ダフニスとクロエ (ラヴェル)
『ダフニスとクロエ』(フランス語: Daphnis et Chloé)は、ロシアのバレエダンサー・振付師ミハイル・フォーキン、フランスの作曲家モーリス・ラヴェル、ロシアの美術家レオン・バクストらによって制作されたバレエ、またはこのバレエのためにラヴェルが作曲したバレエ音楽、あるいはラヴェルの同楽曲に基づいて後世に再創造されたバレエである。 2~3世紀古代ギリシアのロンゴスによる物語『ダフニスとクロエ』を題材にしており、全3場が連続して上演される。上演時間は約55分[1]。
ロシアの興行主セルゲイ・ディアギレフが率いるバレエ・リュス(ロシア・バレエ団)により1912年にパリで初演された後、1920年代にはパリ・オペラ座バレエの演目に加えられた[2]。その後フォーキンによる振付は伝えられることなく失われたが、フレデリック・アシュトンなどにより新しい振付が施され[3]、初演から100年を経過してもなおバレエのレパートリーとして生き残っている。
また、このバレエのためにラヴェルが作曲した管弦楽曲は、彼の傑作の一つとして高く評価され[注 1]、バレエ音楽全曲、または作曲者自身による2つの組曲(「第1組曲」、「第2組曲」)の形で演奏される[8]。
バレエの筋書き編集
登場人物編集
- ダフニス(Daphnis):主人公である山羊飼いの少年。ロンゴスの原作では15歳の設定である[9]。
- クロエ:(Chloé):主人公である羊飼いの少女。ダフニスとは恋仲である。ロンゴスの原作では13歳[9]。
- ドルコン(Dorcon):ダフニスの恋敵役となる若い牛飼い。
- リュセイオン(Lyceion):ダフニスを誘惑しようとする好色な人妻[10][注 2]。
- ブリュアクシス(Bryaxis):海賊の首領
- 第1のニンフ、第2のニンフ、第3のニンフ
- パン神:半獣神。バレエでは巨大な影として表現される[注 3]。
- ラモン(Lammon):パン神がクロエを救った理由を説明する老いた山羊飼い。原作ではダフニスの養父であるが[10]、バレエではその設定は生かされていない。
- その他(牧人たち、海賊たち、サテュロスたち)
あらすじ編集
3つの場面に分かれており、第1場と第3場はニンフの神殿がある神聖な森の近くの牧草地[注 4]、第2場は海賊ブリュアクシスの夜営地のある海岸が舞台となっている。
第1場:牧草地の春の日の午後。若い牧人たちが供物をもってニンフの祭壇に集まっており、その中にはダフニスとクロエの姿もある。若者たちは踊りを楽しむが、ダフニスはクロエに横恋慕する牛飼いのドルコンと対立し、クロエの口づけをかけて舞踏の腕前を競い合う。ドルコンは皆の笑い者となりダフニスが勝者となる。その後、一人になったダフニスが年増女のリュセイオンに挑発されるエピソードを挟み、突如、海賊の襲来となる。クロエは海賊に誘拐されダフニスは絶望のあまり倒れる。そこに3人のニンフが現れると、彼を蘇生させてパン神に祈らせる。
第2場:海賊の夜営地では略奪に成功した海賊たちが宴を催しており、海賊の首領ブリュアクシスは捕虜となったクロエに踊りを強要する。クロエは踊りつつ脱出の機を窺うが果たせない。ついにクロエはブリュアクシスに手籠めにされそうになるが、そこにパン神の巨大な幻影が出現して海賊を脅すと、海賊たちはたちまち退散してしまう。
第3場:牧草地の夜明けの情景が描かれる。再会を喜び合うダフニスとクロエ。そこに現れた老羊飼ラモンが、「パン神が自身のかつてのシリンクスに対する愛の思い出の故にクロエを救い出したのだ」と教える。2人はパン神とシリンクスの物語をパントマイムで再現し、神に感謝する。牧人たちが集まり「全員の踊り」となり、大団円となる。
台本の原型編集
原作であるロンゴスの物語は全4巻から成っており、バレエの台本は主に第1巻と第2巻に収められているエピソードを中心に、改変や省略を交えて作られている。第1巻からは、クロエの口づけをめぐるドルコンとダフニスの競い合い[14][注 5]と海賊の襲来[15]、第2巻からはクロエの誘拐とパン神による救出およびパンの笛の由来の説明[16]が使われている。
ただし、第2巻でクロエが誘拐されるのは島の反対側に住むメーテュムナの人々との戦争によってであり、第1巻の海賊の襲来でダフニスが捕らえ、ドルコンが殺されることになっている[17][注 6]。 2つのエピソードを1つにまとめたことで、バレエの台本全体は「主人公の女性が誘拐されるが神の力で救われる」という筋書きになり、これは1876年に初演されたバレエ『シルヴィア』(ルイ・メラント振付、レオ・ドリーブ作曲)と共通していることから、『シルヴィア』から影響を受けた可能性も指摘されている[19]。
台本を構想したミハイル・フォーキンは、当初、現在の2倍の長さの台本を書いていたが、バレエの制作が本格的に始まった1909年にその後半部分がカットされて台本は現在のサイズになった[20][注 7]。 カットされた後半部分はダフニスとクロエの結婚に至るエピソードが中心であり原作の第4部から題材がとられている。その中では、2人がいずれも捨て子であり、それぞれが高貴な家柄の血筋であったことが明かされることになっていた。なお、ここでのラモンは原作どおりダフニスの養父としての設定である。 また、短縮される前の台本では、ラモンの妻ミルタラ(Mirtala)、クロエの育ての父ドゥリアス(Drias)とその妻ナペー(Nape)、ダフニスの実の父である領主ディオニソファン(Dionisofan)とその妻クレアリスタ(Klearista)、幇間のグナフォン(Gnafon)、老いた牧人フィレタス(Filetas)といった人物の登場が予定されていたが、これらはいずれも最終的な台本からは削除された[21]。
関与した人々編集
制作スタッフ編集
年 | 作品 |
---|---|
1910年 | 『火の鳥』 |
1911年 | 『ペトルーシュカ』 |
1912年 | 『ダフニスとクロエ』 |
1913年 | 『遊戯』、『春の祭典』 |
『ダフニスとクロエ』(以下、必要な場合を除き『ダフニス』とする)は、セルゲイ・ディアギレフのプロデュースにより生まれた、舞踊・音楽・美術などの「総合芸術」としてのバレエ作品の一つに数えられ、総監督ディアギレフのもと、ミハイル・フォーキン(台本・振付)、モーリス・ラヴェル(音楽)、レオン・バクスト(美術・衣裳)といった芸術家たちが制作に携わった。
ただし、目指す芸術の方向性や作品に対する世界観[注 8]は必ずしも一致しておらず、『ダフニス』の舞台である古代ギリシャに対するイメージ一つを例にとっても、フォーキンが「アッティカの遺跡から発掘された赤や黒の壺に描かれた踊り」に見られる力強い古代ギリシャを理想としていたのに対し[23]、ラヴェルはアントワーヌ・ヴァトーやフランソワ・ブーシェなど、18世紀フランスの画家が描いたギリシャ神話の世界を理想としており[23]、バクストは、当時「バクスト・カラー」と呼ばれた派手な色彩[24]によって「野蛮なギリシャの色彩」を表現しようとしていた[25]。
一方、総監督のディアギレフはバレエが作り上げられていく中で、バレエ自体は上演時間が長すぎる上に[注 9] 劇的な要素を欠いており[28][注 10]、フォーキンの振付には斬新さが足りないと感じるようになった[26]。また、大きな編成によるラヴェルの音楽が膨大な人件費を必要とすることにも不満を持った。
こうした事情やバレエ・リュス内での人間関係が絡みあい、後述するように『ダフニス』の制作をめぐっては数々の対立や葛藤が生まれることになった。
初演時の踊り手など編集
1912年6月8日、パリのシャトレ座において行われたバレエ・リュスによる初演では、以下のダンサーが主な配役を踊った。なお、一部のダンサーについてはフルネームが不明である。 また、指揮は、バレエ・リュスの正指揮者のピエール・モントゥーが務めた[29]。
- ヴァーツラフ・ニジンスキー(ダフニス役)
- タマーラ・カルサヴィナ(クロエ役)
- アドルフ・ボルム(ドルコン役)
- マルガリータ・フロマン(リュセイオン役)
- エンリコ・チェケッティ(老羊飼いラモン役)
- ピルツ(第1のニンフ)
- リュヴォフ・チェルニチェヴァ(第2のニンフ)[注 11]
- コパツィンスカ(第3のニンフ)
- フェドロフ(海賊ブリュアクシス)
作品成立の過程編集
1908年以前編集
1904年12月、モダンバレエの祖とも言われるイサドラ・ダンカンがロシア帝国の首都ペテルブルクで公演を行った[31]。
当時ロシア帝室バレエにダンサーとして所属していたミハイル・フォーキンは、古代ギリシャ風の衣裳とチュニックで踊るダンカンの姿に刺激を受け[32]、ペテルブルク公共図書館の館長ウラディーミル・スターソフの協力を得て古代ギリシャに関する資料(ジョルジュ・ペロー・シャルル・シピエによる『古代芸術の歴史(Histoire de l’art dans l’Antiquité )』など)を調べ[22]、1905年に帝室バレエの振付師になってからは『アクシスとガラテア』(1905年)、『ユーニス』(1907年)などの、ギリシャを素材としたバレエを振付けた[33][注 12]。
フォーキンが『ダフニス』の台本を書いたのは、本人の証言によれば1904年で、ダンカンの舞台を見る前のこととされており、バレエ・リュスやラヴェルに関連する文献の多くはこの証言に従っている。一方でロシアのバレエ研究家ヴェラ・クラソフスカヤ(Vera Krasovskaya )はこれに異論を唱えており、フォーキンは『ダフニス』に対するダンカンの影響を否定するために日付を変更しているのであって実際に台本が書かれたのは1907年のことである、としているが[34][注 13]、いずれにせよバレエ・リュスが活動を始める前に初期の台本は出来上がっていた。
フォーキンはバレエ改革に関する4か条の意見書[注 14] とともに完成した『ダフニス』の台本を帝室バレエに提出したが、どちらも採用されなかった[34]。 また、フォーキンは『アクシスとガラテア』の音楽を担当した作曲家アンドレイ・カデレズ(Andrey Kadletz )に『ダフニス』の作曲を持ちかけたと見られるが、カデレズによる『ダフニスとクロエ』は未完に終わっている[36][注 15]。
フォーキンの『ダフニス』がロシア帝室バレエで上演される見込みはほぼ無くなったが、おそらく1907年から1908年頃、パリを舞台に活動していた興行師セルゲイ・ディアギレフがこの台本に目を付けた[37][注 16]。
1909年編集
ディアギレフはすでに1907年以降、パリにおいてバス歌手フョードル・シャリアピンなどによる「ロシア音楽演奏会」やオペラ『ボリス・ゴドゥノフ』の上演をプロデュースしてきたが[注 17]、1909年にはバレエも演目に加えることとし、オフシーズン中のロシア帝室バレエ団のダンサーを集めて臨時のバレエ団(1911年からは常設の「バレエ・リュス」となる)を編成した。フォーキンはこのバレエ団のメートル・ド・バレエ(振付師兼舞踊監督)を務めることになった[40]。
この「ディアギレフのバレエ団」は同年5月19日から1ヶ月間パリで公演[注 18]を行いセンセーションを巻き起こした[42][注 19]。公演終了後にバレエ団は解散されることになっていたがディアギレフは次の年も引き続きパリでバレエの公演を行うことを考えており、オリジナル曲を依頼するため当時のフランスで活躍していた新進気鋭の作曲家に接近した。その一人が、すでに『夜のガスパール』などの作品を発表していたモーリス・ラヴェルであり[注 20]、ディアギレフはパリのサロンにおける人脈を通じて[45][注 21]ラヴェルにフォーキン台本による『ダフニス』の音楽を依頼した[注 22]。
