ドロテア・ヘートヴィヒ・フォン・ブラウンシュヴァイク=ヴォルフェンビュッテル
ドロテア・ヘートヴィヒ・フォン・ブラウンシュヴァイク=ヴォルフェンビュッテル(ドイツ語:Dorothea Hedwig von Braunschweig-Wolfenbüttel, 1587年2月3日 - 1609年10月16日)は、アンハルト=ツェルプスト侯ルドルフの妃。
ドロテア・ヘートヴィヒ・フォン・ブラウンシュヴァイク=ヴォルフェンビュッテル Dorothea Hedwig von Braunschweig-Wolfenbüttel | |
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出生 |
1587年2月3日 神聖ローマ帝国 ブラウンシュヴァイク=ヴォルフェンビュッテル侯領、ヴォルフェンビュッテル |
死去 |
1609年10月16日(22歳没) 神聖ローマ帝国 アンハルト=ツェルプスト侯領、ツェルプスト |
埋葬 |
神聖ローマ帝国 アンハルト=ツェルプスト侯領、ツェルプスト、ザンクト・バルトロメイ教会 |
配偶者 | アンハルト=ツェルプスト侯ルドルフ |
子女 |
ドロテア エレオノーレ |
家名 | ブラウンシュヴァイク=リューネブルク家 |
父親 | ブラウンシュヴァイク=ヴォルフェンビュッテル公ハインリヒ・ユリウス |
母親 | ドロテア・フォン・ザクセン |
生涯
編集ドロテア・ヘートヴィヒはブラウンシュヴァイク=ヴォルフェンビュッテル公ハインリヒ・ユリウスと、ザクセン選帝侯アウグストの娘ドロテアの長子である。ドロテア・ヘートヴィヒの出産時に母ドロテアは死去した。
1605年12月29日にヴォルフェンビュッテルにおいて、アンハルト=ツェルプスト侯ルドルフと結婚した。4人目の子の出産時にドロテア・ヘートヴィヒは死去し、ドロテア・ヘートヴィヒの死から1時間後に生まれた女児も死産であった。ドロテア・ヘートヴィヒはツェルプストのザンクト・バルトロメイ教会に埋葬された[1]。座右の銘は「主を恐れることは知恵の始まり」であった[2] 。
子女
編集- 女子(1606年)
- ドロテア(1607年 - 1634年) - 1623年にブラウンシュヴァイク=ヴォルフェンビュッテル公アウグスト2世と結婚
- エレオノーレ(1608年 - 1680年) - 1632年にシュレースヴィヒ=ホルシュタイン=ゾンダーブルク=ノルブルク公フリードリヒと結婚
- 女子(1609年)
脚注
編集- ^ “www.royaltyguide.nl”. 2015年9月24日時点のオリジナルよりアーカイブ。2011年6月15日閲覧。
- ^ Max Löbe: Walsprüche: Devisen und Sinnsprüche, Kessinger Publishing, LLC, 2009, p. 11
参考文献
編集- August B. Michaelis, Julius Wilhelm Hamberger: Einleitung zu einer volständigen Geschichte der Chur- und Fürstlichen Häuser in Teutschland, vol. 3, Meyer, 1785, p. 674