タシュ・バートル

元朝の将軍。四川行省左丞相

タシュ・バートルモンゴル語: Taš baγatur、? - 1357年)は、大元ウルスに仕えた将軍の一人。代々四川方面の軍務を担当してきたサルジウトタイダル家の出身で、主に紅巾の乱討伐に活躍した。『元史』などの漢文史料における漢字表記は答失八都魯(dāshī bādōulŭ)など。

概要 編集

タシュ・バートルは高祖父のタイダルの時代から代々陝西・四川方面の軍務を務めてきた一族の出身で、タシュは当初万戸(万人隊長)を務めていたが、土人の反乱を鎮圧した功績で四川行省から船橋万戸に推挙された。また、その後雲南に出征して大理宣慰司都元帥に昇格となった。至正11年(1351年)、タシュはタンマチ軍3千を率いて平章のヨウジュとともに荊襄の賊を討伐することになった。9月、ヨウジュの軍は先に広陵を平定したため、タシュは自ら襄陽の攻撃を買って出た。翌至正12年(1352年)、タシュは荊門にまで進んだが、現地の賊は10万を数えるのに対し、官軍は3千余りで圧倒的に不利な状況にあった。そこでタシュ は宋廷傑の計を用いて襄陽の官吏や現地の土豪で兵役を避けていた者たちの中から兵を募集して2万の兵を得た。さらに行軍して蛮河に至ると、賊軍が要害を守って渡河を防いでいたため、間道から奇襲部隊を派遣して敵軍を挟撃し、賊軍を大いに破った。賊軍を追撃して襄陽城の南にまで至ると、そこで再び両軍は激突し、タシュは敵将を30人を補殺する大勝利を挙げた[1]

その後、賊軍は城に籠って出撃しなくなったため、タシュは自軍の布陣を整えて援軍の到着を待った。包囲がしばらく続くと、城内から2人が逃げ出てタシュの下を訪ねて城内の様子を報告し、5月1日に内応することを約束した。期日が来ると、内応した者たちは縄を垂らして官軍を1千人あまり城壁の上に引き上げ、また平行して水泳に長けた者を募って城の北に停泊する続の軍船100慰あまりの底に穴を開けさせた。そして夜が明ける頃には城壁に上がった兵の攻撃で城は陥落し、船に乗って逃れようとした賊軍もいたが、あらかじめ船底に穴を空けていたために船は全て沈没し続軍も大半が溺死した。反乱軍の将軍王権は千騎あまりを率いて西に逃れたが、タシュの配置した伏兵にあって捕らえられた。遂に襄陽が陥落すると、タシュはこの功績により資善大夫に昇格となり、あわせて弟のシリムも襄陽ダルガチに、息子のボロト・テムルも雲南行省理問に任ぜられた[2]

至正13年(1353年)には青山・荊門の諸寨を平定した。同年9月には軍を率いて均州・房州・平谷城を攻略し、その後武当山の諸塞を攻めて賊将数人を捕らえた。また、12月には賊将の趙明遠の木驢寨を攻略し、これらの功績によって四川行省右丞に昇格となった。さらに至正14年(1354年)には四川行省平章政事に昇格となり、荊襄の諸軍を率いるようになった。同年5月には配置転換があり、それまでの軍務を玉枢虎児吐華に委ねてタシュは軍を率いて汝寧に赴くことになった。同年10月、タシュはタイ・ブカとともに安豊を討伐するよう命令を受け、鄭州・鈞州・許州の三州や河陰・鞏県などを平定し、河陰・鞏県を奪還した[3]

