ドンキーカルテット

ドンキーカルテット1964年に結成され、1970年まで6年間に渡って活躍したコミックバンドの一つである。このメンバーはザ・ドリフターズから独立する形で誕生した[1]

ドンキーカルテット
Donkey Quartet
出身地 日本の旗 日本
ジャンル コミックソング
カントリー・ミュージック
ブルーグラス
活動期間 1964年 - 1970年
メンバー 小野ヤスシ
ジャイアント吉田
猪熊虎五郎
祝勝
旧メンバー 飯塚文雄

小野ヤスシをリーダーとしてテレビや演芸、公演などでも活躍していたが、1970年に解散する[2]。以降はそれぞれ単独でタレント司会者声優として活動していた。

コミックソングの代表的なヒット曲の一つとして1970年に発売され、後に約20万枚を売り上げた『宮本武蔵』というのがある。

メンバーについての経緯 編集

祝以外は初期のザ・ドリフターズの元メンバーだった事もあり、演奏経験が豊富であった。祝が加入後に5人組 = クインテットとなった[3]ものの、グループ名は変更せずにそのまま『ドンキーカルテット』で解散するまで活動した。

小野ヤスシ(1940年2月11日 - 2012年6月28日 72歳没)
  • 鳥取県の出身。メンバーのリーダーでありボーカル、ギター兼ベースを主に担当。自身のキャッチフレーズを『鳥取県が生んだ自称スーパースター』としていた。[4]他にネタに入る際や、コントが始まる時に用いる台詞として定番になっていた『一発ぶちかましてご覧に入れます』がある。尚、小野がリーダーというのは名目上の事で実際のメンバーとの間は対等の立場で接し、特に先輩風を吹かす様な事は無かったという。ドンキーカルテット解散後は、単独でマルチタレントとしてテレビ番組の司会や、バラエティー等に出演して活躍する。主に出演していた代表の番組としてフジテレビ系で放送していた「スターどっきり(秘)報告」があった。[5]晩年はアサヒ緑健のPR番組の司会や、旧知の仲で大親友でもある加藤茶仲本工事コミックバンド『加トちゃんバンド』を組んで公演を行うなど、話題を提供していた。またミッキー安川と付き合いが長く、ラジオ番組にもゲスト出演する事があった[6]。また年末に行っていたチャリティーショーにも参加していた事もあり、交友を深めていた。2012年6月28日腎盂がんのため死去。72歳没。グレッチ・ギター演奏の達人でもあった[7]
  • 生い立ちと解散後


飯塚文雄(1940年11月23日 - 2003年3月27日 62歳没)
  • 東京都の出身、立教大学経済学部を卒業。フィドル(バイオリン)を担当していた。 元々はジミー時田らと活動し[12]、ザ・ドリフターズに参加して活躍していたが、小野ヤスシ、ジャイアント吉田、猪熊虎五郎らがいかりや長介のワンマン体制ぶりに反発し不満を抱き、独立を決意しドリフを脱退した。その際に飯塚も同調して離脱し小野、吉田、猪熊、そして飯塚の4人で新たなコミックバンドである『ドンキーカルテット』を結成した。ドンキー最初期のメンバーであったが、在籍期間は数年に留まり全盛期には脱退している。ドリフに参加する以前にもカジュアルス[8]というバンドでカントリー・ウェスタンミュージックの経験があった為、この分野の造詣が深い事でも知られていた。[9]ドンキーから離れた後は日本テレビ系深夜番組である『11PM』の水曜日[10]にレギュラー出演する事になり、レポーターに抜擢され自身の知名度を上げる。[11]音楽活動の方も引き続きカントリーミュージックを中心に行い、晩年は飯塚文雄&キープレンジャースを率いて活動していた[13]。2003年3月に死去、62歳没。
  • 新宿・歌舞伎町にカントリー音楽のライブハウスである『Liberty Bell』(リバティ ベル)を1974年に開業し、自らオーナーを務めていた。その後歌舞伎町の店は閉店し、渋谷区笹塚に移転し再開店した。2003年に飯塚が逝去した後も営業は継続し、縁の楽器や飯塚本人を模した看板人形や帽子等が展示され、自由に鑑賞する事が出来た。2021年現在、店は既に閉業しており現存していない。


