トマス・サウスウッド・スミス

トマス・サウスウッド・スミス (Thomas Southwood Smith、1788年12月21日-1861年12月10日)は、イギリスの医師、公衆衛生の改革者。サマセットシャー州マルトック生まれ。

トマス・サウスウッド・スミス

エディンバラの医学生時代に、ユニテリアン教会に入会。1816年にM.D.を取得し、ヨービルにて開業。教会の聖職者にもなったが、1820年医学に身を捧げるためにロンドンへと出奔。

トマス・サウスウッド・スミスの胸像

1824年、彼はロンドン熱病患者収容病院(en:London Fever Hospital)に医師として指名され、1830年には、熱病論を出版した。これはすぐに、その道の権威に認められることとなった。この本でスミスは、貧困層の貧困化と伝染性の熱病に、直接の関連があることを示した。彼は、伝染性の熱病と公共の衛生について しばしば意見を求められた。隔離(1845年)、コレラ(1850年)、黄熱病(1852年)、そして公衆衛生の改善(1854年)についての報告は、世界的に重要である。彼はフィレンツェで最期を遂げ、フィレンツェのイギリス人墓地(en:English Cemetery, Florence)に埋葬されている。彼の墓石はジョエル・タナー・ハートにより刻まれた。

彼の孫には、ミランダとオクタヴィア・ヒルがいる。

スミスはユニテリアンに傾倒しており、ジェレミ・ベンサムと親交が深かった。彼は、信仰を医学研究の分野に適応した。1827年、彼は、医師により解剖されない現在の埋葬方式は、死体の無駄遣いであると論じた死体の利用を出版した。

1832年6月9日、スミスは国民に論議を巻き起こすベンサムの解剖を、ロンドンのウェブストリート解剖学校にて、実施した。解剖に先立ち、スミスは宣言した。

「もしも、死体の利用が人々の幸せにつながるのなら、私の死体の利用に感じる、この揺ぎ無く力強いためらいを乗り越えることが、私の責務である」

スミスの議案通過運動は、国が受取人のいない遺体を強奪して、医学校に売りつけることを許可する、1832年の解剖法令にて開花した。この法令は墓泥棒に終止符を打ち、一方、貧困層への差別であるとして、非難もされた。

参考文献 編集

  •   この記事にはアメリカ合衆国内で著作権が消滅した次の百科事典本文を含む: Chisholm, Hugh, ed. (1911). "Smith, Thomas Southwood". Encyclopædia Britannica (英語). Vol. 25 (11th ed.). Cambridge University Press. p. 270.

関連項目 編集

関連書籍 編集

  • Cook GC. Thomas Southwood Smith FRCP (1788–1861): leading exponent of diseases of poverty, and pioneer of sanitary reform in the mid-nineteenth century. J. Med. Biog. (2002) 10(4): 194–205