ナディア・ブーランジェ

フランスの作曲家・指揮者・ピアニスト・教育者

ナディア・ブーランジェ(Nadia Boulanger, 1887年9月16日1979年10月22日[1]は、フランス作曲家指揮者ピアニスト教育者大学教授)。最高水準にある音楽教師の一人として知られ、20世紀の最も重要な作曲家や演奏家の数々を世に送り出した。生涯を通じてフランスおよび外国で数多くの演奏会、講演を行い、世界各国から集まった生徒たちに始終プライベートで教え続けた[1]

ナディア・ブーランジェ
Nadia Boulanger
ナディア・ブーランジェ(1925年)
基本情報
生誕 1887年9月16日
フランスの旗 フランス共和国パリ
死没 (1979-10-22) 1979年10月22日(92歳没)
フランスの旗 フランスパリ
学歴 パリ音楽院
職業 音楽教師、指揮者作曲家

生涯 編集

家庭環境 編集

実家は代々音楽家の家庭であり、父方の祖母マリー=ジュリー英語版(Marie-Julie Boulanger)は声楽家[2]、祖父フレデリック(Frédéric Boulanger)は、1797年パリ音楽院在学中に15歳で首席として授賞したことのあるチェリストだった。父エルネスト・ブーランジェ英語版1815年 - 1900年)は、パリ音楽院でシャルル=ヴァランタン・アルカンらに師事した後、1835年ローマ大賞を受賞したオペラ作曲家であった[2]。エルネストは母校で教鞭を執っており、その後ロシア貴族の娘(キエフ大公ミハエル2世の子孫とされる)門下生のライサ・ムィシェツカヤと結婚している。ライサはエルネストの43歳年下であった。2人の間に1888年に生まれたのが長女ナディアで、1893年に生まれたのが夭折した次女リリであった[2][3]

音楽教育 編集

1897年、10歳でパリ音楽院に入学し[1]オルガンアレクサンドル・ギルマンルイ・ヴィエルヌに、作曲法をシャルル=マリー・ヴィドールガブリエル・フォーレに、伴奏法をポール・ヴィダルに師事した[4]。在学中は和声、対位法、オルガン、ピアノ伴奏フーガで首席になり1904年卒業したが[1]、長年の目標としてきた1908年ローマ大賞では次点に終わった。その前にも2度ローマ大賞に挑んで最終選抜まで残りながらも、いずれも入選していない。1908年の提出作品は騒動を起こした。声楽のためのフーガという審査団の課題に対して、弦楽四重奏曲を提出したのだった。カミーユ・サン=サーンスなどの反対には遭いながらも、それでも準優勝には選ばれている。一般に入賞者は翌年に賞金を授与されるが、ブーランジェの場合にそのような栄誉はもたらされなかった。ブーランジェがローマ大賞に挑んだのはそれきりだった。

ナディアは妹リリとの間に興味深い関係を築いていた。6歳年下の生まれつき虚弱な妹の世話を年老いた父親に託されており、作曲を含めてリリに音楽の手解きをしたのもナディアであった。リリが1913年に女性として初めてローマ大賞を突破した時[1]も、姉の手引きを受けていた。ナディアはリリに無条件に愛情を注いだものの、妹の作曲の才能には圧倒されるといつも感じていた。「私に何か確信を持って言えることがあるとすれば、私の音楽は無用だということです」と述べたことがある[5]。ナディアがローマ大賞で準優勝した時、パリ音楽院に入学してから10年の月日が流れていた。リリは入学からわずか1年ほどで、地滑り的大勝でローマ大賞を制したのである。姉妹の父エルネストが1900年に没した[1]ことが、リリが作曲にのめり込む重要な要因になったのであるが、今度はリリが1918年に急逝[1][6]すると、ナディアは作曲の筆を折ったのだった。リリは未完成に終わる作品を姉に補筆してくれるように言い残していたが、ナディアは自分の才能は妹と互角ではなく、妹の遺作を適切に処置する能力もないと感じていた。