ジャイアント吉田(1936年1月25日 - 85歳)
  • 東京都の出身。本名・吉田一男。ボーカル、ギター兼ベースを担当していた。1958年に日本大学経済学部を卒業後、ジミー時田とマウンテンプレイボーイズに参加し、活動を開始する。いかりや長介とはその時からの間柄で旧知の仲であり、親友でもあった。しかしザ・ドリフターズ分裂時に残留はせず、いかりやのワンマン体制ぶりに反発し、独立を決めていた小野と行動を共にしている[12]。1970年に発売されたドンキーカルテット唯一のヒット曲となっている『宮本武蔵』では作詞・作曲およびパーカッションとリードボーカルを担当していた。ギャグの受け[13]と間合い台詞は『ひどいなぁ』である。ドンキー解散後は猪熊・祝勝と3人で「シンフォニックマッド」を結成。1970年代末期頃に西ヒトシ、ジョニー高田ら4人のジャイアント吉田と、ブラックジャック[14]を経て、1980年代末期に5人組のジャイアント吉田とドンキーズ[15]を猪熊、やまだマサらと結成[16]した。メンバーは流動的で活動を休止した期間もあるが、途中病気療養で休養する事になる猪熊(2001年に死去)に代わってばんきんや、ニック下平[17]らを加え、現在も活動中である。1973年にはこの年に誕生したボードゲームである『オセロ』のコマーシャルに吉田が起用されて当時話題にもなった[18]2010年頃からばんきんやのバンドバンバンGとの共演活動も行い[14]、カントリーミュージックの客演や発明家を自称しており、その発明品には『冗談グッズ』の開発等がある。一時期はハワイアンのライブハウスも経営していたが閉店し、その後は千葉県鴨川市で「ラハイナ」という名前でハワイアンスタイルのレストランを経営していた。[19]他には自身の特技でもある催眠術に活路を求め、現在は芸能界の傍ら催眠術師として執筆活動や催眠法のクリニック等、多方面に活動している。また2010年に設立された一般財団法人の一つでもある『日本催眠術協会』の理事も務めている。[20]芸名自体は「ジャイアント」と大柄を想像させるが、実際の吉田自身は小柄であり[21]、猪熊虎五郎の方が大柄であった。芸名が『ジャイアント』と称するものの実際の吉田の身長が小柄の為に、その不釣り合いな所をメンバーが指摘する事もあった。[22]若い頃は武術に励んでいた事もあり、禅・瞑想・気・催眠へと関心を持つ事になったが、元々は太気拳澤井健一の初期(3番目)の門下生でもある。本人曰く「芸能活動よりも武道の方が関わりが長いんですよ」と2017年2月の『dropkick』のインタビューで語っており、自身の武道を始めた経緯やエピソードが掲載されている。


猪熊虎五郎(いのくま とらごろう、1932年 - 2001年11月4日 69歳没)
  • 熊本県の出身。本名・吉岡弘。バイオリン、キーボード兼ベースを担当していた。熊本工業高校を卒業。元々はザ・ドリフターズに在籍して活躍していた。しかし1964年にドリフのリーダーであるいかりや長介のワンマン体制に不満を抱き、反発して小野や吉田らとドリフを脱退。新たなコミックバンドである『ドンキーカルテット』を結成しメンバーに加わった。その大柄な体格と常に坊ちゃん刈りの様な整った髪型[23]をしており、礼儀正しく黒縁の眼鏡を掛けた姿が自身の個性でもあった。メンバーの中でも体格が良く目立った存在であり、時折小柄なジャイアント吉田と身長差を比較される事もあった。素っ頓狂で不思議な高音を放ち、裏声の様な奇声と独特な喋りが特徴で、非常に印象的でもあり彼の持ち味の一つで素質でもあった。彼が話し始めると少しトボけた表情と、その奇妙で変な声を聞くだけで笑い出す人がいる程受けていた。ドンキーカルテット解散後は小野を除く吉田・猪熊・祝勝と新たに『シンフォニックマッド』を結成した。その後祝は加入せずにそのまま芸能界を引退したが、猪熊は吉田と共に『シンフォニック〜』に代わる新たなバンドである『ドンキーズ』にも参加して積極的な活動を見せている。更に猪熊は個性的かつ奇抜で斬新な面白い声を活かして声優としても活躍する様になった。[24]しかし晩年は病気療養中だった事もあり、健康や体調面を考慮して次第にテレビや舞台などの出演からは退く様になり、不定期にバラエティ番組等にゲストとして出演する形であった。2001年11月4日に死去、69歳没。


