チッカ・デーヴァ・ラージャ

チッカ・デーヴァ・ラージャ(Chikka Deva Raja, 1645年9月22日 - 1704年11月16日)は、南インドカルナータカ地方マイソール王国の君主(在位:1673年 - 1704年)。

チッカ・デーヴァ・ラージャ
Chikka Deva Raja
マイソール王
チッカ・デーヴァ・ラージャ
在位 1673年 - 1704年
戴冠式 1673年2月28日
別号 ラージャ

出生 1645年9月22日
死去 1704年11月16日
シュリーランガパトナ
子女 ナラサー・ラージャ2世
王朝 オデヤ朝
父親 ドッダ・デーヴァ・ラージャ
ドッダ・デーヴァ・ラージャの兄)
宗教 ヒンドゥー教
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その治世、マイソール王国はムガル帝国に臣従し、王国の領土は拡大され、バンガロールを封土として与えられた。また、王国を台頭していたマラーターの脅威から守り抜いたことから、マイソール王国の最も偉大な王とされる。

生涯 編集

1673年2月11日、マイソール王ドッダ・デーヴァ・ラージャが死亡し、甥であるチッカ・デーヴァ・ラージャが王となった[1]

さて、それまでマイソール王国は在地の連合政権の性格を見せていたが、チッカ・デーヴァ・ラージャは王国の中央集権化を行った。これにより、王国はようやく威信を取り戻し、軍を増強して各地を征服した。

だが、同時にデカンマラーター王国が台頭すると、その君主サンバージーと対立するようになった。チッカ・デーヴァ・ラージャはこれに対抗したが、1682年にはサンバージーはカルナータカ地方に侵攻してきた。

これ以降、マラーター勢力が本格的に侵入してくるようになると、チッカ・デーヴァ・ラージャは当時デカン戦争でサンバージーと戦っていたムガル帝国の皇帝アウラングゼーブに忠誠を誓った。

その後、マイソール王国は積極的に帝国軍に協力したため、1687年に帝国がタンジャーヴール・マラーター王国からバンガロールを奪った際、同地を封土として与えられた[2]。だが、同年7月10日にチッカ・デーヴァ・ラージャはタンジャーヴール・マラーター王国に対し、このバンガロールの領土の対価として30万ルピーを支払い、同地を購入する形をとった(同月29日にはマイソールの旗を掲げた)[1][3]

1689年、マイソール軍はマラーター軍に味方するマドゥライ・ナーヤカ朝とその摂政であるマンガンマールに攻撃をかけ、その首都ティルチラーパッリを包囲した[4]

1700年、アウラングゼーブはチッカ・デーヴァ・ラージャの功績から、ラージャ・ジャガデーヴ(Raja Jagadev)の称号とカルナータカの支配者としての地位を認めた[1]。また、ラージャ・ジャガデーヴの紋章とフィランギーも賜った[5]

1704年11月16日、チッカ・デーヴァ・ラージャは死亡し、息子のナラサー・ラージャ2世が王位を継承した[1]。その死までにマイソール王国の領土は広域なものとなり、のち18世紀後半にハイダル・アリーティプー・スルターンによってさらに広大な領土が確保された。

ギャラリー 編集

脚注 編集

  1. ^ a b c d Mysore 3
  2. ^ 辛島『世界歴史大系 南アジア史3―南インド―』、p171
  3. ^ Imperial Gazetteer of India: Provincial Series, 20-21
  4. ^ Imperial Gazetteer of India: Provincial Series, p.20-21
  5. ^ Subrahmanyam, p213

参考文献 編集

関連項目 編集