ノート:天正壬午の乱

最新のコメント:1 年前 | トピック:転記分割予定 | 投稿者:㭍月例祭

穴山信君の所領について 編集

「「天正壬午の乱」直前の所領」ですが、穴山信君の所領で正確でないように思えます。信君が安堵されたのは八代・巨摩両郡ではなく、正確には巨摩郡南半に位置する河内領と駿河江尻領であるはずです。--でここ会話2012年8月15日 (水) 04:16 (UTC)返信

(追記)平山優『天正壬午の乱』を確認しましたが、確かに上記のように説明されております(38-39ページ)。なお、駿河においては興国寺城領も武田遺臣の曽根昌世に安堵されているとのことです。--でここ会話2012年8月15日 (水) 04:22 (UTC)返信

すみません。穴山に関しては何か勘違いをしていたようです。ただ、駿河については、信長公記の記述をもって駿河一国としました。目的はあくまで群程度の大きな範囲での説明であり、細かい所領(家臣団の実際の受領者)について言うのであれば、駿河だけじゃ済まないでしょうし、そもそもそこまで詳細にやる意味はないと思います。--EULE会話2012年8月15日 (水) 04:53 (UTC)返信

訂正確認しました。これで問題ないと思います。--でここ会話2012年8月15日 (水) 05:08 (UTC)返信

(報告)競合したようですが、とりあえず編集された分はそのままにして指摘部分を直しました。--EULE会話2012年8月15日 (水) 05:10 (UTC)返信

記事名を含めた呼称の出典 編集

出典記載が抽象的で、明らかでありませんので、明記をおねがいします。同年秋の対陣を特定して「壬午の動乱」などの呼称で呼んでいる史料があるのでしょうか。同年秋の後北条氏と徳川氏の対陣は、徳川氏の文献では「若御(神)子御陣」など、後北条氏の文献では言及すること自体タブーで用例が少ないと思いますが、『小田原記』は明確に「是を若御子対陣と云」と定義していると思います。場合によっては記事名の変更が妥当と思います(「若神子の陣」など)。--小峯堂会話2021年3月29日 (月) 05:38 (UTC)返信

