ダカール沖海戦[3](ダカールおきかいせん)は、第二次世界大戦中の1940年9月下旬、イギリス海軍を主力とする連合国軍と、フランス海軍ヴィシー政権)との間で行われた戦闘[4]。作戦名はメネス作戦[5]Operation Menace[注釈 3]ドゴール将軍が率いる自由フランス軍がイギリス艦隊の支援の下でフランス領西アフリカダカール(現・セネガル)へ上陸しようとしたがヴィシー軍英語版に拒否されて戦闘になり[7]、イギリス艦隊も戦艦レゾリューション (HMS Resolution) が潜水艦の雷撃で大破するなどして撃退された。

ダカール沖海戦

イギリス艦隊と交戦中のフランス巡洋艦
戦争第二次世界大戦
年月日1940年9月23日25日
場所西アフリカダカール
結果:ヴィシー・フランスの勝利
交戦勢力
イギリスの旗 イギリス帝国
オーストラリアの旗 オーストラリア
自由フランス軍 自由フランス軍
フランスの旗 フランス国
指導者・指揮官
ジョン・カニンガム英語版中将
シャルル・ド・ゴール自由フランス首長)[1]
ピエール・ボアソン英語版中将
マルセル・ランドリュー[注釈 1]
エミール・マリー・ラクロワ[注釈 2]
戦力
戦艦2
航空母艦1
重巡洋艦3
駆逐艦10
スループ3
輸送船6
未完成の戦艦1
軽巡洋艦2
駆逐艦4
潜水艦3
損害
戦艦1大破、重巡1中破、駆逐艦2大破、戦艦1小破 潜水艦2沈没、駆逐艦1大破、戦艦1中破

背景 編集

1940年(昭和15年)5月、ドイツ国防軍 (Wehrmacht) の侵攻により連合国軍は西部戦線で大敗した[8][9]フランス陸軍シャルル・ド・ゴール将軍はフランスからイギリスに脱出した[10]。そして6月18日の呼びかけ英語版フランス語版をおこなう[11]イギリスにおいて自由フランス亡命政権)が樹立し[注釈 4]、同時に自由フランス軍も発足する[13]

同18日19日とも)、新鋭戦艦リシュリュー (cuirassé Richelieu) は未就役の状態でブレスト軍港を出発、アフリカ大陸ダカールに向けて脱出した[14][注釈 5]。それから間もなくフランスは6月22日ドイツ独仏休戦協定を、6月24日イタリア王国休戦協定イタリア語版フランス語版を締結し、事実上降伏した[16]。フランスでは、フィリップ・ペタン元帥が率いる親独英語版ヴィシー政権が発足する[17]ナチス・ドイツによるフランス占領)。同政権は軍事的には中立を宣言し、同政権に帰属することになったヴィシー軍英語版フランス語版フランス海軍も、枢軸陣営および連合国の双方に協力しない立場となった[18]

この時点で、フランス艦隊の主力艦ダンケルク級戦艦プロヴァンス級戦艦クールベ級戦艦)は健在であった[注釈 6]。 フランスの脱落により、連合国軍(イギリス海軍、フランス海軍)とイタリア海軍が睨み合っていた地中海戦域[19]、新たな局面をむかえる(地中海攻防戦)。 イギリスはドイツがフランス艦隊を接収してドイツ海軍 (Kriegsmarine) が一挙に増強されることを憂慮した[6][注釈 7]

6月28日、自由フランス軍に合流するためフランス本土を脱出したエミール・ミュズリェ英語版フランス語版提督がジブラルタルに到着し[注釈 8]北大西洋部隊司令官英語版ジブラルタル駐留イギリス軍英語版)のダドリー・ノース英語版提督に出迎えられた。ミュズリェ提督はドゴール将軍の元に馳せ参じた最初のフランス海軍将官であり、自由フランス海軍 (Forces navales françaises libresFNFL) を率いることになった。

直後の7月初旬、イギリス軍はカタパルト作戦フランス語版を発動する。イギリス海軍の主力艦3隻(フッドヴァリアントレゾリューション)と空母アーク・ロイヤル (HMS Ark Royal, 91) を基幹とするH部隊(指揮官ジェームズ・サマヴィル提督)が7月3日から6日にかけてアルジェリアオラン港メルス・エル・ケビール)に停泊していたフランス艦隊に艦砲射撃と空襲を加えて大打撃を与え、健在艦はトゥーロンに逃げ込んだ仏戦艦ストラスブール (Strasbourg) だけになった[21]メルセルケビール海戦レバー作戦[注釈 9]

