デメララ(Demerara)またはデメラリオランダ語: Demerary, [ˌdeːməˈraːri])は、南アメリカ北岸のギアナ地方に存在した歴史的地域である。現在のガイアナの一部にあたる。デメララ川英語版下流域に位置し、現在のガイアナの首都でもあるジョージタウンが主要都市だった。1745年から1792年まではオランダ西インド会社が、また1792年から1815年まではオランダ本国(ネーデルラント連邦共和国バタヴィア共和国ホラント王国)が支配するデメラリ植民地オランダ語: Kolonie Demerary)であった。1812年にイギリスがこの地を占領し、隣のエセキボ植民地英語版と統合してデメララ=エセキボ植民地英語版とした。1815年に正式にオランダからイギリスへ割譲され、1831年にはベルビセ植民地英語版を加えてイギリス領ギアナ英語版が成立した。単独地域としてのデメララは、1838年にイギリス領ギアナにカウンティ制が敷かれデメララ・カウンティが設置されたことで復活し、1958年まで続いた。イギリス領ギアナは1966年にガイアナ英語版として独立し、1970年には共和制に移行してガイアナ協同共和国となった。

Kolonie Demerary (1745–1803)
Colony of Demerara (1803–1812)
County of Demerara (1838–1958)

デメラリ
デメララ
1745–1812
1838–1958
国旗
1759年のオランダ領デメラリ植民地 (地図上の方角は東が上)
1759年のオランダ領デメラリ植民地
(地図上の方角は東が上)
地位
  • オランダ西インド会社植民地 (1745–1792)
  • オランダ植民地 (1792–1815)[注釈 1]
  • イギリス占領期 (1781–1782、1796–1802、1803–1815)[注釈 2]
  • フランス占領期 (1782–1783)
  • 事実上のイギリス植民地 (1803–1812)
  • 事実上のイギリス植民地としてデメララ=エセキボ植民地へ統合 (1812–1815)
  • 正式なイギリス植民地としてデメララ=エセキボ植民地へ統合 (1815–1831)
  • イギリス領ギアナ英語版のデメララ・カウンティ (1838–1958)
首都 ゼーランディア砦英語版 (1745–1755)
ボルセレン英語版 (1755–1782)
スタブローク (1782–1815)
共通語 オランダ語英語ガイアナ・クレオール語英語版ガイアナ・ヒンドゥスターニー語英語版タミル語、その他南アジア諸言語英語版アフリカ諸言語アラワイオ語英語版マクシー語英語版ワイワイ語英語版アラワク諸語パタモナ語英語版ワラオ語英語版, カリブ語, ワピシャナ語英語版, アレクナ語ポルトガル語スペイン語フランス語中国語
宗教
キリスト教ヒンドゥー教イスラームユダヤ教アフロ・アメリカ系諸宗教英語版伝統的アフリカ諸宗教英語版アフリカ先住民系諸宗教英語版
歴史  
• オランダ西インド会社デメラリ植民地として成立
1745年10月18日
1781年2月24-27日
• フランスのデメラリ・エセキボ占領
1782年1月22日
• パリ条約によるオランダの支配権再確認
1783年
1792年1月1日
• アミアンの和約によるオランダの支配権再確認
1802年3月27日
• イギリス占領下でエセキボ植民地と統合されデメララ=エセキボ植民地成立
1812年4月28日
• ロンドン条約によりイギリスへ割譲
1815年11月20日
• デメララ=エセキボ植民地とベルビセ植民地統合によりイギリス領ギアナ成立
1831年7月21日
• デメララ・カウンティ再編
1838年
• 複数の分割再編
1958年
通貨 スペイン・ドル英語版オランダ・ギルダーガイアナ・ドルイギリス領西インド・ドル英語版
先行
継承
エセキボ植民地
デメララ=エセキボ植民地
現在 ガイアナ
1830年代にデメララ=エセキボ植民地で流通した2Joe (44オランダ・ギルダー)紙幣(第二期)

「デメララ」という名は、先住民アラワク族の言葉で「レターウッド(Brosimum guianense英語版)の川」を意味する "Immenary" もしくは "Dumaruni" から派生したものである[1]粗糖の一種の「デメララシュガー」は、もともとデメララで産出されたサトウキビが原料となっていたことに由来する。

