ダンケルク (戦艦)

第二次世界大戦期のフランスの戦艦。ダンケルク級のネームシップ。
艦歴
発注
起工 1932年12月24日
進水 1935年10月2日
就役 1937年5月1日
退役 1942年
その後 1942年11月27日にドック内で自沈
除籍 1945年
性能諸元
排水量 基準:26,500トン
全長 215.14 m、209 m(水線長)
全幅 31.1 m
吃水 8.7~9.63 m
機関 インドル式重油専焼水管缶6基+ラテュ式ギヤード・タービン4基4軸推進
最大出力 135,585hp
最大速力 31ノット(通常時)
乗員 1,381名
兵装 33cm(52口径)4連装砲2基、
13cm(52口径)連装両用砲2基
 +同4連装両用砲3基、
37mm(60口径)連装機関砲10基、
13.2 mm(76口径)連装機銃16基
艦載機 水上機4機(常用3機、予備1機)、
カタパルト1基

ダンケルク (Dunkerque) は、フランス海軍ワシントン海軍軍縮条約の規定により建造し[1]第二次世界大戦で運用した戦艦[2]。 列強各国からは巡洋戦艦と見做されることもある[3][4][注釈 1][注釈 2]

概要 編集

ダンケルク (Dunkerque) は[7]、フランスが1932年(昭和7年)12月から1937年(昭和12年)5月にかけて建造した高速戦艦[8]ダンケルク級戦艦ネームシップ[注釈 3]フランス公式の分類は戦列艦[注釈 4][注釈 5]。 艦名は同国の港湾都市ダンケルクに因む。 姉妹艦はストラスブール[9] (Strasbourg) [注釈 5]

1939年(昭和14年)9月以降の第二次世界大戦緒戦において、ダンケルク級は襲撃部隊に所属していた。イギリス海軍の艦艇と共に、大西洋での船団護衛任務やドイツ海軍の通商破壊艦に対する警戒任務に従事した[11]。11月下旬、本艦は巡洋戦艦フッドを率いて北海に進出し[12]シャルンホルスト級戦艦ポケット戦艦を捜索した[13]

1940年(昭和15年)6月下旬のフランス降伏とヴィシー政権発足時、本艦を含む襲撃部隊の大部分はメルス・エル・ケビールに停泊していた[14]。イギリスはフランス艦隊が枢軸国接収されるのを防ぐため[15]7月3日に巡洋戦艦フッド[12]と空母アーク・ロイヤルを主力とするH部隊 (Force H) でフランス艦隊を攻撃した[16]。このメルセルケビール海戦レバー作戦において[17]、ダンケルクは艦砲射撃と空襲により損傷し、着底する[18]。浮揚修理後、1942年(昭和17年)2月にトゥーロンに戻った。残存艦艇と共に待機中11月27日[19]侵攻してきたドイツ軍による鹵獲を防ぐために自沈した[20]

艦歴 編集

建造経緯 編集

1921年末から始まった華府会議の結果、1922年2月6日に締結されたワシントン海軍軍縮条約により[21]、列強各国は保有艦艇を制限した(海軍休日[22]。直後の同年8月26日、フランスが保有を許されていたクールベ級戦艦フランス (France) が座礁して沈没する[23]

軍縮条約締結後のフランス海軍は、巡洋艦や駆逐艦などの建造に尽力した[注釈 6]主力艦の建造に関しては、新世代戦艦どころか、事故で喪失した「フランス」の代艦建造も見合わせていた[25][注釈 7]。1931年(昭和6年)年度計画で[27]、ようやく「フランス」の代艦として新たな戦艦を建造することにした[1]。これが本級である[注釈 8]。 折しもドイツヴァイマル共和国軍[注釈 9]ドイッチュラント級装甲艦(通称“ポケット戦艦”)を完成させた[29][30][31]。本級建造の背景にはドイツ新鋭艦に対抗する意味合いもあり[32][33]、実際に建造された本級は全ての点でポケット戦艦ドイッチュラントを凌駕していた[34][注釈 10]

