ツェワンラブタン

ツェワンラブタン(つぇわんらぶたん)は、ジュンガルホンタイジセンゲの子で、ガルダンの甥。

概要編集

ツェワンラブタンは、1714年ラサン・ハンの姉妹と結婚した(英語版参照:Chao-ying, Fang (1944), Tsewang Araptan, http://www.daicing.info/public_html/WEB/TSEWANG_ARAPTAN.html )機会を利用して、チベットの侵略に備えてラサン・ハンの軍隊の一部を破壊した。ツェワンラブタンは1715年までにジュンガルの勢力を統合し、1717年に300人の軍隊をアムドに送ってダライ・ラマ7世を回収し、彼をラサに連れて行くことでチベットの支援を統合することを計画し、兄弟のツェレンドンドゥブに6000人の軍隊を率いさせてホシュートとラサを占領し、ラサン・ハンを殺した。(英語版参照:Smith, Warren W. (1997). Tibetan nation: a history of Tibetan nationalism and Sino-Tibetan relations. Westview Press. ISBN 978-0-8133-3155-3. https://books.google.com/books?id=SbHtAAAAMAAJ 

しかし、最初に派遣した軍隊は、クンバムで軍に敗れたため、ダライ・ラマ7世を確保できなかった。ジュンガル軍はラサとその周辺を荒らし回り、略奪、強姦、殺害を行った。すぐに、チベット人康熙帝にジュンガルを追い払うように訴えた。時が経つにつれてチベットのジュンガル占領は維持するのがより困難になり、1718年サルウィン川の戦いでは組織化されていない清軍を打ち負かしたが、1720年に清軍は2回目以降の遠征でラサを占領した。(英語版参照:Mullin, Glenn H. (2000). The Fourteen Dalai Lamas: A Sacred Legacy of Reincarnation. Clear Light Publishers. ISBN 978-1-57416-092-5. https://books.google.com/books?id=u9CRPQAACAAJ 

在位は、1697年から1727年まで。先代は、ガルダン・ハーン。次代は、ガルダンツェリン

※ページ「Tsewang Rabtan」の翻訳により作成