テクシ

大元ウルスに仕えた政治家の一人

テクシモンゴル語: Tegsi、? - 1323年)は、大元ウルスに仕えた政治家の一人。主君のゲゲーン・カーン(英宗シデバラ)を弑逆した南坡の変の首謀者となったことで知られる。

元史』における漢字表記は鉄失(tiĕshī)。

概要編集

テクシの出自についてはほとんど記録が残っていないが、「妹が君主(英宗ゲゲーン・カーン)の妃となった」という記録があることから、イキレス部出身のスガバラ妃と兄弟ではないかとする説がある。スガバラの遠祖は建国の功臣ブトゥ・キュレゲンであり、ブトゥ家の系図については『元史』の列伝を始め詳細な記録が残っているものの、テクシがブトゥ家出身であると明記した史料は存在しない。いずれにせよ、カーンの弑逆という大罪をなした人物であるがためにその出自については記録上から抹消されてしまったと考えられている[1]

1310年代、大元ウルスではカーン(皇帝)権力の空洞化が進み、ブヤント・カーン(仁宗アユルバルワダ)ではなくその母のダギが事実上の最高権力者として振る舞うという状況にあった。ダギがお気に入りの側近として取り立てたのがテムデルで、テクシもこのダギ-テムデル派閥に取り入ることで出世した人物であった。1320年(延祐7年)にブヤント・カーンが亡くなると息子のシデバラがゲゲーン・カーンとして即位し、新政権の下でテクシは太医院使に任じられた。翌1321年(至治元年)3月、テクシは御史台の長である御史大夫と、忠翊侍衛親軍都指揮使の地位を授けられ[2]、文武において強力な権限を有するようになった[3]。また、同年10月には左・右阿速衛(アスト軍閥)の指揮も委ねられ、このアスト兵は後々までテクシの権力基盤として活用されることとなる[4]

しかし、新たに即位したゲゲーン・カーンはカーンを差し置いて権力を壟断するダギ-テムデル一派を毛嫌いし、建国以来の名門ムカリ家のバイジュを起用し、ダギ-テムデル派からの権力奪還を図った。1322年(至治2年)にはテクシの父祖の碑文が建てられたが[5]、同時期にはテムデルの父祖の勅建碑、バイジュの父祖の碑文も建てられており、これもダギ-テムデル派とカーン-バイジュ派の権力抗争の一環であったと見られる[6]。その後、同年8月・9月にはテムデルとダギが相継いで亡くなり、ダギ-テムデル一派の凋落は決定的となったが、その残党の中でも大物のテクシは中央の三大長官の一つの御史大夫として未だ強力な権限を有していた。同年10月には江南行台御史大夫のトクトが病を理由に引退を申し出たが、皇帝の裁可を得る前に職を離れたことを批判して杖刑にして雲南に流刑とし、またテムデルの子のソナム(鎖南)の復職を願ったがカーンより却下されている。このようなテクシの振るまいを踏まえ、ゲゲーン・カーンは周囲の者に「先頃、テムデルらが横暴な振るまいをしてきても汝らは黙ってこれを見過ごしていた。しかし、今彼等が死ぬとしたらその家産は没収して後世の戒めとしよう」と語ったという[7]

1323年(至治3年)正月には「振挙台綱(綱紀を厳正に整える)」を掲げる聖旨(ジャルリグ)が出されたが[8]、これはテクシの多岐に渡る権力を削ぎ落とすための第一歩であった[9]。また、前後してテムデルの財産の没収、テムデル一族の粛正が行われ、テクシら旧ダギ-テムデル派官僚はカーンによる報復が自らに及ぶことを恐れ始め、カーンへの叛乱計画を抱くようになった[10][11]。カーンの弑逆を決意した旧ダギ-テムデル派官僚らがカーン後継者候補として目をつけたのは、北方モンゴリアを治める晋王(ジノン)イェスン・テムルであった。他のカーン候補としては先々代クルク・カーンの子のコシラとトク・テムル兄弟、安西王家のオルク・テムルらがいたが、これらは皆ダギ-テムデル政権で不遇を託った皇族であり報復人事を受けることが予想されたため、ダギ-テムデル政権とわだかまりのないイェスン・テムルが選ばれたと考えられる[12]

