ダカール・ラリー
ダカール・ラリー(Dakar Rally)とは、フランス人冒険家ティエリー・サビーヌの発案により1978年から例年1月に開催されているラリーレイド競技大会である。アモリ・スポル・オルガニザシオン (A.S.O.) が主催。「世界一過酷なモータースポーツ競技」とも言われている。
![]() 2011年大会 | |
開始年 | 1979 |
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主催 | アモリ・スポル・オルガニザシオン (A.S.O) |
公式サイト | |
公式ウェブサイト | |
旧称パリ-ダカールラリー |
元々はフランスのパリを出発点、セネガルのダカールを終着点として主にアフリカ大陸で競技が行われ、パリ-ダカール・ラリー(Paris-Dakar Rally、日本での略称「パリダカ」)と呼ばれていた。2009年からは南米大陸に開催地を移し、2020年からはサウジアラビアでの開催となる。
大会の公式語はフランス語であり、フランス語では一般に「ラリー・ダカール(Rallye Dakar[1])」と呼び、さらに短縮して「ル・ダカール(Le Dakar)」と呼ぶこともある。日本語では英語風の語順で「ダカール・ラリー」と呼ぶことが多い。
概要編集
1979年に始まり毎年行われているラリーレイド大会であり、1981年より国際自動車連盟(FIA)と国際モーターサイクリズム連盟(FIM)の公認イベントとなっている。世界三大レース(モナコグランプリ・インディ500・ル・マン24時間レース)に比べれば開催回数は少ないが、それらに同じレベルの規模・知名度を誇っており、モータースポーツ/ラリー(ラリーレイド)を代表するイベントのひとつとなっている。
以前は、例年1月1日(前年の12月末に始まることもある)にフランスの首都・パリからスタートし、スペインのバルセロナからアフリカ大陸に渡り、セネガルの首都・ダカールまでのおよそ12000 kmを走ることで知られていたが、2009年からは南米アルゼンチンの首都ブエノスアイレスからチリを回る周回コースに、2012年からはペルーを加えた3カ国を通るルートとなった。また2019年はペルー、2020年はサウジアラビアのそれぞれ1カ国のみとなっている。
かつてのヨーロッパ-アフリカ大陸時代は、途中ほとんど集落や救護施設のないサハラ砂漠を縦断する過酷な競技なため、出場者の5割以上がリタイアする大会も珍しくなく、アフリカ大陸時代は年によっては死者が発生することもあった。競技区間には、西サハラなど政治的に不安定な国が入っていることも「世界一過酷」と呼ばれる由縁であった。それ故、「全ての完走者が勝者である」という言葉が出場者全員の共通の認識となっており、最終日のレースは「ビクトリーラン」と呼ばれている。
同様にヨーロッパ-アフリカ大陸時代は、フランスなど欧米を中心とした選手とメーカーがかつて植民地として支配していたアフリカ諸国で行っているだけに、植民地主義的だとする批判が根強く存在し、テロリストや強盗集団の標的にされる理由の一つであった。またアフリカの一般住民の住む地域を競技車両が猛スピードで駆け抜け住民と競技車の事故も発生しており、批判されるのもやむを得ないとする見方も多かった。それらの事情から、後に開催地が南米に変更された。しかし南米も治安の問題などから開催国が減少し、2020年には中東へと移った。
冠スポンサーは2007年はポルトガルでロト(日本でいえば宝くじ)を販売するユーロミルホーが務めた。過去にはテレフンケン(de:telefunken:ドイツの電機メーカー)、トタル(フランスの石油メーカー)、テレフォニカ(スペインの通信会社)などが務めている。日本企業ではパイオニアが1988年 - 1991年に冠スポンサーを務めた。舞台が南米大陸になってからの2009年はトタル、2010年と2011年はpersonal社が冠スポンサーを務めた。
歴史編集
1978年12月26日に第1回大会が開催、この時の名称は「オアシス・ラリー」となっていた。
本ラリーの創始者はティエリー・サビーヌ(Thierry Sabine)である。下記の言葉は1978年の第1回開催の時に彼が言ったとされ、ダカール・ラリー創設の精神を語る言葉として有名である。
ティエリーは運営団体としてTSO(ティエリー・サビーヌ・オーガニゼーション)を設立、主催者としてパリ・ダカを象徴する存在となる。しかし、ティエリーは1986年に競技期間中に起こったヘリコプター墜落事故により死去[3]、彼の遺志とTSOは父ジルベールによって引き継がれた。だが、そのジルベールもティエリー程のカリスマ性を持つには至らず、高齢を理由に1994年1月に引退。TSOは主催者権を売却し、1994年からはフランスのアモリー・グループである「ASO」(アモリ・スポル・オルガニザシオン)が主催している。
1982年の大会では、競技者として参加していたイギリス首相(当時)マーガレット・サッチャーの息子のマーク・サッチャーが競技中に一時行方不明となり、世界を巻き込んだ大騒ぎとなった[4]。この際、サッチャーは「息子が発見されなかったら、このような危険なレースを2度と開催させない。」と発言している。TSOによる捜索の結果、マークは数日後に無事発見・保護された[4]。この騒動でラリーが世界的に認知される事となる。
1985年大会では三菱パジェロが初優勝[5]。出場者も非常にバラエティに富んだものとなりモナコ王国のアルベール2世 (モナコ大公)とアルベール二世の姉のカロリーヌ[6]、日本からは夏木陽介らが出場した[7]。
1986年の大会では15000キロにも及ぶ過酷なルート設定と酷い砂嵐に見舞われ、大会主催者であったティエリー・サビーヌと、日本人ライダーの金子靖雄を含む計6人の死者を出した。しかしサビーヌ亡き後も86年のラリーは継続されゴールを迎えた[3]。86年をもってポルシェワークスは撤退。この年より篠塚建次郎が初参戦[8]。
1987年の大会よりティエリーサビーヌの父親で歯科医だったジルベールがラリーを主催[9]。プジョーがWRCにおけるグループBの廃止に伴って行き場がなくなった205ターボ16を投入[10]し、圧倒的な速さでラリーを席巻した[9]。それまでのパリ・ダカは耐久ラリーの色合いが非常に濃いものであったが、プジョーはWRCのサービス体制をそのままパリ・ダカに持ち込み、どんなトラブルやアクシデントに見舞われようとも、ゴールまでたどり着けば翌日のスタートには新品同様に車両を修復するという手法でパリ・ダカの長丁場を乗り切った。プジョーの手法は三菱をはじめとした他のエントラントにも大きな影響を与えることとなり[11]、この年以降、この動きに追従した三菱とプジョー(1990年からは同じPSAグループのシトロエン)による優勝争いはより激しさを増し、パリ・ダカは高速化の一途をたどることとなった。
1988年の大会では、オート部門首位だったアリ・バタネンの車両が盗難に遭うという事態が発生し、後に失格の裁定が下された[12]。この時、失格の裁定を巡って、プジョーとFIA、というより、以前から遺恨があったとされる、プジョーチーム監督ジャン・トッドとFIA会長ジャン・マリー・バレストル個人の間で深刻な対立が生じている(ジャン・マリー・バレストルの項目参照)。篠塚建次郎が2位入賞。なお、この年から日本のパイオニアがタイトルスポンサーを務めることになった。
1991年にはシトロエンチームのサポートカミオンが、モーリタニア国内でポリサリオ戦線が敷設していた地雷を踏み、コドライバーが逃げ遅れて焼死する事件が発生した。事前警告で地雷が存在するため、メインピストから外れて走らないよう指示が出ていたのにもかかわらず、主催者から指示され、ルートブックにも記載されていたメインピストを外れて走行していたのが原因とされている。
1992年、パリ・ダカの歴史上初めてゴール地がダカールから南アフリカのケープタウンに移された[13]。名前もパリ〜ル・カップに改められ、タイトルスポンサーは日本のパイオニアからフランスの石油メーカーのトタル(TOTAL)に変更になった。この年は大会のサポートカーが事故を起こし、救護に駆け付けようとしたメディカルカーに1989年のモトクラス覇者ジル・ラレイが接触し、この世を去るアクシデントが発生した。
この事件だけではなく、特に近年の同レースはテロ組織以外にも強盗も現れ、ドライバーがその被害・脅迫に遭遇することは少なくなかった。銃撃を受ける、盗賊に金品を略奪される等、事件例は枚挙に暇が無い。通行する集落の住民による投石による事故や負傷も多い。シトロエンのサポートカミオンのドライバーが何者かによって射殺されたり、三菱自動車工業のサポートカミオンが狙撃を受ける事態すら発生した。[要出典]