  コメント 確認ですが、ご提案は天正壬午の乱若神子の陣へ改名する、ということで間違いないでしょうか?
  • 小峯堂さんは「史料」とおっしゃっているのが気になりますが・・・原則的に、Wikipediaの記事名は(同時代的な)「史料」によるというよりは、現代の高次情報源(資料、文献など)に基づいて、「一般的な呼称」を採用することになります。
  • とりあえず簡便な検索ですが
    • CiNiiで「天正壬午の乱」を論文検索すると3件みつかります。
      • 「天正壬午の乱と北関東」(駒沢大学大学院史学論集)など。
    • 国会図書館で「天正壬午の乱」を検索すると11件。(CiNiiとの重複あり)
    • コトバンクで「天正壬午の乱」を検索すると
      • 『日本の城がわかる事典』(講談社)で「天正壬午の乱」を用いていることがわかります。
    • このほか『日本歴史地名大系』(平凡社)でも、山梨県の巻で「天正壬午の乱」の語を用いています。
    • グーグルで「天正壬午の乱」を検索すると、Amazonや各出版社の文献情報(国会図書館と重複)がみつかります。そのほか多数の(信頼できる情報源としては採用できないですが)個人サイトが見当たります。そのほか、上等な情報源とは言い難いですが、文春オンラインYahooの記事毎日新聞の記事でも「天正壬午の乱」が用いられています。
  • これらを総合的にみると、「天正壬午の乱」という語は歴史学者や大手出版社によってそれなりに普及している、としてもよいのでは。
  • これに較べると「若神子の陣」は
    • CiNii 0件(全文検索でも0)
    • 国会図書館 0件
    • コトバンク 0件 (「若神子で対陣した」という表現は2件みられる)
    • JapanKnowledge 0件(全文検索でも無し)
    • グーグル検索ではいくらか見られ、私の環境で「若神子の陣」の正規表現で検索すると「約17件」(1ページめには635件と表示されるが、検索結果画面は2ページ目までしかなく、2ページめで「17件」になる)
以上のように、現実世界での用例でいうと「天正壬午の乱」は「若神子の陣」と較べ圧倒的に認知度が高い、といってもいいでしょう。
  • 信頼できる情報源とは言えませんが、ある個人サイトをみると、「天正壬午の乱」は武田家の滅亡から北条・徳川の和睦までのあいだの諸勢力による「いくつもの戦いの総称」として用いられているのに対して、「若神子の陣」は韮崎における8月から10月までの北条軍と徳川軍のにらみ合い、に限定して使用されている(「天正壬午の乱」の中の1局面)感じがします。
  • もちろん、用例の数でいうと「関ヶ原の戦い」とか「壬申の乱」「応仁の乱」とかに比べれば知名度は数段落ちるともいえます。たとえば古典的な書物でいうと中公文庫『日本の歴史』シリーズ12巻(pp.444-445あたり)ではこの語を使っていませんし、『日本史広辞典』(山川)にも「天正壬午の乱」という項はありません(真田昌幸などの項にもこの語は使われていない)。「壬申の乱」「応仁の乱」のような義務教育レベルの事項よりはかなり知名度が低く、「享徳の乱」「永享の乱」などの高校生レベルの事項よりもさらに知名度は低い、という感じはします。(コトバンクあたりでも「永享の乱」は様々な辞典辞書類に収録されていることがわかります。)
  • とはいえ上で示したように「天正壬午の乱」という語はそれなりに確認できます。
  • 『群馬新百科事典』や『群馬県の歴史』(山川)でもこうした語は登場しないし、群馬史的には、武田信玄存命時の上州の戦乱から、上杉謙信の死、北上野・沼田をめぐる真田氏・北条氏の動向、小田原攻めまでがひとつながりで解説される傾向があり、特に「武田氏滅亡」に端を発するという歴史観ではないようにも感じます。--柒月例祭会話2021年3月29日 (月) 10:22 (UTC)返信
      • (雑談)これはあくまで雑談です。上で示したように「天正壬午の乱」の用例はさほど多くはないので、誰が最初に「天正壬午の乱」という語句を使い始めたか、たどれそうな感じもしますね。読書好き・調べ物好きとか、大学生の論文あたりの手頃なテーマになりそう。案外、初出は『信長の野望』だったりとかね。独自研究どまんなかですけどね。--柒月例祭会話2021年3月29日 (月) 10:32 (UTC)返信
  コメントご指摘されている内容がよくわからないのですが、まず、記事名はおろか、本文でも「壬午の動乱」などという表記はありません。次に「若神子の陣」への改名提案についても理由がよくわからないのですが、第一に、当時使われていた名称でなければならないという理由はありません。第二に、ご自身もおっしゃられるように「若神子の陣」というのは、その名前からして黒駒合戦前後の局所戦闘を指しているものであって「天正壬午の乱」が含意しているのはもっと広い範囲です。
「天正壬午の乱」という名称については上記、柒月例祭氏が既に詳しく述べられておりますけど、私程度でもパッと思いつくだけでも韮崎市誌や笹本正治の著作で見られるもので、近年は平山優氏が「天正壬午の乱」というタイトルで同戦乱の解説書を書かれているくらいなので、勝手な呼称でもありません。--EULE会話2021年3月29日 (月) 10:31 (UTC)返信

失礼しました。「要検証」とした箇所の出典を問題にしています。そもそも、「天正壬午の乱」という言葉の指示する対象がはっきりしません。武田氏滅亡に至る壬午年の出来事を含むのか、本能寺の変を含むのか、西国の動向を含むのか。記事見出しでの使われ方をみると、「若神子対陣」のことを言っているように感じられます。そのようなよくわからない言葉の用例があるのでしょうか。--小峯堂会話2021年3月29日 (月) 11:01 (UTC)返信

  返信 ごめんなさい。氏のおっしゃることがよくわかりません。現状の冒頭文や、本文も含めても、普通なら小峯堂氏のおっしゃるような読み取り方はしません。例えば定義からして「統治不在混乱となった甲斐国・信濃国・上野国の支配を巡った争乱」と述べられているにも関わらず、甲斐での徳川と北条の黒駒合戦あたりのみが主題であるかのように読めると言われても、まったく理解できません。また、本能寺の変や近畿情勢(ついでにいえば沼田問題や小田原征伐も)は、「天正壬午の乱」の前史(背景)や原因や、他の地域の出来事の関係性について述べているのであって、説明の主体ではありません。太平洋戦争の説明について、その遠因として満州の利権の話や、同時並行しているヨーロッパ戦線についても言及したら、太平洋戦争の範囲は曖昧で、わからないということになりますか? なりませんよね。
「そのようなよくわからない言葉の用例があるのでしょうか」と言われても、小峯堂氏がよくわかってないだけではないでしょうか、としか私からは言い様がありません。そもそも先に述べたように、専門家で「天正壬午の乱」を主題とした書籍もあるのですから、それをまずは読まれるのが先ではないでしょうか。また、もし、専門書の範囲とこの記事が一致していないのであれば、それは専門書の範囲に合わせるように改稿することであって、自分がよくわからないから「若神子対陣」にすべきだなんて言われても賛成を得られるようなものではないです。--EULE会話2021年3月29日 (月) 12:06 (UTC)返信

