デルフト眺望

ヨハネス・フェルメールによる絵画

デルフト眺望』(でるふとちょうぼう、: Gezicht op Delft, : View of Delft)は、オランダ黄金時代の画家ヨハネス・フェルメールが描いた絵画。『デルフトの眺望』などの日本語表記もある。キャンバスに油彩で描かれた作品で、ハーグマウリッツハイス美術館が所蔵している[1]

『デルフト眺望』
オランダ語: Gezicht op Delft
Vermeer-view-of-delft.jpg
作者ヨハネス・フェルメール
製作年1660年 - 1661年頃
種類キャンバスに油彩
寸法96.5 cm × 115.7 cm (38.0 in × 45.6 in)
所蔵マウリッツハイス美術館ハーグ

室内画が中心のフェルメールとしては異例の都市景観画の大作となった。フェルメールは自身が暮らしたデルフトを題材とするにあたり、個人的な体験と結びつけ、生涯に関わる建築物を一望するように描いた[2][3]。建物の配置や寸法、水面に映る姿などは現実と異なる調整がされている[4]

フェルメールの風景画は2点あり、本作品と『小路英語版』がそれにあたる。本作品は、19世紀にフェルメールが再評価されるきっかけとなり、早くから美術館に所蔵されてゴッホをはじめとする芸術家の称賛を受けた。作家のマルセル・プルーストは、自作の重要な場面で本作品を用いている[5][6]

制作時期については、所蔵館のマウリッツハイス美術館は1660年から1661年[7]アーサー・K・ウィーロック英語版は1660年から1661年、アルバート・ブランケルト英語版は1661年、小林頼子は1659年から1660年としている[8]。フェルメールの研究サイトである「エッセンシャル・フェルメール (Essential Vermeer)」では、1660年から1663年の間としている[2]。『小路』や『二人の紳士と女英語版』と前後する時期にあたる[8]

時代背景編集

 
2019年のデルフト。フェルメールが『デルフト眺望』を描いたとされる地点の近くで撮影。

デルフトの状況編集

オランダの都市デルフトには17世紀に多くの画家が訪れ、デルフト派英語版とも呼ばれた。特に1640年代から1650年代のピーテル・デ・ホーホパウルス・ポッテルカレル・ファブリティウスヤン・ステーン、フェルメールらはデルフト派に含まれる。芸術家にとって、デルフトの長い歴史と美しい街並み、貴族的な雰囲気が魅力的だった可能性がある。しかしデルフトで芸術が盛んになった頃には、政治的・経済的な繁栄はすぎつつあった。デルフト社会は保守的になり、少数の一族による支配、地元の産業の衰退が起きた[注釈 1]。そのためアムステルダムが成長すると、多くの画家はアムステルダムに移ってゆき、他方でデルフト出身でもあるフェルメールはとどまって創作を続けた[2]

気候編集

17世紀は地球規模で小氷期の時期にあり、寒波や疫病などの災害が起き、生物の生息域にも変化が起きた[注釈 2]。北海のニシンは、従来のノルウェー沖から南下するようになった。このためにオランダの漁獲量が増え、オランダは漁業から大きな利益を得て、造船やアジアとの貿易への投資を可能とした。気候変動は災害をもたらすとともにオランダ繁栄の一因にもなった[10]

都市景観画の成立編集

オランダでは、図版付きの都市史や地図を出版し、地図製作の技術が発達した。裕福な市民は、自分たちの街を記録した絵画を依頼し、肖像画のように飾った。こうした状況がオランダの都市景観画の成立につながったという説がある[2][11]。都市景観画のもとになったとされる都市図は、ハルトマン・シェーデル英語版の『世界年代記』(1493年)、ゼバスティアン・ミュンスターの『コスモグラフィア英語版』(1544年)、ゲオルク・ブラウン英語版フランス・ホーヘンベルク英語版の『世界都市図帳』(1572年-1617年)などに掲載されている。それらの都市図は俯瞰的視点で都市を描いており、『デルフト眺望』も同じ構図となっている。名所や人々の暮らしを詳しく描いたクラース・ヤンスゾーン・フィッセル英語版『商業都市アムステルダムの横顔』(1611年)のような都市誌もあった[12]

 
ヘンドリック・フローム『西から眺めたデルフト』(1615年)
 
