デイヴィッド・リンジー (第10代クロフォード伯爵)

第10代クロフォード伯爵デイヴィッド・リンジー英語: David Lindsay, 10th Earl of Crawford PC1527年頃 – 1574年秋)は、スコットランド貴族

生涯 編集

アレグザンダー・リンジー(Alexander Lindsay、1542年11月27日没、第8代クロフォード伯爵デイヴィッド・リンジーの息子)と3人目の妻イソベル・ランディ(Isobel Lundy、1550年2月2日以前没)の息子として、1527年頃に生まれた[1]

父アレグザンダーは父殺し英語版で1531年に有罪判決を受け、爵位の継承権を失ったが、祖父により指名された継承者である第9代クロフォード伯爵デイヴィッド・リンジーは次代のクロフォード伯爵に自身の息子ではなく、継承権を失っていたアレグザンダーの息子デイヴィッドを指名した[1]。これにより、1554年5月23日に祖父の継承者として承認され、1558年9月20日に第9代クロフォード伯爵が死去するとクロフォード伯爵位を継承した[1]。しかし、第10代クロフォード伯爵はクロフォード伯爵位の新しい特許状を作成させ、その継承権者を自身の男女両系の相続人(heirs general of his body)に限定した[1]。これにより、第10代クロフォード伯爵の女系相続人が第9代クロフォード伯爵の直系男系男子に優先するという状況になったが、スコットランド女王メアリーは1565年3月22日に新しい特許状の無効を宣言、継承権を元に戻した[1]

1565年7月29日のスコットランド女王メアリーとダーンリー卿ヘンリー・ステュアートの結婚式で女王の酌取り(Cupbearer to the Queen)を務め、同年10月29日にスコットランド枢密院英語版の枢密顧問官に就任した[1]。後にメアリーがロッホ・リーヴェン城英語版に幽閉されると、彼女の救出を計画する貴族がダンバートンに集まったが、第10代クロフォード伯爵もその1人だった[2]

1568年のラングサイドの戦い英語版ではメアリーを支持したが、ほかの北部諸侯と同じく到着が遅れて参戦できなかった[2]。これにより同年7月23日に反乱者として非難されたが、1569年5月6日にスコットランド王ジェームズ6世と摂政の初代マリ伯爵ジェームズ・ステュアートへの忠誠の盟約に署名したことで恩赦された[2]

1574年に死去、ダンディーで埋葬された[1]。同名の息子デイヴィッドが爵位を継承した[1]

家族 編集

1546年にフィンヘイヴン英語版で盛大な結婚式を挙げ、マーガレット・ビートン(Margaret Beaton、1574年以降没、デイヴィッド・ビートン英語版の娘)と結婚[1]、5男1女をもうけた[3]

出典 編集

  1. ^ a b c d e f g h i Cokayne, George Edward; Gibbs, Vicary; Doubleday, H. Arthur, eds. (1913). Complete peerage of England, Scotland, Ireland, Great Britain and the United Kingdom, extant, extinct or dormant (Canonteign to Cutts) (英語). Vol. 3 (2nd ed.). London: The St. Catherine Press, Ltd. pp. 514–516.
  2. ^ a b c Henderson, Thomas Finlayson (1893). "Lindsay, David (1547?-1607)" . In Lee, Sidney (ed.). Dictionary of National Biography (英語). Vol. 33. London: Smith, Elder & Co. pp. 295–297.
  3. ^ "Crawford, Earl of (S, 1398)". Cracroft's Peerage (英語). 22 March 2005. 2020年7月6日閲覧
スコットランドの爵位
先代
デイヴィッド・リンジー
クロフォード伯爵
1558年 – 1574年
次代
デイヴィッド・リンジー