イギリス地中海艦隊の本拠地アレキサンドリア英語版では、フランス地中海艦隊英語版フランス語版が武装解除され、フランス戦艦ロレーヌ (cuirassé Lorraine) などが連合国に接収された[23]。イギリス本国のポーツマスに避難していたフランス戦艦2隻(クルーベ、パリ)も、接収された[24][25]

仏領西アフリカダカールでは、軽空母ハーミーズ (HMS Hermes, 95) と重巡2隻(オーストラリアドーセットシャー)が沖合で封鎖をおこなっていた[6]。ハーミーズから発進したソードフィッシュ艦上攻撃機第814飛行隊英語版)が空襲を敢行し、ダカールに停泊中の新鋭戦艦リシュリュー (cuirassé Richelieu) の艦尾に魚雷1本が命中して推進軸に損害を与えた[6][注釈 10]。だがハーミーズは味方の補助巡洋艦コルフ (HMS Corfu) と衝突し、修理を余儀なくされた。

一連のイギリスの攻撃により、フランスの反英感情英語版フランス語版が一挙に高まった[22]。ヴィシー政権は、イギリスと国交断絶する[27]ヴィシー・フランスの外交関係英語版)。 一方、前述のようにイギリスに亡命していたド・ゴール将軍は自由フランス政府自由フランス軍を結成し(交戦団体)、ペタン元帥が率いるフランス本国のヴィシー政権と対立していた[13]。6月28日の発足時点における自由フランス軍の兵力は3,000人に過ぎなかったが、8月7日にイギリス=自由フランス間で協定が結ばれ、増強がはじまる[7]。最初に自由フランスに帰属することになったフランス海外領土植民地)は、赤道アフリカ英語版チャドカメルーンなどであった[1]。つづいてド・ゴール将軍はセネガルの首都ダカールに食指をのばす[1]。 この頃、フランス国内の反英英語版親独英語版に影響され、ドイツが仏領ダカールを潜水艦(Uボート)の基地として使用する動きがあった。これを警戒したイギリスは艦隊を派遣してド・ゴール将軍の攻略に協力することとした。作戦方針は、まずド・ゴール将軍がピエール・ボワソン英語版フランス語版提督(ダカール総督)を説得し、それが失敗した場合は武力でダカールを占領しようとするものだった[6]

ダカールではハーミーズのソードフィッシュにより戦艦リシュリューが撃破されたが[22]、フランス軍の士気は高かった。同地にはリシュリューの他に軽巡プリモゲ (Primauguet) 、駆逐艦ル・アルディ英語版、潜水艦数隻、スループ6隻などの戦力があった。

戦闘前の動き 編集

上陸部隊(自由フランス軍歩兵2個大隊他)を乗せた輸送船6隻は自由フランス海軍ブーゲンヴィル級エラン級スループ[注釈 11]3隻(サヴォルニアン・ド・ブラザ、コマンダン・デュボック、コマンダン・ドミネ)に護衛されリヴァプールを出港し、9月13日にイギリス艦隊と合流した。ダカール沖に到着したカニンガム英語版提督が率いる艦艇は本国艦隊H部隊などから抽出されており、戦艦バーラム (HMS Barham) 、レゾリューション (HMS Resolution) 、空母アーク・ロイヤル (HMS Ark Royal, 91) 、重巡3隻(デヴォンシャ―、オーストラリア、カンバーランド)、護衛の駆逐艦部隊などであった(ダカール沖海戦、戦闘序列[6]

一方で、チャド植民地が自由フランス側についたことからヴィシー政権は植民地の支配維持のため9月9日に軽巡洋艦グロワール (Croiseur Gloire) 、モンカルム (Croiseur Montcalm) 、ジョルジュ・レイグ (Croiseur Georges Leygues) 、駆逐艦3隻(ル・マランル・ファンタスクローダシュー)をトゥーロンから出撃させた。この艦隊は9月11日に妨害を受けることなくジブラルタル海峡を通過し、9月12日にカサブランカに到着した。

このフランス艦隊はメナス作戦実行にとって障害となるため、イギリス側はフランス艦隊とダカール到着を阻止しようとした。だが、それは失敗しフランス艦隊は無事ダカールに到着した。

