トッド・ラングレン

アメリカのミュージシャン (1948 - )

トッド・ラングレン(Todd Rundgren、1948年6月22日 - )は、アメリカ合衆国、フィラデルフィア出身のミュージシャン、音楽プロデューサー、エンジニアである。幅広い音楽活動を行い、グループ名義、ソロ名義の他、他のミュージシャンのプロデュースの含め、非常に多くの作品を発表している。ニュー・カーズにも参加した。

トッド・ラングレン
Todd Rundgren
Todd Rundgren at Revolution Live (cropped).jpg
トッド・ラングレン(2009年)
基本情報
出生名 Todd Harry Rundgren
生誕 (1948-06-22) 1948年6月22日(72歳)
出身地 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国 ペンシルベニア州 アッパー・ダービーフィラデルフィア近郊)
ジャンル サイケデリック・ロック
ソフトロック
電子音楽
ポップ・ロック
ロック
ブルー・アイド・ソウル
職業 シンガー・ソング・ライター
ミュージシャン
プロデューサー
エンジニア
コンピューター・プログラマー
活動期間 1967年 -
レーベル Bearsville Records
共同作業者 ナッズ
ユートピア
パティ・スミス
グランド・ファンク・レイルロード
XTC
リンゴ・スター
公式サイト www.tr-i.com
著名使用楽器
Gibson SG
ビートルズ

来歴編集

美しく切ないメロディを作り出すメロディメーカーとしてだけでなく、XTCバッドフィンガーグランド・ファンク・レイルロード、ジェシ・ウィンチェスターやザ・バンド、他にもホール&オーツなど数々の有名バンド・アーティストのプロデュースを行ったプロデューサーとして、また1970年代という早い段階から、自分ですべての楽器を演奏しヴォーカルをとる自宅録音を行うなど、マルチプレイヤーとしても知られている。

1980年代後半から1990年代前半にかけて、レピッシュなど、日本のアーティストのプロデュースも手がけたこともある。ハワイに在住し、なお精力的に音楽活動を続けている。リンゴ・スター&ヒズ・オール・スター・バンドのメンバーとしてワールドツアーも行っている。

Apple II時代からのアップルコンピュータユーザであり、アップルのコマーシャル映像やイベントなどに登場したこともある。また、Amigaユーザとしても知られ、Video ToasterLightWave 3Dを駆使して自ら「Change Myself」のPVを作り上げた[1]

ペンシルヴェニア州アッパー・ダービーフィラデルフィア近郊)にて、スウェーデン系移民の血を引く父親とオーストリア系ドイツ系)移民の血を引く母親の間に生まれる。

17歳の時に、フィラデルフィアを中心とする、ポール・バターフィールド・ブルースバンドの影響を受けた、ウッディーズ・トラックストップなるバンドを振り出しに、1967年にベーシストのカーソン・ヴァン・オステン、ドラマーのトム・ムーニー、シンガー兼キーボードのロバート・アントニと共にナッズを結成。ここで「Open My Eyes」や「Hello, It's Me」といった曲を発表し、注目されることになる。

トッドが音楽的に影響を受けたミュージシャンは、イギリスのロック(ローリング・ストーンズビートルズザ・フーヤードバーズザ・ムーヴなど)、そしてアメリカのヴェンチャーズ、ビーチ・ボーイズなどだった。他にはギルバート&サリバン、R&Bのギャンブル&ハフやデルフォニックス、オージェイズなども彼に影響を与えた。

この間にナッズとして、1968年に『ナッズ』、1969年に『ナッズ・セカンド』、1971年に『ナッズ・サード』と3枚のアルバムを発表したが、2枚目のアルバムでトッドとカーソンの2人がナッズを脱退。1970年にナッズは解散した。その後ニューヨークへ渡ったトッドは、ボブ・ディランジャニス・ジョプリンのマネージャーとして知られるアルバート・グロスマンに拾われ、レコーディングエンジニアとしてスタジオワークをこなしていくようになる。72年にはアルバム「サムシング・エニシング」を発表し、同アルバムからシングル「アイ・ソー・ザ・ライト」が全米16位まで上昇するヒットとなった[2]。後にニュー・カーズと共に活動した。

