タッラールTarrare1772年ころ - 1798年)は、フランスの見せ物師、兵士で、その異常な食習慣で有名である。ときにはTarareと綴られる。大量の肉を食べることができ、彼は常に空腹であった。両親は彼を養うことができず、彼は10代のときに家から追い出された。彼は窃盗と売春の一団とともにフランスを巡業し、それから巡業するいかさま師の前座芸人となった。彼はコルク、石、生きた動物、バスケットいっぱいのリンゴの実を呑み込んだ。彼はそれからこの芸をパリに持っていき、そこで大道芸人として働いた。

ペルシー男爵のタッラールの病歴に関する元の文書『Mémoire sur la polyphagie』(1805年)

第一次対仏大同盟の結成で、タッラールはフランス革命軍に加わった。軍用糧食が彼の強い食欲を満足させられないので、彼は、側溝や廃物の山から手に入るすべての食物を食べたが、しかし体調は空腹によってさらに悪化した。彼は消耗のために入院させられ、一連の医療実験の対象になって摂食能力を試験され、かずあるうちで、彼は、1回の食事15人分を食べ、生きたネコ、ヘビ、トカゲ、そして子イヌを食べ、ウナギを噛まずにまるごと呑み込んだ。異常な飲食物にもかかわらず、彼は大きさと外見は普通で、無感動気質とされるもの以外の精神病の兆候を示さなかった。

将軍アレクサンドル・デュ・ボアルネ(Alexandre de Beauharnais)は、タッラールの能力を軍用に利用することに決め、彼はフランス陸軍によって伝書使として雇われたが、目的は、彼が書類を呑み込み、敵の戦線を通過し、目的地で便所でぶじそれを回収することであった。タッラールにとって不運なことに、彼はドイツ語を話すことができず、最初の任務でプロシア軍に捕らえられ、激しく殴打され、模擬死刑(mock execution)を受け、フランス戦線に戻された。

この経験に懲らしめられて、彼は、食欲を治療するあらゆる処置を受けることに同意し、アヘンチンキ、タバコ丸薬(tobacco pills)、ブドウ酒酢、そして半熟の卵で治療された。この処置は失敗し、そして医師らは彼に管理飲食物を食べさせておくことができなかった。彼は病院をこっそり抜けだし、側溝、廃物の山、そして外の肉店で臓物肉(offal)をあさり、病院内の他の患者らの血液を飲もうとし、そして病院の死体保管所の遺体を食べようとした。よちよち歩きの赤子を食べたのではないかと疑われたあと、彼は病院から追い出された。彼は4年後に、重い結核の症状を示してヴェルサイユに現われ、長い間続く滲出性下痢につづいて、その後まもなく死亡した。

子供時代と前半生編集

タッラールは、1772年ころ、フランスの田舎、リヨンの近くで生まれた。[1][2][note 1] 彼の出生日は記録されていないし、そしてタッラールが本名なのかそれともニックネームなのかさえ知られていない。

子供のとき、タッラールは、食欲が強く、そして13歳から19歳のティーンズまでに、たったいちにちで、自分自身の体重の重さの、去勢した雄ウシの4分の一を食べることができた。[3][4]このときまでに両親は彼を養うことができず、彼を家から去らせねばならなかった。[1][5]この後数年間、彼は、窃盗と売春の放浪する一団とともに国内を巡業し、[6]食物を乞い求め、そして盗み、[1]それから巡業するいかさま師の前座芸人として雇われた。[5][7]タッラールは、コルク、石、そして生きた動物を食べることによって、そしてバスケットいっぱいのリンゴの実を次々にと呑み込むことによって群衆を引き寄せた。[1][5]彼はがつがつと食べ、そして特にヘビの肉を好んだ。[2][7]

1788年に、タッラールはパリに移り、大道芸人として働いた。[5] 彼は大体において成功したように見えるが、しかしあるとき芸がうまくゆかず、彼は重い腸閉塞を起こした。[5]群衆の人々が彼をオテル=デュー病院(Hôtel-Dieu hospital)に運び、そこで彼は強力な緩下剤で治療された。[5]彼は十分に回復し、鎖付きの懐中時計を食べることによって自分の芸を実演して見せようと申し出た。外科医M. ジロー(M. Giraud)は申し出に感銘を受けず、そして彼にもし彼がそうするならばタッラールを切り開いて品物を取り戻すと警告した。[5][7]