9月18日、3隻のフランス巡洋艦はダカールを出航しガボンへ向かったが、英連邦重巡2隻(オーストラリアカンバーランド)に発見され追跡された。機関の故障で遅れたグロワールが豪州海軍重巡オーストラリア (HMAS Australia, D84) に捕捉され、カサブランカに送られた。残り2隻はダカールへ引き返した。戦闘開始時、戦艦リシュリュー、軽巡2隻(モンカルム、ジョルジュ=レーグ)、駆逐艦数隻、潜水艦3隻(アジャクス、ペルセ、ベヴェジール)が修理中だった。

参加戦力 編集

連合国軍 編集

ヴィシー・フランス軍 編集

戦闘経過 編集

9月23日 編集

ダカール沖に到着したイギリス艦隊は、空母アーク・ロイヤルの艦上機から投降勧告のビラをまくなどの行動を行った。[注釈 12]続いて自由フランスのスループ3隻が港に近づき、軍使がボアソン中将に降伏を勧告した。ダカール側は降伏を拒否し、沿岸砲で反撃する。10時51分マニュエル砲台(28cm砲9門ほか)が砲撃を開始。イギリス艦隊も反撃して戦闘が始まった。ダカール陣営の潜水艦はメルセルケビール海戦の復讐に燃えており、修理を切り上げて出撃する[2]。まずフランス潜水艦ペルセフランス語版英語版が英巡洋艦に雷撃を試みたが、浅瀬のためすぐに発見されて対潜哨戒機と駆逐艦に撃沈された[2]。ダカール陣営の通報艦が救援に向かおうとしたが、砲撃されて引き返した[2]。イギリス側は重巡カンバーランド (HMS Cumberland, 57) 、駆逐艦イングルフィールド英語版 (HMS Inglefield, D02) 、フォアサイト (HMS Foresight, H68) が命中弾を受け中破した。この日、自由フランス軍はダカールに上陸できなかった。また、ダカール陣営もフランス駆逐艦ローダシュー (L'Audacieux) が連合軍船団攻撃を試みたが、英連邦重巡洋艦オーストラリアと駆逐艦フューリー英語版 (HMS Fury, H76) 、グレイハウンド (HMS Greyhound, H05) から捕捉攻撃され大破擱座した。

9月24日 編集

ダカールの工廠で突貫修理を終わらせたフランス潜水艦ベヴェジールフランス語版英語版が出撃した[28]。早朝、アーク・ロイヤルの艦上機が仏戦艦リシュリューを爆撃したが、対空砲火に阻まれて至近弾のみで命中弾はなく3機を対空砲火で失っただけであった。イギリス戦艦2隻(バーラム、レゾリューション)がフランス戦艦リシュリューやマニュエル砲台への砲撃を開始し、フランス軍も応戦。10時10分、フランスの駆逐艦ル・アルディが煙幕を張ったため、イギリス艦隊は一時後退した。この頃、フランス潜水艦アジャクスフランス語版英語版は対潜哨戒機の爆雷を浴びながら英艦隊へ接近しようとしたが、イギリス駆逐艦フォーチュン (HMS Fortune, H70) の爆雷攻撃で沈没した[28]。潜水艦の乗組員はフォーチュンに救助された[28]。午後交戦が再開されたが、この日も自由フランス軍は上陸はできなかった。また蓄電池が切れたベヴェジールも英艦隊への攻撃を諦めてダカールに戻った[28]。ランスロット大尉(ベヴェジール艦長)とマルザン大佐(リシュリュー艦長)は英艦隊の航路を検討し、その予想ルート上で待ち伏せすることにした[29]

9月25日 編集

ベヴェジールは英艦隊の予想針路上で待ち伏せするため、ダカールを出撃した[29]。ボアソン中将が街頭を疾駆しダカール防衛を呼びかける一方、アーク・ロイヤルの艦載機が攻撃を行い、続いて8時30分にイギリス戦艦が砲撃を開始した。英艦隊は、フランス軍沿岸砲台やリシュリューとの砲撃戦をおこなっており、フランス潜水艦を発見できなかった[29]。ベヴェジールが魚雷4本を発射し、英戦艦レゾリューションの左舷艦橋直下に魚雷1本が命中する[29]R級戦艦は辛うじて沈没を免れ、フリータウンに引き揚げていった[30]

戦闘が長引いたため、イギリス内閣はヴィシー・フランスとの全面戦争に発展しないように上陸作戦の中止を命じた。これにより結局上陸はなされずにダカール攻略戦は終了した。

その後 編集

ド・ゴール、イギリスの戦略目標はいずれも達成されず、かえってヴィシー政権のイギリス不信を強めることになった。この後もフランス海軍、アフリカのフランス植民地軍は中立を維持し、2年後のアメリカ軍による北アフリカ上陸作戦(トーチ作戦)を迎える事となる。

