出場 KBO / 1998年
NPB / 2003年3月28日
最終出場 KBO / 2002年
NPB / 2008年10月25日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)

メジャー昇格を果たせなかったが、1998年 - 2002年韓国プロ野球KBOで通算174本塁打と活躍。2003年から日本プロ野球NPB)のセ・リーグ球団横浜ベイスターズに2年間所属し、2005年中日ドラゴンズへ移籍すると2008年に退団するまでの日本球界6年間で通算240本塁打を記録し、本塁打王を3回・打点王を1回獲得した[1]

KBO・NPBの両方で本塁打王打点王の二冠王に輝いた唯一の選手である。

経歴編集

プロ入りとマイナー時代編集

1988年MLBドラフトモントリオール・エクスポズからドラフト5巡目で指名を受けて[2]契約し[3]、プロ入り。ボルチモア・オリオールズボストン・レッドソックスを渡り歩いた。

1996年にはレッドソックス傘下の2A(AA級)トレントン・サンダーで99試合に出場し[2]打率.312・25本塁打と好成績を残したほか[4]、27歳で迎えた1997年シーズン(マイナー10年目)にはレッドソックス傘下の3A(AAA級)ポータケット・レッドソックスにて[2]29試合出場で打率.352・9本塁打を記録したが[4]、守備面で問題を抱えていたため一度もメジャー昇格はできず[3]、1997年シーズンまで10年間にわたり10球団を渡り歩いた[5]

斗山時代編集

大韓民国(韓国)のプロ野球リーグであるKBOリーグに外国人選手制が導入された1998年に第1回外国人選手ドラフトでOBベアーズ(1999年より斗山ベアーズに球団名変更)から2位指名を受けて入団して以降[6]2002年に退団するまで5年間で通算打率.295・174本塁打・510打点の成績を残した[7][8]。中でも通算174本塁打は2016年時点でKBOリーグの歴代外国人最多本塁打記録であり[9]、横浜移籍後の2004年には『東亜日報』にてフェリックス・ホセロッテ・ジャイアンツ)とともに「韓国プロ野球史上最強の外国人選手」と紹介されたほか[10]、2016年に同紙がプロ野球ファン1,000人を対象に実施した「歴代最高の外国人選手を問うアンケート調査」でも348票を獲得して1位に輝いている[9]

登録名は「ウジュ(우즈)」で[9]、韓国時代はファンから「黒熊」のニックネームで親しまれていた[3]。1998年は来韓1年目で張鍾勲ピングレ・イーグルス1992年)が保有していた韓国記録のシーズン41本塁打を更新する歴代最多(当時)の42本塁打[注 1]を放ち[9]、本塁打王・打点王の二冠を獲得した。同年10月8日には韓国プロ野球記者協会により外国人選手としては初めて同シーズンの最優秀選手(MVP)に選出された[13]

なお李承燁サムスン・ライオンズ)とは韓国球界時代からライバル関係で[14]、李は後に日本球界でも読売ジャイアンツ(巨人)に所属して2006年にウッズとセ・リーグ本塁打王を競い合ったが[15]、後に「当時の自分の目標は本塁打王や打点王ではなく『ウッズに勝つこと』だった」と述べている[9]