2008年は走行区間のアフリカ北西部モーリタニアの治安悪化のため、開幕前日になって全区間開催中止が発表された[14]。2008年の再開催の予定はなし。2007年末のフランス人旅行者殺害事件を契機にフランス政府が事実上のレース中止勧告をしていたほか、主催者にも直接テロの脅迫が届いていたという。レースが全面中止されるのは30年の歴史で初めてであり、主催者側はテロの危険が絶えないサハラ砂漠からの撤退を含めた議論を示唆した[15]。
2008年2月4日、ASOは中止になったダカール・ラリーの代わりに中央ヨーロッパを舞台にしたラリー「ダカール・シリーズ」を創設、4月20日 - 26日に開催すると発表した[16]。ハンガリーの首都・ブダペストからスタートし、途中ルーマニアを通過、同国西部のバラトン湖までのおよそ4800 kmを走る。
同年2月11日には2009年のダカール・ラリーは南アメリカのアルゼンチンとチリを舞台に行われると報じられた[17]。ブエノスアイレスが発着点となる。この地が舞台となった理由として、ダカール・ラリーの特徴である砂漠や難コースを持ちながらテロの脅威がないことが挙げられている。
2009年2月、2010年も引き続き南米で開催されることが発表された。この年、長らくトップコンテンダーとして健在だった三菱自動車が、2009年限りでワークスチーム撤退を表明した[18]。撤退が噂されていたフォルクスワーゲンは後に参戦継続を表明したが、パリダカールラリーはワークス主体のレースが継続されるか、初期のプライベーター主体のレースに回帰するか、開催地の問題も含め岐路に立たされた。
2010年1月、この年もアルゼンチン・チリを舞台にし、同年8月にコピアポ鉱山落盤事故が発生するサンホセ鉱山もルートに設定された。
2012年、2013年大会ではペルーが開催国に加わり、南米開催となって以来初の片道ルートとなった。また、2016年大会ではアルゼンチン、2019年大会ではペルー1国での開催となっている。
コース編集
コースはASOのコースディレクターによる事前の試走に基づいて決定される。経由地やルートは毎年変更され、前年と全く同じコースを走行することはほとんどない。なお、コースディレクションはティエリー・サビーヌの存命中は彼自身の手によって行われ、彼亡き後はルネ・メッジやユベール・オリオールなど、本ラリーの過去の参加経験者の手によって行われている。
日々のコースは、リエゾンと呼ばれる移動区間とSS(通常のラリーではスペシャルステージの略であるが、本ラリーにおいてはセレクティブセクターもしくはそのままエスエスと呼称される事がある)と呼ばれる競技区間とで構成される。リエゾンとSSを合計した1日の走行距離はおよそ500 kmから800 kmにも及び、過去には1,000 kmを超える競技区間が設けられた事もあった。
また、マラソンステージと呼ばれる区間が全コース中1度ないし2度設けられる。これは競技車が到着後、通常はその日のビバーク地で行う事が出来る整備を一部禁じ(具体的にはエンジン、駆動系などの部品交換が禁止される)、そのまま翌日のステージを走行するものである。2日にわたるステージをタイヤ交換などの軽整備のみで乗り切らなければならないため、ステージ内でのエンジンや駆動系の深刻なトラブルは即リタイヤに繋がる。そのため、車両を壊さないように労わりながらも速く走らなければならないという、2つの相反する要素が求められるステージとなっている。
競技期間中には1日ないし2日の休息日があり、競技車両の整備やクルーの休息に充てられる。
市街地。ブエノスアイレス、Plaza de Mayo(2011)
リエゾン。ステージとステージをつなぐ区間。サン・ミゲル・デ・トゥクマンの後(2011年)
日程・ルート編集
回 | 開催日程 | ルート | 総距離 / SS走行距離 | ST/P+SS |
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第1回 | 1978年12月26日 - 1979年1月14日 | パリ→ アルジェ→ ダカール | 10,000 km / 3,168 km | 8/10 |
第2回 | 1980年1月1日 - 23日 | 10,000 km / 4,059 km | 7/13 | |
第3回 | 1981年1月1日 - 20日 | 6,263 km / 3,357 km | 12/13 | |
第4回 | 1982年1月1日 - 20日 | 10,000 km / 5,963 km | 14/18 | |
第5回 | 1983年1月1日 - 20日 | 12,000 km / 5,210 km | 15/15 | |
第6回 | 1984年1月1日 - 20日 | 12,000 km / 5,882 km | 18/21 | |
第7回 | 1985年1月1日 - 22日 | 14,000 km / 7,470 km | 17/20 | |
第8回 | 1986年1月1日 - 22日 | 15,000 km / 7,731 km | 18/22 | |
第9回 | 1987年1月1日 - 22日 | 13,000 km / 8,315 km | 20/20 | |
第10回 | 1988年1月1日 - 22日 | 12,874 km / 6,605 km | 18/16 | |
第11回 | 1988年12月25日 - 1989年1月13日 | パリ→ チュニス→ ダカール | 10,831 km / 6,605 km | 17/16 |
第12回 | 1989年12月25日 - 1990年1月16日 | パリ→ トリポリ→ ダカール | 11,420 km / 8,564 km | 18/21 |
第13回 | 1990年12月29日 - 1991年1月17日 | 9,186 km / 6,747 km | 11/14 | |
第14回 | 1991年12月25日 - 1992年1月16日 | パリ→ スルト→ ル・カップ | 12,427 km / 6,263 km | 22/17 |
第15回 | 1993年1月1日 - 16日 | パリ→ タンジェ→ ダカール | 8,877 km / 4,476 km | 11/11 |
第16回 | 1993年12月28日 - 1994年1月16日 | パリ→ ダカール→ パリ | 13,379 km / 4,446 km | 16/20 |
第17回 | 1995年1月1日 - 15日 | グラナダ→ ダカール | 10,109 km / 5,725 km | 14/14 |
第18回 | 1995年12月30日 - 1996年1月14日 | 7,579 km / 6,179 km | 15/16 | |
第19回 | 1997年1月4日 - 19日 | ダカール→ アガデス → ダカール | 8,049 km / 6,509 km | 14/15 |
第20回 | 1998年1月1日 - 18日 | パリ→ グラナダ→ ダカール | 10,593 km / 5,219 km | 16/16 |
第21回 | 1999年1月1日 - 17日 | グラナダ→ ダカール | 9,393 km / 5,638 km | 16/16 |
第22回 | 2000年1月6日 - 23日 | ダカール→ カイロ | 7,863 km / 5,012 km | 13/13 |
第23回 | 2001年1月1日 - 21日 | パリ→ ダカール | 10,219 km / 6,180 km | 20/19 |
第24回 | 2001年12月18日 - 2002年1月13日 | アラス→ マドリード→ ダカール | 9,436 km / 6,486 km | 16/15 |
第25回 | 2003年1月1日 - 19日 | マルセイユ→ シャルム・エル・シェイク | 8,552 km / 5,216 km | 17/17 |
第26回 | 2004年1月1日 - 18日 | クレルモン=フェラン→ ダカール | 9,506.5 km / 4,635.5 km | 17/15 |
第27回 | 2004年12月31日 - 2005年1月16日 | バルセロナ→ ダカール | 9,039 km / 5,433 km | 16/14 |
第28回 | 2005年12月31日 - 2006年1月15日 | リスボン→ ダカール | 9,043 km / 4,813 km | 15/14 |
第29回 | 2007年1月6日 - 21日 | 7,915 km / 4,309 km | 15/14 | |