至正15年(1355年)6月、河南行省平章政事となったタシュは許州に進み、劉福通の軍勢と野戦したが、敗れて配下の軍勢は散り散りとなってしまった。同年9月、中牟にまで逃れたタシュは残兵を収容していたが、追撃してきた反乱軍の攻撃に遭い、輜重を奪われた上に息子のボロト・テムルを捕虜とされてしまった。しかし、劉カラ・ブカが援軍に来たことで形勢は逆転し、遂にタシュは劉福通の軍勢を破ってボロト・テムルを奪還することに成功した。その後、タシュは更に兵を進めて太康において反乱軍を破り、亳州を包囲したため、劉福通と「小明王」韓林児は逃れざるをえなくなった[4]

至正16年(1356年)には朝廷よりトゴン知院が督戦のために派遣され、劉福通と激戦を行い、途中タシュは落馬までしたが、息子のボロト・テムルに助けられて遂に敵軍を破った。同年12月には太康を攻め、激戦の末数万の首級を上げ、張敏・孫韓ら9人の将軍を捕虜とし、丞相を借称した王・羅らを殺害した。太康の攻略に成功すると、タシュは息子のボロト・テムルを派遣してウカアト・カアン(順帝トゴン・テムル)に勝利の報告を行った。ウカアト・カアンはタシュの功績を讃え、タシュを河南行省左丞相に、タシュの弟のシリムを雲南行省左丞に、ボロト・テムルを四川行省左丞にそれぞれ任命し、タシュ配下の諸将にも恩賞を与えて今までの功績を労った[5]

至正17年(1357年)3月に一度朝廷に戻ったタシュは改めて四川行省左丞相に任ぜられ、同年9月より再び前線に戻ったタシュは溝城・東明・長垣の3県を平定した。10月には朝廷より知院のダルマシリが援軍として派遣され、タシュは兵を分けて雷沢・濮州を同時攻撃した。しかし、この戦いでダルマシリが劉福通に殺されてしまったことでダルマシリの軍は潰走し、タシュも戦線を維持できず退却を余儀なくされた。朝廷はタシュの怠慢によって敗れたのではないかと疑い、督戦のための使者を派遣したが、これを察知した反乱軍はタシュが反乱軍と内通している書を偽造して諸道に送り、果たして朝廷から派遣された使者は偽造書を朝廷に報告した。これを知ったタシュは一晩我が身を憂いた末に憤死してしまった[6]