2001年KBOオールスターゲームにてソロ本塁打を含め4打数4安打を記録してMVPに選出されたほか[16]、レギュラーシーズンで打点王を獲得した。またサムスンとの韓国シリーズでも4本塁打を放ち[5]、斗山ベアーズの韓国シリーズ優勝(4勝2敗・6年ぶり通算3度目)に貢献してMVPを獲得した[17]。これによりウッズは韓国球界における初の「トリプルクラウン」(シーズンMVP・オールスターMVP・韓国シリーズMVP)達成者となったが[18][19]、同年オフには年俸を不満として斗山球団に対し「来季は韓国でプレーしない」と揺さぶりをかけていた[6]。一方で当時、後の所属球団である中日ドラゴンズ山田久志監督の下で主砲候補として新外国人の補強を狙っており、当時の一軍打撃コーチ・佐々木恭介はウッズを「レオ・ゴメスに続く主砲候補」として高く評価していた[20]。佐々木は同年10月23日からウッズの獲得に向けて調査する目的で訪韓し、翌24日から開幕した斗山対サムスンの韓国シリーズを観戦したが[21]、当時ウッズは一塁手以外の守備位置に就いておらず、当時中日の一塁手にはゴメスや山崎武司大豊泰昭がいた[22]。一方で当時の中日の補強ポイントは外野手だったため[23]、山田監督は「打撃面だけなら申し分ないが獲得は保留する。本人が承諾すれば同年11月の浜松秋季キャンプで外野手として使えるか守備テストを行い、外野手として使えるなら獲得する」と方針を決めた[22]。結局、ウッズは日韓協定により11月いっぱい拘束されることとなったため最終的に中日はウッズ獲得を断念し(メキシカンリーグスコット・ブレット外野手を新外国人として獲得)[24]、ウッズも斗山に残留することとなった[6]

2002年は年俸23万1,000ドル+オプション10万ドルの報酬を受け取っていたが、同年は打率.256・25本塁打・82打点と期待外れの成績に終わり、シーズン終了後には米国に帰国して「最高の待遇をしてくれなければ韓国でプレーしない」として日本球界進出を模索するようになった[6]。これに対し斗山球団はウッズに対し電話で「年俸凍結で再契約する」と伝え、クァク・ホンギュ団長は『東亜日報』の取材に対し「去年と同じで『韓国でプレーしない』という発言はこけおどしだろうが、契約する気があるのなら保留選手締め切り期限の2002年11月30日までに返信してほしい。同日までにウッズから契約の意思が伝わってこなければ他の外国人選手を探す」と述べていた[6]。一方で同年オフには千葉ロッテマリーンズ(当時の監督:山本功児)が同年限りで退団したフランク・ボーリックの後釜となる長距離打者としてウッズの獲得に向け調査していたが[25]、結局ロッテではなく後述のように横浜へ入団し、ロッテは4番候補として[26]元横浜のロバート・ローズを獲得した[注 2][27]

横浜時代編集

2002年12月9日にスティーブ・コックスとともに横浜ベイスターズ監督山下大輔)との入団交渉が合意に達したことが発表された[7]。1年契約で[28]、当時の推定年俸は5,000万円・背番号は44[7]、年俸とは別に契約金・出来高として最大1億5,000万円程度のオプションも設定された[19]。なお同時に入団したコックスの契約内容は移籍金100万ドル・年俸275万ドル(当時の日本円で推定年俸は3億円[29]ないし3億2,000万円)[30]の3年契約とウッズよりはるかに高額な契約だったが、コックスは故障もあり満足な成績を残せずわずか1年で退団している[29]

2003年1月29日には神奈川県横浜市内の球団事務所内でコックスやマット・ホワイトサイドとともに3人で新外国人選手の入団会見に出席した[31]。シーズン開幕前は同じ一塁手の座を争うコックスが現役大リーガーだったため[32]外国人枠(当時4人)の関係上[注 3]ウッズはコックスの控えという位置付けだったが[33]、そのコックスが宜野湾春季キャンプ中に怪我で離脱すると代わって4番に定着した。開幕当初こそ韓国に比べ変化球の制球力に優れる日本の投手たちに戸惑ったが[注 4]、「球を長く見よう」と意識を改め、高木由一打撃コーチからの助言を受け右方向への流し打ちを意識したことで外角の変化球を引っ掛けることが減って好成績を残せるようになり、5月には月間MVPを獲得した[35]。最終的には100打点には届かなかったもののアレックス・ラミレスヤクルト)とともに40本塁打を放ち本塁打王を獲得した。またKBO・NPBで本塁打王を獲得した史上初の選手となったが、これを達成したのは2019年シーズン終了時点でウッズただ1人である。同年11月13日には前年から倍増となる年俸100万ドル(日本円で約1億1,000万円)の1年契約で翌シーズンの契約を締結することに合意した[36]