作曲が依頼された詳細な月日は特定されていないが、少なくともこの年の6月には関係者の間で台本をめぐって打合せが行われている。ディアギレフがアレクサンドル・ベノワに宛てた1909年6月12日付けの手紙には[注 23]、「バクスト、フォーキン、ラヴェルが協働して作品の細部まで練り上げ、ラヴェルはフォーキンに「絶対的傑作」を書くと言ったらしく今から楽しみである。」といった楽観的な記述がある一方[47]、 ラヴェルがサロンの主宰者の一人サン=マルソー夫人に宛てた同年6月27日付けの手紙では次にように述べられている。
一週間不健康な日々を送ったことをご報告する必要があります。次のロシア・シーズンのリブレットを準備するためです。ほぼ毎夜、夜中の3時まで。ものごとを複雑にしているのは、フォーキンがひとこともフランス語をしゃべれないのと、私はののしるのに使うロシア語しか知らないことです。通訳がいるのですが、あなたはこうした集まりがどのようなものか、ご想像がおできになるでしょう。
— ラヴェル、アービー・オレンシュタイン 井上さつき訳『ラヴェル-生涯と作品』音楽之友社、2006年12月、ISBN 4-276-13155-3、78頁より引用
1910年編集
ディアギレフは『ダフニス』を1910年のパリ公演にのせるつもりでダンサーとの交渉を進め、ダフニス役はヴァーツラフ・ニジンスキー、クロエ役はタマーラ・カルサヴィナとアンナ・パヴロワが交替で踊ることで契約が成立したが[25]、作曲が間に合わず、初演は延期されることになった。
その一方、ラヴェルは1910年5月の段階で全曲のヴォーカルスコア(合唱パートとピアノ)をとりあえず完成させていた[48]。 ただし、これは現在知られている完成形の『ダフニス』とは異なるものであり、特にフィナーレの「全員の踊り」については長さが現在の半分程度しかなく、特徴である5拍子ではなく3拍子系(4分の3拍子または8分の9拍子)で書かれており、合唱は最後の6小節間で和音を伸ばすだけ、というものであった[49]。ラヴェルはこの出来栄えに満足できず、「全員の踊り」を書き直すことにした。しかし、その作業は困難なもので、この年の間には完成させることができなかった。
なお、1910年版のヴォーカルスコアは改訂に伴い破棄されてしまうはずが、楽譜の出版元であるデュラン社のミスにより世の中に少数出回ってしまっており[50][注 24]、1964年にフランスの作曲者・音楽学者ジャック・シャイエが古本屋で偶然この楽譜を手にしたことがきっかけとなって存在が明らかになった[51]。 シャイエはその後、現行版のスコアと1910年版の楽譜を比較・分析し、1969年に論文『モーリス・ラヴェルによる《ダフニスとクロエ》の知られざる初稿』(Une première version inconnue de Daphnis et Chloé de Maurice Ravel)を発表した[51][注 25]。 1910年版のヴォーカルスコアはパリ国立図書館の音楽部やアメリカ議会図書館で見ることができるほか[50]、楽譜の一部(写真または清書したもの)が、アービー・オレンシュタインの著作や[49]サイモン・モリソンの論文[53]に掲載されている。 なお、自筆譜はアレクサンドル・タヴェルヌ夫人のコレクションの中にある[54][注 26]。
1911年編集
1911年を迎えても作曲は仕上がらず[注 27]、 4月末の段階でラヴェルは「全員の踊り」の改訂に頭を悩ませていた[52]。かつてローマ大賞の審査員の一人は、ラヴェルについて「何の努力をしなくても音楽が流れ出てくるよう」だと形容したが、ここまで創作に苦しんだのはこれが初めてであった[57]。弟子である作曲家ルイ・オーベールの協力も得ながら作業は進められ[58][注 28]、結局「全員の踊り」の改訂には着手してから1年もの時間を費やすことになった[59][注 29]。
これより前、ラヴェルは改訂作業を進める傍ら、すでに完成していた第1場の後半から第2場前半にかけての音楽を『ダフニスとクロエ』第1組曲(夜想曲-間奏曲-戦いの踊り)として抜き出し、独立した管弦楽曲とした[注 30][注 31]。 この「第1組曲」は同年4月3日、ガブリエル・ピエルネ指揮コロンヌ管弦楽団によって初演されたが、新聞の批評は賛否両論であった[25][注 32]。 フォーキンは、作曲の遅れが原因で『ダフニス』の初演が延期を重ねているにもかかわらず、一部分とはいえ、ラヴェルが音楽を先に公開したことに対して腹を立てた[注 33]。 また、このしばらく後、4月26日には、フォーキンが振付けたギリシャ神話に基づく短いバレエ『ナルシス』がバレエ・リュスにより初演された[注 34]。ラヴェルの『ダフニス』の作曲が間に合わないためにこのバレエを上演することになったのだが[64]、ギリシャ風の振付のアイデアは全て『ダフニス』のためにとっておきたかったフォーキンにとって、あまり乗り気のする仕事ではなかった[65]。 なお、『ナルシス』のためにバクストがデザインした衣裳の一部は『ダフニス』にも転用された[66]。
1912年:初演編集
バレエ・リュスの1912年のパリ公演「第7回セゾン・リュス」は 5月13日から6月10日にかけての約1ヶ月間、シャトレ座において開催されることになった。 ディアギレフはこのシーズンのために4本のプログラムを用意し、それぞれのプログラムには以下のように新作バレエを1本ずつ配置し、1つのプログラムを4日ずつ上演する日程を組んだ[67]。
- 第3プログラム(5月29日~)ドビュッシーの『牧神の午後への前奏曲』に振付けた『牧神の午後』(ニジンスキー振付)
- 第4プログラム('6月5日~)『ダフニスとクロエ』(フォーキン振付)
ラヴェルのスコアは、シーズン開始が近づいた4月5日になってようやく完成した[注 36]。 フォーキンは急いで振付を考えなくてはならなかったが、他の新作バレエ2作品(『青神』『タマーラ』)の振付と練習も仕上げなくてはならず、『ダフニス』に十分な時間がとれなかった[71]。
それとともに問題だったのはディアギレフの態度であった。初演の指揮者ピエール・モントゥーは、「われわれ一同はディアギレフが明らかに興味を失っているのを見て力を落とした[66]。」と回想しているとおり、すっかり『ダフニス』に対する熱が冷めてしまっていたのである。そればかりか、ディアギレフはデュラン社に『ダフニス』に関する契約破棄の考えすら打ち明けていた[注 37]。
当時のディアギレフにとって最大の関心事は、同性愛の相手でもあるニジンスキーの振付師としてのデビュー作『牧神の午後』を成功させることにあった。第3プログラムの新作として5月29日に初演されたこのバレエは、ラストシーンにおける性的な表現がスキャンダルを巻き起こしたが、かえって人々の注目を集めチケットは全て売り切れた[28]。
同じギリシャ神話をテーマとした『牧神の午後』が話題となったことで『ダフニス』の影は薄くなった。 そればかりか、ディアギレフは『牧神の午後』の追加公演を決め、6月5日に予定されていた『ダフニス』の初日を6月8日に繰り下げた[73]。 パリ公演は6月10日までしか行われず、6月9日はシャトレ座の休館日であったため、本来4日予定されていた『ダフニス』の公演は2日しか行われないことになった[73]。 さらに本番前日の総稽古も『牧神の午後』の追加公演があるために行われないことになり、フォーキンのみならずラヴェルもディアギレフの『ダフニス』に対する扱いに怒った[73]。
ディアギレフが『ダフニス』の初日を遅らせた理由については、フォーキンに対する嫌がらせとする説や[注 38]、『牧神の午後』をもっと上演したかったからという説など様々あり特定はできない[73]。 舞台監督を務めたセルゲイ・グリゴリエフはフォーキンの振付の完成が遅れたためだとしている[76]。 グリゴリエフによる年代記はディアギレフの同性愛関係に全く触れていないなど信用できない部分もあるが[77]、フォーキンの振付が遅れていたことは事実で、『ダフニス』の振付が全て完成したのは『牧神の午後』を含む第3プログラムが始まった後、当初の初演予定日の数日前である。なお、最後まで振付が行われなかったのはラヴェルが苦労を重ねたフィナーレの「全員の踊り」であった[28]。
初演でクロエを踊ったタマーラ・カルサヴィナは次のように回想している。
実際『ダフニスとクロエ』には、立ち往生してしまう箇所がたくさんありました。心地好く響き渡る、気品に満ちた、透き通った泉のような作品ですが、踊り手泣かせで意地の悪い落とし穴がいくつもあるのです。リズムがどんどん変わる音楽に合わせて私が踊るパートがあったのですが、フォーキンは時間と追いかけっこをしていて発狂寸前、とても私のために割くような時間はありません。最後の幕などは上演日の朝になってもまだできあがっていなくて、私はラヴェルに手伝ってもらってステージの奥で123-12345-12とやっているうちに、やっと自然にリズムに乗れるようになりました。
— タマーラ・カルサヴィナ、タマーラ・カルサーヴィナ 東野雅子訳『劇場通り』、新書館、1993年2月、ISBN 4-403-23025-3、272頁より引用
この翌年に複雑なリズムの『春の祭典』を踊ることになるバレエ団のメンバーが『ダフニス』のリズムに苦戦するというのは不思議な話ではあるが[72]、他のダンサーたちも当日は「全員の踊り」の4分の5拍子を「セル・ゲイ・ディア・ギ・レフ」と、ディアギレフの名前にあてはめて練習していたと言われる[72]。ただし、ロジャー・ニコルスは、「全員の踊り」の5拍子は「3拍子+2拍子」で書かれており、音節のリズムが「2+3」になる「セルゲイ+ディアギレフ」では音楽に合わないため、このエピソードの信憑性を疑っている[59]。
『牧神の午後』に食われた形になり、しかも十分な準備がなされないままに迎えた『ダフニス』の初演ではあったが評価は概ね良好であった。主役のニジンスキーとカルサヴィナの華麗な演技な演技やラヴェルの音楽は高く評価され、ラヴェルとともに「アパッシュ」のメンバーでもあった評論家エミール・ヴュイエルモーズはこのバレエを「真の傑作」とし、バレエ・リュスの今シーズンの全日程がこの作品で締めくくられたことを祝った[78]。
その一方、すでに退団を決意していた[79]フォーキンは『ダフニス』初演の後、バレエ・リュスを去った[80][注 39]。
関係者のその後と『ダフニス』編集
バレエ・リュス編集
関係者の葛藤や対立の末に誕生した『ダフニスとクロエ』は、バレエ・リュスのレパートリーの一つとなったが再演の機会には恵まれなかった[注 40]。初演の2年後、1914年にモンテカルロ[注 41]とロンドン[注 42]で上演されたが、その後10年間にわたって上演されることはなかった。
第一次世界大戦中の1917年12月、バレエ・リュスの一行は公演ツアーのためポルトガルの首都リスボンを訪れたが、運悪く到着後に軍事クーデターが勃発し、一行が泊まった宿の近くでも銃撃戦が行われた。ホールは汚く暖房がきかない上に満席になることは一度もなく、首都で行われた公演としては最悪なものとなった[83]。しかも次の仕事が決まっておらず給料も支払われなかったため、団員だちは3ヶ月にわたって冬のリスボンで足止めされ、飢えと寒さに苦しむことになった[84][注 43]。 ディアギレフが次の仕事を求めてリスボンを離れている間、留守を任された舞台監督のセルゲイ・グリゴリエフは、1914年以来上演されていなかった『ダフニス』の稽古を思い立ったが、公演のあてがあるわけでもなく、団員にとっては無駄な努力でしかなかった[86]。このリスボンでの忌まわしい思い出と結びついた『ダフニス』はその後、バレエ・リュスの団員にとって不吉な演目と見なされるようになった[87]。
1924年1月、ディアギレフはモンテカルロにおいてフランスの作品ばかりを集めた「フランス芸術祭」を開催した[注 44]。この企画のために『ダフニス』は10年ぶりに再演され[注 45]、アントン・ドーリンがダフニスを、リディア・ソコロワがクロエを踊った。 ただし、その頃にはすでにフォーキンの振付を覚えているダンサーは誰もいなかったため、グリゴリエフが曖昧な記憶を頼りに振付を再現し[89][注 46]、一部はニジンスキーの妹ブロニスラヴァ・ニジンスカが新たに振付けた[91]。 この年『ダフニス』はモンテカルロに引き続きバルセロナのリセウ劇場でも上演されたが、これがバレエ・リュスにおける『ダフニス』の最後の公演となり[92]、1929年にはディアギレフの死によりバレエ・リュス自体が解散した。グレゴリエフは次のように『ダフニス』を振り返っている。