1931年(昭和6年)2月中旬、フランス海軍委員会は1931年度海軍建造案において、巡洋戦艦1隻を建造するよう勧告した[38]。同年7月[39]、フランス議会は2万3,000トン級巡洋艦を追加で建造するよう決議した[注釈 11]。各種案(17,500トン型[41]、35,000トン型[42]、23,000~25,000トン型[43])を検討した結果、艦型は2万6,000トン級に拡大した[44]。 1932年(昭和7年)10月下旬、フランス政府は本艦の建造を命じた[注釈 12]

ダンケルクは同年12月24日にブレスト海軍工廠で起工し、1935年(昭和10年)10月2日に進水した[注釈 13]乾ドックの制約により艦体全てを建造することができず、エノン造船所に曳航してから艦首を建造した[注釈 14]。 1936年に公試をおこない[注釈 15]、1937年(昭和12年)5月1日に就役した。 同時代の戦艦と比べ、主砲2基と副砲の一部を四連装砲塔に収めたことで軽量化に成功し、その浮いた重量分の強化に当て、かつ主砲塔2基を艦前部に集中配置としたことでヴァイタル・パートも短縮化できた[48]。防御構造も新機軸のものを採用している[49]。15インチ砲や16インチ砲を搭載した列強各国の新世代戦艦と比較すると砲火力で見劣りするが[50]、防御力と速力に関しては申し分なく、本級はシャルンホルスト級戦艦に匹敵する高速戦艦であった[13]

設計は13インチ(33センチ)50口径砲四連装砲塔にまとめ、その主砲塔2基(計8門)を艦前方に配置している[9]。当時の列強各国では[51]ジュネーブ世界軍縮会議[52]第二次ロンドン海軍軍縮会議にむけてワシントン海軍条約の条項を変更し、新型戦艦の主砲口径を12インチ~14インチ、艦型を2万5,000トン程度に制限しようという動きがあった[53][54][注釈 16]。フランス海軍は前級で既に13.4インチ(34センチ)45口径砲を採用していたが、本級では各案検討の末に[56]、やや小口径の新型砲を採用することになった[注釈 17]。 四連装砲塔は第一次世界大戦時に計画されたノルマンディー級リヨン級より続く[58]、ダンケルク級やリシュリュー級といったフランス新戦艦の外見上の大きな特徴である[59]。 なお本級に似た外観をもつイギリス海軍のネルソン級戦艦2隻は[48][60]、16インチ(40センチ)三連装砲塔3基(計9門)を艦首側甲板に集中的に配置する強力な戦艦であった[61]。その一方で3番砲塔の射界、23ノットという低速や操艦性能の悪さなどの問題点もあった[62][注釈 18]

就役直後の1937年(昭和12年)5月20日、イギリススピットヘッドで開催されたジョージ6世戴冠記念観艦式に参加、ホスト国のネルソン級戦艦や巡洋戦艦フッドドイツ海軍のポケット戦艦アドミラル・グラーフ・シュペー日本海軍の重巡足柄などと顔を合わせている[注釈 19]

その後は、訓練と、大西洋や地中海での哨戒任務に従事した。ヨーロッパでナチス・ドイツが躍進し、英独海軍協定が締結される[63]。国際関係が複雑化するなかで、本艦は姉妹艦ストラスブールなどと共に幾度かイギリス各地を訪問し、イギリス海軍と交流を深めている[注釈 2]

第二次世界大戦緒戦 編集

1939年(昭和14年)9月からはじまった第二次世界大戦初期、いわゆるまやかし戦争Phoney War)において、ダンケルク級戦艦は長大な航続性能を生かして連合国側の船団護衛任務に従事した。ドイツ海軍は、連合国軍のシーレーン攪乱を狙って通商破壊艦(ポケット戦艦[64]仮装巡洋艦Uボート)を大西洋に放った[65][注釈 20]。 フランス海軍は、ダンケルク級戦艦や空母ベアルンおよび軽巡洋艦や大型駆逐艦で襲撃部隊を編成していた。イギリス海軍はフランス海軍にポケット戦艦の捜索と掃討に協力するよう要請し[70]、この方針によりダンケルク級戦艦もアドミラル・グラーフ・シュペー追撃戦に参加した[注釈 21]