エルベルト・ファン・デル・プル『1654年のデルフトの火薬庫爆発』[2][13]

都市景観画は、風景画がカテゴリーとして成立したのちに描かれるようになった。デルフトを描いた最初期の景観画には、ヘンドリック・フローム英語版の『西から眺めたデルフト』(1615年)、『北から眺めたデルフト』(1617年)がある。また、ファブリツィウスの『楽器商のいるデルフトの眺望英語版』(1652年)やファン・ホイヘンの『北から眺めたデルフト』(1654年)もある [14]

都市景観画は重大事件の記録としても描かれた。1652年にアムステルダム市庁舎が焼失した時は、ルンデルスとベールストラーテンが火災と廃墟を描いた。1654年にデルフトの火薬庫が爆発した際には、ダニエル・フォスマール英語版エフベルト・ファン・デル・プル英語版が描いた。これらは現在の報道写真のように重大事件と都市の名を記録する役割を果たした[15]。フェルメールの作品は、日常を描いた初期の都市景観画の1つにあたる[15]

構成編集

 
ヨーアン・ブラウ英語版製作のデルフト地図(1649年)。『デルフト眺望』の視点は、右下の三角形の水域(コルクと呼ばれた)からと推測される。フェルメールは建築物を現実と異なる配置にした[3]

南から見たデルフトの街を描いたもので、コルクと呼ばれる三角形の水域から描かれている。この水域に面した港はスヒーダム港と呼ばれ、1614年の工事で作られた。画中で右端にある2つの塔を備えているのがロッテルダム門、中央の時計台があるのがスヒーダム門である。1834年から1836年にかけて城門と城壁が取り壊され、新教会の尖塔は1872年に焼失し、ネオ・ゴシックの塔が建てられた。旧教会の尖塔は傾斜しつつ現存している[注釈 3][16][2]

視点が高いため、スヒー運河の対岸にあるホーイカーデ埠頭の付近にあった建物の2階から描いたと推測されている[17][18]。フェルメールが制作にカメラ・オブスクラを用いたという説があり、『デルフトの眺望』では、ニシン運搬船の光の点描(後述)がそれにあたるという説もある。ただし、カメラ・オブスクーラは大きな光源を必要とするため、このような効果は見えなかったともいわれる[2]

配置・寸法編集

画面は水平に大きく4つに分かれている。空、街、水面、手前の岸辺である[17]。フェルメールは視線が水平方向へ移動しやすくなるように、建築物を現実と異なる配置にした。水面を広く見せるために、ロッテルダム門は前方に張り出すのではなく右方向に引き延ばされた。これによって岸がより水平になっている。建物の高低差も実際より抑えられており、帯状の景色を形作っている[注釈 4][20]

フェルメールは位置を現実の建物から変えた他に、寸法も変えている。デルフトで最大のモニュメントでもある旧教会英語版はほとんど隠れており、左にゴシック様式の尖塔がわずかに確認できる。旧教会の尖塔の右に見えるのは、鸚鵡醸造所と呼ばれるビール醸造所の塔である。白い新教会の塔は低く、そして広めに描かれており、これは前景からの距離と、水平な構図を強調する目的があったとされる[2]

水平性を強調するために、色彩も工夫されている。前景から中景に暗い色調、後景に明るい色調を置いている。前景の船は壁や水面と同じ系統の色彩で目立たず、屋根の赤・黒や、壁の茶色は、明るい空に浮かび上がっている[21]

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早朝の空であり、白をベースとした明るい灰色と青は、地上に近い部分は鉛白と鉛錫黄英語版で明るくなっている。豚の毛が残っている点から、平筆で描かれたことが分かる。フェルメールの雲の表現は、風景画家のヤーコプ・ファン・ロイスダールの技法に似ている[2]

建築物編集

 
ロッテルダム門。右にはニシンの運搬船が2隻、左には旅客用の艀が4艘繋留されている[2]

複数の絵の具で層を重ねた表現が、建築物において顕著に見られる。屋根や壁では暗めの色彩を下にして、明るめの色彩を点状に重ねてある。風雨にさらされたレンガやスレートの質感を表現するために、点状のタッチの大きさや色調の変化、鉛白や砂の混入、にじみなどの工夫がされている。また、屋根の棟に白い輪郭線がわずかにあることで水平性を強調している[22]。こうして建築物によって異なる質感が表れており、左の赤い屋根瓦はざらついた材質に見え、中央奥の屋根は波型のタイルを思わせる[23]