テクシらは弑逆の決行前から晋王家と連絡を取り合っており、8月2日にはオロスを使者として派遣して「ゲゲーン・カーンの暗殺計画が成功しましたら、晋王(イェスン・テムル)を推戴して皇帝(カーン)としましょう」と伝えさせた[13]。そして至治3年8月4日(新暦では1323年9月4日)、季節移動を行うゲゲーン・カーン及びバイジュが上都(夏営地)から大都(冬営地)へ向かう途上、南坡で弑逆事件は決行された。テクシは知枢密院事エセン・テムル、大司農シクドゥル、前平章政事チギン・テムル、前雲南行省平章政事オルジェイ、テムデルの子で前治書侍御史のソナム、テクシの弟で宣徽使の鎖南、典瑞院使トゴチ、枢密院副使アサン、僉書枢密院事章台、衛士トゥメン、諸王アルタン・ブカ、ボラト、オルク・テムル、オルク・ブカ、ウルス・ブカらとともに、自らの配下にあるアスト兵を率いてゲゲーン・カーンの天幕を襲撃した。テクシらはまず右丞相バイジュを殺害し、次いで天幕の中にいたゲゲーン・カーンを弑逆した。こうしてゲゲーン・カーンは治世3年、享年21歳で南坡で崩御することとなった[14]

ゲゲーン・カーンの弑逆後、以前からの予定通りテクシは使者をイェスン・テムルの下に派遣し、イェスン・テムルはケルレンの大オルドにおいて即位を宣言した。即位直後のイェスン・テムルはテクシを知枢密院事に任じることで報いたが、これはテクシ等弑逆犯を油断させるためのものであった[15]。それから間もなく、イェスン・テムルは側近の旭邁傑・紐澤らを派遣してテクシ、シクドゥル、チギン・テムル、トゴチ、章台らを捕らえさせ、その一族郎党ともども処刑し、財産を没収した[16]。これはカーン弑逆という後々まで残るであろう汚名を全てテクシらに被せ、イェスン・テムル新政権は弑逆と無関係であるとアピールするための政策であったと見られる[17]。こうしてテクシ一族は完全に没落し晋王家による統治が始まったが、カーン位を巡る内部対立は続き後に天暦の内乱を誘発することになった。