同年11月23日フェロー諸島沖海戦で英海軍の補助巡洋艦ラワルピンディが、ドイツ海軍の高速戦艦(巡洋戦艦)2隻(グナイゼナウシャルンホルスト)に撃沈された[73][74]。沈没寸前のラワルピンディも、救援にかけつけた英海軍の軽巡洋艦ニューカッスルも、敵艦(シャルンホルスト級)を「ポケット戦艦のドイツチラント」と誤認報告してしまう[75][76]。 イギリス海軍は本国艦隊を出撃させると共に、イギリス本土デヴォンポートにいた襲撃部隊(司令官ジャンスール提督:戦艦ダンケルク、軽巡ジョルジュ・レイグ、軽巡モンカルム、大型駆逐艦モガドールボルタ英語版フランス語版)にも出撃を命じた[77]。イギリス国民の誇りと謳われた巡洋戦艦フッドを指揮下にいれたダンケルクは[12]、ドイツ通商破壊艦の捜索と追撃戦に参加する[78]アイスランド南方やフェロー諸島方面を警戒したが[79]、シャルンホルスト級戦艦2隻は連合軍包囲網を潜り抜けてドイツ本国に戻った[80]

地中海戦域 編集

1940年(昭和15年)4月初頭、ドイツ軍のヴェーザー演習作戦によりノルウェーの戦いが始まり[81]、フランス艦隊も出撃準備をおこなう。だが同時期にイタリア王国参戦の可能性が高くなり、同月末までにダンケルク級を含む襲撃部隊は北アフリカのアルジェリアに移動した[82]。イタリアが参戦した場合、フランス海軍が地中海の西側を担当し、アレクサンドリアを拠点とするイギリス海軍の地中海艦隊が東半分を受け持つ[83][注釈 22]。ダンケルクとストラスブールはアルジェリアメルス・エル・ケビールでドック入りし、整備をおこなった。

5月以降のドイツ軍快進撃により、連合国軍は西部戦線で大敗した[84]6月10日イタリア王国枢軸側にたって連合国宣戦を布告し地中海戦域は一気に緊迫化した[85]。フランス海軍はヴァード作戦 (Opération Vado) を発動し、巡洋艦部隊でイタリア北西部のジェノヴァ軍港を砲撃した[86]。この作戦にダンケルク級は参加していない[87]6月22日独仏休戦協定が、24日フランスとイタリア間ヴィラ・インチーサ休戦協定イタリア語版フランス語版が結ばれて、フランスは事実上降伏する[88][89]。さらにヴィシー政権が成立すると[90]イギリスは「これらのフランス艦艇がナチス・ドイツに接収されるのではないか」と懸念した[3]

7月3日、イギリス軍はフランス艦隊を無力化するためカタパルト作戦 (Operation Catapult) を発動し、ジブラルタルを拠点に行動するH部隊 (Force H) [78]がメルセルケビール沖合に集結する[91][注釈 23]。H部隊司令官ジェームズ・サマヴィル中将の旗艦は、かつてダンケルク(ジャンスール提督)と共にシャルンホルスト級を追跡した英巡洋戦艦フッドであった[12]

メルセルケビールには、ダンケルク級戦艦2隻、プロヴァンス級戦艦2隻、水上機母艦コマンダン・テストなどが停泊していた[14]。H部隊はフランス艦隊(司令長官ジャンスール中将、旗艦ダンケルク)に降伏もしくは自沈を促すと共に、空母アーク・ロイヤルソードフィッシュが機雷を投下した[93][注釈 24]。 夕刻になり戦端が切られ、H部隊は港外から砲撃を開始する[17]。フランス艦隊も撃ち返した[94]。15インチ砲弾4発が命中したダンケルクは中破し[11]、沈没を避けるため故意に浅瀬に座礁させられた[95]。戦艦プロヴァンスも被弾して着底し、戦艦ブルターニュは爆沈した[95]。 ストラスブールと数隻の駆逐艦は脱出に成功し、トゥーロンに辿り着いた[96]。 7月6日、H部隊はアーク・ロイヤル搭載機による空襲をおこなう[97]レバー作戦)。ソードフィッシュの攻撃で哨戒艇が被雷、その搭載爆雷の誘爆でダンケルクは一層の被害を受けて浸水が進み、着底した[11]。一連の戦闘による本艦の戦死者は200名を越えたという[95]