1948年 6月22日、ペンシルベニア州アッパー・ダービーに生まれる。
1967年 地元のローカル・バンド、ウッディーズ・トラックストップ (Woody's Truckstop)を脱退
ナッズ (Nazz) を結成する。
1968年 デビュー・シングルに続き、ファースト・アルバム『ナッズ』リリース
1970年 ナッズ解散。ボブ・ディランのマネージャー、アルバート・グロスマンに見いだされ、ベアズヴィルのエンジニアとして働く。
3月、ジャニス・ジョプリンのアルバム『パール』のプロデューサーに起用されるが、ジャニスと衝突して降板。
9月、初のソロ・アルバム『ラント』をアンペックス・レコードよりリリース。
1971年 6月、ソロ第2作『ラント: ザ・バラッド・オブ・トッド・ラングレン』リリース。
1972年 3月、初の2枚組である『サムシング/エニシング? (ハロー・イッツ・ミー)』発売。
1973年 『サムシング/エニシング? (ハロー・イッツ・ミー)』からのシングルカット曲「瞳の中の愛 (I Saw the Light)」がヒットしビルボードチャートで5位となる。ニューヨークに自身のためのスタジオを新築する。
プロデュースを手がけたグランド・ファンクのアルバム『アメリカン・バンド』が全米2位の大ヒット、同名のシングルは全米1位に。
1974年 2月、5枚目のソロ・アルバム『未来から来たトッド』リリース。
6人編成のバンド、トッド・ラングレンズ・ユートピアを結成する。この後の数年間、このバンドでのライブ活動を積極的に行なう。
1975年 トッド・ラングレンズ・ユートピア名義のライブ・アルバム『アナザー・ライヴ』リリース。
1976年 バンドを4人編成に縮小、名義もユートピアに改める。そのユートピアを率い初来日。
6月、脱退したジョン・シーグラーに代わり、カシム・サルトンがオーディションによりユートピアに加入。
1977年 2月、アルバム『太陽神』(ユートピア)リリース。イギリスのアルバム・チャートで27位まで上昇。
1979年 ユートピア再来日
1980年 自宅に強盗が入る被害を受ける。犯人の1人は「瞳の中の愛」を口ずさんでいたという
1983年 ベアズヴィル・レコードを離れる。
1985年 ユートピアとしての最後のオリジナル・アルバムとなる『POV』リリース。
1986年 プロデュースしたXTCのアルバム『スカイラーキング』リリース。XTCのアンディ・パートリッジとの確執が話題になるが、このアルバムのヒットによりXTCを救うことになる。
1988年 ソロとして初来日、バックバンドなしのMIDIを駆使した文字通りの「ワンマン・コンサート」を行う。
1989年 ソロ・アルバム『ニアリー・ヒューマン』リリース。ワンマン・レコーディングからホーン隊、女性コーラス隊などによる12人編成のビッグ・バンドに方向転換。女性コーラスの中の一人は、後にトッドの妻となるミッチェル・グレー。
1990年 1月、ビッグ・バンドを率いて来日。このときの東京公演がビデオでリリースされる。
1991年 ビッグ・バンドによる2枚目のアルバム『セカンド・ウインド』リリース
ビッグ・バンド編成で再来日。