祝勝(いわい まさる、1944年5月 - 77歳)
  • 神奈川県の出身。本名は岩井勝で、読みは同じである。ベース兼ドラムを担当していた。日本大学在学中は学生バンドマンとして活動しており、大学を卒業後に芸能界入りしドンキーカルテットに参加した。ドンキーには唯一、途中から加入したメンバーの1人である。演奏中やコント中にも関わらず、その進行や流れを無視して舞台端や物陰で黙々と座り込みながら勝手に弁当を開いて食べ始めており、それを他のメンバーに見つかって叱られる場面があった。これは彼の定番芸の一つでもあり唯一笑わせる場面でもある。シンフォニックマッド解散後[25]、後にジャイアント吉田、猪熊虎五郎らが新たに発足した「ドンキーズ」に参加する事はなく[26]そのまま芸能界を引退する事になった。その後は会社を設立し、現在は経営者として活躍中。こちらのサイトで祝の近況が確認出来る。[27]

出演番組編集

ディスコグラフィー編集

シングル編集

 ドンキーカルテット
  1. 男のまごころ(詞 沢ノ井龍二、曲 三好正純、編曲 川口真)/さいはての渚(詞 沢ノ井龍二、曲 三好正純、編曲 川口真)東芝TP-1581 1968年発売
  2. 宮本武蔵(企画構成・作詞・作編曲 ジャイアント吉田)/夕べ酒場で聞いたうた (詞 滝田順、曲 小杉太一郎、編曲山田祥二)RCA(日本ビクター)JRT-1060 1970年発売
  3. ドンキーの歌げんか(詞 、曲 )/トン馬節(詞 京万里、曲 野々卓也)RCA(日本ビクター)JRT-1105 年発売
 ジャイアント吉田とシンフォニック・マッド
  1. おじいさんと遺書(詞・曲・編曲 ジャイアント吉田)/デゴイチ(D-51)(詞・曲 平出賢文、編曲 ジャイアント吉田)ビクター(RCA)JRT-1299 1973年月発売
  2. 愛の告白(詞 桂高丸、曲 鈴木直治、編曲 竹村次郎)/恋人たち(詞 桂高丸、曲 鈴木直治、編曲 竹村次郎)CBSソニー SOLB
  3. 洋子の港 (詞 古沢かずき、曲 鈴木直治、編曲 竹村次郎) / なみだ(詞・曲 ジャイアント吉田、編曲 竜崎孝路)フィリップス(日本ビクター) FS-1858 1976年発売

ソノシート編集

 ドンキーカルテット
  1. 音のハレンチ 耳で聞くマンガ Dryan Hallench Company(レーベル不明)HP-12 非売品 整髪料ピアス・ドライアン販促用景品 8cmディスク
  2. 牧伸二だよ!!(共演盤)やんなちゃった節/ボヨヨヨヨーンだよ!!/ボクシング小唄/ウクレレ教室/ヤーダ/癪にさわるよ/やんなちゃった節(続)日本ビクター SD-103 7インチディスク 1965年発売[28]

「帰ってきたドンキーカルテット」について 編集

1984年10月7日から1985年9月29日までの1年間、日本テレビで放送されたレオナルド熊がメインのバラエティ番組『WAッ!熊が出た!!』の約10分間コーナー枠の『帰ってきたドンキーカルテット』で、小野ヤスシとジャイアント吉田の2人をメインにして往年の音楽コントやトーク、書き下ろしの演芸を披露している。