外見と行動編集

異常な飲食物にもかかわらず、タッラールはスリムで身長は並であった。[8]17歳で、彼は体重が100 pounds (45 kg; 7 st 2 lb)しかなかった。[1][4]彼は、髪は細く柔らかく、口は異常に大きく、歯はひどく汚れ[8]、そして両唇はほとんど見えないと言われた。[9][10]彼は食べていなかったとき、皮膚はだらりと垂れ下がるので、彼は腹の皮膚のたるみを胴の回りに巻き付けることができた。[8][9]いっぱいのときは、彼の腹部は「巨大な風船のように」("like a huge balloon")膨らんだ。[5]両頬の皮膚はしわが寄り、だらりと垂れ下がり、そして伸ばしたとき、彼は口に卵やリンゴの実を12個、入れておくことができた。[10][11]身体は触れると熱く、そして彼は大汗をかき、常に体臭は臭かった。[8][10] 彼は、「20ペース(pace)の距離以内では耐えられないほどの」("to such a degree that he could not be endured within the distance of twenty paces")悪臭がすると評された。この臭いは、彼が食べた後はさらに気づくほどに臭くなった。[9][10]両眼と両頬は、充血し、身体からは目に見える蒸気が立ちのぼり、[10]そして彼は嗜眠状態になり、その間、うるさいおくびをし、両顎は呑み込む動作をした。[10]彼は慢性の下痢で、これは「全く考えられないほどの悪臭を放つ」("fetid beyond all conception")と言われた。[10]食物の大量摂取にもかかわらず、彼は過剰に嘔吐するようにも、体重が増えるようにも見えなかった。[12]食習慣はさておき、彼の同時代人らは、彼に、「力と考えの完全な欠如」("a complete lack of force and ideas")以外の精神病あるいは異常行動の兆候を見なかった。[10][13]

タッラールの行動の原因は知られていない。当時の同様な行動の他の文書化された症例はある一方で、タッラール以外の対象者はひとりも検死解剖されなかったし、タッラールに類似している近代の文書化された症例は無い。[14]甲状腺機能亢進症は、極度の食欲、急速な体重の減少、多汗、熱不耐性そして細い毛髪を誘発することがある。ボンデソン(Bondeson)(2006年)は、タッラールは扁桃核を損傷していたと推理している。動物において扁桃核の損傷は多食症を誘発することは、知られている。[15]

兵役編集

第1次対仏大同盟の結成で、タッラールはフランス革命軍に加わった。 彼にとっては不運なことに、軍用糧食は彼の食欲を満足させるには不十分であった。[5]彼は他の兵らの課業を実行し、彼らの糧食の分け前をお返しにもらい、廃物の山をあさったが、[4]しかしこれは彼を満足させるのに十分ではなかった。[1]彼は極度の消耗の症状を示してゾールツ=オー=ラーン(Soultz-Haut-Rhin)の軍病院への入院を認められた。[1]彼は4倍の糧食を与えられたが、しかし空腹なままであった。[7]彼は残飯を求めて側溝と廃物容器をあさり、[5]他の患者らによって残された食物の残り物を食べ、[1]薬剤師室に忍び込んで湿布を食べた。[1]軍外科医は、彼の食欲を理解することができなかった。タッラールは、軍用病院に留まって生理学的実験に参加するように命令されたが、この計画は、ドクター・クルヴィル(Dr. Courville)(第9軽騎兵連隊の外科医)[note 2] とジョルジュ・ディディエ(George Didier)、ペルシー男爵(Baron Percy)、病院の外科医長による。[5]

「イヌらとネコらは彼の外見を怖がって逃げた、あたかも彼らが、彼が準備していた運命を予想したかのように」("The dogs and cats fled in terror at his aspect, as if they had anticipated the kind of fate he was preparing for them")[8]
ペルシー男爵

クルヴィルとペルシーはタッラールの食物の受容能力を試験することに決めた。15人の労働者のための食事は病院の門に準備されていた。病院スタッフは食物の前ではタッラールを抑制したけれども、このときはクルヴィルは、彼にテーブルに邪魔されないままに手を伸ばさせた。[5]タッラールは、大きなミート・パイ2つ全部、獣脂と塩を複数皿、4ガロンのミルクを食べ、それからただちに寝入った。[2][16]クルヴィルはタッラールの腹部がぴんと張り、大きな風船のように膨らむことに注目した。[5][16]また別の時、タッラールは生きたネコを贈られた。彼はネコの腹部を歯で食い破り、その血液を飲み、骨は別にしてネコをぜんぶ食べ、それから毛衣と皮膚を嘔吐した。[2][7]これに続いて、病院スタッフはタッラールに、ヘビ、トカゲ、そして子イヌを含む他の動物を供し、それらすべてが食べられた。[8]彼はまたウナギを、まずその頭を歯で砕いて、噛まずにそのまま呑み込んだ。[2]