舞台監督としての長い経験から、私は運のいいバレエと運の悪いバレエがあるという結論を出していた。そして「ダフニスとクロエ」は運が悪いほうだった。どういうわけかレパートリーに定着することができず、たいへんな苦労の末に復元された今回もまた、たった二回か三回の上演の後、レパートリーからはずされた。音楽も装置、衣装、振付も美しかったのに、何らかの悪意に彩られた運命が影響を及ぼしていたのだろう。
— セルゲイ・グリゴリエフ、セルゲイ・グリゴリエフ 薄井憲二、森瑠依子訳『ディアギレフ・バレエ年代記:1909-1929』平凡社、2014年7月、ISBN 978-4-582-83665-3、213頁より引用
フォーキン編集
第一次世界大戦後にアメリカに移住したフォーキンにパリ・オペラ座バレエからオファーがかかった。 熱狂的なディアギレフのファンでもあった[93]当時のオペラ座総裁ジャック・ルーシェ[注 47]は、オペラ座バレエの再興のために[注 48]過去にバレエ・リュスに関係したアーティストたちを招いており[93]、フォーキンの振付とバクストの美術・衣装により『ダフニスとクロエ』を再演しようとしたのである。
『ダフニス』再演を含む「ロシアの夕べ」は1921年6月20日に開催され[96]、フォーキンは振付を担当するとともに、妻ヴェラ・フォーキナとともにタイトルロールを踊った。こうして、フォーキンにより『ダフニス』はパリ・オペラ座バレエのレパートリーに位置づけられ、後にアルベール・アヴリーヌがダフニス、カルロッタ・ザンベリがクロエを踊った[96]。
ラヴェル編集
ラヴェルは、『ダフニス』初演後の1913年には、第3場の音楽をほぼそのまま抜き出し『ダフニスとクロエ』第2組曲(夜明け-無言劇-全員の踊り)として出版した[注 49]。 この「第2組曲」は、オーケストラにとって重要なレパートリーの一つとなり今日に至っている[注 50]。
ラヴェルはその後、『ラ・ヴァルス』(1920年)、『ボレロ』(1928年)などの作品を発表していくが、一度発表した作品にはさほど愛着を示さず、周囲の人間が『ダフニス』への賛辞を送ってもそっけない素振りしか示さなかったという[101]。
しかし、晩年のラヴェルは原因不明の脳の疾患により、意識は明晰であるにもかかわらず文章を書いたり音楽を楽譜に記したりすることが全くできない「精神的幽閉」とでも言うべき状態におかれ[102]、『ドゥルシネア姫に心を寄せるドン・キホーテ』(1933年)を最後に作曲が全くできなくなった。そして1937年12月に脳の外科手術を受けたラヴェルはそのまま帰らぬ人となった。死の数ヶ月前、 アンゲルブレシュト指揮フランス国立放送管弦楽団の演奏会で『ダフニス』を聴いたときのラヴェルの様子を、同行していたヴァイオリニストのエレーヌ・ジュルダン=モランジュは次のように回想している。
晩年病に倒れて仕事の不振に打ちのめされていたとき、かれは好んで初期の作品をくり返し聞いた。かれが最後に《ダフニス》を聞いたとき(アンゲルブレック指揮の国立管弦楽団による)、かれはひどく感動し、さっとホールを出て私を自動車のところへ引っぱっていき、そして静かに泣いた。「あれはやっぱりいい曲だった!ぼくの頭のなかにはまだいっぱい音楽があったのに!」 私はなんとかしてかれを慰めたかったので、かれの音楽はすばらしい、完璧だ、と言ったのだが、かれは憤然として答えた。「とんでもない、とんでもないよ。ぼくは言いたいことをまだなにも云ってないんだ・・・・・・」
— エレーヌ・ジョルダン=モランジュ、エレーヌ・ジョルダン=モランジュ 安川加寿子、嘉乃海隆子共訳『ラヴェルと私たち』、音楽之友社、1968年8月、56-57頁より引用
ラヴェルによるバレエ音楽編集
ラヴェルがこのバレエのために作曲した音楽は、混声四部合唱を含む、規模の大きい四管編成のオーケストラによるもので、曲の長さと編成の大きさにおいて、ラヴェルの作品で最も大規模なものである[7]。
楽器編成編集
- 木管楽器
- ピッコロ、フルート2(2番奏者はピッコロと持ち替え)、 アルトフルート (G管)、オーボエ2、コーラングレ、小クラリネット(E♭管)、クラリネット(B♭管とA管を持ち替え)2、 バスクラリネット、ファゴット3、コントラファゴット
- 金管楽器
- 打楽器
- 弦楽器
- 合唱
- その他
- ホルン、トランペット(各1。第1場において「舞台裏」で演奏される。)
- ピッコロ、小クラリネット(各1、第3場において「舞台の上」で演奏される。)
合唱の省略について編集
『ダフニス』は管弦楽の編成が大きく、しかも合唱団までを必要としたために、他の作品に比べて上演にはコストがかかった。合唱を省略したいディアギレフと合唱を不可欠とするラヴェルとの間で意見が対立したが、結局ラヴェルは「ヨーロッパの主要都市では完全な合唱入りで演奏する」ことを条件として、重要ではない都市の公演では合唱抜きにすることに同意し、第1場の終わりに合唱のみで演奏される部分(「間奏曲」)を、管弦楽に編曲した。
ところがディアギレフは、1914年6月に ロンドンのドルリー・レーン劇場で行うイギリス初演を合唱抜きにしようとした。このことに激怒したラヴェルはロンドンの4つの新聞社に抗議の声明文を送り付け、さらに交友関係のあったイギリスの作曲家レイフ・ヴォーン・ウィリアムズにも声明文のコピー送り、その内容をできるだけ広めてほしいと頼んだ[注 51]。『ザ・モーニング・ポスト』紙には次のようなラヴェルの意見文が掲載された。
私の最も重要な作品である『ダフニス』は6月9日、火曜日にドルリー・レーン劇場で上演される予定です。このことは私のもっとも喜びとするところであり、私の芸術上の経歴の中でもっとも名誉となることのひとつになるはずのことでした。ところが、私はロンドンの聴衆の前で演じられるものが私の作品の本来の姿ではなく、仮のアレンジであることを知りました。これはド・ディアギレフ氏の求めに応じて、あまり重要でない都市での上演を容易にするために書くことを受け入れたものです。ド・ディアギレフ氏はおそらく、ロンドンは「あまり重要ではない都市」だとみなしているのでしょう。なぜなら、彼はドルリー・レーンで、はっきりを約束したにもかかわらず、合唱ぬきの新版で上演しようとしているからです。 私は深く悲しみ、驚き、このやりかたは作曲者と同じくらいロンドンの聴衆のことを馬鹿にするものだと考えます。
— ラヴェル、アービー・オレンシュタイン 井上さつき訳『ラヴェル-生涯と作品』音楽之友社、2006年12月、ISBN 4-276-13155-3、88頁より引用
ディアギレフはこれに反論したが、ラヴェルはさらに長い声明文を『コメディア』紙に送り付けてディアギレフの誤りを指摘した。結果、ラヴェルとディアギレフとの間で、主要都市では合唱を入れることがあらためて確認され[104]、ロンドン公演は合唱入りで行われた。
現在では、第1場の終末から第2場にかけての合唱(「間奏曲」)を省略した際の管弦楽版の楽譜が全曲版スコアの末尾に収録されており[105]、その他の部分については必要な代替処置がパート譜に記されている[注 52]。
楽曲構成編集
バレエ音楽『ダフニスとクロエ』は、台本に基づいた踊りのための一連の音楽でありながら、調性の統一と緻密な主題設計が図られている[107]。 全曲はイ長調に始まりイ長調に終わるが、イ長調の属調であるホ長調は登場せず、ホ長調のさらに5度上のロ長調に重要な役割が与えられている[108]。 ラヴェル自身はこの作品を「舞踏交響曲」と形容しており、「この作品は交響曲的に構成されており、ひじょうに厳格な調性計画に従い、また少数の動機を手段にしている。この動機を一貫して追ってゆくと、交響曲的な統一が保証されるのだ[5]。」と述べている。
ラヴェルの死の2年後にあたる1939年にラヴェルの作品を論じた[109] ウラジミール・ジャンケレヴィッチは、ラヴェルの言う「作品に交響的統一を保証する少数の動機」として、第1場の前半までに登場する5つの主題を指摘して作品を分析している[107][注 53]。 その5つの主題(動機)は以下の主題A~主題Eである。
- 主題A
第1場の冒頭、第7小節目にフルートによって提示される。執拗に繰り返される「嬰ニ」音はイ長調の音階に含まれず、低音の「イ」音に対して複調的な響きを作り出す[注 54]。その後、ニンフの登場場面などで使われる。 ジャンケレヴィッチはこの主題を『ニンフたちの主題』と呼んでおり[112]、作曲家諸井誠はほぼ同意の「ニンフの主題」[113]、作曲家山口博史は「パンの神の恵みの主題」と呼んでいる[114]。
- 主題B
第1場の冒頭、第6小節目に弱音器をつけたホルンにより提示され、舞台裏の合唱に引き継がれる[注 55]。 主題Bは主題Aと組み合わされた形で何度か登場する。 ジャンケレヴィッチは「自然に呼びかけるような」主題と形容しており[107]、諸井は「愛し合う若者たちの主題」[113]、山口は「自然の主題」と呼んでいる[114]。
- 主題C
第1場の冒頭、第12小節目でホルンによって最初に提示され、その後ライトモティーフのように扱われる。ジャンケレヴィッチは「ダフニスの愛の主題」と呼んでいる[107]。
- 主題D
主題A~Cが序奏の早い段階で提示されるのに対し、主題Dと主題Eはやや遅れて提示される。この主題は第1場の中盤、ダフニスとドルコンがクロエをめぐって対立する場面で初めて登場する。 この主題をジャンケレヴィッチは「クロエの主題」と呼んでいるが[107]、アービー・オレンシュタインは主題CとDの両方を「ダフニスとクロエの主題」としている[7]。
- 主題E
ジャンケレヴィッチは「海賊の主題」と呼んでいる[107]。その名のとおり、海賊が襲来する第1場の終盤から第2場までで使われ、第3場には登場しない。 この主題はトランペットやホルンなどの金管楽器によりf 以上で強奏され、最初の4音の動機がファンファーレのように扱われる。
バレエ音楽全体は、上記の主題や動機を軸として様々なエピソードを挟みながら構成されているが、あくまでもバレエのための音楽であるため台本に沿って進行し踊り手の動きも想定されている。第1場の「ダフニスの優雅で軽やかな踊り」はダフニスがソロで踊る場面であり、初演ではヴァーツラフ・ニジンスキーがダフニスを演じた。下の譜例はその開始部分であるが、3小節目にはフェルマータつきの8分休符による「間」があけられている。この「間」は、ニジンスキーが1909年の『アルミードの館』で見せた、重力を無視したかのような驚異的な跳躍[注 56]に触発されたラヴェルが、彼が空中に留る時間のために書いたものである[12]。
バレエの進行と音楽編集
ラヴェルのスコアには、フランス語によるト書きが書かれており、音楽とは以下のように対応している。「音楽」の《》で囲まれたタイトルのうち、*を付したものについてはスコアに明示されていない。 なお、主要な主題や動機の名称は、原則としてジャンケレヴィッチの呼称に従い、「主題B」のみ山口の呼称に従う。
第1場編集
ト書き | 音楽 |
---|---|
神聖な森の端にある牧草地の春の日の午後。前景には三体のニンフの彫像がある洞窟やパン神の形に何となく似ている大きな岩、背景には放牧されている羊の群れが見える。幕が開くと舞台は無人である。 |
《序奏と宗教的な踊り》 イ長調、4分の4拍子。低音の「イ」音の上に5度上の音が積み重ねられてゆく中から、弱音器をつけたホルンと舞台裏の合唱などによる「自然の主題」が提示され、これを背景として、フルートソロによる「ニンフたちの主題」、ホルンソロによる「ダフニスの愛の主題」が続けて提示され、それぞれオーボエのソロ、アルトフルートとファゴットのユニゾンで繰り返される。 |