門が2つ描かれており、右端にあるのがロッテルダム門だった。中世に建造された門で、2つの塔と防衛用の銃眼を備えており、屋根付きの橋が堀を覆っていた。フェルメールは門の角度を実際よりも平らにしている。X線写真と赤外線反射計の検査によれば、当初は2つの塔は陽光を浴びて明るく描かれていたが、より暗い色調に変更された[2]

 
白い塔はデルフトの新教会。木々の左に見えるのが運河沿いの家々。水門がある橋の向こうで、アウデ・デルフト運河とニーヴェ・デルフト運河に分かれている[16][2]

中央からやや右寄りにある白い塔は、デルフト新教会である。フェルメールが住んでいたマリア・ティンスの家は、新教会の尖塔の右にあるが、この絵では隠れており見えない[16]。新教会の塔の上部にはカリヨンがなく、素通しになっている。フォスマールの『1654年の火薬庫爆発直後のデルフト』(1654年)の塔も同じく素通しになっている。その後、1663年のフォスマール作『空想の回廊から眺めたデルフト』になると、塔にはカリヨンが取り付けられている。記録によれば、新教会にカリヨンがとりけられたのは1660年9月から2年間をかけたとされる。これらを根拠にすると、フェルメールが本作品を描いたのは1660年の9月以前ということになる[注釈 5][25]。フェルメールが家族と住んでいたマリア・ティンスの家は、新教会の付近に位置していた。太陽に照らされた部分を強調するために、鉛錫黄色が使われている[注釈 6][2]

新教会の塔とスヒーダム門の間に見える切妻屋根は、デ・ヘール運河沿いの家々とされる。1980年代の調査によって、この家々の間隔は4メートルであり調査当時と同じだったという。現在は取り壊されて残っていない。フェルメールが生まれ育ったマルクト広場も、この方向にあった[2]

 
時計台のあるスヒーダム門。その左の階段状の破風がある赤い屋根は武器庫[26]

中央の時計のある建物がスヒーダム門である。時計の時刻は7時10分頃であると分かる。門は、都市を防衛する役割があるとともに、デルフト市が物品税を徴収する場所でもあった[2]

醸造所の塔の隣に並んでいる屋根は、デルフトの西にかけて広がるオランダ東インド会社(VOC)の倉庫である。この区画には東インド会社のデルフト会議所もあった[注釈 7]。17世紀のオランダの人々にとって東インド会社は利益の源泉であり、デルフトの多くの市民にとっても同様だった[注釈 8][29]

運搬船編集

右端のロッテルダム門の近くにつながれている2隻の貨物船は、ニシンの運搬船である。北海でとれたニシンを運ぶための3本マストの船であり、前方と後方のマストが見えなかったり斜めになっている点から改修中であると分かる[10]。ニシン運搬船のシーズンは法律で6月1日から12月末までと定められており、船が改修中である点や木々が緑色であると点を考慮すると、時期は5月前半と推測される[注釈 9][2]

水面編集

 
ニシン運搬船の拡大部分。船縁には水面から照り返した光が実際よりも強く表現されている[2]

静かな水面は早朝を示しており、さざなみが重ね塗りによって繊細に描かれている。水面に映る建物はぼやけている部分があるが、当初はよりくっきりと描かれていた[2]。水面に映る建物は実際よりも大きく描かれており、120メートルから130メートルはある対岸まで伸びている。これは縦方向の描写を加えることで水平性を緩和する目的があったと推測される[30]

ニシン運搬船の船縁には水面の光が照り返したような斑点が描かれているが、実際には木材船にはこのような強い光は見られない。細部に生気を与えるためのフェルメールの表現の1つである[31]

岸辺編集

 
運河交通に使う旅客用の艀と乗客たち。水面に映る建物は実際よりも縦に引き伸ばされており、対岸まで届いている[2][30]

左手の埠頭には、旅客用のが停泊している。この艀は、デルフトとハーグやライデンなど南部の都市を結ぶ交通手段として定期的に航行していた[32]。オランダの平地を区切る運河は交通手段としても重要で、デルフトにはライン川につながるスヒー運河が通っていた。道路はぬかるむことが多く、馬車よりも船の方が快適で信頼性が高かった[注釈 10]。デルフトでは、行政面の首都であるハーグを結ぶ航路が2時間ごとに運行されて、片道1時間から1時間30分をかけた。手前にある艀は、1655年に就航したロッテルダムへの路線とされる[2]