歴史 編集

オランダの植民地 編集

1691年、デメラリは交易所として歴史上に登場する[2]。本来デメラリはエセキボ植民地英語版に属するものとされていたが、ゼーラント州に属するエセキボ植民地とは別にホラント州の人々がデメラリへの入植を希望したため、デメラリは1745年10月18日にエセキボとは別個の植民地として自立することになった[3]。植民地設立文書では、植民者は先住民との和を保ち、彼らの領域を尊重するよう定められていた。というのも、先住民はエセキボ植民者と協力して、襲来したフランスの私掠船と戦い駆逐したことがあったからである。デメラリでは、先住民は自由人とみなされ、彼らを奴隷とすることは禁じられた[4]

最初の入植者はアンドリース・ピーテルスなる人物で、彼は元からエセキボにもプランテーションを保有していた。半年後には、デメラリには大規模なサトウキビプランテーションが18か所、小規模なものが50か所建設されていた[5]。植民地の統治は、当初はゼーランディア砦英語版に駐在するエセキボ総督Laurens Storm van 's Gravesande英語版が担った。1750年、彼は息子のジョナサンをデメラリ司令官に任命した[6]

デメラリは急速に発展し[7]、多くのイングランド人プランターを引き寄せた[8]。奴隷貿易を独占していたオランダ西インド会社はデメラリへの十分な補給を果たせなかったため、デメラリではイングランドの植民地からの違法密輸が横行した[9]

1755年、バルバドスの商人・農場主であるGedney Clarke[10]が、デメラリでの参政権を求めてきた[6]。これがきっかけとなり、デメラリの政庁はボルセレン島英語版に移転することになった[8]。この土地はデメララ川の20マイル (32 km)上流の地点にあり、デメラリ司令官が所有するSoesdyke英語版プランテーションに近かった[11]。しかしボルセレン島は守りにくい立地だったため、この移転策は批判を受け[12]、入植者たちはデメララ川河口の守衛所付近に家を建て始めた。後にこの集落はスタブローク英語版と呼ばれるようになり[8]、1782年にはデメラリ植民地の首府がボルセレン島から移された[13]。スタブロークは1812年にジョージタウンと改称し、現代ではガイアナの首都となっている[14]

1763年、近隣のベルビセ植民地英語版奴隷反乱英語版が発生した。エセキボ総督van 's Gravesandeは、アラワク族カリーナ人英語版ワラオ人英語版アカワイオ人英語版[15]といった先住民と同盟を結び[16]、奴隷反乱がデメラリやエセキボへ波及するのを防いだ[8]。また反乱鎮圧を支援するため、デメラリから兵士50人がベルビセに派遣された[17]。奴隷反乱は、この地域の植民地の悩みの種だった。1767年には、プロイセン王フリードリヒ2世に宛てて、ドイツ人農場主の入植を促進するべく100人の兵を送ってくれるよう求める書簡が送られている[18]

1780年には、デメラリには200近くのプランテーションが存在し、エセキボの129か所を大きく上回っていた[19]。デメラリは、エセキボ以上に繁栄した植民地となった[17][8]。両植民地の対立が深まった為、ゼーランディア砦に両植民地を統括する法廷英語版が設置された[20]。デメラリ植民地の白人人口中では、イングランド人[8]やスコットランド人[21][22]の農場主が大多数を占めていた。

1800年前後の植民地争奪 編集

1781年、オランダはフランス・スペインのブルボン朝と手を結び、アメリカ独立戦争に参戦してイギリスと戦うことになった。これに対し、イギリスはジョージ・ロドニー提督率いる大艦隊を西インド諸島に派遣した。イギリス艦隊はカリブ海で敵国領の島々を攻略した後、一戦隊を切り離してエセキボ・デメラリ両植民地の制圧に向かわせた。この作戦は成功し[23]、両植民地は戦闘を経ずしてイギリスの手に落ちた[24][25]。なおこの前年の1年間で、デメラリ植民地は砂糖10,000ホッグスヘッド英語版、コーヒー5,000,000ポンド、綿花800,000ポンドを生産していた[25]

1782年、フランスがイギリス占領下のデメラリとエセキボを攻撃英語版した。イギリスの総督ロバート・キングストンは降伏し、これらオランダの植民地はフランスの手に渡った[26]。この事件に対するオランダでの反応は様々だった。Leeuwarder Courant紙は、我らがデメラリが失われたと報じた[27]。一方でHollandsche historische courant紙は、喜ぶべき再征服であると論じた[28]。1783年に結ばれたパリ条約で、両植民地はオランダ領に復帰した[29]