待機と自沈 編集

後日、ダンケルクは修理に成功した[注釈 25]1942年(昭和17年)2月下旬になって地中海を横断し、トゥーロンへ帰還した。トゥーロンで乾ドックに入渠し、本格的修理がはじまる。ヴィシー政権において、ヴィシー・フランス海軍公海艦隊 (Forces de haute mer) に所属した。11月8日、連合国軍はトーチ作戦によりモロッコアルジェリアに上陸し[99]カサブランカ沖海戦でフランス艦隊が大損害を受ける[90]。フランス海軍総司令官フランソワ・ダルラン大将はトゥーロンのフランス艦隊に自由フランス軍への合流を命じたが、同地のド・ラボルテ大将は出港を拒否した[100]

11月27日ドイツ陸軍アントン作戦によりトゥーロンに侵攻してきた[101]。ダンケルク級戦艦2隻やプロヴァンスは、コマンダン・テストなどと共に自沈処理が行われた[20]。ダンケルクの艦長は当初自沈を拒否したが、軽巡ラ・ガリソニエールの艦長に説得され自沈を受け入れた。

その後、トゥーロンはUボートの基地として利用され、連合国軍は空爆をおこなった[102]。1944年(昭和19年)8月6日、連合国軍はドラグーン作戦 (Operation Dragoon) を発動して南フランスに侵攻した。8月15日からはトゥーロンの戦い英語版フランス語版が始まる[102]。この作戦時、ドイツ軍はダンケルク級の主砲塔を利用して応戦したという[102][注釈 26]。連合軍がトゥーロンを占領したとき、ダンケルクは残骸になっていた。

第二次世界大戦終了と共に、解体処分された[13]

