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本来の表記は「褚玠」です。この記事に付けられた題名は技術的な制限または記事名の制約により不正確なものとなっています。
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褚玠(ちょ かい、529年 - 580年)は、南朝陳文人官僚は温理。本貫河南郡陽翟県

経歴編集

の太子舎人の褚蒙(褚炫の子の褚湮の子)の子として生まれた。9歳のときに父を失い、叔父の褚随に養育された。成長すると、容姿ふるまいが美しく、占いをよくし、博学で文章を得意とした。王府法曹を初任とし、外兵記室に転じた。天嘉年間、通直散騎常侍を兼ね、北斉への使者に立った。帰国すると桂陽王陳伯謀の友となった。太子庶子・中書侍郎に転じた。

太建年間、汚職の横行していた山陰県を粛正するため、宣帝蔡景歴に意見を求めると、蔡景歴は褚玠を推挙した。褚玠は戎昭将軍・山陰県令に任じられた。山陰県民の張次昀・王休達らと収賄に関わっていた官吏たちが大勢検挙され、罪状が糾明されて朝廷に報告された。このころ舎人の曹義達が宣帝の信任を受けていた。山陰県民の陳信が財産をたくわえ、曹義達にへつらい、陳信の父の陳顕文がその権勢をたのんで横暴をふるっていた。褚玠は陳顕文を捕らえさせ、鞭打ち100回の刑に処すると、山陰県の綱紀は粛然とした。陳信は後に曹義達を通じて褚玠を誣告し、このために褚玠は免官された。建康に帰ると、皇太子陳叔宝に文才を買われて、殿省に宿直するよう命じられた。578年(太建10年)、電威将軍・仁威淮南王長史に任じられた。ほどなく本官のまま東宮の記録をつかさどった。580年(太建12年)、御史中丞に転じ、在官のまま死去した。享年は52。584年至徳2年)、秘書監の位を追贈された。生前に作った文章は200篇あまりが残された。

子に褚亮があった。

伝記資料編集