ジャイアント吉田はYouTubeに自身の公式チャンネルを設け[29]、この番組を家庭用ビデオテープを用いて放送当時に録画し、現在まで保管されている番組の一部を公開していた[30]。番組が放送されてから37年が経過しているが、ビデオテープの保存状態や画質は比較的良好であった。

ドンキーカルテットのメンバーの内、祝勝と猪熊虎五郎の2人は都合の為不定期の出演だったが、カントリー・アンド・ウエスタン時代の飯塚文雄、岩倉忠[31]ら関係深いミュージシャンにアコーディオン奏者・横森良造などの個性的なゲストが出演している。

小野と吉田の他は猪熊、岩倉、横森にレオナルド熊[32]、シゲ・堂本(キーボードを担当)、ジョニー高田(ドラムスを担当)、出雲ミノル、西ヒトシ[33]、やまだマサ[34]バラクーダ、ローサリー・アンサンブル等が出演した。

コント・演芸の素材は収録された1985年頃人気だったフリオ・イグレシアス、活動後半期のエルヴィス・プレスリーなどを取り上げた。[35]第2回目以降の約10分間は、番組とは別々の特別コーナーにして小野と吉田が様々な楽器で自慢の演奏を披露し、小野の往年の十八番芸でもある『一発ぶちかましてご覧に入れます』から始まり、ジャイアント吉田の『ひどいなぁに自身の小さな身長に対して突っ込まれそれをボケで交わす自虐ネタ』、猪熊虎五郎の特徴的な『非常に独特で印象的な裏声の様な変声と奇声』、祝勝が担当していた『舞台進行を完全に無視して黙々と一人勝手に食べ続けてしまっている弁当』に、メンバーが全員で『終いには仲間割れをしてしまい言い争いと小競り合いになり収拾付かなくなるドタバタコント』と、その定番でもある一斗缶金だらい芸などを復活させ、出来る限り当時のまま懐かしく忠実に再現。ゲストミュージシャンの参加から『ドンキーカルテット』を展開させた音楽コントを披露し、更にはナイトクラブジャズ喫茶でこの演芸ショーと、エレキ・インストロメンタルバンドとしてダンス伴奏を努めていた片鱗が伺える[36]

映画出演などを除いてドンキーカルテット全盛期の演芸の出演映像は、1982年ポニーキャニオン「東京ギャグ列伝〔下〕」以外はこれまでほとんど保存[37]されておらず、更に当時の資料や台本等も残されている事も無く、保管もされていない。その為当時の映像や台本等の資料が乏しい上で、出来る限り音楽や会話等の雰囲気をほぼ忠実に再現、復元した「帰ってきたドンキーカルテット」では、戦後の日本芸能と1950年代の洋楽ポップス・全盛期時代である往年のコミックバンドを垣間見る事が出来る為、昔懐かしく充実した内容となっている。

コミックバンドの歴史と近況について 編集

カントリーやロカビリー音楽のバンドから派生したドンキーカルテットは、いかりや長介のドリフターズから分裂する以前から、コミック・ミュージックでは新進気鋭のスタン・フリーバーグ(英語版)や、映画で底抜けコンビジャック・レモンルイ・ド・フュネスなどを自ら研究し、前身カントリー、ロカビリーバンド時代には進駐軍関連で演奏技術を磨いた。米軍キャンプナイトクラブディスコで、客のダンスを遮らないノンストップ演奏に楽器担当が小用など、やむを得ない事情から離れる場合には、その楽器を代理で演奏する技量も求められて、マルチミュージシャン感覚を鍛えたという[38]