ニンフへの供え物が入った籠を持ち、若い牧人たちと娘たちが入場する。次第に舞台がいっぱいになる。 | 弦楽器に3連符の動きが出て音楽は次第に高まる。「自然の主題」を歌う合唱は次第に近づいてきて、途中から「舞台上で」(Sur la scène)の指示がなされる。 |
一同はニンフの祭壇に頭を下げ、娘たちは祭壇を花輪で飾る。 | 「自然の主題」と「ニンフたちの主題」が結合された最初の ff のクライマックスを迎えた後、音楽は次第に収まり、次の《宗教的な踊り》に切れ目なく続く。 |
《宗教的な踊り》 ハープの和音などを伴奏として、二連符と三連符が組み合わされた「宗教的な踊り」の主題がpp で弦楽器に出る。やがてこの主題に「自然の主題」が絡み、トライアングルとクロタルが彩りを添える。 | |
ダフニスの登場 | オーボエが「ダフニスの愛の主題」を奏でる。 |
クロエの登場 | フルートが「ダフニスの愛の主題」を奏でる。 |
「宗教的な踊り」が「自然の主題」とともに高まり、2度目のff によるクライマックスを迎える。 | |
ダフニスとクロエは前景に来て、ニンフ像にぬかずく。踊りは止まる。 | ハープのグリッサンドと弦楽器のトリルを背景に、木管楽器が「ダフニスの愛の主題」を奏でる。 |
合唱(ハミング)による「自然の主題」を背景に、ヴァイオリンソロが「ニンフたちの主題」を奏でる。 | |
娘たちはダフニスを引き寄せ、彼を囲んで踊る。 | 変イ長調。生き生きと(Vif)したテンポの4分の7拍子(4分の3拍子+2分の2拍子)の踊りが始まる。タンバリンやスネアドラムなどによって軽快なリズムが刻まれる。途中でロ長調に転調する。 |
クロエは初めて「嫉妬」というものを感じるが・・・ | |
その瞬間、クロエは若者の踊りに引き込まれる。 牛飼いのドルコンは積極的にクロエに迫る。今度はダフニスが苛々する。 | テンポと拍子はそのまま 変ト長調に転調し、新しい旋律が弦楽器に出る。 |
《全員の踊り》 7拍子のまま変イ長調に転調し、若者たちや若い娘たちの踊りの様々な要素が「この上もなく優美な対位法により結び合わされる(ジャンケレヴィッチ)[107]」。グロッケンシュピールがここで初めて登場する。 | |
踊りの終わりに、ドルコンはクロエにキスをしたい衝動にかられる。クロエはドルコンに無邪気に頬を寄せている。 | 踊りのリズムが収まりテンポが緩やかになる。 |
ダフニスはドルコンを突き飛ばし、 | 低音楽器がf で「クロエの主題」を一瞬予告する。 |
クロエに優しく近づく。 | 「クロエの主題」が弦楽器により、優雅なワルツの形[107]で提示される。 |
若者たちがクロエの前に立ちふさがり、ゆっくりとダフニスを引き離す。 | |
若者の一人が、ダフニスとドルコンが踊りで勝負することを提案する。勝利した方には賞としてクロエからのキスが与えられる。 | 木管楽器によるファンファーレ風の動機に「クロエの主題」の後半の動機が絡む。 |
ドルコンのグロテスクな踊り | 《ドルコンのグロテスクな踊り》 4分の2拍子、バスドラムとティンパニのリズムに乗ってファゴットがドルコンの踊りを奏で、様々な楽器に受け継がれる。途中、トロンボーンがユーモラスなグリッサンド[117]で合の手を入れる。 |
群衆はドルコンの動作を真似て茶化し、 | ペザンテ(重々しく)で、トロンボーンの合の手を含むフレーズが繰り返される。 |
笑いによってドルコンの踊りを終わらせる。 | 装飾音符を伴った8分音符で群衆の笑い声が表現される。 |
再びファンファーレ風の音型に「クロエの主題」の後半の動機がからむ。チェレスタがアルペジオを弾くと1発のクロタルが響く。 | |
ダフニスの優雅で軽やかな踊り | 《ダフニスの優雅で軽やかな踊り》 ヘ長調、8分の6拍子。ダフニスが優雅に踊る。「ダフニスの踊り」の最初の動機は、この後のリュセイオンが登場するシーンで、ダフニスを表すライトモティーフとしても使用される。 |
一同は、ダフニスに勝利の報酬を受け取るように促す。 | オーボエが「クロエの主題」を奏でる。 |
そこにドルコンがまたもや名乗り出るが、 | バスドラムに導かれるファゴットとヴィオラがドルコンの割り込みを表現する。 |
皆に笑い飛ばされ追い払われる。 | 再び笑い声の動機 |
笑い声がおさまり、ダフニスとクロエは皆の前で抱き合う。 | 休止のフェルマータを挟んでロ長調に転調し、弦楽器がpppで「ダフニスの愛の主題」を奏で、第3場にも登場する動機(山口による「パン神の動機」)につながる。 |
群衆はクロエを連れて退場。ダフニスは恍惚として動かずにいる。 | 序奏の音楽が短縮されて再現される[118]。 |
ダフニスは草の上に腰を下ろす。 | 舞台裏の合唱が「自然の主題」を奏でる。 |
リュセイオンの入場。リュセイオンはダフニスに近づき後ろから目隠しをする。ダフニスはクロエがふざけているものと勘違いする。 | クラリネットの二重奏による自由なカデンツァ[119]風のフレーズがリュセイオンを表現する。チェロのソロによる「ダフニスの愛の主題」を挟み、クラリネットのカデンツァ。 |
しかし、ダフニスはリュセイオンを認めると、彼女から離れようとする。 | 「ダフニスの踊り」が一瞬回想される[118]。 |
リュセイオンは踊る。リュセイオンはわざとヴェールを1枚落とす。 |
《リュセイオンの踊り》* 変ロ長調、8分の6拍子、ハープのアルペジオに乗り、フルートソロがリュセイオンの踊りを奏で[注 57]、クロタル、グロッケンシュピール、トライアングルが色を添える。 |
ダフニスはそれを拾い上げ、リュセイオンの肩にかける。 | 「ダフニスの踊り」が回想される。 |
リュセイオンはさらに気怠く、踊りを再開する。 | リュセイオンを表すクラリネット二重奏の後、フルートが踊りを続ける。 |
もう1枚のヴェールが地面に落ち、再びダフニスによって拾われる。 | 「ダフニスの踊り」が回想される。 |
困惑するダフニスをあざ笑うようにリュセイオンは退場する。 | クラリネットの二重奏がリュセイオンを表現する。 |
突如として、武器の音、戦の叫び声が近づいてくる。海賊が逃げる女性を追いかけている。 | コントラバスやバスクラリネットのうねりを背景に、金管楽器に「海賊の主題」が出る。 |
ダフニスは、危険にさらされているであろうクロエを救うために急ぐ。 | 「ダフニスの愛の主題」と「海賊の主題」が重なる。 |
一方、クロエは必死になって隠れる場所を探している。クロエはニンフの祭壇に飛び込み、加護を求めて祈る。 | ややテンポが上がり、木管楽器が「クロエの主題」を奏でる。次第にテンポが速まり切迫していく。 |
海賊の一団がクロエを発見し、彼女をさらう。 | 4本のトランペットが fff のユニゾンで「海賊の主題」を鳴らす。 |
クロエを探すダフニスが入場。ダフニスは落とされたクロエのサンダルを発見する。 | 音楽は静まり、ppp となる。ティンパニが「変ホ」のロールを持続させる中、ヴィオラが「ダフニスの愛の主題」の断片を奏でる。 |
絶望したダフニスは、クロエを守ることができなかった神々を呪い、洞窟の入口で意識を失う。 | 突然、不協和音を伴う「ニンフたちの主題」が ff で出る。これが静まるとpで「ダフニスの愛の主題」の断片が繰り返され、音楽は静止する。 |
現実のものとは思えない光があたりを包み込む。 |
《夜想曲》* 弱音器を付けた弦楽器がppp でトリルを持続させる。 ※「第1組曲」はこの部分から始まる。 |
突然、ニンフの彫像の頭部に小さな火がともる。第1のニンフが台座から降りてくる。 | フルートが「ニンフたちの主題」をカデンツァ風に奏る。 |
第2のニンフが降りてくる。 | ホルンが「ニンフたちの主題」をカデンツァ風に奏でる。 |
第3のニンフが降りてくる。 | クラリネットが「ニンフたちの主題」をカデンツァ風に奏でる。 |
三人のニンフは話し合い、 | エオリフォンがここではじめて登場する。風の音を背景として管楽器が「自然の主題」を奏でる。 |
ゆっくりと、神秘的な踊りを始める。 | 変イ長調、8分の6拍子。フルート3本とアルトフルートが神秘的な踊りの音楽を奏で、旋律はクラリネットとオーボエによる「ニンフたちの主題」を経て弦楽器に移る。 |
ニンフらはダフニスに気づく。ニンフは身を屈め、ダフニスの涙を拭う。 | エオリフォンの風の音や弦楽器のハーモニクスによるグリッサンドを背景に、フルートとハープが「ニンフたちの主題」を奏でる。 |
ニンフらはダフニスを蘇生させると、彼をパン神に形が似た岩に導く。 | クラリネットとヴィオラが「ダフニスの愛の主題」を奏でる。 |
ニンフらはパン神を呼び出す。 | エオリフォンの風の音や弦楽器のトリルを背景に、ニンフの踊りの旋律が奏でられる。 |
岩が徐々に神の姿になっていく。 | ppp のバスドラムのロールを背景に弦楽器のトリルが上昇していく。 |
ダフニスはひれ伏し、パン神に祈る。 | 打楽器のロールや弦楽器のトリルが一瞬音量を膨らませ、すぐに消えていく。 |
全てが消える。 | フェルマータのついた休符 |
《間奏曲》* 合唱のアカペラ。背景となるシンコペーションの動きは「自然の主題」によるもの[121]。 | |
遠くでラッパの信号。声が迫っている。 | 合唱に乗り、舞台裏のトランペットとホルンが『海賊の主題』を奏でるが、その音は次第に近づいてくるように指示されている。切れ目なく第2場に入る。 |
第2場編集
ト書き | 音楽 |
---|---|
切り立つ岩に囲まれた海岸。海賊の野営地である。背景には海。戦利品を運ぶ海賊たちとガレー船が見える。舞台は松明で激しく照らされる。 | 第1部から続く合唱に、弦楽器の半音階の動きやバスドラムのロールなどが加わってクレッシェンドし、切れ目なく《戦いの踊り》に突入する。 |
《戦いの踊り》* 4分の2拍子、アレクサンドル・ボロディンの『イーゴリ公』(ポロヴェッツ人の踊り)を連想する野生的な[121]海賊たちの踊りが展開する。「海賊の主題」が絡み、途中からは男声も加わる。転調を繰り返して最後はロ長調の主和音で一旦終始する。 ※「第1組曲」はここで終わる。なお、クロタルはこの踊り以降使われない。 | |
海賊の首領ブリュアクシスは捕虜を連れてくるよう命ずる。 | |
手を縛られたクロエが二人の海賊に引きずられてくる。 | ハープのグリッサンドを背景に、弦楽器が「クロエの主題」を奏でる。 |
海賊の首領ブリュアクシスはクロエに踊りを命じる。 | |
クロエの哀願の踊り | 《クロエの哀願の踊り》 ロ長調、4分の3拍子。奇数小節が「4分音符=100」、偶数小節が「4分音符=72」の指定があり1小節ごとにテンポが変わる。このようなテンポの指示はラヴェルのスコアでは珍しい[117]。揺らぐテンポに乗り、コーラングレが「とても感情を込めて」旋律を奏でる。 |
クロエは隙を見て逃げようとする。 | 上行するハープのグリッサンドと木管楽器のパッセージ。 |
海賊たちは力づくでクロエを戻す。 | アクセントのついたトロンボーンや低音楽器の動き。 |
絶望的なクロエは、踊りを再開する。 | 変イ長調に転調し、踊りが再開する。コーラングレの旋律は消え、伴奏であった音形が前面に出て ff まで高まる。 |
もう一度、クロエは逃げようとするが、 | 上行するハープのグリッサンドと木管楽器のパッセージ。 |
彼女は再び戻される。 | アクセントのついたトロンボーンや低音楽器の動き。 |
クロエは絶望し、ダフニスのことを考えている。 | ロ長調。レント。コーラングレの節が「ダフニスの愛の主題」につながる。 |
ブリュアクシスはクロエを引き寄せようとする。クロエは懇願する。 | 変イ長調、海賊とクロエのやり取りが表現され、テンポはどんどん速くなる。 |
