ツェワンラブタン

ツェワンラブタン(Tsewang Rabtan、中国語:策妄阿垃布担、1663年 - 1727年)は、ジュンガルホンタイジ。叔父で政敵であった先代のガルダン・ハーンが死亡した1697年以降、1727年に死亡するまで在位した。

ツェワンラブタン

在位期間
1697年1727年
先代 ガルダン・ハーン
次代 ガルダンツェリン

出生 1663年
死亡 1727年
王室 チョロース(ジュンガル部)
父親 センゲ英語版
配偶者

子女
* ガルダンツェリン(息子、母グンガラブタン)

  • ロブザンショノ(息子、母セテルジャブ)[1]
  • ボトロク(娘)[2]
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概要編集

1663年[注 1]、ジュンガル・ホンタイジのセンゲ英語版の長子として生まれる。1670年のセンゲが暗殺されると、以降、叔父(センゲの同母弟)ガルダンの下で育つ[3]

1689年、ガルダンは「ツェワンラブタンが自身を脅かす存在になること」を危惧し、ツェワンラブタンの暗殺を試みるが失敗[3]。ツェワンラブタンは父センゲの旧領ボロタラ渓谷に逃れ、そこで勢力を拡大、1691年頃にはガルダンはアルタイ山脈以東で孤立し、ツェワンラブタンがイリ地方(ジュンガル部本拠地)及びタリム盆地を支配する形となった。1694年、チベットダライ・ラマ政権はツェワンラブタンに「エルデニ・ジョリクト・ホンタイジ」[注 2]号を授与[4]。1697年になるとガルダンが死去[5]、名実ともにジュンガル部の長となった[6]

と戦争を行っていたガルダンの死後、ジュンガルと清の関係は平穏であったが、ツェワンラブタンは信仰上の理由から、チベットに対する清の影響力、グシ・ハン王朝チベット国王ラサン・ハン、への反発を抱くようになる[7]。1714年、ツェワンラブタンは、娘のボトロクとラサン・ハンの長男・ダンジュンとを結婚させたうえで、ジュンガルに人質として留め置いた[8][注 3]。この機に乗じ、チベット侵略の下準備としてラサン・ハンの軍隊の一部を壊滅させた。1715年にはハミトルファンにて清と衝突し戦争状態となる[7]。ツェワンラブタンは1715年までにジュンガルの勢力を取りまとめ、1717年になると、ダライ・ラマ7世候補の少年の身柄を確保する(そしてラサに連れていくことによりチベット人の支持を取り付ける企図が有った)ためにアムドに300人を派兵した。また一方で、従兄弟のツェレン・ドンドゥブフランス語版が率いる6000人の軍隊を以って、ホシュート(グシ・ハン王朝)が支配していたラサを占領し、ラサン・ハンを殺害した[11]

しかし、アドム派遣軍は、クンブムで清軍に敗れたため、ダライ・ラマ7世候補の少年を確保できなかった。ジュンガル軍は、ラサとその周辺において、略奪・強姦・殺戮と暴虐の限りを尽くした。ほどなく、チベットの人々は清の康熙帝に、チベットからのジュンガル放逐を要請する様になった。時が経つにつれ、ジュンガルによるチベット占領の維持は困難になり、1718年のサルウィン川の戦い英語版ではまとまりに欠けていた清軍の侵攻を打ち負かしたが、1720年の規模が大きくなった2回目の遠征で、清軍はラサを占領するに至った[12]

1727年、ツェワンラブタンは、トルグート部の使節が到着した際に、毒を盛られて急死した。継子ガルダンツェリンは、トルグート出身の第二夫人セテルジャブの仕業とし、これを処刑、その子ロブザンショノはヴォルガへ逃亡することとなった[13]

脚注編集

注釈編集

  1. ^ 出典では「1670年にはまだ7歳」との表現[3]
  2. ^ 「貴い志のあるホンタイジ」の意[4]
  3. ^ 1717年頃にダンジュンが死亡すると(ツェワンラブタンが殺したとされる)、ボトロクは、同系部族(オイラト)の一派ホイト部長のウイジェン・ホチューチと再婚、のちにアムルサナー英語版(1723年 - 1757年。乾隆帝治世時のジュンガル・ホンタイジ)を生むことになる[9][10]

出典編集

  1. ^ a b 宮脇淳子 1995, p. 216.
  2. ^ 宮脇淳子 1995, p. 229.
  3. ^ a b c 宮脇淳子 1995, p. 208.
  4. ^ a b 宮脇淳子 1995, p. 209.
  5. ^ 宮脇淳子 1995, p. 51.
  6. ^ 宮脇淳子 1995, p. 210.
  7. ^ a b 宮脇淳子 1995, p. 214.
  8. ^ Chao-ying, Fang (1944). “Tsewang Araptan”. In Hummel, Arthur W. Sr.編 (英語). Eminent Chinese of the Ch'ing Period. 2. United States Government Printing Office. p. 10. https://en.wikisource.org/wiki/Eminent_Chinese_of_the_Ch%27ing_Period/Tsewang_Araptan 2022年3月24日閲覧。 
  9. ^ Chao-ying, Fang (1943). “Amursana”. In Hummel, Arthur W. Sr.編 (英語). Eminent Chinese of the Ch'ing Period. 1. United States Government Printing Office. p. 9. https://en.wikisource.org/wiki/Eminent_Chinese_of_the_Ch%27ing_Period/Amursana 2022年4月1日閲覧。 
  10. ^ 宮脇淳子 1995, pp. 165, 230.
  11. ^ Smith, Warren W. (1997) (英語). Tibetan nation: a history of Tibetan nationalism and Sino-Tibetan relations. Westview Press. ISBN 978-0-8133-3155-3. https://books.google.com/books?id=SbHtAAAAMAAJ 
  12. ^ Mullin, Glenn H. (2000) (英語). The Fourteen Dalai Lamas: A Sacred Legacy of Reincarnation. Clear Light Publishers. ISBN 978-1-57416-092-5. https://books.google.com/books?id=u9CRPQAACAAJ 
  13. ^ 宮脇淳子 1995, pp. 216–217.

参考文献編集

関連項目編集

先代
ガルダン・ハーン
ジュンガル部のホンタイジ
1697年 - 1727年
次代
ガルダンツェリン