軍伝書使としての兵役編集

彼が実験的患者として数ヶ月を過ごした後、軍当局はタッラールに現役に復するように強く迫った。[8]ドクター・クルヴィルは、タッラールの食習慣と消化系の調査を切望し続け、タッラールの異常な能力と行動は軍事的に利用することができるという提案をもって将軍アレクサンドル・デュ・ボアルネに接近した。[8]書類は木箱のなかに入れられ、それは今度はタッラールに食料として与えられた。2日後、箱は彼の排泄物から回収され、書類はまだ解読可能な状態であった。[8][16]クルヴィルは、デュ・ボアルネに、タッラールはたとえ身体検査されても見つけられるおそれなしに書類を敵地を安全に運んで、軍伝書使として役に立つことができると提案した。[8]

タッラールは、ライン方面軍(Army of the Rhine)の司令官らの集まりの前で能力を実証するようにボアルネによって求められた。[8]箱を首尾よく呑み込んだので、タッラールは報酬として、30ポンド (14 kg)の生(なま)の雄ウシの肺と肝臓でいっぱいの一輪手押し車が与えられたが、彼は集められた将軍らの前でこれをただちに食べた。[8][17]

この実証に成功したのち、タッラールはライン方面軍のスパイとして正式に雇われた。デュ・ボアルネ将軍は、伝言を内部的に運ぶ身体的能力を確信したけれども、彼は、彼の精神状態について心配し、重要な軍事書類を彼に最初は託することに気が進まなかった。[18]タッラールは、最初の任務として、プロシア人によってノイシュタット(Neustadt)で投獄されているフランスの大佐に伝言を運ぶことを命令された。[8]彼は、書類は軍事的に大いに重要であると語られたが、しかし実際はデュ・ボアルネはたんに大佐に伝言が首尾よく受け取られことを確認し、もしそのようであればプロシア軍の移動について潜在的に有用な情報の返事をするように頼む手紙を書いただけであった。[18]

タッラールは、ドイツの農夫に変装して、暗闇に紛れてプロシア戦線を横断した。[18]ドイツ語を話せないので、[9]彼はまもなく地元の居住者の注意を引き、彼らはプロシア当局に急を知らせ、そして彼はランダウ(Landau)の外で捕獲された。裸にして調べてもなにも疑わしいものは見つからなかったし、プロシアの兵士らにむち打たれたにもかかわらず、彼は自分の任務をもらすことを拒んだ。[18]地元のプロシア司令官ツォエグリ(Zoegli)将軍の前に出されて、彼はふたたび語ることを拒み、投獄された。[18]24時間の監禁のち、タッラールは軟化し、そして捕獲者らにたくらみを説明した。[18]彼は、便所に鎖でつながれ、そして最後には呑み込まれて30時間後に、[16]木箱が現われた。[18]タッラールが重要な情報であると言っていた書類がデュ・ボアルネの偽の伝言にすぎないと判明したとき、ツォエグリは腹を立て、タッラールは絞首台に連れて行かれ、首の周りに絞首索がかかった。[18](いくつかの情報源は、タッラールは、プロシア人らによってとらえられる前に取り戻し、それを含む便を食べる心の平静があったので、ツォエグリは箱を取り戻さなかったと述べる。)[4][16]直前になって、ツォエグリは軟化し、タッラールは絞首台から降ろされ、激しく打たれ、フランス戦線の近くで解放された。[18]

治療の試み編集

この事件に続いて、タッラールはそれ以上の軍務を避けようと必死になり、病院に戻り、ペルシーに、自分は食欲のあらゆる治療を試みると告げた。[18]ペルシーは彼をアヘンチンキで治療したが、成功しなかった。葡萄酒酢とタバコ丸薬でのさらなる治療は、同様に不成功であった。[16][18]これらの失敗に続いて、ペルシーは大量の半熟卵を食べさせたが、しかしこれは彼の食欲を抑えることができなかった。[19]管理された飲食物を彼に食べさせておく努力は、失敗した。彼はこっそりと病院を抜け出し、外の肉店の臓物肉をあさり、側溝、横町、廃物の山で腐肉をもとめて野良イヌと争った。[2][16][19]彼はまた、瀉血中の患者らから飲んで、また病院の死体仮置き場の死体を食べようとして、数回、病院内で捕らえられた。[2][16][19]タッラールは精神的に病気であると信じる医師らも居て、彼を精神病院に移動させるように迫ったが、しかしペルシーは、実験を続けることを切望し、そしてタッラールは軍用病院に留まった。[19]

しばらくして、生後14ヶ月の子が病院から姿を消し、そしてただちにタッラールは疑いをかけられた。ペルシーは彼を守ることができず、またよろこんで守ろうとせず、そして病院スタッフはタッラールを病院から追い払い、そしてそこに彼は決して戻らなかった。[16][19]