来日2年目の2004年シーズンは他球団から徹底的にマークされるようになったが[37]、45本塁打を放ち、タフィ・ローズ巨人)と分け合う形で2年連続の本塁打王を獲得したほか、打点も100を超え最終的に103打点をマークした。2004年10月8日に米国へ帰国する前に「来季も日本でプレーすることを希望する」とした上で「来シーズンからの2年契約・年俸大幅アップ」を要求したが、球団側は「2年目の契約を解除できる条項を盛り込んだ上でバイアウト方式による2年契約」を提示したため折り合わず、山中正竹球団専務は「現時点では2年契約はない。金銭面も外国人選手に甘すぎるところがあった」としてウッズの要求を受け入れなかったため、交渉が決裂する形となった[38]

結局は高齢・得点圏(チャンス)に弱いことなどから合意に至らず横浜を退団した。その後は中日ドラゴンズに加え、同年オフに主砲ジョージ・アリアスが退団した阪神タイガース[39]などがオファーを寄せていたが、横浜退団が決定的となった直後に『サンケイスポーツ』(産業経済新聞社)は「ウッズは前年(2003年)オフに横浜から中日へ移籍したドミンゴ・グスマン代理人が同じ[注 5]」という関係から「移籍先は中日が本命」と報道していた[40]。結局、中日球団(監督:落合博満)の白井文吾オーナー・西川順之助球団社長らは西武ライオンズとの日本シリーズで敗退した直後の2004年11月1日までにウッズの獲得競争に名乗りを上げ[41]、2004年12月2日には球団史上最高額となる年俸5億円・2年契約(総額10億円)でウッズを獲得したことを発表した[42]。中日移籍の背景としてはウッズ自身が「優勝できるチームでプレーしたい」と考えていたことに加え[43]、中日は翌2005年に球団史上初のリーグ連覇・1954年以来51年ぶり2度目の日本一を目指していた一方でレオ・ゴメス(1997年 - 2002年)が退団して以来は長距離打者不在が懸案となっていたことから、課題点の長打力を補強することを目標としており、ウッズと入団交渉を進めて獲得にこぎついた[42]。2004年12月14日には背番号が横浜時代と同じ44番に決まったことが発表された[44]

なお中日時代の2006年には契約交渉などで代理人を務めていたアメリカの法人[注 5]が「2003年1月[注 6]に代理人契約で『ウッズが受け取った年俸などの6%を報酬として受け取る。契約を解除した場合はその時点で未払いの報酬金を支払う』とする契約を締結したが、ウッズが翌2004年12月に中日入りした直後に契約を解除され、契約金から報酬を支払われていない[注 7]」として報酬6,000万円(2年契約・年俸10億円のうち6%)の支払いを求めて名古屋地方裁判所民事訴訟を提訴しており[46]、中日退団後の2009年(平成21年)3月2日には東京地方裁判所山崎勉裁判長)が被告・ウッズに対し「原告・代理人へ約1,300万円を支払うことを命じる」判決を言い渡している[注 8][47]

中日時代編集

2005年8月6日の対横浜戦(横浜スタジアム)で観客席の横浜ファンが出した「Money、Kaese!(金返せ)」の挑発的なプラカードに奮起し、来日初の1試合3本塁打を放つ。4番打者として、本塁打王こそ逃したがチーム1位の38本塁打を放ち、2年連続の100打点と初の打率3割も記録。しかし、5月5日(セ・パ交流戦開始前日)の対ヤクルト[48]藤井秀悟の頭部付近への投球(死球ではない)に激怒。右頬を殴って退場処分を受け、さらに10試合出場停止という処分を課された(この2人は、後に和解している)。ウッズの不在が出場停止期間に始まった交流戦で大きく響き、チームはウッズ離脱中の2勝8敗と大苦戦を強いられた[49]。ウッズは出場停止期間明けの5月18日に復帰したもののすぐには調子が上がらず、打線もつながりを欠き[注 9][48]、同年のチームは交流戦の低迷ぶりを「降竜戦」と揶揄されるほどで[50][48]、リーグ戦再開後には持ち直したが最終的には阪神に及ばずリーグ連覇を逃すこととなった[51]