作曲活動 編集

ブーランジェの作品は、30曲以上の声楽曲と数々の室内楽曲のほか、《ピアノと管弦楽のための狂詩曲》がある。《狂詩曲》は10年間合作を続けてきたラウル・プニョのために作曲されたが、自信不足や極度の自己批判のために、あまりに数多くの改訂を加えている。プニョとの合作に、連作歌曲集《明るい時刻(Les heures claires)》や歌劇《死の町(La ville morte)》が知られており、後者は1914年の上演が計画されていた。しかしながら同年にプニョが他界したためと、第1次世界大戦が勃発したために、《死の町》は仕舞い込まれたまま上演されずに終わった。作曲家ナディア・ブーランジェの作品は、クロード・ドビュッシーに大きく影響されており、しばしば非常に半音階的ではあるものの、常に調性に依拠しており、無調には手を付けていない。但し、1938年に《ダンバートン・オークス協奏曲》の初演を行うなど、後にはイーゴリ・ストラヴィンスキーの熱狂的支持者となった[7]

演奏活動と教育活動 編集

1912年に指揮者としてデビューを果たした。主要な交響楽団を指揮し、女性指揮者の先駆けである。ニューヨーク交響楽団[1]ボストン交響楽団[1][8]ハレ管弦楽団BBC交響楽団などを指揮した。ソリストとしても活動し、1925年にアメリカ合衆国に演奏旅行した際には、門人アーロン・コープランドに委嘱した《オルガンと管弦楽のための交響曲 (コープランド)》の初演でオルガンを弾いている[9][10][11]

1907年にパリ女子音楽院(Conservatoire Femina-Musica)において教育活動に入り、その後1920年より、アルフレッド・コルトーエコール・ノルマル音楽学校の初代教員に名を連ね、さまざまな教科で教鞭を執った[1]1921年には、フォンテーヌブローアメリカ音楽院で和声法の教授に就任[1]して、新世代のアメリカ人作曲家たちに歓迎された。ブーランジェはジャズやストラヴィンスキーなど新しい音楽にも態度を開き、学生一人一人が自ら才能を発揮できるように仕向けたので、多くの生徒が彼女の門をたたくようになった[12]。アメリカからもコープランド始め、ヴァージル・トムソンウォルター・ピストンロイ・ハリスなどが彼女の教えを受けた[12]。ブーランジェは最終的に1948年に院長に昇格している[注釈 1]。またアメリカのロンジー音楽学校英語版でも教鞭をとった。第二次世界大戦中はアメリカに過ごして、ウェルズリー大学ラドクリフ大学ジュリアード音楽院の教壇に立っている。1946年からパリ音楽院のピアノ伴奏科[1]で教授を務め[1]、1957年にアンリエット・ピュイグ=ロジェに引き継いだ[13]。最晩年には視力や聴覚の衰えを来すようになったものの、1979年に亡くなるまでほとんど働きづめの晩年を送った。

1979年、パリで92歳で逝去した[1]。歿後はモンマルトル墓地に葬られ、妹リリと同じ墓に葬られている。

指導と門人 編集

ブーランジェが指導した分野は多岐にわたっており、和声法対位法楽曲分析ソルフェージュスコアリーディング伴奏法(ソルフェージュの応用)などである。しばしば門下生は、ヨハン・ゼバスティアン・バッハの《平均律クラヴィーア曲集》を暗譜することと[14]、しばしばバッハが行なっていたように、フーガ即興演奏できるようになることが要求された。また、弟子のひとりダニエル・バレンボイムは、ブーランジェは『平均律クラーヴィア曲集』の任意の曲を、指定された調性ですぐ弾くよう求めていたと回想している[15]

ブーランジェ自身も、また助手で友人のアネット・デュドネ[16](Annette Dieudonné)も門人については記録を遺していない。さらに、ブーランジェに個人指導を受けた人物について消息をはっきりさせることはほとんど不可能である。いずれにせよ世界各国から非常に数多くの学生を集め[12]、ヨーロッパは言うに及ばず、アメリカ合衆国からは600人以上の音楽家がブーランジェの指導を受けており、さらにオーストラリアカナダトルコ極東からも学生を集めた。