第30回 | 中止(2008年1月5日 - 20日予定) | 9,273 km / 5,736 km | 16/16 |
回 | 開催日程 | ルート | 総距離 / SS走行距離 | ST/P+SS |
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第31回 | 2009年1月3日 - 18日 | ブエノスアイレス→ バルパライソ→ ブエノスアイレス | 9,574 km / 5,652 km | 14/13 |
第32回 | 2010年1月1日 - 17日 | ブエノスアイレス→ アントファガスタ→ ブエノスアイレス |
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14/14 |
第33回 | 2011年1月1日 - 15日 | ブエノスアイレス→ アリカ→ ブエノスアイレス |
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13/13 |
第34回 | 2012年1月1日 - 16日 | マル・デル・プラタ→ コピアポ→ リマ |
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14/13 |
第35回 | 2013年1月5日 - 20日 | リマ→ サン・ミゲル・デ・トゥクマン→ サンティアゴ |
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14/14 |
第36回 | 2014年1月5日 - 1月18日 | ロサリオ→ サルタ→ バルパライソ |
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13/13 |
第37回 | 2015年1月4日 - 1月17日 | ブエノスアイレス→ イキケ→ ブエノスアイレス |
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13/13 |
第38回 | 2016年1月2日 - 1月16日 | ブエノスアイレス→ サルタ→ ロサリオ |
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13/13 |
第39回 | 2017年1月2日 - 1月14日 | アスンシオン→ ラパス→ ブエノスアイレス |
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12/10 |
第40回 | 2018年1月6日 - 20日 | リマ→ ラパス→ コルドバ |
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14 |
参加車両編集
2017年現在、以下の7つの部門に分かれている。
AUTO/CAR編集
3500 kg未満のクロスカントリー車のための部門。細かくクラス分けされている。
グループT1編集
改造範囲が極めて広い、事実上のプロトタイプカー。
年間1000台以上生産される車両のシャーシかモノコックボディ、または単一製造の鋼鉄製パイプフレームシャーシを使用する必要がある。エンジンはグループN、GT(2012年GT公認規定)、T2のいずれかの規定でホモロゲーション取得されているものが使用可能。また二輪駆動車は規則が非常に緩い(排気量次第で重量を200 kg - 650 kg軽くできる、タイヤを130 mm太くできる、コックピットからタイヤの内圧調整ができるなど)ため、ときに四輪駆動車以上のパフォーマンスを発揮する。これに目をつけたプジョー、ついでMiniが2WDで幾度も優勝を修めている。
- T1.1 - 4×4(四輪装着・四輪駆動)のガソリン車
- T1.2 - 4×4のディーゼル車
- T1.3 - 二輪駆動のガソリン車
- T1.4 - 二輪駆動のディーゼル車
- T1.5 - バハ1000など北米オフロードレースを主催するSCOREインターナショナルの規則に合致した車両。2020年までは後述の"グループOP"を名称としていた。
グループT2編集
四輪駆動、あるいはそれ以上の駆動輪を持つ量産車のためのクラス。年間1000台生産されている車両がホモロゲーション対象。T1とは逆に改造範囲が極めて狭く、安全装備や粉塵対策、アンダーガードなど最低限のボディ補強しか認められない。ガソリンエンジン車について過給器は禁止されている。長きに渡りトヨタ・ランドクルーザーが席巻している。
- T2.1 - ガソリンの量産車
- T2.2 - ディーゼルの量産車
- T2.C - ホモロゲ―ション期限が切れたT2車両
グループOP(オープン)編集
従来はグループT1.5と称されていたが、2021年からSCORE車両のクラスと名称が入れ替わっている。
- OP.1 - 旧称T1.5(1.S)。 "NRJチャレンジ"とも呼ばれる。グループT1~T4ベースの、ハイブリッドや天然ガスなどの特殊な動力源による車両。
- OP.2 - 旧称T1.E。電気自動車の規定。
これら以外に初参加者 (Trophée 1ère Participation) にも別に賞典が用意されている。
Camion/Track編集
1980年に創設された、3,500 kg以上の車両(=トラック)のための部門。グループT5と呼ばれる規定で、量産車のT5.1、改造車のT5.2、サポートトラックのためのT5.3の3つに分けられている。なお2020年まではそれぞれ"グループT4(T4.1、T4.2、T4.3)"と呼ばれていたが、後述のSSVがその名を譲り受けたため、T5を名乗るようになっている。
駆動形式が6×6、天然ガスやハイブリッド車などの特殊動力源車両、排気量10 L未満の車両、初参加者はそれぞれ別に賞典が用意される。
Moto/Bike編集
二輪車両の部門。全車両最大排気量450cc、気筒数は1~2に制限されている。グループ1(エリートクラス)とグループ2(ノンエリートクラス)に分かれ、総合トップ10フィニッシュまたはステージウィン経験者は黄色いゼッケンのエリートクラスに強制的にカテゴライズされる。
また車両は改造範囲の広いクラス1(スーパープロダクション)と、狭いクラス2(マラソン)に分けられており、エリートクラスはクラス1車両のみとなっている。この他女性ライダー、初参加者のための賞典も用意されている。
Quad編集
2009年にMOTO/BIKE部門から独立した全地形対応車(四輪バギー)のための部門。グループ3と呼ばれる規定で、二輪駆動・単気筒・最大750 ccのグループ3.1と、四輪駆動・2気筒・最大900 ccのグループ3.2に分けられている。部門創設から2021年現在までの全ての開催でヤマハ発動機が部門制覇を収めている。四輪同様、二輪駆動が優位なのも大きな特徴である。
初参加者、女性にも賞典が用意される。
Light Weight Vehicle編集
2017年にAUTO/CAR部門から独立した、SSV(サイド・バイ・サイド・ビークル)を主とする軽車両のための部門。2020年までは「S×S」「UTV」などの名称で、プロトタイプカーとなるグループT3.3及びT3.3オープンによって争われていた。2021年から市販SSVを改造するグループT4も加えて再編・改名し直されている。
初参加者、女性にも別の賞典が用意される。
グループT3編集
ベースのシャーシ・モノコックについて最低生産台数を必要としないプロトタイプカークラス。4×4または4×2の鋼鉄製パイプフレームシャーシであることが求められる。紫背景のゼッケンを用いる。
最低重量は850 kg。最大気筒容積は1,050cc以下で搭載位置は自由だが、前部車軸を含むエンジン、トランスミッションのアセンブリー全体は市販車両(エンジンは二輪出自も可)からのものでなければならない。
従来はグループT3.1~T3.3オープンの4クラスに細かく規定されていたが、新生グループT4の発足に伴い2021年から"グループT3"のみとなっている。
グループT4編集
連続する12ヶ月の間に500台が生産された、SSVを用いる規定。最低重量は900kg、最大気筒容積は1,050cc。白背景のゼッケンを用いる。
- T4.1 - 過給器を装着する市販車ベースのSSV
- T4.2 - 過給器なしの市販車ベースのSSV
ORIGINAL by MOTUL編集
バイク・クアッド部門のうちサポートスタッフを一切雇わず、運営からの一定のサポート以外は全て自分一人で行うアマチュア競技者のための賞典。イベント中、エンジンオイルの解析サービスを行っているモチュールが協賛している。
Dakar Classic編集