ブリュアクシスは勝利を勝ち取る。 | トランペット4本が ff で「海賊の主題」を吹奏する。 |
突然、あたりは不思議な要素で満たされる。 | ハ長調、突然のpp。コントラバスの「ハ」音のトリルの上にホルンが「変ト」音の伸ばし。ハープのグリッサンドが間歇的に聴かれる。 |
見えざる手により、小さな火がともされる。 | エオリフォンによる一陣の風。 |
不思議な生き物があたりを跳ね回る。恐怖は徐々に野営地全体に広がる。サテュロスの集団が四方から海賊をとり囲む。 | 管楽器に軽快な動機が登場し、次第に楽器の数が増えクレッシェンドする。なお、シロフォンはこの場面の音楽のみに使われる。 |
大地が割れ、パン神の巨大な影が背景の山に映り海賊たちを脅かす。海賊たちは恐怖にかられて逃げ出す。 | 突然音楽が切り替わり、バスドラムのロールなどがクレッシェンドし、fff の頂点で銅鑼やエオリフォンが鳴る。低音の「ハ」音上の和音と中音部の「嬰ヘ」音が持続する中、弦楽器がグリッサンドを繰り返しながら音楽は次第に静まって行き、切れ目なく第3場に入る。 |
第3場編集
ト書き | 音楽 |
---|---|
舞台は夜明け前の第1部の風景に置き換えられる。 | 合唱が「嬰ヘ」音をホルンから引き継ぎ、音楽は次第に収まっていく。 |
岩肌から流れ落ちる露が集まってできた小川のせせらぎの他、何も聞こえない。ダフニスはまだニンフの洞窟の前に横たわっている。 |
《夜明け》* ニ長調、4分の3拍子。pp でフルートとクラリネットが交互に12連符のアルペジオを、ハープがグリッサンドを奏で、途中からはチェレスタも加わる。チェロとコントラバスは先頭の奏者から順に弱音器を外すよう指示されている。 ※「第2組曲」はこの部分からバレエの最後までを抜き出している。 |
徐々に空が白みはじめ、鳥の歌が聞こえる。 | ヴァイオリン、ピッコロ、フルートが鳥の鳴き声を表現する。 |
ヴィオラとクラリネットが、夜明けを表す旋律を奏でる。 | |
羊飼いと羊の群れが一緒に遠くを通り過ぎる。 | 舞台上のピッコロが羊飼いの笛を表現する。 |
別の羊飼いが舞台の奥を横切って行く。 | 舞台上の小クラリネットが羊飼いの笛を表現する。 |
ヴァイオリンが夜明けを示す旋律を奏で、舞台裏の合唱による「自然の主題」がこれに絡む。 | |
ダフニスとクロエを探す羊飼いたちが入場する。彼らはダフニスを発見し、彼を目覚めさせる。 | |
ダフニスは不安に駆られ、クロエの姿を探す。 | 音価を縮小した「クロエの主題」がダフニスの不安を表現する。 |
羊飼いに囲まれてクロエが登場する。 | 木管楽器と弦楽器が上行し、1小節のうちに p から f へと急速にクレッシェンドする。 |
ダフニスとクロエはお互いの腕の中に身を投じる。 | f かつ感情が込められた(très sxpressif)「ダフニスの愛の主題」。 |
ダフニスはクロエの頭の冠を見る[注 58]。彼の夢は預言的な幻想であり[注 59]、パン神が介入したことは明らかだ。 | 息の長いクレッシェンドで ff のクライマックスへ導く。頂点で「自然の主題」が合唱に出る。また、頂点でヴァイオリンなどが奏でる動機は、山口によるところの「パン神の動機」であり[123]、この動機が繰り返されながら音楽は静まっていく。 |
老いた山羊飼いのラモンが登場し、パン神がシリンクスとの過ぎし日の思い出ゆえにクロエを助けたのだと説明する。ダフニスとクロエは、パンとシリンクスのアバンチュールを(パントマイムにより)再現する。 | オーボエがラモンを表す新しい旋律を奏でる。その下の音域ではクラリネットが「パン神の動機」を継続している。 |
クロエは草原でさまよう若いニンフ(シリンクス)を演じている。 |
《無言劇》*[注 60] 2本のオーボエとコーラングレが新しい旋律を奏でる。 |
ダフニスが演じるパン神はニンフへの愛を告白する。 | オーボエのフレーズを弦楽器が受ける。 |
ニンフはパン神を拒む。神はさらにしつこく迫る。 | オーボエが下降する動機を奏でる。山口によればこの動機は「シリンクスの拒絶」を表している[123]。 |
ニンフは葦の中で姿を消す。 | クラリネットによる「シリンクスの拒絶」の動機に、オーボエの上昇しながらデクレッシェンドするアルペジオが続く。 |
絶望的したパン神は葦の茎を折ってフルートを作り、メランコリックな曲を奏でる。 | 弦楽器が f でパン神の絶望を表現する。嬰ヘ短調(イ長調の平行調)に転調すると、弦楽器のピチカートとハープがリズムを刻み始める。 |
クロエが再び現れ、踊りによってフルートの抑揚を表現する。 | 伴奏に乗り長いフルートソロが始まる。途中で嬰ヘ長調に転調し、第2フルートやピッコロも交え、次第に高まっていく。 |
踊りはより活気を増していき、 | テンポをさらに速め、ff の頂点に昇り詰めて行く。 |
クロエは大きく身体をひねり、ダフニスの腕の中に落ちる。 | イ長調の4オクターブに及ぶ下降音階が、ピッコロから1番フルート、2番フルート、アルトフルートに一気にリレーされ、その最後の音が「ダフニスの愛の主題」につながる。 |
ロ長調に転調し、「ダフニスの愛の主題」が繰り返される。無伴奏ヴァイオリンソロが「シリンクスの拒絶」の動機を奏でるが、下降する動機は途中から上昇に転じ、ハープのグリッサンドを伴ってロ長調の主和音に溶け込んでいく。 | |
ニンフの祭壇の前で、ダフニスとクロエは二頭の羊を捧げ信仰を誓う。 | バレエ全曲の冒頭と同じイ長調に戻り、「ニンフたちの主題」と「自然の主題」がf で同時に出る(序奏の変形された再現)。 |
バッカスの巫女の衣裳をつけた娘たちがタンバリンを振りながら入場する。 | 突然、「4分音符=168」の急速なテンポになり、4分の5拍子によるバッカナールが予告される。 |
ダフニスとクロエは優しく抱擁する。 | 一瞬テンポをゆるめ、アルトフルートとヴァイオリンが「ダフニスの愛の主題」の一節を奏でる。 |
若者たちのグループが乱入する。幸せな大騒ぎ。 | 再び急速なテンポの4分の5拍子。全曲で初めてカスタネットの出番となる。スネアドラムがバッカナールのリズムを刻み、4分の2拍子を挟んで一旦ff の頂点を作るが、下降する半音階とともに一旦おさまる。弱音器をつけたトランペット、ホルンが三連符を刻むと、そのまま《全員の踊り》になだれ込む。 |
全員の踊り |
《全員の踊り》[注 61] イ長調。4分の5拍子のリズムに乗り、小クラリネットが主題を奏でトランペットがこれに加わる。音楽は様々なエピソードを経ながら盛り上がっていく。 |
ダフニスとクロエ | 5拍子のリズムに乗り「クロエの主題」が回想される。 |
ドルコン | 「ドルコンのグロテスクな踊り」の一節が回想される。 |
3拍子のヘミオラで「ダフニスの愛の主題」が回想されfff の頂点を迎える。いったん静まってから再び4分の5拍子となり、合唱も加わって、喜びにあふれ興奮したフィナーレへと導かれる[124]。 |
出版編集
バレエの再創造編集
バレエ・リュスによる1912年の初演の様子を知ることができる資料は多くない。特にフォーキンの振付がどのようなものであったかを示す資料としてはバランティーヌ・グロスによるラフなスケッチが最も情報量が多い[125][注 63]という状態であり、フォーキンの振付を再現することは困難である。バレエ史の専門家リン・ガラフォーラは『ダフニス』を「どのように踊られたか分からない神秘的な作品」と評している[128]。 今日『ダフニス』が様々なバレエ団のレパートリーとして上演されているのは、様々な振付家がラヴェルの音楽に基づいて再創造を行なった結果である。
アメリカ編集
ラヴェルの死の前年にあたる1936年3月31日には[129]、アメリカのフィラデルフィアにおいて、活動を始めたばかりのリトルフィールド・バレエ団が、主宰者のキャサリン・リトルフィールドによる独自の振付で『ダフニス』を上演している[130]。
イギリス編集
第二次世界大戦後の1951年、イギリスのサドラーズ・ウェルズ・バレエ団(後のロイヤル・バレエ団)では、フレデリック・アシュトンの振付、ジョン・クラックストンの美術により、新しい『ダフニス』が誕生した[131]。 この「アシュトン版」は、フォーキンの台本に従いつつも、舞台は現代のギリシャに移されている。また、第1場のリュセイオンとダフニスの場面がより官能的に表現されていることなどの特徴がある[131]。
1951年4月5日に行われた初演では、マイケル・サムズがダフニス、 マーゴ・フォンテインがクロエを踊った[132][注 64]。 アシュトンは自らの振付をヴォーカル・スコアに記録しており[注 65]、アシュトンが退任した後も度々再演された[134]。
一時(1994年から1996年にかけて)、マーティン・ベインブリッジ(Martyn Bainbridge)の美術によって公演が行われたが[135]、 2004年5月にはアシュトンの生誕100年を記念してアシュトン-クラックストン版が再演され[136]、ダフニス初演100年に向けた2011年冬には、ロイヤル・バレエ団の姉妹団体であるバーミンガム・ロイヤル・バレエ団によっても再演されている[136]。
フランス編集
フォーキンにより『ダフニス』が移植されたパリ・オペラ座では、1959年にメートル・ド・バレエのジョルジュ・スキビンによる振付、マルク・シャガール[注 66]による色鮮やかな美術の新版が作られた[138]。 1959年6月3日の初演ではスキビンがダフニス、クロード・ベッシーがクロエを踊った[注 67]。
この「スキビン版」は1959年から1970年の10年あまりオペラ座のレパートリーに位置づけられ、その間に168回上演された[140]。イギリスのバレエ研究者アイヴァ・ゲストは「パリ・オペラ座で100回以上上演されたバレエ」のリストを作ったが[141]、スキビン版『ダフニス』の168回は、オペラ座で1776年から1999年までに上演された全てのバレエ作品[注 68]の中において26番目の多さである[140]。 なお、後述するように、1963年にパリ・オペラ座バレエが来日した時に演じられた『ダフニス』もこの「スキビン版」である。
その後オペラ座では、2014年から2016年にかけて舞台監督をつとめたバンジャマン・ミルピエの振付、ダニエル・ビュランによる幾何学的な舞台装置による新しいバレエが2014年に初演され、オーレリー・デュポンがクロエを踊った[142]。この「ミルピエ版」は、2016年にアメリカン・バレエ・シアターでも上演されている[143]。
新たなコラボレーション編集
オーストラリアでは、コンテンポラリー・ダンスを手掛けるシドニー・ダンス・カンパニーが、1980年にグレアム・マーフィー振付による『ダフニス』を上演した。その演出は視覚的に斬新なもので、機械仕掛けの雲に乗るパン神[144]や、ローラーブレードでステージ上を移動するニンフ、革の衣裳をまとった海賊[145]が登場するものであった[146]。 また、カナダでは 2012年9月に、ケント・ナガノ指揮モントリオール交響楽団が、現代サーカス芸術集団シルク・エロイーズのアクロバットと共演して全曲の演奏を行っており[147]、バレエ・リュスにおける初演(1912年)から100年目を超えた『ダフニス』は、バレエだけでなく、こうした新しいパフォーマンスとのコラボレーションも行われるようになっている[148]。
日本での上演・演奏編集
戦前~1950年代編集
日本では、太平洋戦争開戦の約半年前にあたる1941年6月4日に新交響楽団(現在のNHK交響楽団)第226回定期公演において、ジョセフ・ローゼンストックの指揮により『ダフニスとクロエ』第2組曲が初演されている[149][注 69]。 この公演は、本来は5月20日に予定されていたが、主要楽員の病気により『ダフニス』が演奏できないという理由でこの日に延期されたものである[149][注 70]。 なお、終戦後まもない1945年11月にも、同じ組み合わせ(1942年からは日本交響楽団、1951年からはNHK交響楽団)により「第2組曲」が再演されている[150][注 71]。
