チャグリー・ベク

チャグリー・ベク (چغری بیک) の名で知られるアブー・スライマーン・ダーウード・チャグリー・ベク・ブン・ミーカーイール・ブン・サルジューク(Abū Sulaymān Dāwūd Chaghrī Beg b. Mīkā'īl b. Saljūq)[1]は、初期セルジューク朝の共同統治者である。「チャグリー」は、テュルク語(現代トルコ語ではÇağrı)であり、「小さい」の意味である。[2]

チャグリー・ベク
ホラーサーン総督
(1040–1060)

出生 989年
死亡 1060年
サラフス
実名 アブー・スライマーン・ダーウード・チャグリー・ベク・ブン・ミーカーイール
王室 セルジューク朝
父親 ミーカーイール
子女
アルプ・アルスラーン
カーヴルト・ベグ
ヤークーティー
スライマーン
バフラム・シャー
イルヤース
ウスマーン
ハディージャ・アルスラーン・ハートゥーン
ガウハル・ハートゥーン
サフィーヤ
信仰 イスラーム教スンナ派
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背景編集

チャグリーとその弟トゥグリルは、ミーカーイール英語版の息子で、セルジュークの孫である。「大セルジューク朝」は彼らの祖父セルジュークに因んで名付けられた。セルジュークはテュルク系で、ハザール[3]もしくはオグズ・ヤブグ英語版に於いて、族長を務めた。11世紀初頭、彼らは故地を離れ、シル・ダリア側の都市ジャンド(現在は村)付近に移動し、マー・ワラー・アンナフル(現代におけるウズベキスタンカザフスタン南部付近)を支配していたカラハン朝宗主権を受け入れた。カラハン朝がガズナ朝に敗れると、彼らは自立した。

生涯編集

1025年までのチャグリーとトゥグリル兄弟の動向については、殆ど知られていない。兄弟は15歳まで祖父のセルジュークに育てられ、カラハン朝の小公アリー・ティギーン・ボグラ・ハーンと共にガズナ朝のマフムードと戦った。[4] 最も早いチャグリーに関する記録は、彼のアナトリア東部遠征に関するものであり、ジャンドからアナトリアまでのガズナ朝による追跡を逃れ、彼はビザンツ帝国の砦を攻撃したという。[5] しかし、クロード・カーエン英語版によると、これはあり得ず、伝説的記述である。[6]1035年から1037年の間、チャグリーとトゥグリル兄弟は、ガズナ朝のマスウードと戦った。チャグリーはメルヴ(現トルクメニスタン)を占領した。1038年から1040年にかけて、基本的に一撃離脱戦法を取りながら、チャグリーはガズナ朝軍との抗争を続け、ついにダンダーナカーンの戦いに於いて甚大な被害を与えた。トゥグリルは慎重で、一撃離脱戦法を取り続けることを望んだが、チャグリーがセルジューク朝軍を指揮し、直接対決を望んだという。[7] ダンダーナカーンに於いて、セルジューク軍は数的有利なガズナ朝軍を敗北せしめた。戦いの後、クリルタイが開かれ、チャグリーとトゥグリル兄弟の間で分割されることが決まった。トゥグリルは西側領域(イラン西部、アゼルバイジャンイラク)を支配し、チャグリーは大ホラーサーン(イラン東部、トルクメニスタン、アフガニスタン)を支配した。チャグリーは後にバルフ(現アフガニスタン北部)も獲得、1048年にはイラン南部のケルマーンを、1056年にはイラン南東部のスィースターンを征服した。[8] セルジューク朝がアッバース朝への影響を強めると、1056年、彼は自身の娘のハディージャ・アルスラーン・ハートゥーンをカリフ・アル=カーイムに嫁がせた。[9][10]

編集

チャグリーは、イラン北東部の都市サラフスで死亡した。彼の死亡年については史料間で一致が見られず、1059年、1060年、1061年、1062年などと言われている。彼の正確な死亡年推定は、貨幣学が利用できるとされている。1059年の貨幣までチャグリーの名前が彫られており、1060年以降は彼の息子カーヴルトの名前が彫られていることから、チャグリーの死は1059年の説がより確からしいというのである。[11] 死後、彼の息子アルプ・アルスラーンホラーサーン総督を務めた。

影響編集

後世のオスマン朝の習慣とは違い、テュルク系の伝統では、兄弟は政治に参加したという(6世紀の伊利可汗-室点蜜、8世紀の毘伽可汗-闕特勤など)。トゥグリルとチャグリーは、他の家族構成員と共に、セルジューク朝形成に参加した。弟のトゥグリルがスルターン位を獲得したものの、その後は兄チャグリーの息子がスルターン位を継承した。

チャグリーは6人の息子と4人の娘がいた。息子たちのうち、アルプ・アルスラーンが1064年にスルターンとなった。「大セルジューク朝」の王家は、ルーム・セルジューク朝(従兄弟の子孫)を除くと、チャグリーの子孫で形成された。他の息子であるカーヴルトは、ケルマーン総督となって後に独立し、他の息子ヤークーティーはアゼルバイジャン総督となった。

脚注編集

  1. ^ 'Izz al-D in Ibn al-Athir, The Annals of the Saljuq Turks, transl. D.S. Richards, ed. Carole Hillenbrand, (Routledge, 2002), 302.
  2. ^ "ČAḠRĪ BEG DĀWŪD" Encyclopædia Iranica
  3. ^ Arthur Koestler: The thirteenth Tribe (translated by Belkıs Çorakçı), Say, İstanbul, 1984, p.164
  4. ^ Caghri-Beg, Cl. Cahen, The Encyclopaedia of Islam, Vol. II, ed. B.Lewis, C. Pellat and J. Schacht, (E.J. Brill, 1991), 4.
  5. ^ Prof. Yaşar Yüce-Prof. Ali Sevim: Türkiye tarihi Cilt I, AKDTYKTTK Yayınları, İstanbul, 1991 p 28-29
  6. ^ Caghri beg, Claude Cahen, The Encyclopaedia of Islam, Vol. II, 4, 5; "Tradition gives here an account of a highly improbable escapade of Caghri-Beg in Armenia.", "On the legendary escapade of Caghri in Armenia, the article of Ibrahim Kafesoglu, "Dogu Anadoluya ilk selcuklu adini", in "Fuad Koprulu Armagam", 1953, and my discussion with him in JA 1954, 275 ff. and 1956, 129 ff."
  7. ^ Ümit Hassan (ed. Sina Akşin) Türkiye Tarihi I, CemYayınevi, İstanbul,2009, 975-406-563-2 p. 167
  8. ^ History page (トルコ語) Archived 2012-07-19 at Archive.is
  9. ^ The Political and Dynastic History of the Iranian World, C.E. Bosworth, The Cambridge History of Iran, Vol. 5, ed. J. A. Boyle, (Cambridge University Press, 1968), 48.
  10. ^ Dailamīs in Central Iran: The Kākūyids of Jibāl and Yazd, C. E. Bosworth, Iran, Vol. 8, (1970), 86.
  11. ^ A paper on Chaghri's death date
先代:
None
セルジューク朝ホラーサーン総督
1040–1060
次代:
アルプ・アルスラーン

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