艀のそばに立つ人々は船客で、服装から社会的地位が読み取れる。3人で話している男女は流行の服装である点からおそらく社会的地位が高く、一等船客と思われる。当時の一等船客は8人、二等船客は25人だった[32][2]。艀から離れて立ち話をしている女性2人の右には、当初は帽子をかぶった男性がいたが、完成版では省かれた[2]

評価編集

 
後年のフェルメール作品『絵画芸術』に描かれた地図は、両端に多数の都市景観図がついており、当時の人々の関心の高さが分かる[23]

都市景観画としての特徴編集

『デルフト眺望』は、重要な建築物を目立たせるというオランダの風景画の定型からは外れている。フェルメールはデルフトを正確に描写したパノラマを提供するよりも、個人的な体験と街を結びつけて描いた[2]。フェルメールは、自身の生涯に関わる建築物を一望できるように描いている。新教会はフェルメールが洗礼を受けた場所であり、新教会の塔の下にあるであろうマルクト広場は、家族と暮らし創作を行なった区画である。スヒーダム港は、ロッテルダムやハーグへ外出する時に使った場所にあたる。そして生涯を終えたのちには旧教会に埋葬されることになる[3]

フェルメールの全作品の中で『絵画芸術』と並ぶ大作であり、制作に時間をかけたと推測される。室内画家だったフェルメールが、都市景観画である本作品を描いた理由はわかっておらず、彼のパトロンだったデルフトのピーテル・ファン・ライフェン英語版が依頼した可能性もある。制作の動機については、次のようにいくつかの仮説がある。 (1) 1654年の火薬庫の爆発と1660年の火事のあと、健在だったスヒーダム港周辺の景色に関心が集まっていたために描かれた[注釈 11]。(2) 1660年代にはデルフトや地誌についての関心が高まっていたために描かれた。(3) 画中で新教会が目立っている点からオラニエ家が関わっていた、などである[注釈 12][2][35][34]

フェルメール再評価との関係編集

『デルフト眺望』は、フランスの美術評論家トレ・ビュルガー英語版の論文により有名となった。トレ・ビュルガーはテオフィル・トレという人物の筆名であり、フェルメール作品の再評価や再発見者として知られた[注釈 13]。トレ・ビュルガーのフェルメール論は、美術誌「ガゼット・デ・ボザール」で発表した「デルフトのファン・デル・メール」(1866年)という論文で有名になったが、その内容は『デルフト眺望』の紹介から始めている[37][36][2]。トレ・ビュルガーは、当初は『デルフト眺望』について好印象を持っていなかった。『オランダの美術館』(1858年 - 1860年)では本作品について、本物の鏝とモルタルで仕上げた画面であり、あまりに極端であり、レンブラントはこのような過剰に陥らなかったと書いた。しかし1866年の論文「デルフトのファン・デル・メール」では、1842年に本作品を見た際に、レンブラントの『テュルプ博士の解剖学講義』と同じほどに驚いたと称賛をした。トレ・ビュルガーの意見が変わった原因としては、他のフェルメール作品を見たことが影響したという説や、印象派の画家たちの作品を見たことが影響したという説がある[注釈 14][39]

プルーストの評価編集

作家のマルセル・プルーストはフェルメールの作品を高く評価した。プルーストは1902年に友人とベルギー・オランダ旅行に出かけた際、10月18日にデン・ハーグで『デルフト眺望』を鑑賞した。この時の体験をのちに「世界で最も素晴らしい絵を見た」と書いている[注釈 15][41]

1902年の体験をもとに、プルーストは小説『失われた時を求めて』においてフェルメール作品を登場させた。第1篇『スワン家のほうへ』での登場人物のスワンによる作品紹介[42]、第3篇『ゲルマントのほう』の主人公「私」とゲルマント公爵夫妻の会話[注釈 16][44][45]、そして第5篇『囚われの女』である。特に第5篇では、作中の小説家のベルゴットが『デルフト眺望』の家並みに「黄色い小さな壁面」を見出し、「こんな風に書くべきだった」と呟いてから倒れて死亡するという場面がある[注釈 17]。プルーストは、芸術家の肉体が死んでも、その最良の部分は作品の中で生き続けることを表現しようとしたとされる。第1篇が導入部、第5篇が結論部としても読める構成にもなっている[47][48]