しかしフランス革命戦争で再びオランダと敵対したイギリスは、1796年にデメラリ、エセキボ、ベルビセを再占領した[22]。植民地の法と慣習はすべて維持され、植民地の市民はイギリス人と同列に扱われた。また植民地政府の官吏も、イギリス王に忠誠を誓えば元の職にとどまることが認められた[22]。三植民地は1802年にアミアンの和約でオランダに返還された[30]が、翌年には再びイギリスに制圧された[30]

1812年4月28日[31]、イギリスはデメラリ植民地とエセキボ植民地を統合し、デメララ=エセキボ植民地英語版を設立した[30]。この植民地は、1814年8月13日に正式にイギリス領とされた。1815年11月20日、オランダも両植民地をイギリスへ割譲する合意を承認した[32]

奴隷反乱 編集

1795年には植民地西部で、1823年には東海岸で大規模な奴隷反乱英語版が勃発した[33]。これらの反乱は短期間で多くの血を流しつつ暴力的に鎮圧されたが、ウィンストン・マクゴーワンによれば、こうした事件が奴隷制の廃止の遠因となった。

1823年の反乱は、以前にベルビセで起きた蜂起が成し遂げられなかったような極めて大きな意義を有していた。ブリテンでは議会の内外で、極悪な奴隷制と、それを廃止しようとする必要性への関心が高まった。これが一因となり、他の人道的・政治的・経済的要因が重なって、イギリス議会は10年後の1833年に、イギリス領ギアナとその他全大英帝国で奴隷制を撤廃するという重大な決断を下し、1834年8月1日から施行させたのである。婉曲的に「見習い期間」(apprenticeship)と呼ばれた4年間の奴隷制からの移行期間を経て、1838年8月1日、奴隷たちはついに解放されたのである。
[34]

植民地廃止 編集

1831年7月21日、デメララ=エセキボ植民地とベルビセ植民地が統合され、ギアナ植民地英語版 が成立した[35]。1838年、デメララ、ベルビセ、エセキボは、それぞれイギリス領ギアナを構成する3カウンティとして再構成された[36]。1958年、カウンティ制が廃止され、歴史的なデメララ地域は分割され[37]デメララ=マハイカ州エセキボ諸島=西デメララ州アッパー・デメララ=ベルビセ州という3つの行政区画になった[36]