出典 編集

注釈 編集

  1. ^ (三)佛國ノ巡洋戰艦「ダンケルク」竝ニ独逸ノ一萬噸級「ポケット」戰艦[5] 獨國「ドイツチランド」級一萬噸級「ポケツト」戰艦竝ニ之ニ對抗シテ佛國ニテ建造中ノ二六,五〇〇噸級主力艦「ダンケルク」ニ就テ述ベントス此ノ兩艦ノ要目大約次ノ如シ(ダンケルク、アドミラルシェーア要目略)
  2. ^ a b 佛國海軍の英國諸港訪問[6] 昨年度中には佛國軍艦の英國來訪が數度行はれた。(中略)五月及び六月に佛國の大西洋艦隊の多數が英國港灣を訪問した。即ち巡戰のダンケルク(ゲンソール中将の旗艦)及ストラスブルグはリヴァプールオーバンスカッパフロー、及フォース・オブ・フォースを歴訪した。(中略)六月には佛國の巡戰及び巡洋艦がフォース・オブ・フォースに來箸したとき、サア・チャーレス・フォーブス大将麾下の内國艦隊に依つて歓迎を受けた。彼等は五日間滞泊し、其の間、訪問者に對する饗應の設備萬端十分に行届き又民間、海軍兩者とも力を併せて或はスポーツの競技を行ひ、或る軍事上の相談をも行つた。(以下略)
  3. ^ 戰艦 “ダンケルク Dunkerque[9] 全要目{排水量26,500噸 速力29.5節 備砲33糎砲8門、13糎砲16門 起工1932年12月 竣工1936年12月 建造所 ブレスト海軍工廠 } 華府條約締結後始めて生れた新造戰艦として列強注視のものである。この外に35,000噸の最大級戰艦“ジャンバール Jean Bart” “リシユリ Richelieu”(38糎砲8門)の二艦が建造中であることを忘れてはならないが、戰艦ダンケルクの誕生はたしかに歐洲のみならず世界の海軍史に一つの大きな里標を築くものである。むしろ古典的ともいふべき舊戰艦數隻ありとはいへ、佛國は未だ戰艦を持たなかつたといつてよい。世界最初の四聯装砲にしてしかも主砲であり尚且つ思ひ切つた艦首集中の方式である。ネルソンに似てネルソンに非ずミシシピに似てミシシピではない。副砲は四聯砲、要目は嚴重に秘密となつてゐるが、信ずるに足る報導によれば全長213.6米、幅31.0米、平均吃水8.5米、カタパルトは艦尾に二臺あるといふ。同型艦一隻“ストラスブール Strasbourg
  4. ^ フランス語ではNavire de ligne、またはBâtiment de ligneと表記する。
  5. ^ a b 佛國[10](中略)戰艦 建造中の三五,〇〇〇噸級戰艦二隻。即ちリシュリューは一月ブレスト乾船渠より、ジャンバールは十一月サン・ナゼールに於て昨年進水した。前者の船臺には代つてクレマンソー龍骨が据えられた。佛國海軍年鑑「Les Flottes de Combat」に依れば、上記戰艦は主要性能に於てダンケルクの設計を踏襲したものであるが、但し煙突は極めて風變りなもの一箇で、煙路は全く新しい形式で後方に曲り、之に接著せる大檣は幾分獨逸風に倣つてゐる。
     軍艦ストラスブールに關して昨年述べた要目は幾分正確を缺いた點がある。同艦の兵装は三三糎(一三吋)砲八門と一三糎砲十六門の外四七粍砲四門、三七粍高角砲八門、對空機關砲三十二門である。乗組定員は士官六六、兵一,三六五名である。同艦と其の姉妹艦ダンケルクの艦種は公式にはリシュリュー級と同様Bátimenr de ligne(cuirassés)(註ships of line)に編入されてゐることを注意すべきである。
  6. ^ 第四節 佛蘭西/一、造艦政策[24] 佛國は華府會議後、四圍の状勢竝に國策遂行上、全然主力艦の建造を行はない。専ら巡洋艦其の他の輕快艦艇の建造に努めて來たが、獨逸に於てドイッチランド型装甲巡洋艦出現以來、從來の一萬噸巡洋艦では、到底之に對抗することが不可能であることを觀破し、之を凌駕し得べき艦種を建造する必要を痛感するに至り、一九三一年度計畫中に於ては、主力艦(二六,五〇〇噸)一隻の建造を計畫し、之を昨年末起工し、目下建造中である。(以下略)
  7. ^ 航空母艦も、ノルマンディー級戦艦の「ベアルン」を改造したのみ[26]
