タンクレード・ド・オートヴィル

タンクレード・ド・オートヴィル(Tancrède de Hauteville, 990年頃 - 1041年頃)は、オートヴィル(アルタヴィッラ)家の始祖。イタリア語名ではタンクレーディ・ダルタヴィッラ(Tancredi d'Altavilla)となる。

タンクレード・ド・オートヴィル
Tancrède de Hauteville
タンクレード・ド・オートヴィルの石像

出生 990年
ノルマンディークタンス
死去 1041年
配偶者 ミュリエル
  フレデゼンド
子女 本文参照
家名 オートヴィル(アルタヴィッラ)家
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生涯

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タンクレードの生涯についてはほとんど知られていない。コタンタン半島の街クタンスノルマン系の一貴族であった彼は、おそらくオートヴィル=ラ=ギシャール(Hauteville-la-Guichard)の村を所有していた。タンクレードは2人の妻によって、12人もの息子を残し、その多くが南イタリアにおいて重要な諸侯となった。

1010年頃、ミュリエル(Murielle)との結婚では以下の子をもうけた(/の後はイタリア名)。

  • 鉄腕ギヨーム/グリエルモ(Guillaume Bras-de-Fer / Guglielmo Braccio di Ferro) - プッリャ伯(在位:1042年 - 1046年)
  • ベアトリス(1010年頃 - 1101年頃) - ウー伯ロベールの息子アルマン(ノルマンディー家、モンテスカリオーゾ伯家祖)と結婚
  • ドロゴン/ドロゴーネ(Drogon / Drogone) - プッリャ伯(在位:1046年 - 1051年)
  • オンフロワ/ウンフレード(Onfroi / Umfredo) - プッリャ伯(在位:1051年 - 1057年)
  • ゴドフロワ/ゴッフレード(Godefroi / Goffredo) - ロリテッロ伯
  • セルロン/セルローネ(Serlon / Serlone) - ノルマンディーに残留、息子セルローネ2世(1072年没)は叔父ルッジェーロのもとで戦う[1]

1025年にミュリエルが死ぬと、タンクレードはフレデゼンド(Frédésende)と2度目の結婚を行い、以下の子をもうけた。

  • ロベール・ギスカール/ロベルト・イル・グイスカルド(Robert Guiscard / Roberto il Guiscardo) - プッリャ伯、のちにプッリャ公、カラブリア公、シチリア公。
  • モジェ/マルジェーロ(Mauger / Malgero)
  • ギヨーム/グリエルモ(Guillaume / Guglielmo) - プリンチパート伯
  • アルフレッド(Alfred) - ノルマンディーに残留
  • ユベール(Hubert) - ノルマンディーに残留
  • タンクレード(Tancrède) - ノルマンディーに残留
  • エマ(Emma)
  • フレデゼンド(Frédésende) - アヴェルサ伯・カプア公リッカルド1世と結婚[2]
  • ロジェ/ルッジェーロ(Roger / Ruggero I) - 大伯爵(Gran Conte)と呼ばれたシチリア伯

残る幾人かの女子の名前は知られていない。

脚注

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  1. ^ 山辺規子 『ノルマン騎士の地中海興亡史』 白水社、1996年、p.91
  2. ^ J.J.Norwich, Die Wikinger im Mittelmeer, F.A.Brockhaus, 1968. p.312