説明が至らず申し訳ございません。私が問題にしているのは、「要検証」とした箇所に出典がなく、信憑性が疑問である、ということ。そしてもし出典が示されなければ、この記事が記述の対象とする一連の出来事を「天正壬午の乱」と呼ぶ根拠が示されていないことになる、ということです。普通、天正壬午年の動乱といえば本能寺の変や山崎の合戦なども含むのが当然だからです。--小峯堂会話2021年3月29日 (月) 12:39 (UTC)返信

  返信 現状、記事に出典が不足なのは確かです。
また、要出典となさった部分、「甲斐一乱」「壬午の役」「壬午ノ合戦」といった呼称に、出典がないのも事実で、信憑性が疑問だ、というのもわかります。
でもそれらは、その部分だけを除去すればいい話です。一連の騒乱の総称として「天正壬午の乱」という呼称が様々な文献で用いられていることは、既に上で示した通りです。現時点では、それらが適切な形で出典化されていないというのも事実ですけど、だからといって「『天正壬午の乱』という呼称が疑わしい」というのは違うでしょう。
イージーな方法として『天正壬午の乱【増補改訂版】─本能寺の変と東国戦国史』の紹介ページを眺めると、以下のようなことが読み取れます。
  • 「武田遺領をめぐる徳川・北条・上杉氏の戦い」などという総括があり、
  • 同書の冒頭部には「天正壬午の乱とはなにか」という一節があるので、そこを読めば定義的な何かが書かれているであろうこと
さらに、同書の著者平山優 (歴史学者)はそれなりに「専門家」であることもわかります。たとえば「明治生まれで東京大学文学部名誉教授(日本史・中世史)で日本史学会の会長」みたいなレベルに比べれば「権威」は下かもしれませんが、どこの誰だかわからない私や小峯堂さんよりは「その道の専門家」として社会的認知されているわけです。私や小峯堂さんが個人的に「こいつの説はおかしい」みたいに言ってもね。)
小峯堂さんは、「普通、本能寺や山崎の合戦も含むのが当然」とおっしゃいます。その「普通・当然」だという主張が要出典なわけですよ。そりゃまあ、「狭義の天正壬午の乱(=関東地方のこと)」を完全に理解するためには、本能寺の変のことを知る必要はあるし、本能寺の変のことを知るためには信長のことを詳しく知る必要があるし、武田信玄のことも知る必要があるし、そのためには室町幕府の成立に遡る必要があるし、それを知るためには源平の合戦まで遡る必要はあるでしょう。太平洋戦争について語るためにはたぶん明治維新のことから話をするべきだしね。でもそんなことをしたらキリないですし、そこらへんは別記事読んでねってことでしょう。--柒月例祭会話2021年3月29日 (月) 13:03 (UTC)返信

たびたびコメントありがとうございます。典拠を示すべき人が典拠を示してから議論した方がいいと思いますので…平山の史料解釈や出典記載がどのような評価を受けているか、という話もあると思いますが…続きはその後でお願いします。--小峯堂会話2021年3月29日 (月) 13:25 (UTC)返信

「天正壬午の乱」の近世の軍記などにおける用例の出典は示されませんでした。「若御子対陣」の呼称について、典拠をいくつか示しました。「天正壬午の乱」は若御子対陣を包括する概念?とのことですが、近世の軍記に用例は無いのではないでしょうか。類語の指示する概念も一定していないようです。「若御子対陣」と同義であれば、歴史的な名称を吟味せずに言い換えるのは、疑問です。--小峯堂会話2021年7月5日 (月) 03:23 (UTC)返信

天正壬午の乱とは何なのか?平山優の著書を確認して、出典を明記して記事本文に書いておきましたので、消さないようにしてください。若神子対陣と天正壬午の乱は別概念であることが確認できましたので、それぞれ記事を書くことにします。あわせて、長期間出典が示されていない、根拠不明の記述は適宜削除します。--小峯堂会話2021年8月19日 (木) 12:57 (UTC)返信