1960年代編集
東京オリンピックのあった1960年代の日本では、シャルル・ミュンシュ、ジャン・マルティノン、アンドレ・クリュイタンス、エルネスト・アンセルメといった、フランスの作品をレパートリーとする指揮者が相次いで来日して『ダフニス』を披露している。なお、これらはいずれも「第2組曲」である。
- 1960年 5月:ミュンシュ指揮ボストン交響楽団[152]
- 1962年 12月:ミュンシュ指揮日本フィルハーモニー交響楽団[153][注 72]
- 1963年 4月:マルティノン指揮NHK交響楽団[150]
- 1964年 5月:クリュイタンス指揮パリ音楽院管弦楽団[154]、6月:アンセルメ指揮NHK交響楽団[150]
また、1963年5月にはパリ・オペラ座バレエが来日して大阪[注 73]と東京で公演を行い[156]、そのプログラムの1つとして「スキビン版」による『ダフニスとクロエ』を披露した。 ダフニスをアッティリオ・ラビス、クロエをクロード・ベッシーが踊り、スキビンの後任のメートル・ド・バレエであるミシェル・デスコンベーはドルコン役も担当した。 演奏はロベール・ブロ指揮による東京フィルハーモニー交響楽団が行い、合唱については、大阪公演が大阪音楽大学[155]、東京公演が東京混声合唱団が担当した[156]であった。
1970年代以降編集
日本で演奏される『ダフニス』は、合唱を省略した「第2組曲」によるものが多かったが、1970年代以降、合唱を省略しない組曲やバレエ音楽全曲が演奏されるようになっている。合唱を省略しない「第2組曲」については、NHK交響楽団では1973年のホルスト・シュタイン指揮のものが同団初であり[150]、1976年の岩城宏之指揮も合唱を省略していない[150]。 1970年代末からは、渡邉曉雄やガリー・ベルティーニ、シャルル・デュトワなどが全曲版により演奏を行っている。
- 1979年 3月:渡邉曉雄指揮東京都交響楽団[157]
- 1984年 1月:渡邉曉雄指揮日本フィルハーモニー交響楽団[153]
- 1987年 2月:ベルティーニ指揮NHK交響楽団[150]
- 1991年 4月:デュトワ指揮NHK交響楽団[150][注 74]
- 1997年 12月:デュトワ指揮NHK交響楽団[150][注 75]
吹奏楽編曲と著作権問題編集
1976年に行われた第24回全日本吹奏楽コンクール全国大会において島根県の出雲市立第一中学校が自由曲として演奏した『ダフニスとクロエ』第2組曲の抜粋(「夜明け」・「全員の踊り」)は、この曲が日本のアマチュア吹奏楽団に広まるきっかけを作った[160]。
当時はラヴェルの没後から40年余りしか経っておらず、作品は著作権保護の対象であり無断での編曲・演奏はできなかったが、当時の学校関係者の間には著作権に関する理解は現在ほど浸透していなかった。コンクールを主催する全日本吹奏楽連盟は機関誌を通じて注意を促していたものの[160]、1981年には『ダフニス』を自由曲として支部代表となった某高等学校が編曲許諾をとっていなかったために全国大会への出場を辞退するという「事件」[注 76]が起こっている[160][注 77]。
また、実際に編曲の許諾を申請しても簡単に許可はおりなかったため、1980年代前半には『ダフニス』の吹奏楽編曲による演奏は事実上不可能に近かったが、1986年には、埼玉栄高等学校の吹奏楽部顧問から相談を受けた吹奏楽指導者秋山紀夫が、日本の著作権管理会社[注 78]を超えて直接フランスのデュラン社に電話で交渉し、ギャルド・レピュブリケーヌ吹奏楽団の指揮者ロジェ・ブートリーによる編曲に限っての演奏許諾を得ることに成功した[160]。 埼玉栄高等学校はこの年『ダフニス』を全国大会で披露し、翌1987年以降、ブートリー編曲による『ダフニス』は吹奏楽コンクールでさかんに取り上げられるようになった[160]。なお、現在は著作権保護期間が過ぎており自由に編曲することが可能になっている[注 79]。
脚注編集
- ^ 「おそらくラヴェルの最高傑作であり、二十世紀の音楽が到達した最もめざましい偉業(B.イヴリー)[4]」「彼の天才を類まれな形で体現した偉大なスコア(H.H.シュトゥッケンシュミット)[5]」、「後世の人々はラヴェルが書いた最も卓れたスコアと褒め称えている(R.ニコルス)[6]」、「フランス音楽の中で最も美しい成果の一つ(イゴール・ストラヴィンスキー)[7]」などの評価がある。
- ^ 原作のリュセイオンは、クロエと愛し合う方法を知らないダフニスに性の手ほどきをし、童貞を奪うのだが[11]、バレエではこの直接的なエピソードは省略されている[12]。
- ^ 新しく作られた振付の中には、パン神を生身のダンサーが演じるものもある(アシュトン版など)。
- ^ ロンゴスの原作では、レスボス島のミティリーニの町から360キロメートル離れた荘園が舞台である[13]。
- ^ ただし原作では踊りで競うのではなく、クロエへの求愛の言葉である。
- ^ 原作では、クロエがドルコンから託された笛を吹くと、海賊が戦利品として運んでいた牛が暴れて海賊船が転覆し、ダフニスが助かることになっている[18]。
- ^ フォーキンによる初期の台本はペテルブルクに保管されている[20]。
- ^ 原作であるロンゴスの『ダフニスとクロエ』についても、フォーキンが読んでいたものはディミトリー・メレシュコフスキー翻訳による1895年のロシア語版[22]、ラヴェルが読んでいたものは古くからのジャック・アミヨ翻訳によるフランス語版であった[12]。
- ^ ディアギレフはバレエの時間は1時間以内を理想としており、その時間は年を追うごとに短くなっていた[26]。おおむね30分前後の作品が多い中、『ダフニス』は異例の長さであった[27]。
- ^ 主人公のダフニスは誘拐されたクロエを助ける訳でもなく、神によって救出される間、眠っているだけである。
- ^ チェルニチェヴァについて、ストラヴィンスキーは「アルフォンソ3世を夢中にさせ、ラヴェルが心を惹かれた唯一の女性」とコメントしている[30]。
- ^ 『ユーニス』はロシアで最初の、古代ギリシャ風の衣裳で踊るバレエとなった[33]。
- ^ その根拠としてクラソフスカヤは、1905年の『アクシスとガラテア』には、フォーキンが『ダフニス』と同時に示したバレエ改革の兆候が見られないことなどを挙げている[34]。
- ^ その4か条とは、「踊りは単なる体操ではなく表現的でなければならない。」、「踊りは登場人物の精神や心の表現でなくてはならない。音楽もワルツやポルカといったものではなく、表現的なダンスにふさわしくなくてはならない。」、「ダンサーは喝采を受けるためにシーンを中断してはいけない。」「バレエは音楽、美術などの要素と完全に調和しなくてはならない。」という内容であった[35]。
- ^ カデレズによる『ダフニスとクロエ』の楽譜の断片がロシア国立図書館に残されている[36]。
- ^ ディアギレフはかつてロシア帝室劇場に特任要員として勤務していた[38]。
- ^ 1906年には「ロシア美術展」を開催している[39]。
- ^ 1906年のロシア美術展から数えて「第4回セゾン・リュス(ロシア・シーズン)」と呼ばれる[41]。
- ^ 演目は『ポロヴェッツ人の踊り』、『レ・シルフィード』、『アルミードの館』などであった[42]。なお、ラヴェルもこの公演に観客として立ち会っている[43]。
- ^ 1906年6月、ディアギレフはクロード・ドビュッシーを訪問し、18世紀のイタリアを舞台にした作品を依頼した。ドビュッシーは『マスクとベルガマスク』の台本を仕上げたが、音楽は書かなかった[44]。
- ^ ディアギレフはパリで影響力を持つミシア・セールと交流があり、ミシアの元夫アルフレッド・エドワーズのサロンや、ミシアの異母兄シーパ・ゴデブスカのサロンは、いずれもラヴェルとつながりがあった[43]。
- ^ 後にラヴェルは『ダフニス』の作曲を依頼された年を「1907年」だと主張しているが、ラヴェルの記憶違いである[46]。
- ^ モリソン(2004)では6月25日となっている[20]。
- ^ 『最新名曲解説全集』などには、1910年にデュラン社からピアノ譜が出版されたという記載があるが、ここで述べたとおり正規の出版物ではない。
- ^ シャイエは、スコアに記されたト書きの変化についても調べ、パン神が1910年版では生身の人間が踊ることになっていたことを明らかにした。また、人物の名前が一部変わっている(Dorkonが元々Darionであったなど)ことを挙げ、ラヴェルが台本に関与したことを示唆するものだとしている[52]。
- ^ タヴェルヌ夫人所有の自筆譜は、ラヴェル没後50年を記念してリヨンで開かれた「ラヴェル展」のために貸し出されたことがある[55]。
- ^ この年の2月27日にラヴェルは、当時フランスに住んでいたイギリスの作家アーノルド・ベネットに『ダフニス』の一部をピアノで弾いて聞かせている[56]。ベネットは、『ダフニス』がパリの人々には古臭く聞こえるのではないかという懸念を日記に記している[52]。
- ^ オーベールは後に、ラヴェルの頼みを断らなかったことを音楽家としての誇りにしたという[58]。
- ^ 後年、どうやって「全員の踊り」を書き直したのか問われたラヴェルは、冗談半分に「簡単さ、リムスキー・コルサコフの『シェヘラザード』をコピーしたんだよ。」と語ったという[60]。
- ^ ラヴェルは3月23日に行われた「第1組曲」のリハーサルに立ち会っている[61]。
- ^ バレエ音楽から連続する部分をそのまま抜き出したものであり、厳密に3つの曲に分かれているわけではない。
- ^ アルフレッド・ブリュノーは当時の進歩的な作曲家とみなされていたが、「第1組曲」の作曲技法の自由さを「アナーキー」であるとして否定的に捉えた[25]。
- ^ ディアギレフも「第1組曲」の初演を阻止することはできなかった[62]。
- ^ 『ナルシス』の初演はモンテカルロ歌劇場において行われた。音楽はこのバレエ団の正指揮者でもあったニコライ・チェレプニンが作曲し、バクストの美術・衣裳、フォーキンの振付でニジンスキー、カルサヴィナらが踊った[63]。
- ^ 王女タマーラ役をタマーラ・カルサヴィナが踊った[68]。
- ^ 偶然にも『マ・メール・ロワ』(1月28日 初演)、『アデライード、または花言葉』(4月22日 初演)、『ダフニスとクロエ』(6月8日初演)という、ラヴェル作曲によるバレエ3作品が1912年の上半期に集中して初演された。前2作はいずれも自作のピアノ曲からの編曲で、ラヴェルが自ら台本を書いたものである[69]。3月にわずか2週間で編曲された『アデライード、または花言葉』について、ラヴェルの弟子ロザンタールは、バレリーナのトゥルハノーヴァから「ディアギレフに対抗する演目」を求められ、ラヴェルはディアギレフの態度に不満があったためにこの仕事を引き受けたとしている[70]。
- ^ 初演の数ヶ月前のこととされる。経営者ジャック・デュランの説得でディアギレフは契約破棄を思いとどまった[72]。
- ^ 通常、新作のバレエは上流階級が席に着いていない開演直後を避け[74]プログラムの2番手に演じられる慣例であったにもかかわらず、ディアギレフは『ダフニス』を第4プログラムの幕開きにしようとし、さらに開演時刻を30分繰り上げて開始しようとしたが、フォーキンの激しい抗議により2番手の上演に戻したとされる[74]。同様の記述はフォーキンのWebサイトの伝記[75]にも見られるが、リチャード・バックルはこのエピソードを紹介しつつも、この話の信憑性に疑問を呈している[73]。
- ^ フォーキンが去った後のバレエ・リュスではニジンスキーが振付師となり、1913年には『春の祭典』や『遊戯』の振付を行うが同年にバレエ・リュスを解雇されてしまったため、フォーキンが呼び戻され、第一次世界大戦が始まるまでの期間、バレエ・リュスに在籍した。