2021年に創設された部門で、2000年までにパリ=ダカールラリーに参戦した四輪・トラックが対象。勝敗は他の部門と異なり、各ステージに設定された平均速度をどれだけ維持できるかで争われる。
グループT1のプジョー・2008 DKR
グループT2のトヨタ・ランドクルーザープラド
過去の規定編集
ごく初期においては2輪車と4輪車にカテゴリー分けされている程度であり、ナンバープレートが取得可能な車両であればどのような車両であっても大抵の場合は参加することが可能であった。そのため参加車両には、街中を走るごく普通の市販車を改造したものもあり、たとえば2輪部門ではスーパーカブやベスパも参加したことがあり、また自動車メーカーのプロトタイプ・カー、軍用車両の流用などもあった。
2008年時点の大まかなクラス分けは下記のとおりで、更に燃料の種類や排気量で細分化されていた。
- プロダクション(無改造の市販車:二輪・四輪共通)
- スーパープロダクション(市販車ベースの改造車および競技専用車。バギーを含む:二輪・四輪共通)
- カミオン(トラックベース)
- エクスペリメンタル(サイドカーや三輪・四輪のATVなど)
1997年にワークスチームのプロトタイプカー(競技専用車)とガソリンターボエンジンを搭載しての参戦が禁止されたが、2001年からスーパープロダクションという形でプロトタイプカーが実質解禁となった。ガソリンNAエンジンの市販改造車のほか、ディーゼルエンジンを採用するチームが多く登場した。
歴代優勝者編集
- 2018年度までの出典:“DAK19-GuideHistorique-UK-PROD Interactif.pdf (PDF)”. Amaury Sport Organisation (2019年). 2019年1月18日閲覧。
- 第1回大会(1979年)は部門・クラス区分なし(オート・モト・カミオン全車の総合順位)。
オート(四輪)編集
回 | 参加台数 | 完走台数 | 優勝クルー | 優勝マシン | 備考 | |
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ドライバー | ナビゲーター | |||||
第1回(1979) | 80台 | アラン・ジェネスティエール | ランドローバー・レンジローバー | 総合4位 | ||
第2回(1980) | 116台 | 49台 | フレディ・コトゥリンスキー | ゲルト・ルッフェルマン | フォルクスワーゲン・イルティス (en) | |
第3回(1981) | 170台 | 60台 | ルネ・メッジ | ベルナール・ジロー | ランドローバー・レンジローバー | |
第4回(1982) | 233台 | 94台 | クロード・マロー | ベルナール・マロー | ルノー・20 | |
第5回(1983) | ジャッキー・イクス | クロード・ブラッスール | メルセデス・280GE | |||
第6回(1984) | ルネ・メッジ | ドミニク・ルモイヌ | ポルシェ・953 (en) | |||
第7回(1985) | 362台 | 101台 | パトリック・ザニローリ | ジャン・ダ・シルバ | 三菱・パジェロ | |
第8回(1986) | 282台 | ルネ・メッジ | ドミニク・ルモイヌ | ポルシェ・959 | ||
第9回(1987) | 154台 | アリ・バタネン | ベルナール・ジロー | プジョー・205T16GR | ||
第10回(1988) | 311台 | ユハ・カンクネン | ユハ・ピロネン | プジョー・205T16GR | ||
第11回(1989) | 241台 | 100台 | アリ・バタネン | ブルーノ・ベルグルンド | プジョー・405T16GR | |
第12回(1990) | 236台 | 64台 | アリ・バタネン | ブルーノ・ベルグルンド | プジョー・405T16GR | |
第13回(1991) | 184台 | アリ・バタネン | ブルーノ・ベルグルンド | シトロエン・ZXラリー | ||
第14回(1992) | 133台 | 68台 | ユベール・オリオール | フィリップ・モネ | 三菱・パジェロ | |
第15回(1993) | 65台 | ブルーノ・サビー | ドミニク・セリエス | 三菱・パジェロ | ||
第16回(1994) | 96台 | 57台 | ピエール・ラルティーグ | ミシェル・ペラン | シトロエン・ZXラリー | |
第17回(1995) | 86台 | 58台 | ピエール・ラルティーグ | ミシェル・ペラン | シトロエン・ZXラリー | |
第18回(1996) | 99台 | 61台 | ピエール・ラルティーグ | ミシェル・ペラン | シトロエン・ZXラリー | |
第19回(1997) | 282台 | 71台 | 篠塚建次郎 | アンリ・マーニュ | 三菱・パジェロ | |
第20回(1998) | 115台 | 55台 | ジャン=ピエール・フォントネ | ジル・ピカール | 三菱・パジェロエボリューション | |
第21回(1999) | 88台 | 54台 | ジャン=ルイ・シュレッサー | フィリップ・モネ | シュレッサー・ルノー | |
第22回(2000) | 135台 | 95台 | ジャン=ルイ・シュレッサー | アンリ・マーニュ | シュレッサー・ルノー | |
第23回(2001) | 133台 | 53台 | ユタ・クラインシュミット | アンドレアス・シュルツ | 三菱・パジェロ | |
第24回(2002) | 117台 | 52台 | 増岡浩 | パスカル・メモン | 三菱・パジェロ | |
第25回(2003) | 130台 | 61台 | 増岡浩 | アンドレアス・シュルツ | 三菱・パジェロエボリューション | |
第26回(2004) | 142台 | 60台 | ステファン・ペテランセル | ジャン=ポール・コトゥレ | 三菱・パジェロエボリューション | |
第27回(2005) | 165台 | 75台 | ステファン・ペテランセル | ジャン=ポール・コトゥレ | 三菱・パジェロエボリューション | |
第28回(2006) | 174台 | 67台 | リュック・アルファン | ジル・ピカール | 三菱・パジェロエボリューション | |
第29回(2007) | 181台 | 109台 | ステファン・ペテランセル | ジャン=ポール・コトゥレ | 三菱・パジェロエボリューション | |
第30回(2008) | 中止 | |||||
第31回(2009) | 178台 | 91台 | ジニール・ドゥビリエ | ディルク・フォン・ツィツェヴィッツ | フォルクスワーゲン・レーストゥアレグ2 | |
第32回(2010) | 134台 | 57台 | カルロス・サインツ | ルーカス・クルス | フォルクスワーゲン・レーストゥアレグ2 | |
第33回(2011) | 140台 | 55台 | ナサール・アルアティヤ | ティモ・ゴットシャルク | フォルクスワーゲン・レーストゥアレグ3 | |
第34回(2012) | 161台 | 78台 | ステファン・ペテランセル | ジャン=ポール・コトゥレ | ミニ・オール4レーシング | |
第35回(2013) | 153台 | 90台 | ステファン・ペテランセル | ジャン=ポール・コトゥレ | ミニ・オール4レーシング | |
第36回(2014) | 147台 | 61台 | ナニ・ロマ | ミシェル・ペラン | ミニ・オール4レーシング | |
第37回(2015) | 137台 | 68台 | ナサール・アルアティヤ | マシュー・バウメル | ミニ・オール4レーシング | |
第38回(2016) | 111台 | 67台 | ステファン・ペテランセル | ジャン=ポール・コトゥレ | プジョー・2008 DKR Maxi | |
第39回(2017) | 79台 | 57台 | ステファン・ペテランセル | ジャン=ポール・コトゥレ | プジョー・3008 DKR Maxi | |
第40回(2018) | 92台 | 43台 | カルロス・サインツ | ルーカス・クルス | プジョー・3008 DKR Maxi | |
第41回(2019) | 台 | 台 | ナサール・アルアティア | マシュー・バウメル | トヨタ・ハイラックスEVO | |
第42回(2020) | 台 | 台 | カルロス・サインツ | ルーカス・クルス | ミニ・JCWバギー |
モト(二輪)編集
回(年) | 参加台数 | 完走台数 | 優勝ライダー | 優勝マシン | 備考 |