死亡編集

4年後、1798年に、ヴェルサイユ病院のテシェール(Tessier)というひとが、自分たちの患者がペルシーに会いたがっているとペルシーに伝えた。それはタッラールで、いまはもうベッドに寝たきりで、衰弱していた。[19]タッラールはペルシーに、自分は2年前に金(きん)のフォークを呑み込んだが、自分はそれが自分の中に宿っていて、そのためにいま衰弱していると信じていると語った。彼は、ペルシーがそれを取り除く方法を見つけられると希望した。しかしながら、ペルシーは、彼は結核が進行していることに気づいた。[19]1ヶ月後、タッラールは、連続する滲出性下痢を経験し始め、その後まもなく死亡した。[19]

遺体はすばやく腐敗した。病院の外科医らはそれを解剖することを拒んだ。[19]しかしながら、テシェールはタッラールが内部的に標準とどのように異なっているのか見つけたかったし、金のフォークが本当に宿っているのかどうか知りたかった。[19]検死解剖で、タッラールの食道は異常に広く、両顎が開いたとき外科医らは広い導管が胃のなかにはいっているのを見下ろすことができた。[20]身体は膿汁に満ちているのがわかり、[16]肝臓と胆嚢は異常に大きく、[16]そして胃は巨大で、消化性潰瘍におおわれ、[9]腹腔の大部分を占めていた。[16][19]

フォークは決して見つからなかった。[21]

注と脚注編集

  1. ^ タッラールの本名は知られていないので、出生日を決定することは不可能である。医師らは彼の1798年の死亡時の年齢は26歳と推定した。[1][2]
  2. ^ いくつかの情報源はクルヴィル(Courville)の名前をコンヴィル(Comville)とする。[16]

脚注

  1. ^ a b c d e f g h i j T. Bradley, Samuel Fothergill & William Hutchinson, ed. (1819), “Polyphagism”, London Medical and Physical Journal (London: J. Souter) 42: 203., https://books.google.com/books?id=4e0EAAAAQAAJ 
  2. ^ a b c d e f g h Gould, George M.; Pyle, Walter L. (1896), Anomalies and Curiosities of Medicine, http://www.gutenberg.org/files/747/747.txt 
  3. ^ Lord 1839, p. 111.
  4. ^ a b c d Good 1864, p. 80.
  5. ^ a b c d e f g h i j k l m Bondeson 2004, p. 276.
  6. ^ Bondeson 2006, p. 305.
  7. ^ a b c d e Millingen 1839, p. 197.
  8. ^ a b c d e f g h i j k l m Bondeson 2004, p. 277.
  9. ^ a b c d e Millingen 1839, p. 198.
  10. ^ a b c d e f g h T. Bradley, Samuel Fothergill & William Hutchinson, ed. (1819), “Polyphagism”, London Medical and Physical Journal (London: J. Souter) 42: 205., https://books.google.com/books?id=4e0EAAAAQAAJ 
  11. ^ Lord 1839, p. 113.
  12. ^ Bondeson 2004, p. 281.
  13. ^ Bondeson, Jan (October 2001), “The Cat Eaters”, Fortean Times (London: Dennis Publishing) (151), オリジナルの2009-05-21時点におけるアーカイブ。, https://web.archive.org/web/20090521072202/http://www.forteantimes.com/features/articles/260/the_cat_eaters.html 
  14. ^ Bondeson 2006, p. 312.
  15. ^ Bondeson 2006, p. 313.
  16. ^ a b c d e f g h i j k l m T. Bradley, Samuel Fothergill & William Hutchinson, ed. (1819), “Polyphagism”, London Medical and Physical Journal (London: J. Souter) 42: 204., https://books.google.com/books?id=4e0EAAAAQAAJ 
  17. ^ Lord 1839, p. 112.
  18. ^ a b c d e f g h i j k Bondeson 2004, p. 278.
  19. ^ a b c d e f g h i j k Bondeson 2004, p. 279.
  20. ^ Bondeson 2004, p. 280.
  21. ^ Bondeson 2006, p. 310.

文献目録

  • Bondeson, Jan (2006), Freaks: The Pig-Faced Lady of Manchester Square & Other Medical Marvels, Stroud: Tempus Publishing, ISBN 0-7524-3662-7 
  • Bondeson, Jan (2004), The Two-Headed Boy, Ithaca, NY: Cornell University Press, ISBN 0-8014-8958-X 
  • Good, John Mason (1864), The Study of Medicine (15 ed.), New York: Harper & Brothers 
  • Lord, Perceval B. (1839), Popular Physiology (2 ed.), London: John W. Parker / Society for Promoting Christian Knowledge 
  • Millingen, J. G. (1839), Curiosities of Medical Experience (2 ed.), London: Richard Bentley, OCLC 15518 

読書案内編集