合意なき分割強行を一度差し戻しします。 編集

利用者:小峯堂さんによって、転記分割([1][2])が行われましたが、抗議のうえ差し戻しします。

問題点
  • 記事の転記分割に関する適切な手順を踏んでいない。
    • Wikipedia:ページの分割と統合Wikipedia:分割提案にあるように、記事を分割するときは、(1)適切な告知を行い、(2)ノートで議論し合意を形成し、(3)要約欄を利用し適切に履歴を繋ぐ、必要があります。今回の小峯堂さんの編集は、このいずれをも欠いています。
    • (3)については専ら手続き作業の問題に過ぎませんが、重要です。WP:MMにもあるように、「転記処理と編集作業を明確に区別するため、義務ではありませんが、2段階に分けて行なうことが推奨」されており、「転記」と「改変」は別の版で行うのが望ましいです。
    • (1)(2)については、2021年3月の改名提案(ノート:天正壬午の乱#記事名を含めた呼称の出典)のときから、小峯堂さんが「若神子の陣」への改名を主張し、柒月例祭と利用者:EULEさんが慎重意見を述べていたところです。控えめにみても、「若神子の陣」への改名への賛成意見はみられませんでした。今回、小峯堂さんは独断で天正壬午の乱の大半を若御子対陣を転記分割しており、これは事実上「若神子の陣への改名」の強行に等しいです。
  • Wikipedia:独自研究は載せない
    • 小峯堂さんはこのように書いています。
      • 「山梨県史のような用語は使われていない」
    • これは小峯堂さんによる独自研究ではありませんか?情報源とされる『日本城郭大系 第8巻』に「山梨県史のような用語は使われていない」と書いてあるのであれば、OKです。ですが、小峯堂さんが『日本城郭大系 第8巻』を読んで「 天正壬午の乱と書いていない」と判断して書いたというのであれば、それは独自研究ど真ん中です。
    • こうした「用例」「語義の由来」云々は、独立した節を設けて書くのが良いでしょう。冒頭部に書くようなことではありません。

記事についてはこのような問題があり、それは予てから改名議論の中で申し上げてきたとおりです。

一方、こうした複数の異論の存在を無視し、適切な告知を行わず、突如独断で分割転記や事実上の改名を強行するのは、Wikipedia:腕ずくで解決しようとしないなどの利用者の行動規範に反するもので、誠実な姿勢ではないです。まあ、この点については反省していただき、繰り返さなければOKです。--柒月例祭会話2021年8月19日 (木) 13:06 (UTC)返信

  コメント 9時半頃に私も今回の編集に気づき、先に下記の文章を書いていたところで、柒月例祭氏の行動に気づきました。そのため、(多少整合性の見直しはいたしましたが)本来は下記のコメントは私の方で差し戻しした後にここに記述する予定であったために少し文脈上の整合性がおかしいところがあるかもしれませんがご容赦ください。
まず、直近の8/19の編集については手続き上に問題があります。小峯堂氏としては改名をしたつもりなのでしょうが、実態として若御子対陣を新規で作成し、本項の内容をコピペしたに過ぎず、これは柒月例祭氏が指摘されているように分割に当たります。分割する場合はWikipedia:分割提案の手順に従わなければなりませんが、氏はそれをしていません(問題点①)。
また、改名提案の手順であったとしても、氏がやられたのはWikipedia:改名提案に照らして問題があります。まず、氏の提案のテンプレートについては氏以外に肯定する者がおらず、1ヶ月以上放置されたために、6月29日に私が除去しております。その後、7月5日の編集を持って氏は継続しているつもりだったのでしょうが、テンプレを貼っておりません(問題点②)。そもそも氏は「Wikipedia:改名提案」にあるように「Wikipedia:改名提案#改名提案の一覧」で提案せず、あるいは「Wikipedia:コメント依頼」といった代替場所でも告知をしておりませんので、周知不十分です(問題点③)。
結果として氏の実際の意図に関係なく、表面的には今回の行動は小峯堂氏個人が正しいと思う「若御子対陣」に無理やりしようとにWikipedia:腕ずくで解決しようとしないに違反する行動を取ってしまったことになります。
次に7月5日のノートでの主張内容に問題があります。ただ、先に断っておくと、7月5日における小峯堂氏の編集やノートでの説明に気づかなかったことに関しては私にも瑕疵があることを認めます。その上で今回、改めて氏の問題点について指摘をいたします。
まず、氏は
>「天正壬午の乱」の近世の軍記などにおける用例の出典は示されませんでした。
と述べられておりますが、これがそもそも問題です。第一に、この論点は7月5日に初めて氏が主張し、それ以前には登場していません。氏としては主張していたつもりかもしれませんが、少なくとも私(おそらく柒月例祭氏も)の認識は、そもそも氏が要出典を貼った「壬午の役」「壬午ノ合戦」の名称であって、「天正壬午の乱」という用語自体が一次資料や史料にあるかないかは争点にしてません(問題点④)。その上で、Wikipedia:信頼できる情報源で挙げられている通り、ウィキペディアにおいて重用なのは「信頼できる資料」での扱いであって、「近世の軍記など」の史料での用例ではありません(問題点⑤)。近世の軍記といった一次資料や史料を(信頼できる)二次資料などに優越させるという規則はなく、その上で、信頼できる二次資料での使用例というのは、私や柒月例祭氏で既に挙げられているものです。これについて氏がやったのは「平山優は本当に信用できるか」という権威を貶める論証だけです。それは史料を優先することの理由になりませんし、平山以外の資料も多数挙げられていることの反証になりませんし、そもそも平山優の権威を否定する根拠にもなってません。平山氏は平山優 (歴史学者)にある通りの経歴の人であって、それに対して一次資料を参照しているだけの小峯堂氏の論説が優先される道理はありません(問題点⑥)。
また、先に述べている通り「若御子対陣」の用例を認めるとしても、それは、氏が挙げられた史料でさえ、若御子で起こった「局所戦闘」を指しているのであって、当時に起こった「広範囲の戦役」を指す言葉ではありません(問題点⑦)。それに対して小峯堂氏は何か反論めいたことを言っておりますが、この点については信頼できる情報源に書かれているものと既に私は指摘しており、小峯堂氏の反論というのは先に指摘している通り「史料を優先する」という誤ったウィキペディアのルールに対する認識に基づくものであるため、私の意見に反論できていないと言わざるを得ません。
加えて、若御子対陣の方で「長期間出典が付されていない記述を除去する」として、明らかに出典のついているものまで除去されています。一方で、ご自身が書きたいであろう部分は除去していないどころか、ご自身がここで本当に信頼できるのかと疑念を呈した平山氏の出典箇所をかなり残しておられる。
私は最初に改名提案などのルールに対する誤解を考慮して、その行動はWikipedia:腕ずくで解決しようとしないに反するよ、という間接的な表現にとどめましたが、この点に関しては氏がやられているのは、自分が望む記述をしたいがために、Wikipedia:腕ずくで解決しようとしないに反する行為を強行していると言わざるを得ません。
加えて、今日になって「平山優の著書を確認した」とか「若神子対陣と天正壬午の乱は別概念であることが確認できました」などと言われても、それって最初から私や柒月例祭氏が指摘していたことです。それにも関わらず、今日のような編集を強行したというのは非常に大きな問題があります。つまり、今までのこのノートでの議論において、ご自身の主張に間違いがあったと認められたにも関わらず、その過去の議論を根拠にして行動に移したということなのですから。--EULE会話2021年8月19日 (木) 13:43 (UTC)返信

