ニイ・オダルティ・ランプティ(Nii Odartey Lamptey, 1974年12月16日 - )は、ガーナグレーター・アクラ州テマ出身の元同国代表サッカー選手、サッカー指導者。ポジションはミッドフィールダー。1990年代初頭、10代の時に国際舞台に登場し次代のスター候補と目されたが、その後は成功を収めることができず世界各国のビッグクラブとは言えないクラブを渡り歩いた彼のキャリアは後に、若手選手へ過度のプレッシャーをかけ、その才能を潰してしまうことへの警鐘となった[1]

ニイ・ランプティ
名前
本名 ニイ・オダルティ・ランプティ
Nii Odartey Lamptey
愛称 次代のペレ
ラテン文字 Nii LAMPTEY
基本情報
国籍 ガーナの旗 ガーナ
生年月日 (1974-12-16) 1974年12月16日(49歳)
出身地 テマ
選手情報
ポジション MF
利き足 右足
クラブ1
クラブ 出場 (得点)
1990-1993 ベルギーの旗 アンデルレヒト 30 (9)
1993-1994 オランダの旗 PSV 22 (10)
1994-1995 イングランドの旗 アストン・ヴィラ 10 (0)
1995-1996 イングランドの旗 コヴェントリー・シティ 6 (0)
1996-1997 イタリアの旗 ヴェネツィア 5 (0)
1997 アルゼンチンの旗 ウニオン・デ・サンタフェ 6 (0)
1997-1998 トルコの旗 アンカラギュジュ 10 (1)
1998-1999 ポルトガルの旗 ウニオン・レイリア 7 (0)
1999-2001 ドイツの旗 グロイター・フュルト 36 (5)
2001-2002 中華人民共和国の旗 山東魯能 37 (7)
2003-2004 サウジアラビアの旗 アル・ナスル  ? (?)
2005-2006 ガーナの旗 アサンテ・コトコ  ? (?)
2007-2008 南アフリカ共和国の旗 ジョモ・コスモス英語版  ? (?)
通算 169 (32)
代表歴
1991-2000 ガーナの旗 ガーナ 38 (8)
監督歴
2009- ガーナの旗 セコンディ英語版 コーチ
獲得メダル
男子 サッカー
オリンピック
1992 バルセロナ サッカー
1. 国内リーグ戦に限る。
■テンプレート■ノート ■解説■サッカー選手pj

経歴 編集

初期 編集

テマで生まれたランプティは、アクラクマシという国内のふたつの大都市で育った[2]。幼少期は悲惨なもので、暴力とネグレクトを受けた。父親はアルコール中毒患者で、しばしば彼に罵声を浴びせたり、殴る、煙草の火を押し付けるといった虐待を加えた[2]。彼はサッカーをすることに日々の希望を見出し、家にも帰らず、学校にも通わず、息子の試合を見に来た父親に心無い言葉をかけられても、プレーを続け、その能力を磨き続けた[2]

8歳の時、両親は離婚。継父は彼を家から追い出した[2]。ランプティはムスリムのためのサッカーキャンプに居場所を見つけ、これに参加するためにキリスト教からイスラム教に改宗する[2]。これを見た継父は、彼が宗教的な冒涜を犯したとして、キャンプの前でしばしば彼と口論をした。そんな中、彼がどれほどすぐれた才能を持っていたかが明らかになり、ガーナのアンダー代表に招集されるようになった。彼は後に父親と和解し、1997年に飲酒に関する病気で亡くなった際、イスラム教から再びキリスト教に改宗した。

クラブ 編集

1990年、15歳の時にアクラのユースチーム、ヤング・コーナーズからア・デモス監督率いるRSCアンデルレヒトと契約。 当時のベルギーリーグの年齢制限規則により公式戦への出場はならなかった。しかし、翌1991年にU-17ガーナ代表の一員としてFIFA U-17世界選手権で優勝し、大会MVPを獲得。次代のペレとして脚光を浴びた事で状況は一変[3]。この活躍を受け、アンデルレヒトはリーグが規定する年齢制限規則を無理矢理変更させてまで彼を試合に起用しようと考え、その結果16歳でベルギーリーグデビューを果たし、当時の最年少選手となった。