1992年 ユートピアを一時的に再結成し来日。5月3日から15日にかけて東京、大阪などで公演を行う。この再結成は日本限定であった(来日直前にサンタ・クララで1回の公演を行った記録あり)。また、同時期に来日していたチープ・トリックの東京公演に飛び入り。※チープ・トリックのギタリスト、リック・ニールセンはトッドの代役として短期間ではあるがナッズに在籍したことがある。
5月後半から10月にかけて、リンゴ・スターの「ヒズ・オール・スター・バンド」に参加し、北米・ヨーロッパをツアー。ソロ・パートでは「Bang The Drum All Day」などを披露。このときのメンバーは他にジョー・ウォルシュデイヴ・エドモンズ、ニルス・ロフグレン、バートン・カミングス、ティモシー・シュミットザック・スターキー(リンゴの息子)など。
1993年 再びワンマン・レコーディングの形に戻りアルバム『ノー・ワールド・オーダー』をリリース。「インタラクティヴ」と銘打った、リスナーによる編集などが可能なCD-I盤も出すが、CD-Iという一般には普及していない特殊なハードウェアが必要であったために、さほど話題にはならなかった。
トッドと3人の女性ダンサー("TR-i Girls"(Michelle Gray, Melanie Macbee and Millie Madjidi))という編成で来日。観客参加のインタラクティヴ・ショーを行うが、大阪公演は機材のトラブルで中止となる。
1995年 6月、普通のバンド編成で来日。東京、大阪で来日公演。メンバーはジェシ・グレス(G)、ラリー・タッグ(B)、プレイリー・プリンス(D)、ジョン・ファレンジーック(Key,G)ら。テンキーをキーボード代わりに使うパフォーマンスを見せたが、大阪公演では上手く作動せず演奏中に叩き壊す。
1997年 新曲の発表をインターネットを通して行なう。
1999年 再びリンゴのオール・スター・バンドに参加。2月から3月にかけて北米をツアー。このときのメンバーは、ゲイリー・ブルッカー、サイモン・カーク、ジャック・ブルース、ティム・キャペロ。
2000年 5月から8月にかけて、カシム・サルトン(B)、トレイ・サバテリ(D)の3人("Power Trio")で北米をツアー。
2001年 アラン・パーソンズジョン・エントウィッスルらと「A Walk Down Abbey Road」と称するビートルズのトリビュートバンドを結成。6月から7月にかけて北米を回る。11月にはこのプロジェクトでの来日公演も実現。
2002年 9月、ソロで来日。ブルーノート東京他で公演。サポートはジェシ・グレス。
2005年 エリオット・イーストン、グレッグ・ホークスらが結成した「ニュー・カーズ」に参加を拒否したリック・オケイセックの代役として参加。その他のメンバーとしてカシム・サルトン、プレイリー・プリンスが加わり、5人中3人が本人も含めて"トッド人脈"で占められることとなった。
2006年 9月、ソロでカナダ・ツアー。この時のバックはトニー・レヴィン(B)、ジェシ・グレス(G)、ジェリー・マロッタ(D)。
2008年 4月、ソロで来日。バックバンドはカシム・サルトン(B)、ジェシ・グレス(G)、プレイリー・プリンス(D)(サルトンとプレイリーは「ニュー・カーズ」のメンバーでもある)。
6月、ハワイのカウアイ島でトッドの還暦祝いが盛大に開催される。このイベントは事前にインターネットで告知され、キャンプ形式でファンも参加できるように取り計らわれた。
9月、アルバム『アリーナ』をリリース。