著名なデメララ出身者 編集

デメラリ司令官 編集

デメララ総督 編集

デメララ長官 編集

デメララ=エセキボ副総督 編集

反乱指導者 編集

関連項目 編集

脚注 編集

  1. ^ Benn, Brindley H. (1962-06-30). “Guyana the Name”. Thunder (Georgetown, Guyana). http://www.guyana.ro/guyana/name.php. 
  2. ^ Storm van 's Gravesande & Villiers 1920, p. 38.
  3. ^ Hartsinck 1770, pp. 267–268.
  4. ^ Hartsinck 1770, p. 270.
  5. ^ Netscher 1888, p. 116.
  6. ^ a b Storm van 's Gravesande & Villiers 1920, p. 40.
  7. ^ Storm van 's Gravesande & Villiers 1920, p. 39.
  8. ^ a b c d e f “Establishment of Demerara”. Guyana Times International. https://www.guyanatimesinternational.com/establishment-of-demerara/ 2020年8月11日閲覧。 
  9. ^ Netscher 1888, p. 128.
  10. ^ The Rise and Fall of a Barbados Merchant”. Washington Papers. 2020年8月12日閲覧。
  11. ^ “The Wonderful Demerara River”. Guyanese Online. https://guyaneseonline.net/2013/12/18/the-wonderful-demerara-river-by-maj-gen-retd-joseph-g-singh/ 2020年8月12日閲覧。 
  12. ^ Netscher 1888, p. 186.
  13. ^ Netscher 1888, p. 149.
  14. ^ Netscher 1888, p. 310.
  15. ^ Storm van 's Gravesande & Villiers 1920, pp. 235–236.
  16. ^ Esther Baakman. Their power has been broken, the danger has passed." Dutch newspaper coverage of the Berbice slave revolt, 1763. doi:10.18352/emlc.61. https://www.emlc-journal.org/articles/10.18352/emlc.61/ 2020年8月13日閲覧。. 
  17. ^ a b Netscher 1888, p. 144.
  18. ^ Storm van 's Gravesande & Villiers 1920, p. 311.
  19. ^ Netscher 1888, pp. 149–150.
  20. ^ Netscher 1888, p. 143.
  21. ^ “How Scotland erased Guyana from its past”. The Guardian. https://www.theguardian.com/news/2019/apr/16/scotland-guyana-past-abolitionists-slavery-caribbean 2020年8月12日閲覧。 
  22. ^ a b c A.N. Paasman (1984年). “Reinhart: Nederlandse literatuur en slavernij ten tijde van de Verlichting”. Digital Library for Dutch Literature. 2020年8月10日閲覧。
  23. ^ Hadden 2009, p. 64.
  24. ^ Netscher 1888, p. 150.
  25. ^ a b “Middelburgsche courant” (オランダ語). Middelburgsche courant via Delpher. (1781年5月1日). https://www.delpher.nl/nl/kranten/view?facets%5Btype%5D%5B%5D=artikel&facets%5Bperiode%5D%5B%5D=1%7C18e_eeuw%7C1780-1789%7C&page=1&coll=ddd&identifier=ddd:010200005:mpeg21:a0008&resultsidentifier=ddd:010200005:mpeg21:a0008 2020年8月13日閲覧。 
  26. ^ Dalton 1855, p. 239.
  27. ^ “Leeuwarder Courant” (オランダ語). Leeuwarder Courant via Delpher. (1782年3月23日). https://www.delpher.nl/nl/kranten/view?facets%5Btype%5D%5B%5D=artikel&facets%5Bperiode%5D%5B%5D=2%7C18e_eeuw%7C1780-1789%7C1782%7C&page=2&coll=ddd&identifier=ddd:010576208:mpeg21:p002&resultsidentifier=ddd:010576208:mpeg21:a0002 2020年8月13日閲覧。 
  28. ^ “Vrankrijk” (オランダ語). Hollandsche historische courant via Delpher. (1782年4月27日). https://www.delpher.nl/nl/kranten/view?facets%5Btype%5D%5B%5D=artikel&facets%5Bperiode%5D%5B%5D=2%7C18e_eeuw%7C1780-1789%7C1782%7C&page=1&coll=ddd&identifier=ddd:010809837:mpeg21:a0004&resultsidentifier=ddd:010809837:mpeg21:a0004 2020年8月13日閲覧。 
  29. ^ Edler 2001, p. 185
  30. ^ a b c Schomburgk 1840, p. 86.
  31. ^ Netscher 1888, p. 290.
  32. ^ Berbice”. British Empire. 2020年8月7日閲覧。
  33. ^ McGowan, Winston (2000年). “The distinctive features of the 1823 Demerara slave rebellion”. Starbroeck News. 2017年8月15日閲覧。
  34. ^ McGowan, Winston (2006年). “The 1763 and 1823 slave rebellions (Part 2)”. en:Stabroek News. 2007年9月27日時点のオリジナルよりアーカイブ。2006年12月7日閲覧。
  35. ^ 37. The Beginning of British Guiana”. Guyana.org. 2020年8月7日閲覧。
  36. ^ a b Regions of Guyana at Statoids.com. Updated 20 June 2011. Retrieved 20 March 2013.
  37. ^ ADMIN REGIONS DETAILED – GUYANA LANDS AND SURVEYS COMMISSION'S FACT PAGE ON GUYANA” (英語). 2021年3月16日閲覧。
  38. ^ The Extraordinary Life of the Freed Slave Who Taught Darwin Taxidermy”. Atlas Obscura (2019年3月25日). 2020年8月11日閲覧。
  39. ^ First Black footballer, Andrew Watson, inspired British soccer in 1870s”. Chronicle World.org. 2010年6月10日時点のオリジナルよりアーカイブ。2021年3月15日閲覧。
  40. ^ a b P.J. Blok & P.C. Molhuysen (1927年). “Nieuw Nederlandsch biografisch woordenboek. Deel 7” (オランダ語). Digital Library for Dutch Literature. 2020年8月14日閲覧。
  41. ^ Netscher 1888, p. 280.
  42. ^ Demerara-Essequibo”. Rulers. 2022年2月6日閲覧。

参考文献 編集