戦前、アメリカの影響からボードビル・ミュージックで日本ではあきれたぼういず等、通称「ボーイズ」達が浅草六区で多くの人が話題となり活躍し、戦後そのメンバーの一人だった坊屋三郎が、灘康次とモダンカンカンの助けで継続していた。ジャズや原典にあたるジャグミュージックスパイク・ジョーンズが「冗談音楽」へ発展させ、音楽を真面目に演奏して茶化して聴衆を笑わせるというジョーンズの画期的な試みは、戦後日本では三木鶏郎が作家としてコミックソング、コマーシャル曲の参考にし、ジャズバンドからフランキー堺とシティ・スリッカーズに、萩原哲晶青島幸男らとハナ肇とクレージーキャッツなどが影響を受け、その後コメディ映画、劇場舞台、ラジオ出演やテレビにを出演した際に経験知識を生かしている。コミックソングをレコード盤などでその名曲を残した。レコード盤では流行歌、歌謡曲の扱いに、映画、テレビといった目で愉しみ増幅する楽器の擬音や調子はずれな音調(音痴)など音楽コントでは、特徴的な演奏で表現する愉快さの大半は割愛されている[39][40]

1960年代には演奏を交えてコントを行うコミック・バンドの様式が確立し、イギリスではこの流れを汲み曲芸師を伴うこともあった1962年ニール・イネスらのボンゾ・ドッグ・バンドBonzo Dog Band英語版)が結成[41]、2年後マイク・マクギア[42]らが結成したコミック・ソング中心のバンドスキャホード(The Scaffold英語版)など新しい顔ぶれも登場したが、ビートルズ、ロック音楽台頭にエンターテイメントの多様化も顕著で、映像のTVが中心の時代に入り、日本では寄席舞台やラジオで活躍していた三味線など楽器を持った漫才師たちと演歌浪曲講談といったものを取り入れた歌謡漫談の玉川カルテット横山ホットブラザーズなどがTV映像を意識した演術を模索すると、欧米の流行を取り入れ、洋楽とその演芸を得意としたドンキーカルテットのようなコミックバンドが出演する機会を減らし、都市部のナイトクラブや大型キャバレー等、時には外国人を相手にした夜の舞台も時代変化によるプログラムの変更や、閉業で演奏出来る場所も次第に減少していく事になる。

後に登場したビジーフォーメンバーであるモト冬樹は、自身の近況を踏まえて2012年インタビューで「現在の日本では、音楽コントを披露出来る正統なコミックバンドは既に絶滅してしまった」と語っている。テレビ番組のバラエティの増加を始めその内容の充実や変化等から、全体的に専門のコミックバンドは現在でも衰退傾向である[43]