エピソード編集

  • エアロスミスのボーカリストであるスティーヴン・タイラーの娘で、女優のリヴ・タイラーの育ての親である。リヴはトッドの元ガールフレンドでモデルのビビ・ビュエルとスティーヴンとの間に生まれたが、当時ドラッグ依存が激しかったスティーヴンの元を去ったビビはリヴを連れてトッドのもとに戻り、トッドはリヴが自分の娘でないことを承知の上で引き取った。その後ビビはトッドと別れるが、トッドはリヴを自分の娘として養った。リヴが成長してスティーヴンの娘であることを知り、スティーヴンも自分の姓を名乗ることを勧めたために、リヴ・"タイラー"となった。
  • エリック・クラプトンクリーム時代に使用していたサイケ・ペイントを施されたギブソン・SGを所有していた。シンコーミュージック発行のギター写真集『世界を変えたギターたち』の記事によると、このギターはクラプトンからジョージ・ハリスンに譲られ、その後、ジョージがプロデュースしてアップル・レコードからデビューした歌手のジャッキー・ロマックスに渡ることになる。トッドがジャッキーにお金を融通した際、このギターをトッドの元に残していったのだが、演奏に使えないほどに傷んでいたため、修復するのが大変だったとのこと。このギターがスタジオに置いてあると、訪れるギタリスト達が皆弾きたがり、遊び始めてしまい仕事にならなくなるため、クローゼットの奥にしまい込んでしまったという。トッドはステージなどで使用した後レプリカを作らせて実物は保管していたが、2000年にサザビーズ・オークションに出品し150,000ドルで落札された。最近のインタビューで「ずっと後になってジャッキーから、あれは貸してただけだから返せと言われた」と語っている。XTCのデイヴ・グレゴリーはアルバム『スカイラーキング』のレコーディングの際、スタジオで手入れもされず無造作に置かれているこのギターを発見し、トッドに頼んでこのギターを使わせて貰った(インタビューによれば「That's Really Super, Supergirl」のソロで使用したという)。
  • XTCのアルバム『スカイラーキング』のプロデュースに当たっては、バンドの旅費、宿泊費など一切込みの15万ドルで引き受けた。レコーディングは主にトッドの所有するユートピア・サウンド・スタジオで行われたが、常にプロデューサーを差し置いてサウンドの主導権を握ろうとするアンディ・パートリッジとトッドとの衝突や、パートリッジの態度に耐えかねたコリン・モールディングが脱退を宣言してスタジオを飛び出すなど、トラブル続きであった(コリンはトッドの説得によりスタジオに戻る)。またバンドがミックスダウン中にイギリスに帰ってしまい(トッド曰く「こんなことは前代未聞」)、結局、トッドが残った全ての作業を行った。
  • サウンドの録音は一人宅録の影響からかさほどシビアではなかったが(むしろマイクの位置などは、かなりいい加減であったという)、イコライザーコンプレッサーを多用した音造りをするのが独特であったと、トッドにプロデュースされた高野寛レピッシュのメンバー、またユートピア・サウンドスタジオのエンジニアであったクリス・アンダーセンが語っている。特に強烈にコンプレッサーをかけるのが好きであり、そのある種ローファイなサウンドは彼が幼い頃聞いていたモノラルラジオの影響であると考えられている。実際、先述の『スカイラーキング』の曲をラジオで聞いたデイヴ・グレゴリーは「すごく良かった」とのコメントをしている。
  • 1989年にリリースされたアルバム『ニアリー・ヒューマン』のジャケットに見られる手形の指の数は、オリジナル盤は作品名をくんでの6本である。しかし日本盤においては過剰な自主規制のあおりを食って5本に修正されてしまった。
  • 息子のレックス・ラングレンはアメリカのマイナー・リーグでプレーする内野手であり、もう一人の息子ランディ・ラングレンもミズーリ州の大学で野球をやっている。
  • 世界初のペンタブレット用カラーグラフィックソフトウェア「Utopia Graphics System」(1979年発売の最初期の民生用ペンタブレットApple II用の「Apple Graphics Tablet」に付属。)の作者はトッド。

日本公演編集

4月4日 東京厚生年金会館、8日,9日 中野サンプラザ、11日 フェスティバルホール
1月17日 福岡郵便貯金会館、19日,20日 東京厚生年金会館、21日 大阪サンケイホール、24日 渋谷公会堂
2015年
『FUJI ROCK FESTIVAL』に出演
2016年
リンゴ・スターの来日ツアーに参加
2019年
『TODD RUNDGREN THE INDIVIDUALIST TOUR』
5月22日(水)、会場:東京都 錦糸町 すみだトリフォニーホール、5月23日(木)、会場:大阪府 NHK大阪ホール