ベルゴットが倒れる場面は、プルースト自身の1921年のフェルメール鑑賞の体験をもとにしているともいわれる。当時プルーストはすでに病にかかっていたが、オランダ派絵画展のフェルメール作品を鑑賞するために出かけた[注釈 18]。会場のチュイルリー公園に立つプルーストの姿が、生前最後の写真として残っている[50]

来歴編集

フェルメールの没後、『デルフト眺望』はパトロンだったファン・ライヘンが1681年まで所有していたとされ、1682年からデルフトの出版業者のヤーコプ・ディシウスが所有していた。1696年5月16日にアムステルダムでフェルメール作品が競売にかけられた際に本作品も含まれており、最高値の200ギルダーをつけた[51]

その後、本作品は長らく個人コレクターの所蔵となる。1805年時点ではハールレムのウィレム・フィリップス・コップスが所有し、1805年から1820年にはブルーメンダールのコルネリア・コップス・デ=ウォルフ、1820年から1822年にはハールレムのA.J.テーディンク・ファン・ベルクハウト=コップスが所有した。そして1822年にアムステルダムで競売にかけられた[52]。現在の所蔵館であるマウリッツハウス美術館の館長は当初は関心を示さず、他方でアムステルダム国立美術館の館長は所蔵を希望した。アムステルダム国立美術館は政府に働きかけ、政府が本作品を2900ギルダーで落札したが、国王のウィレム1世はハーグへの移管を命じ、結果的にマウリッツハウス美術館の所蔵となった。マウリッツハウス美術館館長は『デルフト眺望』の購入直後に「当コレクションにさほどふさわしいとは思えない」という言葉を残したが、前述のトレ・ビュルガーの再評価をへて人気作品となった[注釈 19][1][38]

出典・脚注編集

[脚注の使い方]

注釈編集

  1. ^ デルフト焼と呼ばれた陶磁器やタペストリーなどの工芸品は好調だったが、繊維をはじめ多くの産業が低迷した。東インド会社など高利の貿易事業は活発だったが地元への投資は減った[2]
  2. ^ アムステルダムでは1597年から1664年までに2万4000人が疫病で死亡した[9]
  3. ^ 旧教会の傾いた尖塔を低く改築する案も出たが実現せず、現在はシェイブ・ヤン(Scheve Jan、「傾いたヤン」の意味)と市民に呼ばれている[2]
  4. ^ ケテル通りの家々の位置など正確な部分もある[19]
  5. ^ 塔から制作年代を割り出したのは、ラウラ・メイリンク・フーデマーケルとベン・ブロースの研究による[24]
  6. ^ 新教会はオラニエ公ウィレム1世をはじめとするオラニエ=ナッサウ家の墓があり、当時から観光客が訪れるスポットでもあった[2]
  7. ^ 東インド会社の会議所は自己資金と取引の管理を行い、アムステルダム、ホールン、エンクハイゼン、ミッデルブルク、ロッテルダム、デルフトに建設された[27]
  8. ^ 東インド会社の重役は、アムステルダムのレンブラントにとって肖像画の重要な顧客だった。フェルメールには、そうした注文を受けた記録がない。祖父が初期の東インド会社株に投資をして破産しかかったのが原因ともいわれる[28]
  9. ^ 美術史家でフェルメールを専門とするキース・カルデンバッハ(Kees Kaldenbach)の研究による[2]
  10. ^ 馬に引かれた船で水路を移動するというオランダの交通は社会にも影響を与え、人々が自由に出会い、情報や意見交換をするきっかけとなったともいわれる[2]
  11. ^ 1660年5月25日にはチャールズ2世がデルフトを訪れ、スヒーダム港で市民の大歓迎を受けている[33]
  12. ^ 第一次英蘭戦争(1652年–1654年)にオランダが敗北した影響で、この時期に新教会はしばしば絵画の題材となっていた[34]
  13. ^ ただしオランダにおいてはフェルメールは忘れられた作家ではなく、トレ・ビュルガーによる再発見という業績は不正確とされる[36]
  14. ^ フランス画壇では当初印象派が批判され、1863年にパリで開催された落選展ではエドゥアール・マネの作品が嘲笑された。トレ・ビュルガーは印象派の若手作家たちを支持し、フランス画壇の保守的な論調と対立した[38]
  15. ^ 1921年、ジャン=ルイ・ヴォードワイエ宛の書簡[40]
  16. ^ 第3篇では、フェルメール作品への無理解を通して社交界のスノビズムが批判されている[43]
  17. ^ 「黄色い小さな壁面」とは、ロッテルダム門の横にある屋根を指したという説や、最も右端の壁面を指すという説がある[46]
  18. ^ オランダ派絵画展では『デルフト眺望』、『真珠の耳飾りの少女』、『牛乳を注ぐ女』が展示された[49]
  19. ^ マウリッツハウス美術館所蔵のフェルメール作品は、他に『ディアナとニンフたち』、『真珠の耳飾りの少女』がある[1]