---|---|---|---|---|---|
第1回(1979) | 90台 | シリル・ヌヴー | ヤマハ・XT500 | 総合1位 | |
第2回(1980) | 90台 | 25台 | シリル・ヌヴー | ヤマハ・XT500 | |
第3回(1981) | 106台 | 28台 | ユベール・オリオール | BMW・R80G/S (en) | |
第4回(1982) | 129台 | 33台 | シリル・ヌヴー | ホンダ・XR550 | |
第5回(1983) | 132台 | 29台 | ユベール・オリオール | BMW・R100G/S (en) | |
第6回(1984) | 114台 | 50台 | ガストン・ライエ | BMW・R100G/S | |
第7回(1985) | 135台 | 25台 | ガストン・ライエ | BMW・R100G/S | |
第8回(1986) | 131台 | 29台 | シリル・ヌヴー | ホンダ・NXR750 | |
第9回(1987) | 154台 | 26台 | シリル・ヌヴー | ホンダ・NXR750 | |
第10回(1988) | 183台 | 34台 | エディー・オリオリ | ホンダ・NXR750 | |
第11回(1989) | 155台 | 60台 | ジル・ラレイ | ホンダ・NXR750 | |
第12回(1990) | 136台 | 46台 | エディー・オリオリ | カジバ・エレファント900 | |
第13回(1991) | 113台 | 46台 | ステファン・ペテランセル | ヤマハ・YZE750T | |
第14回(1992) | 98台 | 45台 | ステファン・ペテランセル | ヤマハ・YZE750T | |
第15回(1993) | 46台 | 12台 | ステファン・ペテランセル | ヤマハ・YZE850T | |
第16回(1994) | 96台 | 47台 | エディー・オリオリ | カジバ・エレファント900 | |
第17回(1995) | 95台 | 27台 | ステファン・ペテランセル | ヤマハ・XTZ850R | |
第18回(1996) | 119台 | 50台 | エディー・オリオリ | ヤマハ・XTZ850TRX | |
第19回(1997) | 126台 | 58台 | ステファン・ペテランセル | ヤマハ・XTZ850TRX | |
第20回(1998) | 173台 | 41台 | ステファン・ペテランセル | ヤマハ・XTZ850TRX | |
第21回(1999) | 161台 | 40台 | リシャール・サンク | BMW・F650RR (en) | |
第22回(2000) | 200台 | 107台 | リシャール・サンク | BMW・F650RR | |
第23回(2001) | 133台 | 76台 | ファブリツィオ・メオーニ | KTM・LC4 660R | |
第24回(2002) | 167台 | 58台 | ファブリツィオ・メオーニ | KTM・LC8 950R | |
第25回(2003) | 162台 | 98台 | リシャール・サンク | KTM・LC4 660R | |
第26回(2004) | 195台 | 65台 | ナニ・ロマ | KTM・LC4 660R | |
第27回(2005) | 230台 | 104台 | シリル・デプレ | KTM・LC4 660R | |
第28回(2006) | 232台 | 93台 | マルク・コマ | KTM・LC4 660R | |
第29回(2007) | 231台 | 126台 | シリル・デプレ | KTM・690ラリー | |
第30回(2008) | 中止 | ||||
第31回(2009) | 217台 | 113台 | マルク・コマ | KTM・690ラリー | |
第32回(2010) | 151台 | 88台 | シリル・デプレ | KTM・690ラリー | |
第33回(2011) | 170台 | 94台 | マルク・コマ | KTM・450ラリー | |
第34回(2012) | 178台 | 97台 | シリル・デプレ | KTM・450ラリー | |
第35回(2013) | 183台 | 125台 | シリル・デプレ | KTM・450ラリー | |
第36回(2014) | 174台 | 78台 | マルク・コマ | KTM・450ラリー | |
第37回(2015) | 161台 | 79台 | マルク・コマ | KTM・450ラリー | |
第38回(2016) | 136台 | 84台 | トビー・プライス | KTM・450ラリー | |
第39回(2017) | 143台 | 96台 | サム・サンダーランド | KTM・450ラリー | |
第40回(2018) | 139台 | 85台 | マティアス・ウォークナー | KTM・450ラリー | |
第41回(2019) | 台 | 台 | トビー・プライス | KTM・450ラリー | |
第42回(2020) | 台 | 台 | リッキー・ブラベック | ホンダ・CRF450ラリー |
カミオン(トラック)編集
回 | 参加台数 | 完走台数 | 優勝クルー | 優勝マシン | 備考 | |
---|---|---|---|---|---|---|
ドライバー | ナビゲーター/メカニック | |||||
第1回(1979) | 12台 | ジャン=フランソワ・デュナック | ピンツガウアー (en) | 総合44位 | ||
第2回(1980) | 10台 | 7台 | Miloud Ataquat | ソナコム (en) | ||
第3回(1981) | 15台 | 3台 | アドリアン・ヴィレット | アルム・アクマ (en) | 四輪トラック18位 | |
第4回(1982) | 23台 | ジョルジュ・グロワン | メルセデス・U 1700L | 四輪トラック38位 | ||
第5回(1983) | ジョルジュ・グロワン | メルセデス・1936AK | 四輪トラック19位 | |||
第6回(1984) | ピエール・ラルー | メルセデス | ||||
第7回(1985) | 55台 | 20台 | カール=フリードリッヒ・カピト | メルセデス | ||
第8回(1986) | ジャコモ・ヴィスマーラ | ジュリオ・ミネーリ | メルセデス | 四輪トラック25位 | ||
第9回(1987) | 73台 | ヤン・デ・ルーイ | DAFターボツイン | 四輪トラック11位 | ||
第10回(1988) | 109台 | カレル・ロプライス | タトラ・815 | 四輪トラック19位 | ||
第11回(1989) | 実施されず | |||||
第12回(1990) | 93台 | 23台 | ジョルジオ・ヴィラ | ペルリーニ (en) | 四輪トラック16位 | |
第13回(1991) | 113台 | 46台 | ジャック・ウサ | ペルリーニ | 四輪トラック19位 | |
第14回(1992) | 101台 | 56台 | フランチェスコ・ペルリーニ | ペルリーニ | 四輪トラック16位 | |
第15回(1993) | 42台 | フランチェスコ・ペルリーニ | ペルリーニ | 四輪トラック10位 | ||
第16回(1994) | 96台 | 47台 | カレル・ロプライス | タトラ・815 | ||
第17回(1995) | 24台 | 18台 | カレル・ロプライス | タトラ・815 | ||
第18回(1996) | 70台 | 21台 | ヴィクトル・モスコフスキー | カマズ | 四輪トラック15位 | |
第19回(1997) | 55台 | 22台 | J-P.ライフ | ヨハン・ダインホッファー | 日野・レンジャー | 四輪トラック23位 |
第20回(1998) | 35台 | 8台 | カレル・ロプライス | タトラ・815 | ||
第21回(1999) | 29台 | 16台 | カレル・ロプライス | タトラ・815 | ||
第22回(2000) | 30台 | 23台 | ウラジミール・チャギン | カマズ | ||
第23回(2001) | 30台 | 12台 | カレル・ロプライス | タトラ・815 | ||
第24回(2002) | 34台 | 22台 | ウラジミール・チャギン | カマズ | ||
第25回(2003) | 51台 | 27台 | ウラジミール・チャギン | カマズ | ||