転記分割予定 編集

アドバイスをありがとうございます。平山の著書を読み、改名は不要、別々に記事を書けばよい、と判断しました。転記分割?というのは気をつけたいとおもいます。そもそも、この記事の内容は、「武田征伐」や「本能寺の変」「上田合戦」などと重複していますし、「若御子対陣」とも重複していると思います。「若御子」との転記分割は私がしなければいけないのでしょうから、このコメントをもって提案としますが、「武田征伐」や「本能寺の変」、「上田合戦」との転機分割に当たっては、きちんと手続きをふまれたのですか?

EULEさんが、私が「若御子対陣」の出典を近世の軍記に求めていて、それを根拠に改名を主張している、とされているのは誤解と思います。私が主張しているのは、平山が著書の中で「壬午の役」の出典を「近世の軍記にある」と書き、それを「天正壬午の乱」という言葉を使う根拠としているが、根拠が不明確で疑わしい、ということです。近世まで遡らなくとも、「若御子対陣」という言葉は1982年の『小田原北条記』の現代語訳などでも使われており、「壬午の役」とは呼ばれていませんので、確認なさってみてください。平山の著書は、少なくとも「どちらの語の方が適切か」という議論を欠いており、更に言えば「天正壬午の乱」という言葉の根拠が疑わしいため、適切ではない、ということです。

繰り返しになりますが、改名は不要で、別に若御子対陣の記事を作成し、転記分割については「武田征伐」や「本能寺の変」と同じ方針で対処するようにしたいと思います。重複があっても構わないのであれば、そうしたいと思います。

「文献にない」という記述が独自研究ではないか、とのご指摘は、いわゆる「悪魔の証明」で、「偽」で「ある」と書かれると、それを否定するのは難しいため、出典を明らかにして「この本には記載がなかった」のように記載する限りで、Wikipediaの方針に照らして、問題はないと思います。この点書き方を少し改めようと思います。

むしろこの記事には出典のない記述が多く含まれており、各文の出典を明らかにすることの方が重大事に思います。そこはなぜ無視されているのですか?特に、EULEさんは出典を明らかにせずに文章を書いておられるようにお見受けしておりますが、その点いかがですか。出典の無い文は消しても問題なく、出典を示さない側に問題がある、というのがWikipediaのルールですね?--小峯堂会話2021年8月19日 (木) 15:16 (UTC)返信