- ^ たびたび再演された『火の鳥』などとは対照的である。
- ^ ニジンスキーがバレエ・リュスを解雇されたことに伴い復帰したフォーキンがダフニスを踊った[81]。
- ^ 後述するように、ロンドン公演をめぐってはディアギレフとラヴェルが合唱パートの扱いをめぐって衝突した。またロンドン公演中、フォーキンは『タイムズ』紙にバレエに関する5か条のマニフェストを掲載した。かつてロシア帝室バレエに提出した4か条の意見書がその原型となっている[82]。
- ^ 加えて、『ロシア革命』によりロシア帝国のパスポートを持っていたダンサーの多くは国籍を失った[85]。
- ^ この時の新作バレエはフランシス・プーランクの音楽、マリー・ローランサンの美術、ブロニスラヴァ・ニジンスカの振付による『牝鹿』であった[88]。
- ^ この間ディアギレフは1920年にも『ダフニス』を再演しようとして稽古の指示をしたが、まもなく気が変わり撤回された[87]。
- ^ グリゴリエフはバレエ・リュスの実務を担当したが、帝室バレエ団で学び、ダンサーとしての経験も持っていた[90]。
- ^ ルーシェは1912年、ラヴェルに『マ・メール・ロワ』のバレエ化を委嘱し、同バレエ音楽を献呈されている[94]。
- ^ フランスのバレエは19世紀前半以降衰退しており[95]、伝統あるパリ・オペラ座も往年に比べれば落ちぶれていたのが実情である[93]。
- ^ 「第1組曲」と同様、連続した音楽をそのまま抜粋しており切れ目なく演奏される。なお、「第2組曲」の初演日時は不明である[97]。
- ^ 管弦楽作品としての『ダフニスとクロエ』は、「第2組曲」の形でとりあげられる機会が最も多いとされている[98][99][100]。
- ^ ヴォーン・ウィリアムズは1907年から1908年にパリを訪れ、ラヴェルに師事したことがある[103]。
- ^ 全音楽譜出版社の『ダフニスとクロエ第2組曲』のポケットスコアには、第3場の「夜明け」における声楽の代替箇所の譜例が掲載されている[106]。
- ^ 全音楽譜出版社のポケットスコア(第2組曲)における作曲家山口博史は、さらに細かい動機や主題の存在を指摘している[110]。
- ^ ジャンケレヴィッチによれば「常軌を逸した嬰ニ音」[111]。
- ^ 5つの主題のうち、合唱によって歌われるのはこの主題のみである。
- ^ 『アルミードの館』の公演では、ニジンスキーが跳躍したまま落ちてこないように見えたと言われる[115]。また、ニジンスキーは公演の後、周囲からの「空中に留まっていることは簡単なのか」という質問に対し、「ただ跳び上がって、一瞬そこで待てばいいんですよ」と答えたと言う[116]。
- ^ ジャンケレヴィッチは、このリュセイオンの踊りと『高雅で感傷的なワルツ』の第3ワルツとの間に作風の共通点を見出している[120]。
- ^ クロエの冠はパン神が加護の印として与えたもの。フォーキンの初期シナリオ及びラヴェルの1910年版のヴォーカルスコアでは、パン神は生身のダンサーが踊ることになっており、クロエに冠を与えるシーンが予定されていたが、後に削除された[122][52]。
- ^ 初期の台本から、クロエがパン神に助けられるシーンはダフニスが夢の中で見た光景ということになっていた[122]。
- ^ この前にあるラモンが登場する場面からを《無言劇》とする場合もある[123]。ここでは音楽之友社ポケットスコア(第2組曲)の井上さつきの区分に従う。
- ^ ダフニスとクロエがニンフの祭壇に羊を捧げる場面からを《全員の踊り》とする場合もある[123] 。
- ^ 「ダフニスとクロエの情景」は、第3場の「無言劇」の部分を中心としている。
- ^ グロスによる『ダフニス』のスケッチは外部リンクを参照[126]、なお、グロスのスケッチは『春の祭典』の場合は細部まで書き込まれている上に数も多く、ニジンスキーの振付を復刻する際の重要な資料の一つとなった[127]。
- ^ ロイヤル・オペラ・ハウスのWebサイトでは、「アシュトン版」が初演された1951年の白黒写真が公開されており、当時のステージを窺い知ることができる[133]。
- ^ アシュトンが振付を記録したスコアはオペラハウスに保管されている[131]。
- ^ シャガールは、1908年にバクストに入門し、彼の元で絵を学んだことがある[137]。
- ^ クロード・ベッシーはその後オペラ座バレエ責任者を経て1973年にはバレエ学校校長となり、1975年にはエトワール・ダンサーを引退するが、同年11月に行った引退公演で演目に取り上げられたのはスキビン版『ダフニス』であった[139]。
- ^ 1900年まではゲストが調べ、それ以降についてはオペラ座の資料による[141]。
- ^ この定期公演ではセルゲイ・プロコフィエフのピアノ協奏曲第3番も初演されている[150]。
- ^ メンバーの病気が理由で定期公演が延期になったのはこれが初めてである[149]。
- ^ バレエについては、『日本洋舞史年表』[151]によると、1958年10月11日に行われた「袴田美智子リサイタル」、1960年11月2日に行われた「沢渓子バレエ団公演」のそれぞれの演目に『ダフニスとクロエ』が含まれているが、フォーキンの台本やラヴェルの音楽が使われていたか、また、これらが日本での初演であるかは不明である。
- ^ この1ヶ月前の11月には若かりし頃の小澤征爾指揮がNHK交響楽団を指揮して「第2組曲」を演奏しているが[150]、この演奏会の後、小澤はNHK交響楽団と32年間にわたって決別する。詳しくは「小澤征爾#小澤征爾とNHK交響楽団」を参照。
- ^ 大阪公演は第6回大阪国際フェスティバルとしてフェスティバルホールで行われた[155]。
- ^ シャルル・デュトワ が当時監督を勤めていたモントリオール交響楽団と1981年に録音したバレエ音楽全曲のディスクは、フランスACCディスク大賞(1982年)、モントルー国際レコード大賞(1982年)、日本レコードアカデミー賞(1983年)などを受賞した[158]。デュトワは1985年2月にモントリオール交響楽団と来日して「第2組曲」を演奏し、その後も1987年9月にはサントリーホールの公演でNHK交響楽団を指揮して「第2組曲」を演奏している[150]。
- ^ デュトワはこの前年に常任指揮者に就任している[159]。
- ^ 関係者の間で「ラヴェル事件」と呼ばれる[160]。
- ^ 音楽之友社の月刊誌『バンドジャーナル』では、この「事件」を受け、1982年3月号で特別企画「ほんとうにラヴェルは演奏できないの?」を掲載した[160]。
- ^ 当時はビュッフェ・クランポン社。
- ^ 著作権消滅以後はブートリー編曲にかわり、国内で出版された編曲譜などにより演奏されている。
出典編集
- ^ 平島正郎(項目執筆)『作曲家別名曲解説ライブラリー⑪ラヴェル』、音楽之友社、1993年9月、ISBN 4-276-01051-9、25頁
- ^ アイヴァ・ゲスト 鈴木晶訳『パリ・オペラ座バレエ』オーバル、2014年12月、ISBN 978-4-582-83673-8、151頁
- ^ サイモン・モリソン『ダフニスとクロエ(1912年)の起源(「19世紀の音楽Vol.28-No.1」)』、カリフォルニア大学出版、2004年、ISSN 0148-2076、51頁、外部リンク
- ^ ベンジャミン・イヴリー 石原俊訳『モーリス・ラヴェル-ある生涯』アルファベータ、2002年10月、ISBN 4-87198-469-9、86頁
- ^ a b ハンス・ハインツ・シュトゥッケンシュミット 岩淵達治訳『モリス・ラヴェル-その生涯と作品』音楽之友社、1983年8月、ISBN 4-276-22631-7、160頁
- ^ ロジャー・ニコルス 渋谷和邦訳『ラヴェル-生涯と作品』泰流社、1987年9月、ISBN 4-88470-604-8、110頁
- ^ a b c アービー・オレンシュタイン 井上さつき訳『ラヴェル-生涯と作品』音楽之友社、2006年12月、ISBN 4-276-13155-3、223頁
- ^ 平島正郎(項目執筆)『最新名曲解説全集6-管弦楽曲III』、音楽之友社、1980年7月、220頁
- ^ a b ロンゴス『ダフニスとクロエー』松平千秋訳、岩波文庫、1987年3月、14頁
- ^ a b ロンゴス 松平訳、前掲書4頁(登場人物紹介)
- ^ ロンゴス、松平訳、前掲書99-103頁
- ^ a b c ニコルス、前掲書106頁
- ^ ロンゴス 松平訳、前掲書9頁
- ^ ロンゴス、松平訳、前掲書25-27頁
- ^ ロンゴス、松平訳、前掲書38-41頁
- ^ ロンゴス、松平訳、前掲書64-79頁
- ^ ロンゴス、松平訳、前掲書40頁
- ^ ロンゴス、松平訳、前掲書40-41頁
- ^ モリソン(2004)、56頁
- ^ a b c モリソン(2004)、54頁
- ^ モリソン(2004)、55-56頁
- ^ a b モリソン(2004)、53頁
- ^ a b ニコルス、前掲書107-108頁
- ^ 芳賀直子『バレエ・リュス-その魅力のすべて』国書刊行会、2009年9月、ISBN 978-4-336-05115-8、338頁
- ^ a b c d シュトゥッケンシュミット、前掲書165頁
- ^ a b リチャード・バックル 『ディアギレフ-ロシア・バレエ団とその時代』鈴木晶訳、リブロポート、1983年5月、(上)209頁
- ^ 芳賀、前掲書234頁
- ^ a b c バックル、前掲書(上)264頁
- ^ a b オレンシュタイン、前掲書(作品目録)25頁
- ^ ニコルス、前掲書113頁
- ^ 市川雅『ダンスの20世紀』新書館、1995年12月、ISBN 4-403-23043-1
- ^ 藤野幸雄『春の祭典-ロシア・バレー団の人々』晶文社、1982年9月、147頁
- ^ a b 藤野、前掲書149頁
- ^ a b c モリソン(2004)、52-53頁
- ^ 市川、前掲書17-18頁
- ^ a b モリソン(2004)、64-65頁
- ^ モリソン(2004)、65頁
- ^ シェング・スヘイエン 鈴木晶訳『ディアギレフ-芸術に捧げた生涯』みすず書房、2012年2月、ISBN 978-4-622-07654-4、106頁
- ^ バックル、前掲書(上)101頁
- ^ セルゲイ・グリゴリエフ、薄井憲二・森瑠依子 訳『ディアギレフ・バレエ年代記:1909-1929』平凡社、2014年7月、ISBN 978-4-582-83665-3、9頁
- ^ 鈴木晶『オペラ座の迷宮-パリ・オペラ座バレエの350年』新書館、2013年6月、ISBN 978-4-403-23124-7、254頁
- ^ a b グリゴリエフ、前掲書24-31頁
- ^ a b 芳賀、前掲書333頁
- ^ 松橋麻利『作曲家◎人と作品-ドビュッシー』、音楽之友社、2007年5月、ISBN 978-4-276-22189-5、123頁
- ^ ニコルス、前掲書91頁
- ^ モリソン(2004)、57頁
- ^ スヘイエン、前掲書186頁
- ^ オレンシュタイン、前掲書78頁
- ^ a b オレンシュタイン、前掲書273-274頁
- ^ a b オレンシュタイン、275頁
- ^ a b モリソン(2004)、63-64頁
- ^ a b c d モリソン(2004)、64頁
- ^ モリソン(2004)、6(2004)、66-67頁
- ^ オレンシュタイン、前掲書、作品目録14、25頁
- ^ ロザンタール、前掲書132頁
- ^ バックル、前掲書(上)216頁
- ^ ニコルス、前掲書53頁
- ^ a b ロザンタール、前掲書20頁
- ^ a b ニコルス、前掲書109頁
- ^ マニュエル・ロザンタール著、マルセル・マルナ編、伊藤制子訳『ラヴェル-その素顔と音楽論』春秋社、1998年3月、ISBN 4-393-93144-0、38頁