第26回(2004) | 63台 | 38台 | ウラジミール・チャギン | カマズ | ||
第27回(2005) | 69台 | 36台 | フィルダウス・カビロフ | カマズ | ||
第28回(2006) | 69台 | 33台 | ウラジミール・チャギン | カマズ | ||
第29回(2007) | 85台 | 59 台 | ハンス・ステイシー | MAN・TGA | ||
第30回(2008) | 中止 | |||||
第31回(2009) | 81台 | 54台 | フィルダウス・カビロフ | カマズ・4326 | ||
第32回(2010) | 52台 | 28台 | ウラジミール・チャギン | カマズ・4326 | ||
第33回(2011) | 67台 | 41台 | ウラジミール・チャギン | カマズ・4326 | ||
第34回(2012) | 74台 | 60台 | ジェラルド・デ・ルーイ | イヴェコ・パワースター | ||
第35回(2013) | 75台 | 60台 | エドゥアルド・ニコラエフ | カマズ・4326 | ||
第36回(2014) | 70台 | 50台 | アンドレイ・カルギノフ | カマズ・4326 | ||
第37回(2015) | 63台 | 51台 | アイラット・マルデーフ | カマズ・4326 | ||
第38回(2016) | 55台 | 44台 | ジェラルド・デ・ルーイ | イヴェコ・パワースター | ||
第39回(2017) | 50台 | 38台 | エドゥアルド・ニコラエフ | カマズ・4326 | ||
第40回(2018) | 44台 | 25台 | エドゥアルド・ニコラエフ | カマズ・4326 | ||
第41回(2019) | 台 | 台 | エドゥアルド・ニコラエフ | カマズ | ||
第42回(2020) | 台 | 台 | アンドレイ・カルギノフ | カマズ |
クアッド(四輪バギー)編集
回(年) | 参加台数 | 完走台数 | 優勝ライダー | 優勝マシン |
---|---|---|---|---|
第31回(2009) | 25台 | 13台 | ヨセフ・マチャセック | ヤマハ・ラプター (en) |
第32回(2010) | 25台 | 14台 | マルコス・パトロネッリ | ヤマハ・ラプター700 |
第33回(2011) | 30台 | 14台 | アレハンドロ・パトロネッリ | ヤマハ・ラプター700 |
第34回(2012) | 30台 | 12台 | アレハンドロ・パトロネッリ | ヤマハ・ラプター700 |
第35回(2013) | 38台 | 26台 | マルコス・パトロネッリ | ヤマハ・ラプター700 |
第36回(2014) | 40台 | 15台 | イグナシオ・カザール | ヤマハ・ラプター700 |
第37回(2015) | 45台 | 18台 | ラファウ・ソニク | ヤマハ・ラプター700 |
第38回(2016) | 45台 | 23台 | マルコス・パトロネッリ | ヤマハ・ラプター700R |
第39回(2017) | 37台 | 22台 | セルゲイ・カリャーキン | ヤマハ・ラプター700 |
第40回(2018) | 49台 | 32台 | イグナシオ・カザール | ヤマハ・ラプター700 |
第41回(2019) | 台 | 台 | ニコラス・カヴィグリアッソ | ヤマハ・ラプター700R |
第42回(2020) | 台 | 台 | イグナシオ・カザール | ヤマハ・ラプター700 |
UTV / SxS(多用途四輪車)編集
回 | 参加台数 | 完走台数 | 優勝クルー | 優勝マシン | 備考 | |
---|---|---|---|---|---|---|
ドライバー | ナビゲーター | |||||
第39回(2017) | 10台 | 5台 | レアンドロ・トーレス | ロウリバル・ロルダン | ポラリス・RZR1000XP | |
第40回(2018) | 11台 | 6台 | レイナウド・ヴァレラ | グスタボ・グージェルミン | カンナム | |
第41回(2019) | 台 | 台 | フランシスコ・ロペス・コンタルド | アルバロ・キンタニラ | カンナム | |
第42回(2020) | 台 | 台 | ケーシー・カリー | ショーン・ベリマン | カンナム |
優勝回数ランキング編集
記録は2019年大会終了時点。
個人別編集
Auto (Car)編集
- 1. ステファン・ペテランセル 7 (2004, 2005, 2007, 2012, 2013, 2016, 2017)
- 2. アリ・バタネン 4 (1987, 1989 - 1991)
- 3. ピエール・ラルティーグ 3 (1994 - 1996)
- 3. ルネ・メッジ 3 (1981, 1984, 1986)
- 3. ナサール・アルアティヤ 3 (2011, 2015, 2019)
- 3. カルロス・サインツ 3(2010, 2018, 2020)
- 7. 増岡浩 2 (2002, 2003)
- 7. ジャン=ルイ・シュレッサー 2 (1999, 2000)
Camion (Truck)編集
- 1. ウラジミール・チャギン 7 (2000, 2002 - 2004, 2006, 2010, 2011)
- 2. カレル・ロプライス 6 (1988, 1994, 1995, 1998, 1999, 2001)
- 3. セルゲイ・サヴォスティン 5 (2000, 2002 - 2004, 2006)
- 3. ラドミール・スタチュラ 5 (1988, 1994, 1995, 1998, 1999)
- 3. エドゥアルド・ニコラエフ 5(2010, 2013, 2017 - 2019)
- 6. ヨセフ・カリナ 4 (1994, 1995, 1999, 2001)
- 6. セメン・ヤクボフ 4 (2000, 2003, 2004, 2006)
※ナビゲーター/メカニックとしての優勝回数も含む
Quad編集
- 1. マルコス・パトロネッリ 3 (2010, 2013, 2016)
- 1. イグナシオ・カザール 3(2014, 2018, 2020)
- 3. アレハンドロ・パトロネッリ 2 (2011, 2012)
メーカー別編集
日本との関係編集
日本からは個人での参加、企業での参加、それぞれ様々なものがある。企業は二輪・バギーはヤマハとホンダ、四輪は三菱、トヨタ、日野、日産、いすゞの各社が健闘してきた歴史がある。
モト部門ではかつてはヤマハ、ホンダ、スズキがワークス・チームを編成して参戦していた。ヤマハはフランスの輸入代理店ソノート社 (Sonauto) でジャン=クロード・オリビエが計画の中心となり、ホンダはフランス支社(フランス・ホンダ)が運営を担当した。
第1回(1979年)と第2回(1980年)はヤマハ・XT500、第4回(1982年)はホンダ・XL550R改に乗るライダーが優勝した[19]。その後、ホンダは打倒BMWを目指してホンダ・レーシング (HRC) 製VツインマシンNXR750を投入し、1986年から1989年まで4連覇を達成[20]。ヤマハは「テネレ」→「スーパーテネレ」シリーズの継続開発が実り、1990年代に7勝を記録[21]。オリビエに見いだされたステファン・ペテランセルがモト部門個人最多の6勝を挙げた。その後、各メーカーともワークス参戦を見送る時期が続いたが、2013年からホンダがCRF450で、2015年からヤマハがWR450Fでワークス参戦を再開させている。また、2009年に創設されたクアッド部門では、ヤマハ・ラプターが連勝を続けている。
オート部門の改造車クラスでは三菱・パジェロの活躍が目覚ましく、1985年に三菱のワークス・チームが1・2位を独占した。その後も2001年から2007年までの7年連続をふくめて、参戦メーカー中最多となる12回の総合優勝を勝ち取り、「パジェロ=パリダカ」というブランドイメージを印象付けた。2009年にはディーゼル車のレーシングランサーをデビューさせたが、リーマンショック後の景気悪化に伴い、大会終了後にラリー活動からの撤退を表明した[22]。日産は2003年にワークスの日産・ピックアップを投入し[23]、篠塚建次郎、アリ・バタネン、コリン・マクレーらビッグネームを迎え入れたが、4年以内に優勝するという計画を前倒しして2005年限りでワークス撤退を決めた[24]。2012年には南アフリカトヨタ (TSAM) がオート部門のT1に「GAZOO Racing South Africa」名義でハイラックスで参戦を開始し、2019年にトヨタのダカール初優勝を達成した[25]。
