タクパ・オーセル

チベット仏教サキャ派の仏教僧。大元ウルスにおける5代目の帝師

タクパ・オーセル(Grags pa 'od zer、1246年 - 1303年)は、チベット仏教サキャ派仏教僧大元ウルスにおける5代目の帝師を務めた。

漢文史料の『元史』では乞剌思八斡節児(qǐlàsībā wòjiéér)と表記される。

概要 編集

フゥラン・テプテル』によると、タクパ・オーセルはサキャ派の分派の一つのカンサルパのタクギェルの息子であったという[1]。タクパ・オーセルは当初「パクパの宝庫の長」になったが、パクパの甥のダルマパーラ・ラクシタに随行して大元ウルスの朝廷に入った[1]。タクパ・オーセルの帝師就任時期について、『元史』本紀にはセチェン・カアン(世祖クビライ)の治世末期の至元28年(1291年[2]と、オルジェイトゥ・カアン(成宗テムル)の即位直後の至元31年(1294年[3]の2箇所に「帝師と為った」という記述がある。『仏祖歴代通載』や『フゥラン・テプテル』といった諸史料は一致してタクパ・オーセルがクビライに仕えたと伝えることから正確な帝師就任時期は至元28年(1291年)で、至元31年(1294年)はカアン(皇帝)の代替わりにともなって改めて帝師に任じられた年であると考えられる[4]

タクパ・オーセルは歴代帝師の中でも特に在任期間が長く、記録も多い人物である。『元史』釈老伝によるとオルジェイトゥ・カアンが即位した際には特に宝玉の五方仏冠を造らせて与え、元貞元年(1295年)には「大元帝師統領諸国僧尼中興釈教之印」と刻ませた双龍盤紐白玉印を与えたという[5]。また、『仏祖歴代通載』には大徳6年(1302年)に真覚国師を推薦して大万聖祐国寺に往かせたとの記載もあり、中国仏教界にも顔が広かったようである[6]。以上の点から、タクパ・オーセルは歴代帝師の中でも相当高徳の人物であったと評されている[7]

タクパ・オーセルは『元史』釈老伝によると大徳7年(1303年)に亡くなったとされ、またチベット語史料によると58歳で逝去したという[8]。タクパ・オーセルの死後は先代帝師イェシェー・リンチェンの弟のジャムヤン・リンチェン・ギェンツェンが後を継ぎ、帝師の座は再びシャル(Shar/東)派に移った。

脚注 編集

  1. ^ a b 佐藤/稲葉1964,125頁
  2. ^ 『元史』巻16世祖本紀13,「[至元二十八年十二月]辛卯……授乞剌思八斡節児為帝師、統領諸国僧尼釈教事」
  3. ^ 『元史』巻18成宗本紀1,「[至元三十一年六月]戊申……以乞剌思八斡節児為帝師、賜玉印」
  4. ^ 稲葉1965,125-126頁
  5. ^ 『元史』巻202列伝89釈老伝,「帝師八思巴者、土番薩斯迦人、族款氏也。……亦摂思連真嗣、三十一年卒。乞剌思八斡節児嗣、成宗特造宝玉五方仏冠賜之。元貞元年、又更賜双龍盤紐白玉印、文曰『大元帝師統領諸国僧尼中興釈教之印』。大徳七年卒」
  6. ^ 稲葉1965,126-127頁
  7. ^ 稲葉1965,127頁
  8. ^ 稲葉1965,126頁

参考文献 編集

  • 乙坂智子「サキャパの権力構造:チベットに対する元朝の支配力の評価をめぐって」『史峯』第3号、1989年
  • 佐藤長/稲葉正就共訳『フゥラン・テプテル チベット年代記』法蔵館、1964年
  • 中村淳「チベットとモンゴルの邂逅」『中央ユーラシアの統合:9-16世紀』岩波書店〈岩波講座世界歴史 11〉、1997年
  • 中村淳「モンゴル時代の帝師・国師に関する覚書」『内陸アジア諸言語資料の解読によるモンゴルの都市発展と交通に関する総合研究 <科学研究費補助金(基盤研究(B))研究成果報告書>』、2008年
  • 野上俊静/稲葉正就「元の帝師について」『石浜先生古稀記念東洋学論集』、1958年
  • 稲葉正就「元の帝師について -オラーン史 (Hu lan Deb gter) を史料として-」『印度學佛教學研究』第8巻第1号、日本印度学仏教学会、1960年、26-32頁、doi:10.4259/ibk.8.26ISSN 0019-4344NAID 130004028242 
  • 稲葉正就「元の帝師に関する研究:系統と年次を中心として」『大谷大學研究年報』第17号、大谷学会、1965年6月、79-156頁、NAID 120006374687 
先代
イェシェー・リンチェン
大元ウルス帝師
1294年 - 1303年
次代
ジャムヤン・リンチェン・ギェンツェン