- ^ シュトゥッケンシュミット、前掲書164頁
- ^ バックル、前掲書(上)234頁
- ^ 芳賀、前掲書232頁
- ^ スヘイエン、前掲書217頁
- ^ バックル、前掲書(上)222頁
- ^ a b ドリス・モントゥー 家里和夫訳『指揮棒と80年-ピエール・モントゥーの回想』、音楽之友社、1967年10月、96頁
- ^ バックル、前掲書256頁
- ^ バックル、前掲書(上)258頁
- ^ オレンシュタイン、前掲書85頁
- ^ ロザンタール、前掲書17頁
- ^ 藤野、前掲書186頁
- ^ a b c シュトゥッケンシュミット、前掲書166頁
- ^ a b c d e バックル、前掲書(上)265頁
- ^ a b イヴリー、前掲書82頁
- ^ Michel Fokine -Fokine Estate Archive Fokine Estate Archive(英語)、2018年12月9日閲覧
- ^ グリゴリエフ、前掲書76頁
- ^ バックル、前掲書(上)311頁
- ^ オレンシュタイン、79頁
- ^ バックル、前掲書(上)254頁
- ^ バックル、前掲書(上)266頁
- ^ グリゴリエフ、前掲書107頁
- ^ 市川、前掲書18-19頁
- ^ バックル、前掲書(下)77頁
- ^ バックル、前掲書(下)78頁
- ^ スヘイエン、前掲書333頁
- ^ グリゴリエフ、前掲書151頁
- ^ a b グリゴリエフ、前掲書178頁
- ^ バックル、前掲書(下)171-173頁
- ^ グリゴリエフ、前掲書213頁
- ^ 芳賀、前掲書24頁
- ^ ディアギレフ、前掲書(下)170頁
- ^ グリゴリエフ、前掲書219頁
- ^ a b c 鈴木、前掲書274-275頁
- ^ オレンシュタイン、前掲書(作品目録)23頁
- ^ 鈴木、前掲書239頁
- ^ a b ゲスト、前掲書151頁
- ^ 井上さつき(解説)『ラヴェル-ダフニスとクロエ第2組曲』音楽之友社、1999年6月、ISBN 4-276-90954-6、1頁
- ^ 平島、前掲書22頁
- ^ ジャンケレヴィッチ、前掲書226頁
- ^ 諸井誠『わたしのラヴェル』、音楽之友社、1984年5月、ISBN 4-276-37032-9、148頁
- ^ エレーヌ・ジョルダン=モランジュ 安川加寿子、嘉乃海隆子共訳『ラヴェルと私たち』、音楽之友社、1968年8月、56-57頁
- ^ ニコルス、前掲書212頁
- ^ オレンシュタイン、前掲書76頁
- ^ オレンシュタイン、前掲書89頁
- ^ デュラン社版、ドーヴァー社版
- ^ 全音楽譜出版社『ラヴェル-《ダフニスとクロエ》第2組曲』、2011年2月、ISBN 978-4-11-892471-7、21頁
- ^ a b c d e f g h ヴラディーミル・ジャンケレヴィッチ 福田達夫訳『ラヴェル』(新装版)、白水社、2002年10月、ISBN 4-560-02652-1、63頁
- ^ ニコルス、前掲書110-112頁
- ^ ジャンケレヴィッチ、前掲書279頁(訳者あとがき)
- ^ 山口博史(解説)『ラヴェル-《ダフニスとクロエ》第2組曲』全音楽譜出版社、2011年2月、ISBN 978-4-11-892471-7、10-15頁
- ^ ジャンケレヴィッチ、前掲書137頁
- ^ ジャンケレヴィッチ、前掲書136頁
- ^ a b 諸井、前掲書154頁
- ^ a b 山口、前掲書14頁
- ^ バックル、前掲書(上)161頁
- ^ バックル、前掲書(上)163頁
- ^ a b オレンシュタイン、前掲書224頁
- ^ a b ジャンケレヴィッチ、前掲書64頁
- ^ ジャンケレヴィッチ、前掲書173頁
- ^ ジャンケレヴィッチ、前掲書56頁
- ^ a b ジャンケレヴィッチ、前掲書65頁
- ^ a b モリソン(2004)、55頁
- ^ a b c d 山口、前掲書13頁
- ^ オレンシュタイン、225頁
- ^ モリソン(2004)、70頁
- ^ バランティーヌ・グロスによる『ダフニスとクロエ』のスケッチ(英語)、2018年12月9日閲覧
- ^ 市川、前掲書46頁
- ^ デボラ・マワー 『モーリス・ラヴェル「ダフニスとクロエ」のバレエの創造における音楽と舞踊(及びデザイン)の関係(「ケベック音楽研究会のノート」Volume 13、No.1-2)』、ケベック大学音楽学部、2012年9月21日、ISSN 1480-1132、78頁、外部リンク
- ^ キャサリン・リトルフィールドに関するサイト(英語) 2018年12月9日閲覧
- ^ ナンシー・レイノルズ 松澤慶信 監訳『20世紀ダンス史』慶應義塾大学出版会、2013年12月、ISBN 978-4-7664-2092-0、150頁
- ^ a b c モリソン(2004)、76頁
- ^ ロイヤルオペラハウス・コレクションズ・オンライン-「アシュトン版」初演のデータ(英語)、2018年12月9日閲覧
- ^ ロイヤルオペラハウス・コレクションズ・オンライン-「アシュトン版」のステージ写真(英語)、2018年12月9日閲覧
- ^ ロイヤルオペラハウス・コレクションズ・オンライン-「アシュトン-クラックストン版」の公演記録(英語)、2018年12月9日閲覧
- ^ ロイヤルオペラハウス・コレクションズ・オンライン-「アシュトン-ベインブリッジ版」の公演記録(英語) 、2018年12月9日閲覧
- ^ a b マワー(2012)、82-84頁
- ^ 藤野、前掲書89頁
- ^ ゲスト、前掲書189頁
- ^ ジェラール・マノニ 神奈川夏子訳『偉大なるダンサーたち~パヴロワ、ニジンスキーからギエム、熊川への系譜~』ヤマハミュージックメディア、2015年1月、ISBN 978-4-636-90370-6、152頁
- ^ a b 鈴木、前掲書46-47頁
- ^ a b ゲスト、前掲書236-237頁
- ^ パリ国立オペラ-ミルピエ版『ダフニス』(フランス語)、2018年12月9日閲覧
- ^ アメリカン・バレエ・シアターのレパートリーアーカイブ(英語)、2018年12月9日閲覧
- ^ オーストリア国立図書館-機械仕掛けの雲に乗るパン神の写真(英語)、2018年12月9日閲覧
- ^ オーストリア国立図書館-革の衣裳をまとった海賊の写真(英語)、2018年12月9日閲覧
- ^ モリソン(2004)、75頁
- ^ アクロバットと共演するモントリオール交響楽団の様子を伝える記事(フランス語)、2018年12月9日閲覧
- ^ マワー(2012)、84頁
- ^ a b c 佐野之彦『N響80年全記録』文藝春秋、2007年9月、ISBN 978-4-16-368590-8、巻末付録(頁番号なし)
- ^ a b c d e f g h i j k NHK交響楽団-演奏会記録、2018年12月9日閲覧
- ^ 日本洋舞史年表、2018年12月9日閲覧
- ^ DVD『シャルル・ミュンシュ/ボストン交響楽団1960年日本特別演奏会』NHKエンタープライズ
- ^ a b 日本フィルハーモニー交響楽団・60年の歩み、2018年12月9日閲覧
- ^ 宇野功芳(日本語解説)CD「Ravel/Orchestral Music・Cluytens」Altus Music
- ^ a b 大阪音楽大学100周年史1956年~1965年、2018年12月9日閲覧
- ^ a b 昭和音楽大学・バレエ情報総合データベース、2018年12月9日閲覧
- ^ 東京都交響楽団創立50周年コンサートアーカイブ、2018年12月9日閲覧
- ^ モントリオール交響楽団公式サイト(フランス語)、2018年12月9日閲覧
- ^ NHK交響楽団-歴代指揮者、2018年12月9日閲覧
- ^ a b c d e f g 秋山紀夫(項目執筆)『バンドジャーナル』2015年11月号「キーワードと誌面から振り返る「日本の吹奏楽」70年史」、音楽之友社、2015年11月、92-93頁
参考文献編集
- アービー・オレンシュタイン 井上さつき訳『ラヴェル 生涯と作品』音楽之友社、2006年12月、ISBN 4-276-13155-3
- アイヴァ・ゲスト 鈴木晶訳『パリ・オペラ座バレエ』、平凡社、2014年12月、ISBN 978-4-582-83673-8
- サイモン・モリソン『ダフニスとクロエ(1912年)の起源(「19世紀の音楽Vol.28-No.1」)』、カリフォルニア大学出版、2004年、ISSN 0148-2076、JESTOR
- シェング・スヘイエン 鈴木晶訳『ディアギレフ 芸術に捧げた生涯』みすず書房、2012年2月、ISBN 978-4-622-07654-4
- セルゲイ・グリゴリエフ 薄井憲二、森瑠依子訳『ディアギレフ・バレエ年代記:1909-1929』平凡社、2014年7月、ISBN 978-4-582-83665-3
- デボラ・マワー 『モーリス・ラヴェル「ダフニスとクロエ」のバレエの創造における音楽と舞踊(及びデザイン)の関係(「ケベック音楽研究会のノート」Volume 13、No.1-2)』、ケベック大学音楽学部、2012年9月、ISSN 1480-1132 、外部リンク
- ハンス・ハインツ・シュトゥッケンシュミット 岩淵達治訳『モリス・ラヴェル その生涯と作品』音楽之友社、1983年8月、ISBN 4-276-22631-7
- ベンジャミン・イヴリー 石原俊訳『モーリス・ラヴェル ある生涯』アルファベータ、2002年10月、ISBN 4-87198-469-9
- マニュエル・ロザンタール、マルセル・マルナ編、伊藤制子訳『ラヴェル その素顔と音楽論』春秋社、1998年3月、ISBN 4-393-93144-0
- リチャード・バックル 鈴木晶訳『ディアギレフ-ロシア・バレエ団とその時代』リブロポート(上・下)、1983年5月、(上)ISBN 4-8457-0089-1、(下)ISBN 4-8457-0115-4
- ロジャー・ニコルス 渋谷和邦訳『ラヴェル 生涯と作品』泰流社、1987年9月、ISBN 4-88470-604-8
- 市川雅『ダンスの20世紀』新書館、1995年12月、ISBN 4-403-23043-1
- 井上さつき(解説)『ラヴェル ダフニスとクロエ第2組曲』音楽之友社、1999年6月、ISBN 4-276-90954-6
- 芳賀直子『バレエ・リュス その魅力のすべて』国書刊行会、2009年9月、ISBN 978-4-336-05115-8
- 藤野幸雄『春の祭典 ロシア・バレー団の人々』晶文社、1982年9月
- 平島正郎(項目執筆)『最新名曲解説全集6管弦楽曲III』 音楽之友社、1980年7月
- 諸井誠『わたしのラヴェル』、音楽之友社、1984年5月、ISBN 4-276-37032-9
- 山口博史(解説)『ラヴェル 《ダフニスとクロエ》第2組曲』全音楽譜出版社、2011年2月、ISBN 978-4-11-892471-7
関連項目編集
- ダフニスとクロエ (冨田勲のアルバム) - 冨田勲が編曲したシンセサイザーによる「第2組曲」を含むアルバム。
- ダフニスとクロエ (ガロッタ) - ジャン=クロード・ガロッタの振付によるバレエ。ラヴェルの楽曲は使用しておらず、フランス語のタイトルは『Daphnis et Chloé』ではなく『Daphnis é Chloé』である。
外部リンク編集
- 『ダフニスとクロエ』全曲の楽譜 - 国際楽譜ライブラリープロジェクト
- 『ダフニスとクロエ』第1組曲の楽譜 - 国際楽譜ライブラリープロジェクト
- 『ダフニスとクロエ』第2組曲の楽譜 - 国際楽譜ライブラリープロジェクト
- 「ダフニスとクロエ」 評伝 "Bolero: The Life of Maurice Ravel"(マデリーン・ゴス著、1940年出版)からの翻訳記事。