オート部門の市販車無改造クラスで最も成功しているのはトヨタ車体のTLC(チームランドクルーザー)率いるランドクルーザーで、市販車無改造クラスで1996年の優勝を皮切りに1998 - 2003年“過去の戦績”. 2019年8月21日閲覧。、2005年 - 2011年[26]にかけて6連覇を2度、2014から2019年まで6連覇を達成している。ちなみに2012年と2013年にTLCの優勝を阻止したのは、スペイントヨタの運用するランドクルーザープラドであった[27][28]。
この他にもオート部門には、様々な日本のSUVが国内外のプライベーターの車両として選ばれ参加した。例えば三菱・パジェロ、日産・サファリといった世界的なSUVの他にも、トヨタ・ハイラックスサーフ、三菱・チャレンジャー、日産・テラノ、いすゞ・ビッグホーン、いすゞ・ミュー、スズキ・エスクード、スズキ・ジムニーなどがダカール・ラリーを走り、他にも初期の大会には、構造上砂漠で不利なトヨタ・スターレットやトヨタ・カリーナといった二輪駆動の乗用車で市販車無改造クラスにエントリーした強者もおり、1982年には二輪駆動のカリーナ1500で久保田勝/内田正洋組が市販車無改造クラス優勝を果たしている。また、かつてはプロトタイプ(実際に市販されていない競技専用車両)も参加可能であったため、テラノのシャシーに日産・パルサーGTi-R風のボディーを被せたものや、パジェロを国産初の四輪駆動車・PX33風に改造した車両もあった。
カミオン部門では日野自動車が菅原義正親子のチームスガワラとジョイントしてレンジャーで2019年現在まで参戦しており、27回連続完走と10L未満部門クラス10連覇、1997年には部門総合1-2-3フィニッシュを達成。またサポートカミオンとしてスーパードルフィン・プロフィア(2013年まで)→700シリーズZS(プロフィアの海外仕様、2014年から)も参戦している。過去には三菱ふそうが1997年にはザ・グレートで、1998年には純粋な競技車輌ではなくサポートカミオンとしてではあるが、スーパーグレートで参戦したことがある。
なお、日本の自動車メーカー各社では販売網やその末端の士気向上を目的に、全国各地の系列ディーラーのメカニックが参加するグループ内部の技術コンテストなどの成績優秀者などを選抜して、実際にラリーに参戦するチームのメカニックに起用することも多く行われている。
出場した日本人編集
ダカール・ラリー日本事務所の公式サイトには、2014年までの日本人参加者名および結果のリストが掲載されている[29]。
第3回(1981年)、プライベーターのチームACP[30] (Adventurous Creative Persons) が日本人として初めてパリダカに挑戦し、無謀と思われた市販車無改造2WDクラスのトヨタ・スターレットで時間外ながら完走を果たした[31]。それから数年で出場者が増えてゆき、その後はほぼ毎年10人以上の日本人が出場している。1980年代末 - 1990年代初頭にかけてはパリダカの知名度上昇とバブル景気が重なり、50人以上のプライベーターが参加したこともあった。当時は世間で名の知れたタレントや文化人の出場もマスコミの話題となった。ワークスドライバーでは三菱の篠塚建次郎(1997年)と増岡浩(2002・2003年)が四輪総合優勝を果たしている。
- 四輪(カミオン含む)
- 横田紀一郎 - チームACP代表。TV番組の取材などでアフリカの道に親しみ、日本勢のパリダカ参戦のきっかけを作る。1981年に久保田車のナビゲーターとして初参戦し、1989年まで9年連続出場。1990年・1992年はドライバーとして出場。
- 久保田勝 - 1981年にACPのドライバーとして初参戦し、翌1982年には市販車無改造・二輪駆動・バギー・マラソンの4クラス(現在は廃止)において日本人として初優勝する。1992年まで11年連続で参戦。
- 根本純 - 自動車ジャーナリスト。1981年にACPのドライバーとして初参戦。1982年・1985年・1988年 - 1997年に参戦。
- 菅原義正 - チーム「子連れ狼」を組織し、1983年から2019年まで参戦。日本人で唯一、モト・オート・カミオンの全部門に参戦。本田技研工業→三菱自動車→日野自動車。2008年1月、ギネス・ワールド・レコーズにダカール・ラリーの最多連続出場(25回)記録保持者として認定された。2019年には記録を36回にまで伸ばした後、引退を発表。
- 夏木陽介 - 俳優。1985年と1986年にドライバーとして、1987年 - 1993年に「チームシチズン夏木」の監督として参戦。
- 篠塚建次郎 - 三菱自動車→日産自動車→フリー(トーヨータイヤ開発ドライバー)。1986年から参戦、1997年に総合優勝。
- 増岡浩 - 三菱自動車。1987年からダカール・ラリーに参戦。2002年・2003年に総合優勝。
- 石原孝仁 - テレビディレクター。1987年にテレビ番組のスポンサードを受けた「なるほど!ザ・ワールド号」でドライバーとして出場。市販車改造ディーゼルクラスで優勝した。
- 片山敬済 - 元ロードレース世界選手権チャンピオン。1990年に三菱パジェロ改のPX33で完走。1991年に日産パルサーベースのオリジナルマシンで出場するもリタイヤ。
- 佐々木隆[要曖昧さ回避] - 元モトクロス国際A級ライダー。1989年は二輪で出場するもリタイア、1990年は完走、クラス3位。
- 立松和平 - 作家。ナビゲーターとして2回出場し、1990年はリタイア、1991年に完走。
- 岡本佳織 - 女優、タレント。トヨタ・フランスよりドライバーとして1991年参戦。1992年完走などの結果を残す。
- 新井敏弘 - ラリードライバー。いすゞ自動車、1997年参戦、総合32位完走。
- 池町佳生 - 二輪部門→四輪部門、日産自動車→トヨタ車体→フリーランス
- 三橋淳 - 2001,2002,2003年 二輪部門→2004年 四輪部門、日産自動車→トヨタ車体[32] 。市販車部門で4連覇を挙げている。
- 片山右京 - 元F1ドライバー。フリーランスとして2007、2008、2009年参戦。
- 菅原照仁 - 父・菅原義正のチームである日野チームスガワラでナビやチームメカニック、サポートカミオンで経験を積み、2005年からドライバーとして参戦。2010 - 2019年のカミオン部門10L未満クラスで10連覇を達成した。
- 三浦昂 - トヨタ車体の社員。TLC(チームランドクルーザー)に2007年から2016年まで三橋淳とニコラ・ジボンのナビとして参戦し、2度の市販車部門優勝を果たす。2017年からはドライバーに転向し、2018年にクラス優勝を達成した。ナビ・ドライバーの双方で部門優勝を達成したのはTLC史上三浦が初めてである。
- 寺田昌弘 - 1997年四輪初参戦。1998年T2-2クラス優勝。2008、2009年は片山右京のナビとして参戦。2011、2012年TLCのドライバーとして参戦。
- 塙郁夫 - 2020年にチームスガワラ2号車のドライバーとして日野・600で参戦[33]。
- 二輪
- 山田秀靖 - モータースポーツ・ジャーナリスト及びカメラマン。パリ・ダカール・ラリーでは初期の頃から取材活動を続けている。日本に紹介されるこのラリーの画像のほとんどは彼の撮影によるものである。パリ・ダカール・ラリーでは完走経験有り。
- 風間深志 - 冒険家。1982年に参戦し(日本人として賀曽利隆と共に初)、完走(クラス6位で総合18位)。2004年にも再挑戦するが、リタイア。
- 賀曽利隆 - 冒険家。ジャーナリスト。1982年に風間深志とともに参戦し(日本人として風間深志と共に初)、事故でリタイア。
- 柴田哲孝 - 作家・評論家。1986年・1988年に「チーム・シンバ」として参戦。
- 打田稔 - ジャーナリスト。1986年に取材。
- 山村レイコ - 1988年から合計5回参戦。1997年は二輪総合57位(女性クラス優勝)、夫の山村雅康と共に完走したことで敢闘賞も受賞。1998年は夫婦で四輪部門にいすゞ・ビッグホーンで参戦し完走。
- 渡辺明 - 元モトクロス世界選手権チャンピオン。1991年にスズキ準ワークスのガストン・ライエ・レーシングより参戦し、完走。
- 松井勉 - ジャーナリスト。1992年参加。
- 渡邊毅 - エンジニア。1992年参加。1997年には日本人プライベーター2輪チームのマネージャー兼メカニックとして参加した。
- 博田巌 - 高知県出身。ラリーレイド・モンゴルなどでの優勝経験あり。ダカール・ラリーでは、1998年20位、1999年15位。
