テムル・キュレゲンモンゴル語: Temür Küregen,? - ?)とは、13世紀初頭にモンゴル帝国に仕えたコンギラト部出身の万人隊長(トゥメン)。『元史』などの漢文史料では帖木児(tièmùér)と記される。

概要 編集

テムルは大元ウルスを創設したクビライの義兄に当たるナチン・キュレゲンの息子として生まれ、兄弟にはオロチンジルワダイマンジタイナムブイらがいた[1]。当初、ナチンの息子の中で最も年長のオロチンが父の地位を継承して万人隊長(トゥメン)となったが、1277年(至元14年)にシリギの乱に呼応して叛乱を起こした弟のジルワダイによって殺されてしまった。

ジルワダイの叛乱自体はボロカンらの活躍によって早期に鎮圧されたものの、オロチンの弟のテムルが兄の地位を継承して万人隊長(トゥメン)となったのはシリギの乱がほぼ鎮圧された1280年(至元17年)のことであった[1]。また、テムルは万人隊長(トゥメン)となると同時に兄の妻のナンギャジンレビラト婚で娶った[2]。そもそもオロチンとナンギャジンの婚姻は祖父の代から連続する婚姻関係を受け継いだものであり、テムルのレビラト婚によって両家の婚姻関係は保たれることになった[3]

1287年(至元24年)、ナヤン・カダアンの乱が勃発するとクビライ自ら率いる叛乱鎮圧軍に従軍し、戦功によって済寧郡王に封ぜられるとともに、白傘蓋(sügür)を下賜された[1]。翌1288年(至元28年)以降もカダアン・トゥルゲン率いる反乱軍残党の掃蕩に従事し、ウズ・テムルとともにノーン・ムレンにてカダアン軍を撃破した[1]。その後間もなく亡くなったが、ナンギャダイとの間に生まれたディウバラとセンゲブラが未だ幼かったため、弟のマンジタイが後を継いだ[1]。ただし、高齢にして当主となったマンジタイにはチンギス・カン家の血を引く公主との間に生まれた息子がおらず、コンギラト部当主の地位はテムルの血統に継がれることになった。

コンギラト部デイ・セチェン家 編集

脚注 編集

  1. ^ a b c d e 『元史』巻118列伝6特薛禅伝,「特薛禅、姓孛思忽児、弘吉剌氏、世居朔漠……子曰按陳。……子斡陳。……弟納陳。……斡羅陳襲万戸、尚完澤公主。……弟曰帖木児、至元十八年襲万戸。二十四年、乃顔叛、従帝親征、以功封済寧郡王、賜白傘蓋以寵之。二十五年、諸王哈丹禿魯干叛、与諸王及統兵官玉速帖木児等率兵討之、由亀剌河与哈丹等遇、転戦至悩木連河、殲其衆。帝賜名按答児禿那顔、以旌其功。薨、葬末懐禿。子二人。長曰雕阿不剌、次曰桑哥不剌、皆幼。至元二十七年、以其弟蛮子台襲万戸」
  2. ^ 『元史』巻109表4諸公主表,「魯国大長公主嚢加真、世祖女、適納陳子帖木児、再適帖木児弟蛮子台」
  3. ^ 宇野1999,40頁

参考文献 編集

  • 宇野伸浩「チンギス・カン家の通婚関係の変遷」『東洋史研究』52号、1993年
  • 宇野伸浩「チンギス・カン家の通婚関係に見られる対称的婚姻縁組」『国立民族学博物館研究報告別冊』20号、1999年
  • 杉山正明『モンゴル帝国と大元ウルス』京都大学学術出版会、2004年