チベットの旗(チベットのはた)は、日本から留学生としてチベットに渡った青木文教によって制作され、1912年チベット君主ダライ・ラマ13世国家の独立を宣言した際、まず軍旗として制定され、のちにチベット政府ガンデンポタンにより国旗としても採用[1]された旗。旗正面の白い雪山の前面で、2頭のスノー・ライオン(唐獅子)が宝石を支えている様子から、「雪山獅子旗(せつざんししき)」と呼ばれる。

チベットの旗
雪山獅子旗
用途及び属性 市民陸上?
縦横比 2:3
制定日 1912年??月??日
使用色
テンプレートを表示

概要 編集

 
ラサで行われた軍事パレードで雪山獅子旗を振るチベット軍(1938)

白い三角は雪山を表し「雪山に囲まれた地」であるチベットを象徴する[2]。その正面にそびえ立つ一対のスノーライオンはチベットの勝利を象徴する[2]

中央の太陽はチベットの民の自由・幸福・繁栄を象徴し、太陽から放たれている赤い6本の光線は、チベット民族の起源となった6つの氏族を、赤い光線と空を表す青とが交互になっているのは、チベットが2つの守護神によって護られていることを表す[2]

スノーライオンは互いの手で2つの宝石を支えあっており、上側の3色で燃えているように見える宝石はブッダダルマサンガ、すなわち仏法僧を表し、下側の円形で2色の宝石は十善業法・十六浄人法による自律を表している[2]

外側の黄枠線は仏教の教えや思想が世界中で栄えることを示すが、右側にその線がない(右側が開いている)のは、仏教以外の教えや思想にも寛容であることを示す[2]

歴史 編集

1910年代にチベットに滞在していた日本人チベット研究者・青木文教は自著『祕密之國 西藏遊記』(内外出版、1920年(大正9年)10月19日発行)において、チベット軍の司令官と青木が戯れとして、それまでの軍旗でも使われていたチベットの記号(雪山・唐獅子・日・月)と、大日本帝国陸軍軍旗として考案・使用していた旭日旗に擬似する意匠(旭日)を組み合わせ、新しく図案を作ったものがたまたま新しい「軍旗」として採用されたと記している[3]


しかして此日このひ始めて新定の軍旗を使用したが、その摸樣もやう下半部かはんぶに富士山形の雪山せつざんを描き、唐獅子からじしを配し、上半部じやうはんぶ即ち雪山のうへには地色ぢいろきいろくして日本の軍旗の半分をうつし取つたやう旭日きよくじつを置き、其片隅かたすみに月を小さく銀色に描いてある、此等の日、月、雪山及び唐獅子は西藏チベツト記號きがうで、司令官しれいくわんが戲れに圖案づあんを作つて見た紙片がはからず法王はふわうの目に止まり、當分たうぶんかりに|之を軍旗に採用せられることになつたのである、此新軍旗は時々風に飜る調子てうしで日本の軍旗の樣に見えるので、更に改定する筈であつた、ちなみ舊軍旗きうぐんきは三角形の赤地あかぢに唐獅子と雪山とを|大きく描き、日月じつげつ上部じやうぶに小さく遠方ゑんぱうからは見えないくらゐ附加つけくはへたものである[3]

のちにチベット政府ガンデンポタンにより国旗として正式に採用[1]された。

 
縦横比2:3の別タイプ
 
掲揚されたチベット旗

第二次世界大戦後 編集

1947年(昭和22年)、チベット政府は代表派遣団をインド、デリーで行われたアジア会議に送り、ここで自身を独立国家と表明している。そのため、インドは1947年(昭和22年)から1954年(昭和29年)にかけてチベットを独立国家と認識していた[4]。また、この会議にはチベットの旗が持ち込まれたが、これは公的集会におけるチベット旗の最初の出現だった[5]

1951年、チベットは中華人民共和国の要求を飲む形で同国の版図に編入された。その後、1959年にラサダライ・ラマ14世を擁する大規模反乱が起こるも中国軍に鎮圧され、ダライ・ラマ14世は隣国インドダラムサラに亡命。その折にチベット亡命政府の発足を宣言し、以降雪山獅子旗はチベット亡命政府の旗として使用されている。

中華人民共和国では、雪山獅子旗の掲揚は「チベット独立の意思表示」として厳禁されている。掲揚が発覚した場合は、旗を掲揚した罪で即座に当局に逮捕され、禁固刑などの実刑に処される。日本などではチベット関係のデモ(2008年北京オリンピックの聖火リレーの抗議デモなど)や中国へのデモ(2010年尖閣諸島抗議デモなど)で頻繁に使用されている。

絵文字の採用について事実上の決定権を有するアメリカの大手IT企業は中国で大きな利益を得ているため、中国政府の反発を恐れチベットの旗の採用を見送っている[6]

脚注 編集

  1. ^ a b チベット亡命政府駐日代表部❝ダライラマ法王事務所❞「チベット国旗・国歌」より
  2. ^ a b c d e チベット国旗・国歌 | ダライ・ラマ法王日本代表部事務所”. www.tibethouse.jp. 2019年2月27日閲覧。
  3. ^ a b 近代デジタルライブラリー所蔵の青木文教祕密之國 西藏遊記』内外出版、1920年10月19日、134-135頁https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/980816/87 。そのほか、矢島保治郎によるとする説(ペマ・ギャルポ中国が隠し続けるチベットの真実 仏教文化とチベット民族が消滅する日』扶桑社〈扶桑社新書〉、2008年6月、38頁。ISBN 978-4-594-05683-4http://www.fusosha.co.jp/book/2008/05683.php 、また青木・矢島共同の発案とする説(浅田晃彦世界無銭旅行者 矢島保治郎』筑摩書房、1986年6月、[要ページ番号]頁。ISBN 4-480-82209-7http://www.chikumashobo.co.jp/product/9784480822093/ などもある。
  4. ^ Abanti Bhattacharya (2008年4月4日). “India Should Revisit its Tibet Policy” (英語). Institute for Defence Studies and Analyses. 2012年2月8日閲覧。
  5. ^ CTA's Response to Chinese Government Allegations: Part Four” (英語). Central Tibetan Administration (2008年7月19日). 2012年2月8日閲覧。
  6. ^ 「旗の絵文字」を巡って衝突する、当事者と政府と企業の思惑 - WIRED.jp

参考文献 編集

関連項目 編集

外部リンク 編集