トーチ作戦発動時、アメリカ軍はヴィシー政権に配慮してド・ゴール将軍の自由フランス軍を参加させなかったが、北アフリカのヴィシー・フランス軍は海軍総司令官ダルラン提督の指示で、軽微な抵抗を見せたのみで連合国軍と講和した。以後、リシュリュー以下のダカール在泊艦艇は自由フランス海軍に合流した[31]

出典 編集

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  1. ^ ダカール駐留海軍司令官[2]
  2. ^ フランス小数艦隊司令官[2]
  3. ^ “威嚇”という意味[6]
  4. ^ アメリカ合衆国ソビエト連邦など世界各国はヴィシー政府を正統なフランスと承認し、イギリスだけが拒絶していた[12]
  5. ^ 姉妹艦ジャン・バール (cuirassé Jean Bart) は未完成状態でサン=ナゼールを脱出、カサブランカに移動した[15]
  6. ^ 第一一、敗戰フランスの海軍力[19] 戰前のフランスは主力艦七隻トン數にして一六三,九四五トンを保有してゐた。/ 内譯はクールベ英語版パリ英語版プロヴアンスブルターニユロレーヌ二二,一八九トン型五隻及びダンケルクストラスブール二六,五〇〇トン型二隻である。その外に建造中のものに三五,〇〇〇トン型リシユリユー以下ジャンバールクレマンソーガスコーグの四隻があつた。甲級巡洋艦は七隻、トン數總計七〇,〇〇〇トン、乙級巡洋艦は既成のもの十一隻九,七二九トン、建造中のもの三隻二四,〇〇〇トンを有してゐた。
     その他に航空母艦一隻、水上機母艦一隻建造中の航空母艦二隻を有してゐた外、これ等の軍艦に相應した驅逐艦、潜水艦等の艦艇を有してゐた事は勿論である。要するに英、米、日に次ぐ世界第四位の海軍力を有してゐたのである。
     イタリー海軍力はフランスと大體伯仲してゐたと見ていい。イギリスの地中海艦隊の勢力はイタリー海軍に匹敵するものであつたから地中海に於ては英、佛、伊の三艦隊が均等の勢力を以て鼎立してゐたのであつた。この均等の勢力があつたからこそ、イギリスは地中海のイタリー艦隊を牽制して地中海の制海權を把握し續けたのである。イタリーのエチオピア作戰當時英語版その空軍がイギリス地中海艦隊の頭上を亂舞して、若しイギリスがイタリーの行動に差出がましい態度を執れば、容赦はせぬぞといふ示威を試みたので、遂にイギリス艦隊も恐れをなして逃避し、積極的にエチオピアの作戰の妨碍をなし得なかつたのは、未だ記憶に新らしい事實である。ローマ帝國の再現を夢みてゐる若きファツシヨイタリー参戰後英語版も地中海からイギリス艦隊を追出さねば驥足を伸す事が出來ぬ。そこでイタリーは度々イギリス艦隊に向つて戰を挑んだのであるが、容易にイギリスの牙城を抜き得ず、依然として地中海の制海權はイギリスの手中に存してゐる實状である。
     マジノ線の突破によつてフランスが降伏した當時、フランス艦隊はイギリス艦隊と共同の行動をとり、殆ど無疵に近くまだまだ實力を保有してゐた。
     一國が敗戰の苦敗を嘗めさせられたと國情が騒然として収拾し得なくなるのは、歴史が物語つてゐるところであるが、フランスとてもこの鐵則からのがれることは出來ず、飽迄抗戰を叫ぶ政府が倒れて、新に親獨和平の政府が出來ても、平時と違つて新政府の威令は國内の隅々まで徹底するのは難中の難事であつた。
     殊に完全な實力を持ち、抗戰の意氣に燃えてゐる海軍を納得せしむることは更に困難があつた。こゝにフランス艦隊がどこへ行くかという問題が起きたのは當然である。
  7. ^ 第一二、佛海軍歸属を繞る爭奪戰[20] フランス艦隊の一部には新政府の命を奉じて本國に歸るべしとなすもの、反對に他方には仇敵ドイツに兜を脱ぐやうな政府は承認し得ない。飽までもイギリス艦隊と共に行動を續けてドイツを屈服せしむべきだとの強硬態度を執るものと二つに分裂するに至つた。
     以上のやうに艦隊内部が混亂を來し、議論が二分したのは敗戰といふ打撃が餘りにも大きかつたから已むを得ぬ事であらう。軍隊は指揮系統が一本になつて居てこそ強大な威力を發揮し得るであるが、事こゝに至つては烏合の衆に近くなり、實力の十分の一も發揮することは不可能となる。