私は、反対意見のあった改名は実行していませんので、「編集強行」したなどというのは事実無根であり、失礼な言い方に感じます。「転記分割」はルールに従い行うようにします。

根拠不明な記述の出典記載は、7月5日に要請しており、今日まで「放置」されていらっしゃるようですから、私がそれを消しても、「強行」には当たりませんね?--小峯堂会話2021年8月20日 (金) 09:40 (UTC)返信

  返信 今回の件で言うと、あなたの見解に複数の異論がある状況で、合意形成のための話し合いをしようというときに、現状を改変してしまう(記事を編集する)ことを「編集強行」と言っています。記事編集を急がなければいけない事情はありませんから、合意形成に専念してください。こうした話し合いには時間を要することはよくあることで、ときには数ヶ月や年単位になることもあります。
記事の中身の話に入る前に、この点についてお約束ください。--柒月例祭会話2021年8月21日 (土) 04:49 (UTC)返信
  コメント 性急な印象もあるので、まずは話し合いという方針に賛同します。また、それでも編集がされる場合には「全保護」の申請をした方がいいかもしれません。--China会話2021年8月21日 (土) 06:02 (UTC)返信
  反対分割の検討」にある分割の理由に該当していません。--ジャムリン会話2021年8月20日 (金) 16:25 (UTC)返信
  コメント部分的には私だけではなく、柒月例祭氏宛へのものもあるのでしょうが、その辺ひっくるめて反論や意見を述べます。長くなりますがご容赦ください。
◆まず、第一に「分割」に関しては他の方と同じく反対します。そもそも小峯堂氏はウィキペディアにおける「分割」とは何かを理解されていないのではないかと思います。
「武田征伐」や「本能寺の変」、「上田合戦」との転機分割に当たっては、きちんと手続きをふまれたのですか?
と小峯堂氏は述べられておりますし、分割提案でも何かその辺のことを示唆しておられますが、それらは特定の記事から分割して作成された記事ではありません。あるいは逆に本項が別記事から分割されて作成された記事でもありません。分割にせよ、今回の全面的な改訂にせよ、「武田征伐」や「本能寺の変」などの記事の在り方は、小峯堂氏の編集の妥当性を示す何の根拠にもなってないです。
◆次に、
私が主張しているのは、平山が著書の中で「壬午の役」の出典を「近世の軍記にある」と書き、それを「天正壬午の乱」という言葉を使う根拠としているが、根拠が不明確で疑わしい、ということです。
などと、突然申されても、今までそんなことおっしゃられていないので、困ってしまいます。その具体的主張は今回氏が初めて主張されたもので、言われなければ当然ながら私にはわかりません。ただ、それを受けても、小峯堂氏個人が平山氏の書籍の内容に嫌疑を挟むのは自由ですが、信頼できる二次情報源で言及されているものに対して、それを裏付ける自分が納得できる一次資料が提示されないから問題だというのは理由になりません(二次資料の中で、その記述に対する具体的な典拠が記されてないからそれは問題のある情報源なんてやったら、まず二次資料すべて全滅です)。それに別に平山氏の書籍に限らず、広く「天正壬午の乱」という言葉が使われているというのが私や柒月例祭氏の指摘であって、これを覆すために平山氏個人の書籍の一節に嫌疑を示すことに意味はありません。
これは柒月例祭氏が最初の方で既に指摘されていることですが、「天正壬午の乱」の主題というのは、かつては史学的には本能寺の変の付随事項として扱われたり、せいぜい関連武将の人物伝に、その人物が関係する範囲のみで言及されるというもので、あくまで甲斐・上野・信濃の争乱を主軸として、その後の影響まで含めて体系的に研究されたのというのは比較的最近の話になります(というより本項の「研究史」で説明される通り、1990年代末以降の話)。逆に言えば、これ以前には総説として扱った研究はほとんどないです(この点について、小峯堂氏は『日本城郭大系』を根拠に何やら意見を述べられておりますが、この点は後で詳述いたします)。そうした事象に対して、古い資料を持ち出し、そのような言葉の用例はないと主張されても、そうした反論には意味がないと答える以外にありません。
極端なことを申し上げれば、実は平山氏による近年の造語であって1990年以前には類例も含めて一切の使用例がなかったとしても、少なくとも現在においては同戦役を「天正壬午の乱」と呼ぶことで定着していることは事実であって覆せないものです。
こうした従来はサブ的に扱われ、特に名前すらなかったが、研究が進んで主題として独立し、命名もされた、というのは史学では珍しいものではありません。例えば近年、「宝暦・天明文化」という言葉が登場しましたが、これも従来は化政文化の一部として扱われていたものです。現在の資料において田沼時代における文化風俗を「宝暦・天明文化」と称するものは多くありますが(高校教科書でも今はそう記述されていますが)、1980年以前ではまず見かけないでしょう(事典などの類に載るのは平成期に入って刊行された分の吉川の国史大辞典くらいが遡れる最古じゃないでしょうか。それもずっと化政文化扱いされてて比較的新しい用語だと補説されていますが)。しかしだからといって、1980年以前の資料には「宝暦・天明文化」という用例がないから不当だ、化政文化が正しいなどという話にはならないのです。