- 柏秀樹 - ライディングスクール校長。ジャーナリスト。計4回参戦:1996年、1997年(35位完走)、1998年、2006年(62位完走)
- 木下博信 - 埼玉県草加市の元市長。同市議会議員時代の2001年に参戦し、完走した。
- 田村聡 -2002年大会出場・聴覚障害の持病がある中ダカールラリーに参戦。
- 堀田修 - 2002年・2004年・2006年に参戦し100%完走した。総合での上位入賞はないが、クラス別や部門別では常に上位成績を収める実力派。普通の会社員(SE)でありながら有給休暇を利用して参戦した。エコエネルギー(新エネルギー)推進やフォトジャーナリストとしても活躍している。
- 桐島ローランド - 写真家。2007年に参戦し完走した。
- 風間晋之介 - 風間深志の三男。2017年より「チーム風間」として参戦。
過去には大会期間中の死亡事故も起きている。1986年、二輪部門にプライベート出場した金子靖雄はフランスのセッテでリエゾン区間を走行中、酒酔い運転の対向車と衝突して亡くなった[34]。
メディア編集
日本国内におけるテレビ放送は、かつてはテレビ朝日やNHK衛星第1テレビがダイジェストを大会中毎日放送し、一部のニュース番組のスポーツコーナー内でも取り上げられた。1987年には、フジテレビの番組「なるほど!ザ・ワールド」がチームACPのトヨタ・ランドクルーザー2台をスポンサードし、参戦の模様を3回にわたって放送した(このとき、出場した2台中の1台が市販車改造ディーゼルクラスでクラス優勝した)。現在、総集編がテレビ東京系列で放送されるほか、J SPORTSが大会期間中にダイジェストを、終了後に総集編を放送している。しかし、放送頻度や認知度は同じモータースポーツであるF1などと比較して低いのが現状である。
テレビ朝日のダイジェスト番組では毎年タイアップのイメージソングが使用された。
- 1991年 浜田麻里「Nostalgia」
- 1992年 川島だりあ「Don't Look Back」
- 1993年 MANISH「声にならないほどに愛しい」
- 1994年 松田樹利亜「FOREVER DREAM」
- 1995年 宇徳敬子「あなたは 私の ENERGY」
1986年5月には松竹富士配給のドキュメンタリー映画『PARIS-DAKAR 15,000 栄光への挑戦[35]』がロードショー公開された。原田真人・阪本善尚ら撮影班は同年の大会中チームACPの取材車でダカールまで帯同した。
1987年にはシンガーソングライターの松任谷由実が応援団長を務める「ユーミン・マリクレール号」が四輪部門に出場し、松任谷もアフリカを訪れた。松任谷のアルバム『ALARM à la mode』(1986年)にはパリダカをモチーフにした曲「ホライズンを追いかけて」が収録された。
販売促進への利用編集
- サーキット系レース以上に地域や企業のイベントで競技車両を展示したり、自動車メーカーの販売促進の一環として全国のメーカー系販売会社やショールームを選手が回って報告会を行うなどの取り組みが見られる。三菱自動車系で行った「報告会」は、篠塚建次郎が参戦して以来ほぼ毎年続けられ、2009年までは増岡浩の報告会が毎年2月 - 3月に開催されるのが恒例となっていた。2人が別行動の場合は参戦車種の関係で篠塚がパジェロを扱うギャラン店系販売会社、増岡がRVRやチャレンジャーを扱っていたカープラザ系販売会社を担当した。系列の区切りのない販売会社(山口三菱自動車・徳山支店など)では、篠塚・増岡が揃って登場した。
- 1985年から1986年にかけて、日清・カップヌードルのテレビCM「ハングリアン民族」編ではパリ-ダカール・ラリーに挑む選手やマシンの映像が使用された。CMソングとして起用されたHOUND DOGの「ff (フォルティシモ)」や中村あゆみの「翼の折れたエンジェル」は当時のヒットチャートを賑わす人気曲となった。
本レースを題材にしたゲーム編集
日本では、国内の企業がラリーに参加している為に認知度が高く、本レースを題材にしたゲームがいくつか製作・販売されている。
出典・注編集
- ^ 注:フランス語では、名詞を形容(修飾)する語句が名詞の後ろに置かれるのが基本であり、英語とは順番が異なる。
- ^ a b Carles 2007, p. 3.
- ^ a b Carles 2007, 1986.
- ^ a b Carles 2007, 1982.
- ^ Racing on 418, p. 14, 三菱自動車にとってのパリダカ.
- ^ Carles 2007, 1985.
- ^ Racing on 418, p. 23, インタビュー 夏木陽介.
- ^ Racing on 418, p. 44, 三菱パリダカマイスター Part 1 篠塚建次郎.
- ^ a b Carles 2007, 1987.
- ^ Racing on 418, p. 58, 対峙したライバルたち.
- ^ Racing on 418, p. 59, 対峙したライバルたち.
- ^ Carles 2007, 1988.
- ^ Carles 2007, 1992.
- ^ 「ダカール・ラリー2008、全面中止」。2008年1月5日、スラッシュドット ジャパン。2008年1月5日閲覧。
- ^ “パリ・ダカ、サハラ砂漠を走らない? 主催者幹部が発言”. 朝日新聞. (2008年1月5日). オリジナルの2008年1月8日時点におけるアーカイブ。 2008年1月6日閲覧。
- ^ “パリダカの代わりに、中欧舞台の新ラリー4月開催”. 産経新聞. (2008年2月4日)[リンク切れ]
- ^ “パリ・ダカ、来年は南米での開催が決定”. 日刊スポーツ. (2008年2月12日) 2011年2月16日閲覧。
- ^ “三菱自動車、ダカールラリーのワークス活動終了について” (プレスリリース), 三菱自動車工業株式会社, (2009年2月4日) 2020年2月2日閲覧。
- ^ 斬新なデザインと数々の装備を備えたランドスポーツ車「ホンダ XL250Rパリ・ダカール」を発売 - 本田技研工業。
- ^ 1981-1989 Honda パリ・ダカールラリー参戦記 - 本田技研工業。
- ^ オフロードマニア 第4節 もうひとつの記号“テネレ” - ヤマハ発動機。
- ^ “ラリー界に激震!三菱がパリダカから撤退”. 日刊スポーツ. (2009年2月5日) 2017年12月21日閲覧。
- ^ “日産自動車 ワークス体制で2003年ダカールラリーに参戦”. NISMO (2002年10月4日). 2017年12月21日閲覧。
- ^ “日産、ダカール・ラリーのワークス活動を1年前倒しで休止”. webCG (二玄社). (2005年3月4日) 2017年12月21日閲覧。
- ^ “ダカールラリー:2019年大会でトヨタが初の総合優勝。ハイラックス駆るアル-アティヤが通算3勝目”. オートスポーツWeb. (2019年1月18日) 2019年1月18日閲覧。
- ^ “ラリーレポート”. 2019年8月21日閲覧。
- ^ “REPORT-STAGE14”. 2019年1月19日閲覧。
- ^ “ラリーレポート”. 2019年1月19日閲覧。
- ^ 日本人の歴代出場者 - パリダカ日本事務局。
- ^ 二十一世紀に夢を:::冒険的趣向集団 Team ACP:::
- ^ ダカールラリー 取材同行の旅No.3- GAZOO.com(2016年)。
- ^ 三橋淳の公式サイト [1]
- ^ "日野チームスガワラ"、さらなる高みを目指した新チーム体制を発表日野自動車 2019年6月3日
- ^ 原田真人『砂漠のレーサーたち パリ・ダカール最前線』、早川書房、1986年、75頁。
- ^ PARIS-DAKAR 15,000 栄光への挑戦- Movie Walker。
参考文献 編集
- Carles, Philippe Philippa Smith, Pamela White, Chris Evans, Neil Perkins訳 (2007). Stephane Muller, Kathleen Bimson. ed (英語, フランス語). Dakar 30 Years of Adventure. Silver. ISBN 978-2930383170
- 「世界の扉を開けた日本車 Part 2 三菱自動車 」『Racing on』第418巻、 12-63頁。
関連項目編集
- モータースポーツ
- ラリー
- ラリーレイド
- ヤマハ・XTZ750スーパーテネレ - ヤマハ発動機のワークス参戦史
- ボルボ・オーシャンレース - 「海のダカール・ラリー」と称されるヨットレース。ちなみにアメリカスカップは「海のF1」と称される
- ティエリー・サビーヌ