  8. ^ 建艦計畫(中略) 佛國の補助艦勢力[28] ロンドン條約の制限を受けなかつた佛國は、伊國と共に補助艦の自由なる建艦を行ふことが出來たので、其の勢力は頗る優勢であり、特に驅逐艦、潜水艦の勢力は右の如く強大であつて、箇艦の性能に於ても卓越せるものがある。/ 尚主力艦に於ても、ワシントン條約の許容範圍内に於て新艦建造の餘裕を持つてゐた佛・伊は獨のポケット戰艦出現を動機として、自ら三國に建艦競爭の事態を惹起してゐたのである。/ すなはち佛は獨のドイッチランド級戰艦に對して、ダンケルク、ストラスブール(二六,五〇〇噸)二戰艦を起工し、又伊國のリットリオヴィットリオ・ヴェネトの二艦に對して、同じく三五,〇〇〇噸戰艦リイシュェリウジャンバールの起工となり、更に獨が二六,〇〇〇噸級戰艦シャルンホルストグナイゼナウの二艦、竝に三五,〇〇〇級戰艦(未命名)を起工すると云ふ状況で、これ等が逐次竣工して、無條約時代に於ける新主力艦の先驅をなすに至つたのである。
  9. ^ ドイッチュラント級が建造された時代のドイツ海軍はヴァイマル共和国海軍英語版ドイツ語版であり、ドイツ再軍備宣言後にドイツ国防軍 (Wehrmacht) のKriegsmarineとなった。
  10. ^ ドイツ海軍はポケット戦艦の建造計画を見直し[35]、ダンケルク級に対抗できる性能のシャルンホルスト級戦艦を建造した[36][37]
  11. ^ 佛獨軍備 競爭に現るゝ睨み合の状態 [40]【巴里】フランス外務當局は戰債問題對策に多忙を極めブリアン外相は歐洲平和の爲め努力してゐるが閉會前のフランス議會上院は二日政府案を拒絶し百六十五對百三十一票で海軍擴張決議文を通過した。/決議文は、次議會開會劈頭政府の現海軍建築豫定以外に二万三千噸の一等巡洋艦一隻費用三千万弗を加ゆべきを要求している。/政府の建艦プログラムは 二等巡洋艦二隻、通報艦近海運送船各一隻運送船四隻 を含んでゐて下院を通過したものである。/尚乗員の同決議文討議中に新優秀艦建造目的がドイツの新造艦に對する均衡上のものなる事が示されてゐる 尚獨逸の新一万噸巡洋艦の速力、艦側鋼鐵、搭載砲着彈距離等に對抗するにはフランスでは二万三千噸の軍艦を要すると。(記事おわり)
  12. ^ 二萬六千五百噸の装甲巡洋艦建造 佛國海軍の新優秀艦[45]【巴里二十六日聯合】フランス海相レークは二十六日、二萬六千五百噸の装甲巡洋艦ダンケルクの即時建造を命じた 同艦は三百三十ミリ砲9門、速力卅ノツトの優秀艦である(記事おわり)
  13. ^ 本艦進水後、ブレスト海軍工廠ではリシュリュー級戦艦リシュリューが起工した。
  14. ^ 四、佛蘭西(中略)[46] (ロ)戰艦 建造中又は設計濟の戰艦は四隻を下らず、即ち二六,五〇〇噸のダンケルク(Dunkerque)は進水し、其の姉妹艦ストラスブルグ(Strasbourg)及び三五,〇〇〇噸のフランス(France)は建造中である。而して三五,〇〇〇噸のパトリー(Patrie)も亦ストラスブルグが進水すれば、直ちに其の造船臺に於て起工される筈である。
     ダンケルクは一九三五年十月一日、ブレスト軍港の乾船渠に於て進水した。該船渠の長さは艦の全長六九一呎を容れるに不充分なりしため、同艦をエノン造船所に曳航した後、艦首を増設した。ストラスブルグはダンケルクよりも二年後に起工されたのであるが、一九三八年以前に竣工が豫期せられ、兩艦の竣工期は著しく早められたと言はれてゐる。(以下略)
  15. ^ 第四節、佛蘭西(中略)[47] 二、主力艦 (中略)ダンケルクは一九三六年末に迫り其の公試を完了した。而して其の結果、速力は計畫の二九.五節を超過したと報道されてゐる。素より公試速力は其の時の吃水如何に關係すること大であり、然かも當時の吃水は發表されぬので、専門的の適確なる速力は分らない。同艦は目下大西洋艦隊(Escadre de l'stlantique)として一般に知られてゐる第二戰隊に編入せられた。因みに同艦に關する全要目は昨年版の本年鑑に載せてある。(譯註、前年版の譯書四二頁参照)