◆次にこれは私宛てというより柒月例祭氏に述べられたものでしょうけど、引っ掛かったので私の方でもコメントします。
「文献にない」という記述が独自研究ではないか、とのご指摘は、いわゆる「悪魔の証明」で、「偽」で「ある」と書かれると、それを否定するのは難しいため、出典を明らかにして「この本には記載がなかった」のように記載する限りで、Wikipediaの方針に照らして、問題はないと思います。
と、述べられていますが、Wikipediaの方針以前に文章や論理性の観点で問題があります。「特定の情報源に書かれていない」とあえて言及する必要性がないです。具体的には氏は『日本城郭大系』に載ってない主張されていますが『日本城郭大系』は、別に日本史(戦国史)全体を規定して、ここに書かれているものや表記が絶対的に正しいというような資料ではありませんし、そもそも題の通り、城郭に主眼を置いたものです。そうした書籍に載っていなかったという事実をあえて記述する理由がないです。そもそも先述の通り1990年以前の用例の厳密性に大した意味はないのですから、なおのこと、特定の書籍を取り上げてここでは使用されていないとあえて言及することに意味がないです。「若御子対陣」などという言葉もほとんどの文献には登場いたしませんが、それ一々「〇〇には「若御子対陣」などという用例はなかった」などと書きますか? 吉川の国史大辞典を始めとして、歴史系の大辞典や大事典とつくものを片っ端から調べてみましたが、「若御子対陣」は無かったですよ(「天正壬午の乱」もほぼ同じですが、1995年刊行の日本歴史地名大系「山梨編」には天正壬午の乱があるのを確認できました)。
◆次に
出典の無い文は消しても問題なく、出典を示さない側に問題がある、というのがWikipediaのルールですね?
その理解は厳密には正しくないです。出典のない記述は、単純に除去するだけではなく、自分が出典を提示しても良いのがWikipediaのルールです。
明らかに信憑性が怪しい、あるいは諸説あってどれか特定のものに絞れるものではなく、そのために妥当な出典が自分ではわからない場合に出典を求め、提示されない場合に除去することは妥当でしょう。しかし、ここで氏が除去された内容は、通史レベルのものも含まれております。例えば信濃・上野の前史や武田征伐及び、その後の地領の配分などもそうですし、何だったら本能寺で織田信長が討たれたことすら氏は無出典を根拠に除去されています。 氏はこの内容が嘘でデタラメであったり、あるいは諸説あって学術的に論争がある内容だと思いますか?
そもそも氏のいう「出典がない」というのも、正確には「逐次出典がない」のであって、今回の通史程度のものは、「参考文献節に挙げられている」資料でも概ね言及されています。というより、武田征伐とその地領配分だとか、上杉の動きというのは、これに言及しなければ「天正壬午の乱」の説明ができませんしね。もっとも川越夜戦や信虎時代からも振り返るほど丁寧なものはないかもしれませんが、それでも前史や背景を説明する上で不要な情報というわけではありません。
それらに対して氏はその平山氏の書籍を読んだと述べられているのだから、内容の妥当性も知っているはずです。それに対して、自分で逐次出典を付けないまでも、出典や逐次出典を促すテンプレートを貼るのが一般的な行動であって、「除去」は適切とは言えません。ともすれば無出典を理由にこれだけ広範囲を除去するというのであれば、何らかの個人的な感情や思惑に基づいて「腕ずくで解決しようとしない」に反した行為を行おうとしていると判断せざるを得ません(例えばご自身が推す「若御子対陣」の記事の方がウィキペディア内で充実しているように見せかけたいとか)。
あるいは、もう1つの可能性として、本当に小峯堂氏が逐次出典がないと、この程度の通史の妥当性もわからない人だという可能性もありますが、その場合は戦国史に対する知識がないという話になってしまいますが、まあ、それは無いと思ってます。
◆次に氏は本文の方で、もともと
天正壬午の乱に関する実証的研究は少なく、山梨県をはじめとする自治体史において概説的に触れられる程度であった。江戸時代には文化11年(1814年)に完成した甲斐国の地誌『甲斐国志』において、記述の方式や人物部の時代区分において、天正10年(壬午)が大きな区切りになっていることが指摘される[21]。『甲斐国志』の執筆姿勢は武田氏や柳沢氏など甲斐国主に対しては敬称を用いていない客観的なスタンスであるが、徳川家に対しては家康を「神祖」と称し敬意を示しており、天正壬午起請文が提出された天正10年を重視した時代区分になっていると考えられている[21]。