外部リンク編集

脚注編集

  1. ^ この経緯についてはザ・ドリフターズの項を参照の事。
  2. ^ 4人メンバー同士で話し合い、合意の上での円満解散であった。解散後は単独でタレントや司会等でも活躍する小野を除き他の3人については音楽活動を継続し、新たに「シンフォニックマッド」という名でグループを結成。コミックバンド活動を再出発させた。その後も元メンバーとの交友関係は良好であり、後に芸能界から引退した祝以外、後述するドンキーカルテットの再結成や、小野・飯塚・吉田・猪熊のそれぞれの企画には互いにゲストで共演していた。猪熊は晩年、体調面の関係で病気療養をしていた為、芸能界から退く形で疎遠気味になっていたが、プライベートでの付き合いは最後まで続いていた。
  3. ^ ただし飯塚は早期に脱退してしまった為、5人としての活動は短期間に留まっている。
  4. ^ 他にも「鳥取県が生んだ最大の芸術家』、『鳥取県が生んだ天才』という肩書きを自称しており、自身の郷土愛を窺わせている。
  5. ^ 同番組では『キャップ』と呼ばれて親しまれており、10年以上の長期間に渡って出演していた。
  6. ^ ミッキー安川のずばり勝負や、ミッキー安川の朝まで勝負に積極的にゲスト出演する時もあった。また時折生電話で出演した事もある。
  7. ^ メインの愛器はグレッチ・カントリー・ジェントルマン6122の1962年型オリジナル。このカントリー・ジェントルマン6122・1962年型の再生産品も所有使い分けしていたが、解散後も盟友ジャイアント吉田に、このギターを託す演奏パート交換があるコントではオリジナルモデルを持参していた。
  8. ^ メンバーはフィドル(バイオリン)・飯塚文雄、ボーカル・坂本孝昭、ギター・金平 隆、ベース・豊田和夫、ドラムス・渡辺淳一 オルガン・木坂(神田)美沙子。時期によりメンバーが入れ替わっている。
  9. ^ そういった経緯もあり、完全なコミックバンドであるザ・ドリフターズや、新たに参加したドンキーカルテットでの音楽活動は自身で不向きじゃないかと実感しており、存在感を出す事に飯塚自身が苦労していた所もあったという。
  10. ^ 放送当時は愛川欽也が毎週水曜日の司会を務めていた。
  11. ^ なお同番組には元リーダーの小野も出演しており、時折共演して気の合う所を観せていた。
  12. ^ 当時いかりやとは親友ではあったもののテレビ番組や映画、舞台等で共演した事は一切無い。また吉田自身もいかりやのワンマン体制ぶりには既に愛想を尽かしており、自らドリフからの脱退を決めている。
  13. ^ 主にボケの方を担当している。
  14. ^ ザ・ジンギスカン・トリオ解散後(1970年代中頃)西ヒトシは泉ピン子らのバックバンドを務めるブラックジャックに加入。その後再編でジャイアント吉田とブラックジャックになった。1976年「風のいたずら」を発表したムード歌謡デュオ、ブラックジャックがバンド編成に転じ、1978年牧伸二のバックを務めシングルを発売している。短期間ブラックジャックを名乗る異なるバンドが二つ存在していた。
  15. ^ または『ドンキーズ』でもあった。
  16. ^ この為シンフォニックバンドは解散する事になり、祝勝はドンキーズには参加せずそのまま芸能界を引退した。
  17. ^ もとザ・ヴィーナスメンバー。ニック下平公式HP[1]
  18. ^ 最初はたった3,000個、オイルショックを乗り越え世界へ” (2007年2月28日). 2020年4月30日閲覧。
  19. ^ その店も2021年現在、既に閉業しており現存していない。
  20. ^ 尚、公式ホームページに明記されている『代表理事』に吉田の記載があるのは間違いである。またミスター・マリックの裏方として活躍していた時期もあった。
  21. ^ 会話中は自身と相手の身長差の関係から、見上げる姿勢でボヤき気味に「ちょっと首の方が疲れちまうんだょなぁ〜」と思わず嘆き節が入ってしまう。その後ドンキーズ時代には、吉田と同じく低身長のやまだマサに対してシークレットシューズを履き自ら『あのねぇ〜、チビで笑いを取って良いのは俺が限界なんだょ!分かるかなぁ〜」と打ち明けていた。
  22. ^ リーダーの小野が吉田に対して「ちょっと聞きたいんだけど、なんでお前はチビなのにジャイアントって名前なの?。自分でもそう思わないのか」とその矛盾点を指摘していた事もある。
  23. ^ 吉本興業のお笑い芸人として現在活躍中のひょっこりはんの様な髪型をしていた。
  24. ^ 代表的なのはNHKで放映されていた人形劇『プリンプリン物語』のモドロ役が上げられる。
