本来の表記は「褚球」です。この記事に付けられた題名は技術的な制限または記事名の制約により不正確なものとなっています。
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褚球(ちょ きゅう、生没年不詳)は、南朝斉からにかけての官僚は仲宝。本貫河南郡陽翟県。高祖父は褚裕之。曾祖父は褚寂之。祖父は褚曖。父は褚繢。

経歴編集

の太子舎人の褚繢の子として生まれた。若くして父を失い、貧しい中を学問して、才知すぐれた人物に成長した。宋の建平王劉景素の娘を妻に迎えた。斉に仕えて、征虜行参軍を初任とした。まもなく法曹を代行し、曲江公の下で右軍主簿に転じた。溧陽県令として出向し、清廉な仕事ぶりで知られた。平西主簿に任じられた。

梁の天監初年、太子洗馬・散騎侍郎に転じ、中書通事舎人を兼ねた。建康県令として出向したが、母が死去したため職を辞し、喪に服した。喪が明けると、北中郎諮議参軍に任じられた。まもなく中書郎に転じ、再び中書通事舎人を兼ねた。雲騎将軍に任じられ、廷尉や光禄卿を兼ねた。御史中丞となり、勢族にも遠慮なく弾劾したため、職名をもって称された。

523年普通4年)、北中郎長史・南蘭陵郡太守として出向した。後に入朝して通直散騎常侍となり、羽林監を兼ねた。526年(普通7年)、太府卿に任じられた。ほどなく都官尚書に転じた。中大同年間、臨川王蕭正義の下で仁威長史・江夏郡太守となったが、病と称して赴任しなかった。光禄大夫とされたが、受けないうちに再び太府卿となり、歩兵校尉を兼ねた。まもなく通直散騎常侍・秘書監に転じ、著作を兼ねた。司徒左長史に転じた。ほどなく貞威将軍の号を受け、河東王蕭誉の下で軽車長史となり、再び南蘭陵郡太守として出向した。

後に入朝して散騎常侍となり、再び歩兵校尉を兼ねた。まもなく引退を求めて上表したが、武帝に許可されなかった。まもなく光禄大夫の位を受け、給事中の任を加えられた。在官のまま死去した。享年は70。

伝記資料編集