2006年、来日当初から指摘され続けていた勝負弱さを克服[43]。開幕当初は不振も、自己最多の47本塁打を放ち、2年ぶりの本塁打王と初の打点王を獲得し、リーグ優勝に大きく貢献(球団としては、本塁打王は1996年山崎武司、打点王は1994年大豊泰昭以来で、両タイトルとも本拠地がナゴヤドームに移転後初)。古巣の横浜相手には特に強く、打率.372、本塁打12本を記録。マジック1で迎えた10月10日の対巨人戦では46号先制3ラン、47号満塁本塁打(2試合連続)を放ち7打点を挙げ、西沢道夫の持つシーズン本塁打球団記録(46本)を更新し優勝を決めた[52]。144打点も球団新記録でプロ野球史上歴代6位の記録であり、2020年現在最後の140打点達成者となっている。北海道日本ハムファイターズと対戦した日本シリーズでも全試合4番を務め、打率は.267(15打数4安打)と悪くはなかったものの本塁打0、打点は0で、日本一にはなれなかった。同年12月19日には優勝旅行先のアメリカ・ラスベガスで契約更改交渉を行い、1年契約・年俸6億円(1億円増)で合意した[53]

2007年8月16日の対阪神戦で、下柳剛から来日通算200号本塁打を放った[54]。この年よりセリーグに導入されたクライマックスシリーズでは、1stステージと2ndステージ初戦でホームランを放った[55]。日本シリーズでは日本一になった第5戦で、この試合の唯一の得点となる平田良介の犠牲フライでホームを踏み[56]、最後の打者となった小谷野栄一の二塁ゴロでウイニングボールを掴んだ。同年オフには残留で基本合意し、2008年1月4日には現状維持の年俸6億円で1年契約を結んだ[57]

2008年交流戦前から調子が上がり始めたが、交流戦後に再び不振に陥り4番を森野将彦西武から移籍した和田一浩に譲り、時にはスタメンを外れた。9月4日のヤクルト戦(明治神宮野球場)にて9回表に30号2点本塁打を放ったことで外国人選手としては日本球界初となる6年連続30本塁打以上を記録し[3]、最終的には来日以降6年連続35本塁打以上を記録したものの[1]、35本塁打・77打点とともに来日以降最低の数字に終わった[58]。また同年は得点圏打率.227と勝負弱さが際立ち、チャンスで凡退する場面が何度も見られ、高額な年俸に見合った成績とはいえなかった[1]。当時39歳と高齢なことに加え、守備面の不安・体力の衰えから中日球団は同年限りの解雇を検討していたが、クライマックスシリーズでは7試合で5本塁打[58](チームトップ)[注 10]を放ち活躍した[58]。そのため球団内部で「新外国人選手獲得よりウッズと再契約するほうがいい」という意見が噴出し[58]落合博満監督も「(ウッズは)『戦力として必要か?』と言われれば必要だろう」という見解を示してはいたが[59]、単年契約で年俸300万ドル(約2億8,200万円)をベースに残留交渉する方針を固めたものの、ウッズは「自分にもプライドがある」と減俸を拒否した[58]。結局、2008年11月4日に中日は正式に来季の契約を結ばないことを発表し[1][60]、同年12月2日付で日本野球機構(NPB)より自由契約選手として公示された[61]

当時の中日打線にはシーズン30本以上の本塁打を打てる打者がウッズ以外にいない状態だったが、落合監督以下首脳陣はフリーエージェント(FA)選手の獲得・大物新外国人の補強はせず、既存戦力もしくはドミニカ共和国を中心とした将来性のある外国人選手などで「大砲不在」の状況を克服する方針を決めていた[1]。そのウッズの穴埋めとして獲得したのがドミニカ共和国生まれで米国下部リーグ出身のトニ・ブランコ[62]、ブランコは来日1年目の2009年シーズンこそ契約金500万円・年俸3,000万円の1年契約だったが[63]、同シーズンに全試合で4番打者を務め39本塁打・110打点で本塁打王・打点王の二冠王を獲得し、ウッズの穴を埋める大活躍を果たしたことで同年オフには2年契約・年俸1億7000万円+出来高払い(2年総額約4億6,000万円)と大幅な年俸アップを勝ち取った[64]