  25. ^ 漫才コンビ木田鶴夫・亀夫の内弟子 だった木田Q太と数ヶ月のみ短期間ではあるが、共に活動した事があった。木田Q太は木田P太・Q太として活動実績がある[2][3]。その後トニー茂木と漫才コンビ、ポパイを結成(木田Q太のプロフィールでは1975年に結成としている[4]。)。1979年にコンビ解消後は司会業を中心に、脚本執筆等の活動を行っている。木田Q太の所属する事務所(2017年4月現在)(株)キャッツ企画ホームページ[5]、人物紹介[6][7]
  26. ^ 何故ドンキーズの方に新たに参加をしなかったのか不明である。
  27. ^ 北方将大 オフィシャルサイト ノーブルグループ家族感謝祭開催
  28. ^ ザ・ドリフターズからドンキーカルテットへ~小野ヤスシの青春、ニッポン放送ON LINE、2018年6月28日(更新:2020年1月12日)。
  29. ^ ジャイアント吉田 official channel[8]
  30. ^ 2016年6月5日までに11回分を公開済。
  31. ^ いかりや長介らが脱退後のジミー時田とマウンテン・プレイボーイズのメンバー。短期間になるが飯塚、ジャイアント吉田らと共演している。フジテレビの子供番組『みんなあつまれキーパッパ』にレギュラー出演していた。
  32. ^ 番組のメイン司会であり、第1回目のみの登場。
  33. ^ グループ・サウンズ期のザ・ヤンガーズメンバー。フォークトリオのザ・ジンギスカン・トリオを経てジャイアント吉田とブラックジャックに参加し、平行で1982年頃漫才コンビVANVANを仲一也と組み活動していたが引退[9]出展「『お笑いスター誕生!!』の世界を漂う[10]」仲一也はその後一也に改名を経て、相撲呼出し漫談家として活躍中。(2017年4月現在、落語芸術協会公式サイトから[11])。
  34. ^ または山田昌、もとアイドル・フォー
  35. ^ レオナルド熊は初回の第1回目のみ出演で降板しており、2回目以降は別々のコーナーに分離した関係もある為、帰ってきたドンキーカルテットには顔を見せていない。
  36. ^ 地上波TVで再放送される機会が多い「アラモのテーマ」をもとにしたコントなどで聴ける小野のギターなど。
  37. ^ 当時生放送だった番組や、映像を保存してDVD、ブルーレイソフト化等の二次利用や、保存して残したり後世に伝えようという観念が皆無の時代だったという事もある。
  38. ^ ジャイアント吉田談[どこ?]
  39. ^ スタン・フリーバーグらも苦心し台詞から構成歌唱演奏が無ければラジオドラマ寸劇と大差ないものもあった。
  40. ^ ソノシート「音のハレンチ 耳で聞くマンガ」・ドンキーカルテット1969年、小野ヤスシによるライナーから引用「昭和30年代、フランキー堺とシティ・スリッカーズというコミックバンドがあったの知ってるかい。あちらのスパイク・ジョーンズばりに効果音プラスJAZZの面白いグループだったんだよ。しかも、サイドメンが全員一流のジャズメンとして通用する一流の腕があり、堂々たるフルバンドだったのさ。この辺りからコミック音楽が盛んになり、ラテンをやっていた「ハナ肇とキューバン・キャッツ」がクレージーと名を変えてからのことは君も知り過ぎているよな。その後「ドリフターズ」しかり、世志凡太のグループしかり、そしてこの鳥取県が生んだ芸術家?ドンキー・カルテットあたりが受けに入ってる訳なのよ。ドンキーのギャグは、ジャズ喫茶やクラブなどでお客さんを笑いでブッ倒すアングラ的なセンス!そのムードを電波に乗せたのが当たった訳なんだが、この盤でも独特の笑いを振り撒いている。物を食べながら聞いちゃいけないよ。吹き出すと困っちゃうからね」(原文のまま、引用図書に代わり資料(証言)として実物から転記しました)
  41. ^ モンティ・パイソンチームとの交友からビートルズのパロディラトルズが派生した。
  42. ^ ポール・マッカートニーの実弟。
  43. ^ 「Team DATE名誉顧問」は太気拳創始・澤井健一の弟子だった!! 吉田かずおインタビュー - Dropkick (2017.2.1)

参考資料編集

  • 東京ギャグ列伝〔下〕フォーマット・VHSテープ ASIN: B000064N3I  販売ポニーキャニオン 発売1992年10月21日
  • 昭和達人芸大全~笑芸・喜芸・すっとこ芸 フォーマット・DVDボックス ASIN: B00008BDJ 発行NHKソフトウェア0販売ポニーキャニオン 発売2003年3月19日 NHK番組1991年放送「爆笑!コント大集合」出演ドンキーズ(ジャイアント吉田、猪熊虎五郎、ばんきんや参加)※解説文、メンバー紹介、データ表記無し