  16. ^ (中略)[55] 次は佛伊兩海軍の新主力艦の装備問題てある 此新主力艦は備砲口徑十二吋を越えぬ事になつて居るか「佛蘭西當局か口徑十二吋を最大限として受諾したのは英米兩國か主力艦備砲口徑に關する華府條約の規定を變更するのに同意を與へる事を條件として居るのである」と佛紙は傅へて居る 若し事實とせは本協定に對する佛國の誠意を疑はしむるものてある 然らすんは本協定の成立と共に将来の軍縮會議に於ける此種問題發言の留保とも見らるゝ(以下略)
  17. ^ (イ)主砲ノ選定[57] 新主力艦ノ主砲トシテハ曩ニ海軍高等會議ニ於テ技術會議ノ推進ニ基キ三三〇粍砲採用ノコトニ満場一致議決セル所三國協定當時海軍大臣ハ英國ノ反対ニ遭ヒ何等深ク謀ル所ナク容易ニ 三〇五粍砲 ヲ搭載スルコトニ譲歩シタリトテ部内並ニ議員(前海軍「ジョルジュ・レーグ」其ノ他)間ニ不満ノ聲アリ(本建艦案ニ対スル下院報告者ノ報告中ニモ少クモ三〇五粍出來得レバ三三〇粍以上ヲ希望スト記載シアリ)而シテ新軍令部長ノ意見トシテハ三三〇粍砲ヨリハ寧ロ佛海軍ニ於テ多年ノ経験ヲ有シ且ツ一層有力ナル三四〇粍砲ヲ採用シ度意嚮ナリト。
  18. ^ 戰艦 “ネルソン Nelson[60] 全要目{排水量33,500噸 速力23節 備砲 40糎砲9門 15糎砲12門 10糎高角砲6門 魚雷發射管2門(61糎)起工1922年12月 竣工1927年6月 建造所 アームストロング社} 英國海軍の至寶戰艦としてその名ネルソンとともに英國民の渇仰の的であり、わが陸奥長門と對抗する40糎主砲の大戰艦である。主砲の装備法もその前檣も思ひ切つた進化振りで副砲また双聯砲塔で後部兩舷にある。全長216.90米、幅32.30米、平均喫水9.14米。速力23.0節の軸馬力45,000馬力、魚雷發射管は艦首に配置され、檣楼と上甲板は對空兵装に一分のすきもない。佛伊の新戰艦が多少ともネルソンを模倣したものであることは、注目すべきことである。
  19. ^ La gran Revista Naval de 1937 por la Coronacion de Jorge VI記念観艦式の説明のあるページ。参加艦艇の写真がある。
  20. ^ 1939年9月の開戦時、ドイツ海軍が保有していた戦艦はシャルンホルスト級2隻であったが[66]、まだ訓練を必要としていた[67]ビスマルク級戦艦2隻(ビスマルクティルピッツ)は完成間近だったが[68]、その竣工は1940年に入ってからだった[69]
  21. ^ ブレスト軍港を拠点とするL部隊[71](ダンケルク、ベアルン、軽巡3隻)[72]。ストラスブールは空母ハーミーズなどと共にN部隊を編成、西インド諸島に配置された[71]
  22. ^ フランス海軍も地中海艦隊を増強するため、ゴッドフロイ英語版フランス語版提督が指揮する戦艦ロレーヌや巡洋艦部隊でX部隊英語版フランス語版を編成し、アレクサンドリアに配備した。
  23. ^ H部隊:巡洋戦艦フッド(サマヴィル提督旗艦)、戦艦ヴァリアントレゾリューション、空母アーク・ロイヤル、軽巡アリシューザエンタープライズ、随伴駆逐艦多数など[92]
  24. ^ フランス艦隊に使者として派遣されたのは、アーク・ロイヤル艦長セドリック・ホランド大佐であった。
  25. ^ 英國海軍砲撃損傷の佛國主力艦修繕成る[98](ヴイシー一日同盟)フランス政府當局は一日昨年九月廿三日ダカールにおいて英國海軍のため損傷をうけた新鋭主力艦リシユー號(三万五十トン)は、今回修理を完了し航海可能となつた、また北アフリカのオラン沖において英國海軍の砲撃によつて損傷を受けた主力艦ダンケルク號(二万六千五百トン)も近く修理成つて就役の見込みであると發表した、なほ沈没せる軍艦は主力艦ブルターニユ號(二万二千百八十九トン)巡洋艦ラ・トゥール・ドウーベルニユ號(四千七百七十三トン)驅逐艦六隻、潜水艦十一隻である(記事終わり)
  26. ^ 姉妹艦ストラスブールや僚艦ラ・ガリソニエールは閉塞船となったが、航路を塞ぐ前に空襲で沈没した。

