佐藤二朗 (野球)

ブラジル出身の帰化日本人の野球選手
ツギオ佐藤から転送)

佐藤 二朗(さとう つぎお、1980年10月25日 - )はブラジル出身の日本の元野球選手内野手)。社会人野球ヤマハ硬式野球部の元コーチ。

佐藤 二朗
2016年11月3日
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 ブラジルの旗 ブラジルサンパウロ州モジ・ダス・クルーゼス
生年月日 (1980-10-25) 1980年10月25日(43歳)
身長
体重
182 cm
87 kg
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 二塁手
プロ入り 1999年
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴
コーチ歴
  • ヤマハ
国際大会
代表チーム ブラジルの旗 ブラジル
WBC 2013年2017年(予選)

ヤクルトスワローズでは1999年ツギオ佐藤2000年から2003年ツギオ登録名でプレーした。

来歴・人物 編集

日系ブラジル人三世で、フルネームはツギオ・レイナルド・サトウ(Tsugio Reinaldo Sato)[1]

父は野球ブラジル代表の監督や、ブラジルヤクルト商工がブラジルに設立したヤクルト野球アカデミーの校長を務めている佐藤允禧。叔父は元阪急ブレーブス佐藤滋孝[2]。兄は三菱自動車岡崎でプレーしたのち、ブラジル野球連盟副会長を務める佐藤天一郎[3]。弟は白鷗大学三菱ふそう川崎でプレーした後、白鷗大のコーチ・深谷組(埼玉県)の監督を経て、現在BCリーグ栃木ゴールデンブレーブスでチーム統括管理部長を務める佐藤レナン勇[4][5][6]

ヤクルト時代 編集

父・允禧との縁もあり1999年にヤクルトスワローズに入団。

当初は非力なバッティングに粗い守備が目立っていたが、徐々に弱点をカバー、二軍では主軸を打つようになる。しかし、当時のヤクルト一軍打撃陣にはロベルト・ペタジーニアレックス・ラミレスの二枚看板がおり、外国人投手のために枠を空けておくためにツギオは一軍に上がることができなかった。

そこで2003年シーズン中、松元ユウイチとともに日本に帰化することを決意。ブラジルの両親の許しを受け、「日本で野球がしたいから」と帰化申請を行った。しかし申請の結論が出る前の2003年オフ、戦力外通告を受けた。

社会人時代 編集

ヤクルトから戦力外通告を受け、シダックス野球部に入部。同部はかつてヤクルトで9年間監督を務めた野村克也を、2002年秋から監督兼GMに迎えていた。当時ヤクルトの選手人事を掌握していた丸山完二編成部長は、「野村監督の下で鍛えていただき、成長次第ではまたヤクルトとの契約もありうる」とコメントしていた。

2004年からは当時シダックスに在籍していたオレステス・キンデランアントニオ・パチェコの両キューバ人内野手と中軸打線を組み、2選手が体力の衰えを理由に2004年を最後に現役を引退して帰国すると野村監督は佐藤を4番に抜擢。当初はなかなか結果が伴わなかったが、徐々に持ち前の長打力を発揮し、「4番・セカンド」のレギュラーを確保した。

2006年シーズン限りでシダックス野球部が解散。それに伴い、2007年からはヤマハに転籍。ヤマハでもクリーンナップを打ち、2010年シーズンは第81回都市対抗野球・第37回社会人野球日本選手権大会の両大会で上位進出に貢献、社会人ベストナインに選出された。また、第3回WBCブラジル代表にも選出され、「5番・指名打者」としてA組1回戦の日本戦では4回裏に杉内俊哉から一時は同点に追いつくタイムリーヒットを放った。

2019年に野手コーチ兼任となり、同年をもって現役を引退。2020年からは野手コーチ専任となった。2022年限りで退部した。

詳細情報 編集

年度別打撃成績 編集

  • 一軍公式戦出場なし

背番号 編集

  • 42 (1999年 - 2003年)

登録名 編集

  • ツギオ佐藤 (つぎお さとう、1999年)
  • ツギオ (つぎお、2000年 - 2003年)

主な表彰 編集

  • 社会人ベストナイン(2010年)
  • 都市対抗野球本大会10年連続出場表彰(2016年)

脚注 編集

関連項目 編集

外部リンク 編集