アンデルレヒトで3シーズンを過ごした後、1993-94シーズンにオランダ・エールディヴィジPSVアイントホーフェンに移籍。チームは3位に終わったが22試合で11得点を記録、チーム内得点王に輝いた。ガーナU-17代表や、アンデルレヒト時代と同じく、彼のプレーはファンや専門家に衝撃を与えた。

しかし、彼は1年でオランダを離れて、プレミアリーグアストン・ヴィラFCに移籍。スター選手であり、当時PSVより格下と考えられていたチームへ移籍したことで、周囲を驚かせた。後にドイツのテレビにて、ガーナからベルギーに渡る際、あるイタリア人代理人と契約していたことを明かした。彼が契約したアントニオ・カリエンドは、仲間のドイツ人代理人やオットー・フィスター元ガーナ代表監督によれば、移籍金の最も高いチームにランプティを売却し、自らの懐に入る移籍金の25%をいかに高額にするかを考えていたという。その結果カリエンドはランプティの保有権を次々と移すことになるのだが、アストン・ヴィラに移籍したのも、彼の利益を優先した結果であった。ランプティがそれに気づいた時には、すでに手遅れであった。ロン・アトキンソン監督率いるこのチームでは、フットボールリーグカップで当時4部に所属していたウィガン・アスレティックFC戦で3点を記録したのみで[4][5]、活躍は残せなかった。リーグ戦では10試合に出場し、得点はできなかった。結果的に、この移籍が彼のキャリアに暗い影を落とすことになった。

アトキンソン監督の辞任も相俟って、彼は1シーズンでコヴェントリー・シティFCへ移籍。当時プレミアリーグに在籍していたチームであったが、ランプティはリーグのプレースタイルにフィットできず、リーグ戦6試合出場にとどまり、得点もないという惨憺たる成績だった(フットボールリーグカップでは2得点を記録[6][7])。翌シーズンはイタリア、セリエBACヴェネツィアへ、さらにアルゼンチンウニオン・デ・サンタフェに移籍するも目立った活躍はおろか試合出場すらほとんど叶わず、さらにアルゼンチンで生まれた3人目の息子が感染症で生後間もなく死亡。心的ショックでしばらくサッカーから離れてしまう。その後も精彩を欠いた状態でのプレーを余儀なくされ、トルコMKEアンカラギュジュへ、ポルトガルウニオン・レイリアへ移籍するが、どこのチームでも活躍することはなかった。

ランプティは新しくドイツ人の代理人と契約し、ドイツSpVggグロイター・フュルトに移籍。ここではカルチャーショックに苦しみ、当時2部であったチームのバックアップ体制の貧弱さも彼の苦労に拍車をかけた。さらにチームメイトによる人種差別行動にも遭い、彼との宿泊を拒否する選手までいたともいわれる。さらにこの地でも生まれたばかりの娘が生後すぐに亡くなり、悲しみに暮れるランプティはアジアへ去った[2]。次に所属した中国山東魯能[8]、ようやく彼は幸福な時間を過ごし、ファンに受け入れられ、識者に称賛された。サウジアラビアアル・ナスルを経て、2005年に、彼は母国ガーナに戻り、アサンテ・コトコSCに入団した。

彼は、ガーナに戻ってから、かつて2人の子供を失った父親として、また幼少期に凄惨な経験をした一人として、自らの名を冠した学校を設立し、2008年時点で400人の子供がいた[9]2006年南アフリカジョモ・コスモスFC英語版に移籍[10]2008年までプレーし、波乱に満ちたキャリアを終えた。現在はアクラ郊外で牧場を営んでおり、その一方でガーナ国内のセコンディ・ワイズ・ファイターズ英語版のアシスタントコーチを務めている。2010年にはグロー・ランプサッカーアカデミー(当時)を設立した。

代表 編集

初めて国際デビューを果たしたのは15歳の頃、1989 FIFA U-16世界選手権だった。彼を世界的な有名選手にしたのは1991年のFIFA U-17世界選手権である。フアン・セバスティアン・ベロンアレッサンドロ・デル・ピエロらが出場したこの大会でガーナはアレックス・オポク、モハメド・ガルゴ、エマニュエル・ドゥアーら強力な攻撃陣を擁して優勝し[11]、その中心にいたランプティ自身もゴールデンボール賞(大会最優秀選手)に[12]アドリアーノと共に得点王に輝いた。ペレ本人に『新たなペレ』と称され、将来を強く嘱望されるようになった。1991年度のフランス・フットボール誌によるアフリカ年間最優秀選手賞の選考では、17歳にして5位にランクインした[13]