1920年代に指導した学生は大半がアメリカ人作曲家であった。アーロン・コープランドやウォルター・ピストン、ロイ・ハリス、ヴァージル・トムソンらは帰国後に、ブーランジェの指導に基づいて新しい楽派(新古典主義音楽)を確立したのである。ヴァージル・トムソンは、アメリカ合衆国の各都市には安物雑貨屋とブーランジェの弟子がごろごろしている、と言ったことがあるが、たぶんブーランジェとその門人は、頻繁にアメリカ音楽を普及させたので、フランス国内よりもむしろ国外の作曲家に重宝がられたということであろう。ナディア・ブーランジェの指導力は、西側の楽壇にほとんど絶え間なく浸透したのである。

主要な門人一覧 編集

参考文献 編集

  • ブルノー・モンサンジャン著, 佐藤祐子訳『ナディア・ブーランジェとの対話音楽之友社、1992年、国立国会図書館
  • ダニエル・バレンボイム『音楽に生きる ダニエル・バレンボイム自伝』蓑田洋子訳、音楽之友社、1994年、ISBN 4-276-21757-1
  • 奥田恵二『「アメリカ音楽」の誕生:社会・文化の変容の中で』河出書房新社、2005、ISBN 978-4-309-26852-1
  • アレックス・ロス著、柿沼敏江訳『20世紀を語る音楽』1, 2. みすず書房、2010、ISBN 978-4-622-07572-1、978-4-622-07573-8

註記 編集

注釈 編集

  1. ^ モンサンジャン, p47では1946年、p268では1950年に院長となっている。

脚注 編集

  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n モンサンジャン, p267-268「年表」
  2. ^ a b c ブルノー・モンサンジャン 著、佐藤祐子 訳『ナディア・ブーランジェとの対話』音楽之友社、1992年8月、24頁。ISBN 4-276-20331-7 
  3. ^ ナディアの前に幼少にして亡くなった娘がいるので、正確にはナディアが次女でリリーが三女である。
  4. ^ モンサンジャン, p37
  5. ^ Pendle, Karen and Robert Zierolf, "Composers of Modern Europe, Israel, Australia, and New Zealand" in Women & Music: A History ed. Karin Pendle, p256
  6. ^ モンサンジャン, p162
  7. ^ モンサンジャン, p166-179
  8. ^ モンサンジャン, p244
  9. ^ 奥田恵二『「アメリカ音楽」の誕生 : 社会・文化の変容の中で』河出書房新社、2005年9月、240頁。ISBN 4-309-26852-8 
  10. ^ モンサンジャン, p147-148
  11. ^ アレックス・ロス『20世紀(にじゅっせいき)を語る音楽 1』みすず書房、2010年11月、281-282頁。ISBN 978-4-622-07572-1 
  12. ^ a b c 奥田, p238
  13. ^ 『ある「完全な音楽家」の肖像 : マダム・ピュイグ=ロジェが日本に遺したもの』音楽之友社、2003年2月、資料49頁。ISBN 4-276-20137-3 
  14. ^ モンサンジャン, p133
  15. ^ バレンボイム (1994)、55頁。
  16. ^ 田崎, 注p57
  17. ^ a b モンサンジャン, p146
  18. ^ アレックス・ロス『20世紀(にじゅっせいき)を語る音楽 2』みすず書房、2010年11月、529頁。ISBN 978-4-622-07573-8 
  19. ^ a b モンサンジャン, p145
  20. ^ 田崎, p236
  21. ^ モンサンジャン, p240-242
  22. ^ モンサンジャン, p147
  23. ^ ロス, p297
  24. ^ 田崎直美『抵抗と適応のポリトナリテ : ナチス占領下のフランス音楽 (叢書ビブリオムジカ)』アルテスパブリッシング、2022年2月、167頁。ISBN 978-4-86559-248-1 
  25. ^ モンサンジャン, p157-159
  26. ^ モンサンジャン, p153-155
  27. ^ モンサンジャン, p149
  28. ^ a b c 生島美紀子『天才作曲家大澤壽人 : 駆けめぐるボストン・パリ・日本』みすず書房、2017年8月、193-196頁。ISBN 978-4-622-08629-1 
  29. ^ 矢代秋雄『オルフェオの死 (内なる音との対話叢書 ; 3)』深夜叢書社、1977年4月、525頁。doi:10.11501/12432219 

外部リンク 編集