出典編集

  1. ^ a b c 朽木 2006, pp. 118-119.
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  5. ^ 小林 2008, p. 228.
  6. ^ 千速 2020.
  7. ^ Johannes Vermeer, View of Delft”. マウリッツハイス美術館. 2020年8月8日閲覧。
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  9. ^ ブルック 2014, p. 18.
  10. ^ a b ブルック 2014, pp. 16-19.
  11. ^ 小林 2008, p. 233.
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  13. ^ Vermeer's Delft Today(Essential Vermeer)
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  17. ^ a b ベイリー 2001, p. 15.
  18. ^ 朽木 2006, pp. 130-131.
  19. ^ 小林 2008, pp. 237-239.
  20. ^ 小林 2008, pp. 237-240.
  21. ^ 小林 2008, pp. 241-242.
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  48. ^ プルースト 2014b, pp. 414-419.
  49. ^ 吉川 1998, p. 89.
  50. ^ 吉川 1998, pp. 88-90.
  51. ^ 小林 2008, pp. 48, 243.
  52. ^ 小林 2008, 作品来歴一覧.

参考文献編集

  • アーサー・K・ウィーロック、黒江光彦訳 『フェルメール』 美術出版社〈BSSギャラリー 世界の巨匠〉、1991年。 (原書 Wheelock Jr., Arthur K. (1981), Jan Vermeer 
  • 朽木ゆり子 『フェルメール全点踏破の旅』 集英社〈集英社新書ヴィジュアル版〉、2006年。 
  • 小林頼子 『フェルメール論―神話解体の試み(増補新装版)』 八坂書房、2008年。 
  • 千速敏男ファン・ゴッホの書簡にみるフェルメール」『成安造形大学紀要』第11巻、成安造形大学、2020年、 56-68頁、2020年8月8日閲覧。
  • 蜷川順子ヨーロッパ人と近代 : フェルメールの《デルフトの眺望》を手がかりに」『関西大学東西学術研究所紀要』第41巻、関西大学東西学術研究所、2008年4月、 3-22頁、 ISSN 028781512020年8月8日閲覧。
  • マルセル・プルースト、吉川一義訳 『失われた時を求めて(7) ゲルマントのほうIII』 岩波書店〈岩波文庫〉、2014年。 (原書 Proust, Marcel (1920-1921), À la recherche du temps perdu, Le Côté de Guermantes 
  • マルセル・プルースト、吉川一義訳 『失われた時を求めて(10) 囚われの女』 岩波書店〈岩波文庫〉、2014年。 (原書 Proust, Marcel (1923), À la recherche du temps perdu, La Prisonnière 
  • ティモシー・ブルック本野英一訳 『フェルメールの帽子 - 作品から読み解くグローバル化の夜明け英語版』 岩波書店、2014年。 (原書 Brook, Timothy (2008), Vermeer's hat: the seventeenth century and the dawn of the global world, Profile 
  • マーティン・ベイリー元木幸一訳 『フェルメール』 西村書店、2001年。 (原書 Bailey, Martin (1995), Vermeer, Phaidon Press 
  • 吉川一義 『プルースト美術館―『失われた時を求めて』の画家たち』 筑摩書房、1998年。 
  • The Complete Interactive Vermeer Catalogue View of Delft/(Gezicht op Delft)”. Essential Vermeer.com website. 2020年8月8日閲覧。

関連文献編集

関連項目編集

外部リンク編集