中日退団後編集

退団が濃厚となった際には「指名打者(DH)制があるパシフィック・リーグ(パ・リーグ)球団が獲得に乗り出すことは確実。福岡ソフトバンクホークス東北楽天ゴールデンイーグルスなど複数球団による争奪戦も予想される」と報道されたが[58]、高年俸・高齢がネックとなり実際にはオファーはされなかった。当時、『中日スポーツ』の電話取材では「まだ日本でやりたいという気持ちが強い。他球団からのオファーを待つ」と語っている。また2009年5月には阪神タイガースが打撃不振の新外国人ケビン・メンチの代役候補としてウッズやフリオ・ズレータ(元ソフトバンク・ロッテ)の名を挙げていたが[65][66]、球団はクレイグ・ブラゼルと契約したためウッズ入団は実現しなかった。

2010年プロ野球シーズン開幕前(3月24日)にテレビ番組収録のため来日して退団後初めてナゴヤドームを訪れ、次代の4番であるトニ・ブランコらを激励した[37][67]

中日退団後はフロリダで不動産業を営んでおり[37]、正式な表明をしてはいないが野球選手としては完全に引退状態にある。2010年11月には『中日スポーツ』(中日新聞社)の取材に対し[68]「パ・リーグよりよく知っているセ・リーグの方が力になれる」と語り、セ・リーグ球団(特に中日)からのオファーがあれば検討する意志を示したが[69]、オファーはなく現在に至るまで復帰していない。

人物編集

韓国時代から「打撃に起伏がなく大きな短所がない。他の選手と異なり大舞台でも緊張せず普段通りの力が出せる」点に加え、野球に真摯に打ち込む誠実な態度が高く評価されていた[70]

持ち味のパワーは高校時代からのウェイトトレーニングの賜物である[35]ドレッドロックスが特徴で好物はキムチラーメンもつ鍋アレックス・カブレラとはメキシカン・リーグ時代からの旧知の仲である。

同じアフリカ系アメリカ人のシェリル夫人と一人の息子がいる。

本塁打を打った後、ホームベース付近で右手拳で胸を2回叩き、顔を上に向け右手人差し指に口づけをする。これは神に感謝するという意味を込めているといわれている。

同じアフリカ系アメリカ人タイガー・ウッズと名前・イニシャルが似ているため、横浜入団直後の2003年2月に宜野湾春季キャンプ・フリー打撃練習で特大本塁打を放った際にははタイガー・ウッズを引き合いに「ハマのウッズもタイガー・ウッズばりの飛距離だ」「202メートルのスーパーショット」と報じられたほか[32]、2003年6月10日には『読売新聞東京夕刊で「(当時19本塁打と)セ・リーグ本塁打王争いのトップを走るタイロンも『飛ばすこと』ではタイガー・ウッズに負けていない」と報じられた[35]。中日入団決定時に中日スポーツ紙で「タイガー・ウッズ選手が中日入団決定」と、名前を間違えて報じられた。誤解を招かないよう球場のアナウンス・テレビでの呼称ともに単に「ウッズ」ではなく「タイロン・ウッズ」とフルネームで呼んでいる。

2003年発売の『週刊ベースボール』の選手名鑑号によると、初めて覚えた日本語は「ミズ、クダサイ」。日本にいる年数が長くなるにつれて日本語も上達してきて、報道陣に会うと「う~す」と挨拶したり、「日本語に直すと私の名前は森ね、筋肉モリモリよ」と冗談を言ったり、ヒーローインタビューで「ソウデスネェ、アノー・・・」と日本語で答えようとすることがあった。

中日に移籍後、その長打力から「巨人の星」に中日の選手として登場してくるアームストロング・オズマに例えられることがあった。ただしオズマは左打ちで、ウッズは右打ちである。

東海ラジオ ガッツナイター』には、2005年はタイトルコールとジングル、2007年からはジングル・ガッツナイタースペシャル(デーゲーム中継など)時のタイトルコールに登場している。