脚注 編集

  1. ^ a b JACAR(アジア歴史資料センター)華府海軍条約関係雑件/軍艦建造通告関係(B-11-1-0-1_3)(外務省外交史料館)3.仏国建造通告之部」 アジア歴史資料センター Ref.B04122571300  p.7(ダンケルク建造通告)
  2. ^ ミリタリー選書(6)世界の戦艦 2005, pp. 178a-181戦艦ダンケルク級(フランス)/走攻守のバランスがとれた高速戦艦
  3. ^ a b 三野、地中海の戦い 1993, pp. 248–255(2)メルス・エル・ケビル港の悲劇
  4. ^ 海軍要覧、昭和8年版 1933, p. 75a佛國新巡洋戰艦ダンケルク
  5. ^ #列国海軍造艦術現状 pp.6-8
  6. ^ ブラッセー海軍年鑑 1940, p. 13原本10頁
  7. ^ 海軍読本 1937, p. 54(原本87頁)佛國戰艦ダンケルク 排水量26,500噸、速力30.0節、主砲33糎8門、起工1932年12月(ダンケルク右舷写真)
  8. ^ ジョーダン、戦艦 1988, pp. 22a-23フランス/ダンケルク級
  9. ^ a b c ポケット海軍年鑑 1937, p. 123(原本228-229頁)戰艦ダンケルク
  10. ^ ブラッセー海軍年鑑 1940, pp. 24–25原本33-34頁
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参考文献 編集

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  • 「世界の艦船増刊第22集 近代戦艦史」(海人社)
  • 「世界の艦船増刊第30集 イギリス戦艦史」(海人社)
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  • 「世界の艦船増刊第38集 第2次大戦時のイギリス戦艦」(海人社)
  • 「世界の艦船 列強最後の戦艦を比較する 2006年2月号」(海人社)
  • 「世界の艦船増刊第22集 近代戦艦史 2008年10月号(海人社)
  • 永井喜之、木俣滋郎『撃沈戦記』朝日ソノラマ〈文庫版新戦史シリーズ〉、1988年10月。ISBN 4-257-17208-8 
    • 第3部 第二次大戦 ― 外国編/1.イギリス仮装巡洋艦「ラワルピンディ」/4.フランス戦艦「ブルターニュ」/7.イギリス巡洋戦艦「フッド」
  • 福井静夫 著、阿部安雄、戸高一成 編『新装版 福井静夫著作集 ― 軍艦七十五年回想第六巻 世界戦艦物語』光人社、2009年3月。ISBN 978-4-7698-1426-9 
  • レオンス・ペイヤール「6 大西洋における戦闘」『潜水艦戦争 1939-1945』長塚隆二 訳、早川書房、1973年12月。 
  • カーユス・ベッカー「第4部 地中海の戦い」『呪われた海 ドイツ海軍戦闘記録』松谷健二 訳、フジ出版社、1973年7月。 
  • ダドリー・ポープ『ラプラタ沖海戦 グラフ・シュペー号の最期』内藤一郎 訳、早川書房〈ハヤカワ文庫〉、1978年8月。ISBN 4-15-050031-2 
  • ドナルド・マッキンタイヤー「2.空母時代の幕あけ」『空母 日米機動部隊の激突』寺井義守 訳、株式会社サンケイ出版〈第二次世界大戦文庫23〉、1985年10月。ISBN 4-383-02415-7 
  • 三野正洋『地中海の戦い』朝日ソノラマ〈文庫版新戦史シリーズ〉、1993年6月。ISBN 4-257-17254-1 
  • ミリタリー・クラシックス編集部、執筆(松代守弘、瀬戸利春、福田誠、伊藤龍太郎)、図面作成(田村紀雄、こがしゅうと、多田圭一)「第四章 ドイツ、フランス、イタリアの戦艦」『第二次大戦 世界の戦艦』イカロス出版〈ミリタリー選書6〉、2005年9月。ISBN 4-87149-719-4 
  • アジア歴史資料センター(公式)(防衛省防衛研究所)
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外部リンク 編集