脚注編集

  1. ^ 屠寄蒙兀児史記』巻122列伝104鉄失伝
  2. ^ 『元史』巻27英宗本紀1,「[至治元年三月]辛丑、以鉄失為御史大夫、佩金符、領忠翊侍衛親軍都指揮使」
  3. ^ 『元史』巻207列伝94逆臣鉄失伝,「鉄失者、当英宗即位之初、以翰林学士承旨・宣徽院使、為太医院使。未逾月、特命領中都威衛指揮使。明年、改元至治、有珍珠燕服之賜。三月、特授光禄大夫・御史大夫、仍金虎符・忠翊侍衛親軍都指揮使、依前太医院使。英宗嘗御鹿頂殿、謂鉄失曰『徽政雖隷太皇太后、朕視之与諸司同、凡簿書宜悉令御史検覈』。既而又命領左右阿速衛。冬十月、英宗親祀太廟、以中書左丞相拜住為亜献官、鉄失為終献官」
  4. ^ 『元史』巻27英宗本紀1,「[至治元年十一月]辛巳、命御史大夫鉄失領左・右阿速衛」
  5. ^ 『元史』巻27英宗本紀1,「[至治二年二月]辛丑、賜鉄失父祖碑」
  6. ^ 宮2018,385頁
  7. ^ 『元史』巻207列伝94逆臣鉄失伝,「明年冬十月、江南行台御史大夫脱脱以疾請于朝、未得旨輒去職、鉄失奏罷之、杖六十七、謫居雲南。治書侍御史鎖南、鉄木迭児之子也、罷為翰林侍講学士、鉄失奏復其職、英宗不允。十二月、鉄失以御史大夫・忠翊親軍都指揮使・左右衛阿速親軍都指揮使・太医院使、兼領広恵司事。英宗嘗謂台臣曰『朕深居九重、臣下奸貪、民生疾苦、豈能周知、故用卿等為耳目。曩者、鉄木迭児貪蠹無厭、汝等拱黙不言、其人雖死、宜籍其家、以懲後也』」
  8. ^ 『元史』巻28英宗本紀1,「[至治三年春正月]辛亥、申命鉄失振挙台綱」
  9. ^ 宮2018,425頁
  10. ^ 『元史』巻207列伝94逆臣鉄失伝,「又明年正月、申命大夫鉄失、振挙台綱、詔諭中外。既而御史台請降旨開言路、英宗曰『言路何嘗不開、但卿等選人未当爾。朕知向所劾者、率因宿怨、羅織成獄、加之以罪、遂玷其人、終身不得伸。監察御史嘗挙八思吉思可任大事、未幾、以貪墨伏誅。若此者、言路選人当乎、否乎』。時鉄木迭児既死、罪悪日彰、英宗委任拜住為右丞相、振立紀綱、修挙廃墜、以進賢退不肖為急務。鉄失以姦党不自安、潜蓄異図」
  11. ^ 『元史』巻28英宗本紀1,「[至治三年五月]辛丑、以鉄失獨署御史大夫事」
  12. ^ 杉山1995,145-149頁
  13. ^ 『元史』巻29泰定帝本紀1,「八月二日、晋王猟於禿剌之地、鉄失密遣斡羅思来告曰『我与哈散・也先鉄木児・失禿児謀已定、事成、推立王為皇帝』。又命斡羅思以其事告倒剌沙、且言『汝与馬速忽知之、勿令旭邁傑得聞也』。於是王命囚斡羅思、遣別烈迷失等赴上都、以逆謀告、未至。癸亥、英宗南還、駐蹕南坡。是夕、鉄失等矯殺拜住、英宗遂遇弑於幄殿。諸王按梯不花及也先鉄木児奉皇帝璽綬、北迎帝於鎮所」
  14. ^ 『元史』巻207列伝94逆臣鉄失伝,「秋八月癸亥、英宗自上都南還、駐蹕南坡。是夕、鉄失与知枢密院事也先鉄木児・大司農失禿児・前中書平章政事赤斤鉄木児・前雲南行省平章政事完者・前治書侍御史鎖南・鉄失之弟宣徽使鎖南・典瑞院使脱火赤・枢密副使阿散・僉書枢密院事章台・衛士禿満、及諸王按梯不花・孛羅・月魯鉄木児・曲律不花・兀魯思不花等、以鉄失所領阿速衛兵為外応、殺右丞相拜住、而鉄失直犯禁幄、手弑英宗于臥所」
  15. ^ 『元史』巻29泰定帝本紀1,「甲午、以内史倒剌沙為中書平章政事、乃馬台為中書右丞、鉄失知枢密院事、馬思忽同知枢密院事、孛羅為宣徽院使、旭邁傑為宣政院使」
  16. ^ 『元史』巻27泰定帝本紀1,「[冬十月甲子]遣旭邁傑・紐澤誅逆賊鉄失・失禿児・赤斤鉄木児・脱火赤・章台等於大都、並戮其子孫、籍入家産」
  17. ^ 宮2018,387頁

参考資料編集

  • 岡田英弘『モンゴル帝国から大清帝国へ』藤原書店、2010年
  • 杉山正明「大元ウルスの三大王国:カイシャンの奪権とその前後 (上)」『京都大學文學部研究紀要』34号、1995年
  • 宮紀子『モンゴル時代の「知」の東西』名古屋大学出版会、2018年