     たゞこゝに問題となる事は獨英何れの側から考へてもこれが敵方に完全に接収された場合には、舊に倍した威力を發揮することが豫想される事だ。海軍力に劣るドイツは是が非でもフランス艦隊を無疵のまゝ手に入れたい。少くともイギリスの手に渡したくないのはあたりまへの事である。将棋でいふなら大駒を敵に渡すやうなものだ。飛車がないところへもう一つ角を渡せば敵は飛車角四枚を持つことになり、名人上手でも指し難くなる。
     イギリスとても思ひは同じでドイツへフランス艦隊を委ねてしまへば、鬼に金棒の強さになる事は明かであるから、ドイツに渡す位ならむしろフランス艦隊を潰してしまふ方が賢明の策だ、背に腹はかへられない。こゝにおいて昨日までは味方同士だつたフランス艦隊に對し、矛をさかさまにする非友誼、非人情を敢てしたのはオラン沖及びダカールにおけるイギリス艦隊のフランス艦隊に對する攻撃である。
  8. ^ ジブラルタルはイギリス海軍のH部隊の根拠地であった。
  9. ^ 第一三、佛艦隊英の手中に落つ[22] 獨佛停戰協定成立の直後七月三日午前主力艦三隻、航空母艦一隻、驅逐艦三隻其他よりなるイギリス艦隊は北阿アルゼリア領のオラン港に停泊中のダンケルク、ストラスブール兩主力艦以下のフランス艦隊に對して降伏又は自沈を勸告した。回答の期間は六時間であつたが、之に先立ちイギリス側は港口に磁氣機雷を敷設し、逃亡を阻止して置いた。拒絶の回答に接したイギリス艦隊は午後五時四十分直ちに砲撃を開始した。チャーチル英首相は四日の下院で「ドイツの手に渡ることを阻止する強硬手段である」と言明してゐる。ドイツ側の宣傳では回答期限を待たずに發砲したと報じその非を難詰してゐる。
     フランス艦隊は港内の足場の惡いところに碇泊してゐた上、イギリスの砲戰開始當時は汽罐の火を落してゐたので、應戰の遑のない中に大打撃を蒙つてしまつたのである。闇打的攻撃の犠牲となつたものは主力艦三隻、航空母艦一隻、驅逐艦二隻、その他數隻である。
     ヴイシー政府はイギリスの不法行爲を知るや否やアレキサンドリア軍港にあつて英艦との共同作戰に從事中だつた主力艦一隻、巡洋艦四隻、八吋砲装備艦三隻外小艦艇數隻に對し「即時アレキサンドリアを脱出して公海に出でよ、場合によつては砲撃しても差支なし」」との命令を發したが、優力なイギリス艦隊に立向ふを得ず、拿捕のうへ武装を解除されてしまつた。ダカール港には就役後間もない新鋭の主力艦リシュリュー號が碇泊してゐたが、七月八日英艦並に飛行機の魚雷攻撃を受け大破し艦尾を沈下してしまつた。カサブランカ港でも未完成の主力艦二隻が捕拿された。その他本國にあつて接収されたものは主力艦二隻、輕巡洋艦二隻、潜水艦、驅逐艦等多數に上つた。
     右のやうにフランスの主力艦は八隻の中或は撃沈され、或は武装解除され、或は接収されて滿足に殘つてゐるのは僅かにストラスブール一隻といふ惨めな有様である。
     今までの同盟國からかういふ惨酷な仕打を受けてはフランスとても黙してはゐられない。對英宣戰布告の説さへ出た程であつたが完全にフランスがイギリスを敵に廻し、ドイツと共にヨーロッパの新秩序を建設するに決したのはドイツ外交の成果が現れた極く最近の事である。今後フランスはアフリカ西岸の諸基地を提供し、殘つた海軍力もドイツと協力する事にならうが、早く手を打つてフランス艦隊を潰滅せしめたチャーチル首相は海上の勝利を得たが、フランスを完全にドイツに委ねた點に於て必ずしも上乗の策とは云へまい。さるにてもドイツにとつてフランス艦隊の喪失は惜みても餘りある事に相違ない。
  10. ^ 同時にハーミーズの艦載艇によるコマンド作戦も実施した[26]
  11. ^ 仏海軍は通報艦と呼称する。
  12. ^ 1940年8月時点でのアークロイヤル艦隊航空隊は、第800飛行隊英語版第803飛行隊英語版第810飛行隊英語版第818飛行隊英語版第820飛行隊英語版だった。