サルジウト部ボロルタイ家 編集

脚注 編集

  1. ^ 『元史』巻142列伝29答失八都魯伝,「答失八都魯、曾祖紐璘・祖也速答児、有伝。答失八都魯、南加台子也。以世襲万戸鎮守羅羅宣尉司。土人作乱、答失八都魯捕獲有功、四川省挙充船橋万戸。出征雲南、陞大理宣慰司都元帥。至正十一年、特除四川行省参知政事、撥本部探馬赤軍三千、従平章咬住討賊於荊襄。九月、次安平站。時咬住兵既平江陵、答失八都魯請自攻襄陽。十二年、進次荊門。時賊十万、官軍止三千餘、遂用宋廷傑計、招募襄陽官吏及土豪避兵者、得義丁二万、編排部伍、申其約束。行至蛮河、賊守要害、兵不得渡、即令屈万戸率奇兵由間道出其後、首尾夾攻、賊大敗。追至襄陽城南、大戦、生擒其偽将三十人、腰斬之」
  2. ^ 『元史』巻142列伝29答失八都魯伝,「賊自是閉門不復出。答失八都魯乃相視形勢、内列八翼、包絡襄城、外置八営、軍峴山・楚山、以截其援;自以中軍四千拠虎頭山、以瞰城中。署従徴人李復為南漳県尹、黎可挙為宜城県尹、拊循其民、以賦軍饋。城中之民受囲日久、夜半、二人縋城叩営門、具告虚実、願為内応。答失八都魯与之定約、以五月朔日四更攻城、授之密号而去。至期、民垂縄以引官軍、先登者近千人。時賊船百餘艘在城北、陰募善水者鑿其底。天将明、城破、賊巷戦不勝、走就船、船壊、皆溺水死。偽将王権領千騎西走、遇伏兵被擒。襄陽遂平。加答失八都魯資善大夫、賜上尊及黄金束帯、以其弟識里木為襄陽達魯花赤、子孛羅帖木児為雲南行省理問」
  3. ^ 『元史』巻142列伝29答失八都魯伝,「比賊再犯荊門・安陸・沔陽、答失八都魯輒引兵敗之。尋詔益兵五千、以烏撒烏蒙元帥成都不花聴其調発。十三年、定青山・荊門諸寨。九月、率兵略均・房・平谷城、攻開武当山寨数十、獲偽将杜将軍。十二月、趨攻峡州、破偽将趙明遠木驢寨。陞四川行省右丞、賜金繋腰。十四年正月、復峡州。三月、陞四川行省平章政事、兼知行枢密院事、総荊襄諸軍。五月、命玉枢虎児吐華代答失八都魯守中興・荊門、且令答失八都魯以兵赴汝寧。十月、詔与太不花会軍討安豊。是月、復苗軍所拠鄭・鈞・許三州。十二月、復河陰・鞏県」
  4. ^ 『元史』巻142列伝29答失八都魯伝,「十五年、命答失八都魯就管領太不花一応諸王藩将兵馬、許以便宜行事。六月、拜河南行省平章政事。進次許州長葛、与劉福通野戦、為其所敗、将士奔潰。九月、至中牟、収散卒、団結屯種。賊復来劫営、掠其輜重、遂与孛羅帖木児相失。劉哈剌不花進兵来援、大破賊兵、獲孛羅帖木児帰之。復駐汴梁東南青堽。十二月、調兵進討、大敗賊於太康、遂囲亳州、偽宋主小明王遁」
  5. ^ 『元史』巻142列伝29答失八都魯伝,「十六年、加金紫光禄大夫。三月、朝廷差脱歓知院来督兵、答失八都魯父子親与劉福通対敵、自巳至酉、大戦数合、答失八都魯墜馬、孛羅帖木児扶令上馬先還、自持弓矢連発以斃追者、夜三更歩回営中。十月、移駐陳留。十一月、攻取夾河劉福通寨。十二月庚申、次高柴店、逼太康三十里。是夜二鼓、賊五百餘騎来劫、以有備亟遁。火而追之、比暁、督陣力戦、自寅至巳、四門皆陥、壮士縁城入其郛、斬首数万、擒偽将軍張敏・孫韓等九人、殺偽丞相王・羅二人。辛酉、太康悉平、遣孛羅帖木児告捷京師。帝賜労内殿、王其先臣三世、拜河南行省左丞相、仍兼知行枢密院事、守禦汴梁;識里木雲南行省左丞;孛羅帖木児四川行省左丞;将校僚属賞爵有差」
  6. ^ 『元史』巻142列伝29答失八都魯伝,「十七年三月、詔朝京師、加開府儀同三司・太尉・四川行省左丞相。九月、取溝城・東明・長垣三県。十月、詔遣知院達理麻失理来援、分兵雷沢・濮州、而達理麻失理為劉福通所殺、達達諸軍皆潰。答失八都魯力不能支、退駐石村。朝廷頗疑其玩寇失機、使者促戦相踵。賊覘知之、詐為答失八都魯通和書、遺諸道路、使者果得之以進。答失八都魯覚知、一夕憂憤死、十二月庚子也。子孛羅帖木児別有伝」

参考文献 編集

  • 牛根靖裕「モンゴル統治下の四川における駐屯軍」『立命館文学』第619号、2010年
  • 松田孝一「チャガタイ家千戸の陝西南部駐屯軍団 (上)」『国際研究論叢: 大阪国際大学紀要』第7/8合併号、1992年
  • 松田孝一「チャガタイ家千戸の陝西南部駐屯軍団 (下)」『国際研究論叢: 大阪国際大学紀要』第7/8合併号、1993年
  • 元史』巻142列伝29