チャールズ・ウェッブ・ル・バ

チャールズ・ウェッブ・ル・バ(Charles Webb Le Bas、1779年4月26日 - 1861年1月25日)は、イングランド聖職者ケンブリッジ大学トリニティ・カレッジのフェロー、東インド会社カレッジ校長。ブライトンで没した。

生涯 編集

ル・バは、祖父が1702年にイングランドに逃れて来た、ユグノーの家系の出身であった。ル・バは、ウィンチェスターハイド・アビー・スクール (Hyde Abbey School) から、ケンブリッジ大学トリニティ・カレッジに進み、1800年BAを取得し、第4位ラングラーWrangler数学の成績優秀者)と学長メダルを得て卒業し、1802年にはトリニティ・カレッジのフェローとなった[1]1806年リンカーン法曹院を経て法務資格を得たが、聴覚障碍のために法務職を断念することになった。リンカーン主教Bishop of LincolnGeorge Pretyman Tomline を指す)の息子たちの家庭教師を務めた後、1812年聖職者按手を受け、同時にシャドウェル (Shadwell) セント・ポール教会 (St Paul's Church) の教区牧師 (rector)、ヨークシャー州(現在のサウス・ヨークシャー州)ダーフィールド (Darfield) の教区牧師、ウムウェル (Wombwell) の教区副牧師 (curate) となり、リンカンからも聖職禄を受けることとなった[1]1813年、ル・バは、東インド会社カレッジの数学教授となり、後に1837年から1843年まで、カレッジの校長を務めた。

ル・バ奨学金 編集

東インド会社カレッジの出身者たちは、ル・バのカレッジへの功績を記念して募金活動を行い、1848年にル・バ奨学金 (the Le Bas Scholarships) を[2]ケンブリッジ大学で文学を学ぶ学生のために設けた。

業績 編集

ル・バは、カロライン・ディヴァインズ (Caroline divines) と、(ウィリアム3世への臣従宣誓を拒んだ)臣従宣誓拒否派 (nonjurors) との間をつなぎ、また、オックスフォード運動 (Oxford Movement) との間をつなぐ神学上の学派を、ヒュー・ジェームズ・ローズ (Hugh James Rose)、クリストファー・ワーズワース (Christopher Wordsworthジョン・ジェームズ・ブラント (John James Blunt)、ウィリアム・ホッジ・ミル (William Hodge Mill) らとともに形成していた。ル・バは、『British Critic』誌の寄稿者であり、1827年から1838年までの間に80本近い記事を寄稿していた。また、ローズの主宰する『British Magazine』誌にも、1831年から1832年にかけて寄稿していた[3]

おもな著作 編集

ローズとウィリアム・ロウ・ライオール (William Rowe Lyall) が編纂した「Theological Library(神学文庫)」のシリーズにおいて、ル・バは合わせて5巻を執筆した。

ル・バはキリスト教知識普及協会 (Society for Promoting Christian Knowledge) の小冊子の執筆も手がけており、また説教集を1冊刊行している。

脚注 編集

  1. ^ a b Le Bas, Charles Webb”. Cambridge University Library. 2014年5月21日閲覧。
  2. ^ Graduate Studies, Funding your course at MML”. University of Cambridge. 2014年5月21日閲覧。
  3. ^ a b c d Overton, 1892

出典 編集

  この記事はパブリックドメインの辞典本文を含む: Overton, John Henry (1892). "Le Bas, Charles Webb". In Lee, Sidney (ed.). Dictionary of National Biography (英語). Vol. 32. London: Smith, Elder & Co.