スコアボードの「T.ウッズ」という表記は中日移籍後もそのまま引き継がれた(背ネームは引き継がれず「WOODS」のみ)。応援時のコールも「タイロン」が引き継がれた形だが、これは「ウッズ」がコールしづらいからということもある。

中日のウッズの応援では、応援歌に入る前に私設応援団による入場テーマが演奏され、それのリズムに合わせメガホンダンス(メガホンを振り回した後、レフトとライト方向へ振り向ける。これを2回)、Tコール(3回メガホンを打ち鳴らし、メガホンをT字型に垂直に合わせ"T!"と言う。これを8回。応援によっては最初からここまでを何度も繰り返す)をする応援がある。ちなみに「T」はウッズが中日入団の際、インタビューで「ファンには(ウッズを)何と呼んでほしい?」との問いに答えたものである。原曲はエミネムの『Without Me』。打席に立っている間は、現在の本塁打数だけ背番号と背ネームを模したボードが外野応援席に立てられる(ちなみに入場テーマは愛知県内高校野球の応援でも使われることがある)。

中日移籍後の2005年4月の試合ではユニフォームを忘れたためにブルペンキャッチャーの藤井優志のユニフォームを借りて背番号「97」で試合に臨んだこともあった。

2005年5月5日、対ヤクルト6回戦(ナゴヤドーム)、5回裏の打席で顔付近への投球に怒り、更に藤井秀悟から舌を出して挑発をされたと受け取り(藤井は投球時に舌を出す癖がある)、同投手の右頬を殴って退場処分になり、10試合の出場停止と50万円の罰金処分を受けた。これに関しては、2005年4月6日の対ヤクルト戦(神宮)で3番手投手の五十嵐亮太の投球を左手小指に受け、骨折(亀裂骨折で全治6週間と診断)させられていた中でもチームのために出場を続けていた状況下で、同じように前日の対ヤクルト戦で死球を省みない内角高めのコースを攻め続けられた配球に対して怒りを示しており、その変化の無い危険な配球も伏線に繋がったと考えられる(捕手は五十嵐の時と同じ古田敦也)。この時は二塁ベース上の立浪和義らグランドに居た選手が止めたので事なきを得た。出場停止の影響で、その時点で首位を走っていた中日が直後に始まった交流戦で大きく負け越し、この年の優勝を逃す結果となった。ウッズの抜けた穴は大きく、交流戦で連敗している間スポーツ紙には「ウッズ・ショック」の見出しが躍った。なお藤井は2008年3月5日更新の自身のブログにおいて、ウッズとのツーショット写真を掲載し和解している。

2006年6月4日の対楽天戦でフルキャストスタジアム宮城初のエンタイトルツーベースを放った。

2006年のオールスターゲーム中に、ナゴヤ球場での練習中スキンヘッドを披露した。これは残って一緒に練習していたチームメイトから驚かれた。

背番号の44は、少年時代の憧れの選手だったレジー・ジャクソンにちなんだものとされている。一説には1944年に締結されたブレトン・ウッズ協定にちなんで、という説もあるが詳細は不明。また、在籍した横浜・中日共に退団後の背番号44は小池正晃がいずれも継承している。

2006年は3・4番を組んで以降た福留孝介と共に「FW砲」と中日スポーツで名づけられた事があった。また、和田一浩が移籍してきた2008年は「WW砲」と名づけられた。

2007年に日本一になった際、MLBでは一般的だったチャンピオンリングを作って欲しいと報道陣に語ったことがある。当初は製作予定はなかったが後に球団が製作することとなった。日本では他に2005年千葉ロッテマリーンズが日本一になったのを記念して製作し、選手やスタッフに贈られたことがある。