その後、1992年アフリカネイションズカップ予選のトーゴ戦で16歳でA代表に選出され、デビュー。本大会でもレギュラーとして準優勝に貢献、以降は様々な年代別代表で主力としてプレー。U-23代表の一員として同年のバルセロナオリンピックでは銅メダル、U-20代表の一員として1993年FIFAワールドユース選手権豪州大会で準優勝に輝くなど10代の頃は輝かしい実績に彩られた。

1996年1月31日アフリカネイションズカップ準決勝の南アフリカ戦で退場処分を受けて以降、代表戦に出場することも招集されることもなくなった[14]。それはクラブチームでの不調ともタイミングが重なっている。

代表歴 編集

タイトル 編集

代表 編集

U-17ガーナ代表

個人 編集

  • FIFA U-17ゴールデンボール賞 : 1991

脚注 編集

  1. ^ Wilson, Jonathan (2008年2月3日). “Tortured genius: burnt and beaten, Ghana golden boy is lucky to be alive”. London: Guardian UK. http://www.independent.co.uk/sport/football/internationals/tortured-genius-burnt-and-beaten-ghana-golden-boy-is-lucky-to-be-alive-777432.html 2008年2月3日閲覧。 
  2. ^ a b c d e f Lawrence, Amy (2004年4月3日). “The next Pele, or the next Nii Lamptey?”. BBC. 2012年8月27日閲覧。
  3. ^ “Lamptey could return to Belgium”. bbc.co.uk. (2001年5月19日). http://news.bbc.co.uk/sport2/hi/football/africa/1338589.stm 2001年5月19日閲覧。 
  4. ^ “Aston Villa 5 (2) - 0 (0) Wigan”. Soccerbase. (1994年9月21日). http://www.soccerbase.com/results3.sd?gameid=220177 2010年12月22日閲覧。 
  5. ^ “Wigan 0 (0) - 3 (1) Aston Villa”. Soccerbase. (1994年10月5日). http://www.soccerbase.com/results3.sd?gameid=220322 2010年12月22日閲覧。 
  6. ^ “Coventry 2 (2) - 0 (0) Hull”. Soccerbase. (1995年9月20日). http://www.soccerbase.com/results3.sd?gameid=223057 2010年12月22日閲覧。 
  7. ^ “Hull 0 (0) - 1 (1) Coventry”. Soccerbase. (1995年10月4日). http://www.soccerbase.com/results3.sd?gameid=223190 2010年12月22日閲覧。 
  8. ^ “Chinese check out Lamptey”. bbc.co.uk. (2001年6月2日). http://news.bbc.co.uk/sport2/hi/football/africa/1365019.stm 2001年6月2日閲覧。 
  9. ^ Smyth, Rob (2008年3月7日). “The Joy of Six: football's lost talents”. The Guardian (London). http://blogs.guardian.co.uk/sport/2008/03/07/the_joy_of_six_footballs_lost.html 2010年5月20日閲覧。 
  10. ^ Lamptey moves to Jomo Cosmos”. BBC (2007年3月5日). 2012年8月27日閲覧。
  11. ^ “Italy 1991: Ghana go all the way”. Fifa.com. (2000年11月30日). オリジナルの2006年5月26日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20060526051804/http://fifa.com/en/comp/U17/tournament/0,6288,U17-2007-20,00.html 2000年11月30日閲覧。 
  12. ^ FIFA World Cup Most Entertaining Team Award”. RSSSF (2011年1月21日). 2012年8月27日閲覧。
  13. ^ Bobrowsky, Josef (2000年12月21日). “African Player of the Year 1991”. RSSSF. 2012年8月27日閲覧。
  14. ^ Courtney, Barrie (2002年3月18日). “African Nations Cup 1996 - Final Tournament Details”. RSSSF. 2012年8月27日閲覧。