脚注 編集

  1. ^ a b c ナチ占領下のフランス 1994, p. 204b.
  2. ^ a b c d e ペイヤール、潜水艦戦争 1970, p. 123.
  3. ^ 福田誠、光栄出版部 編集『第二次大戦海戦事典 W.W.II SEA BATTLE FILE 1939~45』、光栄、1998年、ISBN 4-87719-606-4、212ページ
  4. ^ ペイヤール、潜水艦戦争 1970, pp. 122a-126ダカール事件 一九四〇年九月二三日~二五日
  5. ^ 福田誠、松代守弘『War history books 第二次大戦作戦名事典  W.W.II operation file 1939~1945』光栄、1999年、ISBN 4-87719-615-3、20ページ
  6. ^ a b c d e f ペイヤール、潜水艦戦争 1970, p. 122b.
  7. ^ a b ナチ占領下のフランス 1994, pp. 204a-205はためくロレーヌ十字
  8. ^ ナチ占領下のフランス 1994, pp. 56–57.
  9. ^ ナチ占領下のフランス 1994, p. 63ドイツ軍の電撃戦、フランス進攻(1940年5月~6月)
  10. ^ ナチ占領下のフランス 1994, p. 61.
  11. ^ ナチ占領下のフランス 1994, pp. 201a-202フランスの名において
  12. ^ ナチ占領下のフランス 1994, p. 201b.
  13. ^ a b ナチ占領下のフランス 1994, pp. 202–204ロンドンのフランス人
  14. ^ 丸、写真集世界の戦艦 1977, p. 18.
  15. ^ 丸、写真集世界の戦艦 1977, p. 12(ジャン・バール脱出経緯)
  16. ^ ナチ占領下のフランス 1994, pp. 60–62フランス降伏
  17. ^ ナチ占領下のフランス 1994, pp. 69–73(2)ヴィシー政権の誕生
  18. ^ ナチ占領下のフランス 1994, pp. 77–78国土の三分の二が占領された
  19. ^ a b 列強の臨戦態勢 1941, pp. 116–117原本209-211頁(第一一、敗戰フランスの海軍力)
  20. ^ 列強の臨戦態勢 1941, pp. 117–118原本211-214頁(第一二、佛海軍歸属を繞る爭奪戰)
  21. ^ 丸、写真集世界の戦艦 1977, p. 73.
  22. ^ a b c 列強の臨戦態勢 1941, pp. 118–119原本213-215頁(第一三、佛艦隊英の手中に落つ)
  23. ^ 丸、写真集世界の戦艦 1977, p. 47(ロレーヌ接収経緯)
  24. ^ 丸、写真集世界の戦艦 1977, p. 178a☆フランス☆クルーベ
  25. ^ 丸、写真集世界の戦艦 1977, p. 178b☆フランス☆パリ
  26. ^ 丸、写真集世界の戦艦 1977, p. 176☆フランス☆リシュリュー
  27. ^ ナチ占領下のフランス 1994, pp. 47a-48イギリス嫌い
  28. ^ a b c d ペイヤール、潜水艦戦争 1970, p. 124.
  29. ^ a b c d ペイヤール、潜水艦戦争 1970, p. 125.
  30. ^ ペイヤール、潜水艦戦争 1970, p. 126.
  31. ^ 丸、写真集世界の戦艦 1977, p. 170.

参考文献 編集

  • 木俣滋郎『第二次大戦海戦小史』 朝日ソノラマ、1986年、ISBN 4-257-17072-7
  • レオンス・ペイヤール 著、長塚隆二 訳「6 大西洋における戦闘」『潜水艦戦争 1939-1945』早川書房、1973年12月。 
  • 月間雑誌「丸」編集部編『丸季刊 全特集 写真集 世界の戦艦 仏伊ソ、ほか10ヶ国の戦艦のすべて THE MARU GRAPHIC SUMMER 1977』株式会社潮書房〈丸 Graphic・Quarterly 第29号〉、1977年7月。 
  • 渡辺和行『ナチ占領下のフランス 沈黙・抵抗・協力講談社〈講談社選書メチエ34〉、1994年12月。ISBN 4-06-258034-9 

関連文献 編集

外部リンク 編集

関連項目 編集