詳細情報編集

年度別打撃成績編集

















































O
P
S
1998 OB
斗山
126 521 452 77 138 14 1 42 280 103 1 2 0 2 65 5 2 115 13 .305 .393 .619 1.013
1999 124 544 454 90 135 20 0 34 257 101 5 2 0 3 83 8 4 126 14 .297 .406 .566 .972
2000 127 565 479 91 151 22 0 39 290 111 4 1 0 3 77 5 6 132 13 .315 .414 .605 1.020
2001 118 525 436 101 127 16 2 34 249 113 12 3 0 5 83 4 1 114 11 .291 .402 .571 .973
2002 119 469 407 53 104 18 3 25 203 82 5 2 0 7 50 3 5 123 11 .256 .339 .499 .838
2003 横浜 136 551 479 73 131 17 0 40 268 87 2 3 0 4 66 2 2 132 14 .273 .361 .559 .921
2004 130 551 476 84 142 15 0 45 292 103 2 1 0 0 74 8 1 142 16 .298 .394 .613 1.007
2005 中日 135 584 506 92 155 20 0 38 289 103 3 0 0 4 67 3 7 139 24 .306 .392 .571 .963
2006 144 614 523 85 162 29 0 47 332 144 1 2 0 6 84 4 1 151 22 .310 .402 .635 1.037
2007 139 593 466 85 126 16 0 35 247 102 3 1 0 5 121 19 1 153 15 .270 .418 .530 .948
2008 140 573 490 77 135 18 0 35 258 77 0 1 0 2 78 3 3 138 18 .276 .377 .527 .904
KBO:5年 614 2624 2228 412 655 90 6 174 1279 510 27 10 0 20 358 25 18 610 62 .294 .393 .574 .967
NPB:6年 824 3466 2940 496 851 115 0 240 1686 616 11 8 0 21 490 39 15 855 109 .289 .391 .573 .964
  • 各年度の太字はリーグ最高
  • OB(OBベアーズ)は、1999年に斗山(斗山ベアーズ)に球団名を変更

タイトル編集

NPB
KBO
  • 本塁打王:1回 (1998年)
  • 打点王:2回 (1998年、2001年)

表彰編集

NPB
KBO

記録編集

NPB初記録
NPB節目の記録
NPBその他の記録

背番号編集

  • 33 (1998年 - 2002年)
  • 44 (2003年 - 2008年)

脚注編集

注釈編集

  1. ^ なお翌1999年8月2日、李承燁サムスン・ライオンズ)がシーズン99試合目の[11]ロッテ・ジャイアンツ戦(大邱市民運動場野球場)にて文東煥から43号本塁打を放ったことでウッズの記録を更新し[12]、最終的には年間54本塁打を記録している[11]
  2. ^ しかし結局ローズは開幕前のオープン戦で不調に終わったことから「野球に対する情熱がなくなった」とロッテを退団し、ロッテは開幕直前にローズに代わる新外国人として韓国・SKワイバーンズに在籍していたホセ・フェルナンデスを獲得した。
  3. ^ 2003年1月時点で横浜の外国人選手はウッズ・コックス・ホワイトサイドの3人に加え、前年から所属していたクリス・ホルトドミンゴ・グスマン(ともに投手)の計5人がいた[31]。なおドミンゴは2004年に中日へ移籍しており、2005年 - 2006年には中日で再びウッズとチームメイトになっている。
  4. ^ 本人は2007年9月に『中日新聞』(中日新聞社)の取材に対し「日本に来て一番感じたのは投手のレベルの高さだ。スピード・制球力・変化球の種類のいずれもレベルが高く、投手力は韓国より優れている」と述べている[34]
  5. ^ a b 当時の代理人会社はアメリカ・イリノイ州のプロタレント・インク社[45]
  6. ^ 代理契約締結時期は原告側訴状では「2003年1月」[46]、判決では「2002年12月」[45]
  7. ^ ウッズ側は中日との契約交渉に関して「自分で契約した」と主張して代理人への報酬支払いを拒んでいた[45]
  8. ^ ウッズの弁護士によればプロ野球選手の代理人報酬をめぐる判決は異例だった[47]
  9. ^ 広岡達朗は当時の中日打線の低迷の原因を「昨年は打線につなぐ意識が浸透していたが、今年はウッズに依存しようという意識がマイナスに働いている」と指摘していた[48]
  10. ^ このうちの1本塁打は第1ステージ第3戦(阪神戦)の0対0で迎えた9回に抑えの藤川球児から打った2ラン本塁打でこれが決勝点となった。

出典編集

[脚注の使い方]
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参考文献編集

関連項目編集

外部リンク編集