ディスコグラフィ編集

ソロ・アルバム編集

アルバム・タイトル(邦題) アルバム・タイトル(原題)
1970 ラント Runt
1971 ラント: ザ・バラッド・オブ・トッド・ラングレン Runt. The Ballad of Todd Rundgren
1972 サムシング/エニシング? (ハロー・イッツ・ミー) Something/Anything?
1973 魔法使いは真実のスター A Wizard, a True Star
1974 未来から来たトッド Todd
1975 未来神 Initiation
1976 誓いの明日 Faithful
1978 ミンク・ホロウの世捨て人 Hermit of Mink Hollow
バック・トゥ・ザ・バーズ (未来への回帰・ライヴ) Back to the Bars
1981 ヒーリング〜トッドの音楽療法 Healing
1982 トッドのモダン・ポップ黄金狂時代 The Ever Popular Tortured Artist Effect
1985 ア・カペラ A Cappella
1989 ニアリー・ヒューマン Nearly Human
1991 セカンド・ウインド 2nd Wind
1993 ノー・ワールド・オーダー No World Order
1995 インディヴィデュアリスト The Individualist
1997 ウィズ・ア・トゥィスト With a Twist...
1998 アップ・アゲインスト・イット Up Against It
2000 ワン・ロング・イヤー One Long Year
2004 ライアーズ Liars
2008 アリーナ Arena
2011 [Re]Production
Todd Rundgren's Johnson
2013 ステイト State
Todd Rundgren's Johnson Live
2014 Todd Rundgren At The BBC 1972-1982
2015 グローバル Global

コンピレーション・アルバム編集

アルバム・タイトル(邦題) アルバム・タイトル(原題)
1989 アンソロジー Anthology
1998 フリー・ソウル Free Soul - The Classic of Todd Rundgren
1999 ゴー・アヘッド イグノア・ミー Go ahead.Ignore me - The Best of Todd Rundgren

代表曲編集

原題
1970 "We Gotta Get You A Woman"
1972 瞳の中の愛」 - "I Saw the Light"
"Hello It's Me"
1974 "A Dream Goes On Forever"
1978 "Can We Still Be Friends"

主なプロデュース作品編集

アーティスト 原語表記 アルバム名
1970 ザ・バンド The Band Stage Fright
1971 バッドフィンガー Badfinger Straight Up
スパークス(ハーフネルソン名義) Sparks (Halfnelson) Halfnelson
1973 ニューヨーク・ドールズ New York Dolls New York Dolls
グランド・ファンク・レイルロード Grand Funk Railroad We're an American Band
1974 Shinin' On
ホール & オーツ Hall & Oates War Babies
1976 スティーヴ・ヒレッジ Steve Hillage L
1977 ミート・ローフ Meat Loaf Bat out of Hell
1978 チューブス The Tubes Remote Control
1979 トム・ロビンソン・バンド Tom Robinson Band TRB Two
パティ・スミス・グループ Patti Smith Group Wave
1981 ニュー・イングランド New England Walking Wild
1982 サイケデリック・ファーズ The Psychedelic Furs Forever Now
1983 チープ・トリック Cheap Trick Next Position Please
1985 チューブス The Tubes Love Bomb
1986 XTC XTC Skylarking
1989 レピッシュ レピッシュ KARAKURI HOUSE
1990 高野寛 高野寛 Cue
ジル・ソベル Jill Sobule Things Here Are Different
1991 高野寛 高野寛 Awakening
2000 バッド・レリジョン Bad Religion The New America
2009 ニューヨーク・ドールズ New York Dolls Cause I Sez So

関連作品編集

  • トリビュートアルバム『トッドは真実のスーパースター』(トッド自らトラックダウンを担当、1997)

書籍編集

脚注編集

  1. ^ A history of the Amiga, part 9: The Video Toaster
  2. ^ [Billboard Hot 100: Todd Rundgren Chart History  https://www.billboard.com/music/todd-rundgren/chart-history/hot-100] 2021年1月6日

https://arstechnica.com/gadgets/2016/03/a-history-of-the-amiga-part-9-the-video-toaster/

関連項目編集

外部リンク編集