平成8年(1998年)、山梨県韮崎市穴山町の能見城跡の発掘調査が実施された。この調査を通じて天正壬午の乱における築城の歴史的背景が考察され、発掘調査報告書において平山優によるはじめての総説が発表された。

とあったものを、
天正壬午年に山梨県で起きた動乱に関しては、1980年の『日本城郭大系 第8巻』の山梨県の部の総説「信玄・勝頼二代と壬午の役」 や[27]、同書に田代孝が若御子対陣のことを特定して記した「研究ノート 天正壬午の戦い」がある[28]。
平成8年(1998年)に平山優は韮崎市穴山町の能見城跡の発掘調査報告書において、築城の背景の解説として「天正壬午の乱」について築城にあまり関係しない内容を長文で述べ、2011年の単行本『武田遺領を巡る争いと秀吉の野望』では上杉氏や後北条氏、豊臣政権や信濃国衆らの動向についても概述しているが、出典の明示の無い、根拠不確かな叙述が多い。こうした平山の著書の問題は既に長篠の戦いに関連して藤本正行や石川博が指摘するところと同様である。
という改変をなされましたが、正直意味がわかりませんし、小峯堂氏は「総説」ということの意味を理解できていないのではないかと疑わざるを得ません。これも1対1ではないという形で何度も指摘されていることですが、本項で言う「天正壬午の乱」とは、本能寺の変後の甲斐国・信濃国・上野国の混乱期に際して、徳川・北条・上杉及び在郷諸勢力が関わったものを指しているのであって、単に山梨県のみでの局所的な範囲や、単に徳川と北条の対陣のみを指す概念ではありません。氏は、『日本城郭大系』を持ち出して、平山より先に総説があったと主張したいのでしょうけど、全然、まったく論拠になってないのです。だいたい『日本城郭大系』は各城や砦に主眼があるものであって、戦史がメインではなく、そこにある総説はあまり意味がありません。『日本歴史地名大系』だって総説はありますが、そういう事典におけるものを持ち出して、○○より先に総説としてまとめられていたなんて主張は普通しません。だいたい、山梨で騒乱があった事自体は別に多くの文献でも触れられているものであって、何でしたら江戸時代に成立した『関八州古戦録』とか、あるいは『上田軍記』の冒頭とかにも天正壬午の乱における事柄は触れられております。それを1980年の『日本城郭大系』で触れられてたと大きく取り上げる理由がないです(というか『関八州古戦録』の方が甲斐だけではなく上野・信濃も扱ってるので、より「天正壬午の乱」が指す範囲に近い)。
そうした上でさらに問題なのが、「築城の背景の解説として「天正壬午の乱」について築城にあまり関係しない内容を長文で述べ、2011年の単行本『武田遺領を巡る争いと秀吉の野望』では上杉氏や後北条氏、豊臣政権や信濃国衆らの動向についても概述しているが、出典の明示の無い、根拠不確かな叙述が多い」って、これは小峯堂氏個人の感想ですよね? 長篠の戦いについて藤本正行や石川博が問題点を指摘している(しかも出典なし)とか、言ってますけど、それが何の関係があるのですか? まったく別の話題で一部に嫌疑が出されていることを持ち出して、私の見解は正しいとやるのは、これは非常に大きな問題です。また、Xx kyousuke xx氏に問題視されている箇所も同様でしょう。
結局、通史程度のものでも出典がないという理由で除去するのに、自分は出典が無かったり、あるいは独自研究や情報の合成で、書こうとする態度は非常に問題が大きいと言わざるを得ないです。--EULE会話2021年8月21日 (土) 09:35 (UTC)返信
(追記)基本的に編集合戦を起こさないために、現時点で記述の復帰などはいたしませんが、現状の研究史節にある小峯堂氏の記述は、大変問題が大きいと思うため、除去あるいはコメントアウトが妥当であると考えています。--EULE会話2021年8月21日 (土) 09:45 (UTC)返信

色々とコメントありがとうございます。

まず、柒月例祭さん、私はこの記事を良くしたいとは思っていますが、急いではおりません。「出典の明記」を要請してから、1ヶ月以上経ってから、典拠のない文を消した。それを、出典を補うわけでもなく、間を置かずに慌てて元に戻す方が「急いでいる」ように見えます。

Chinaさん、表組みは「視認性」(見やすさ、でしょうか)の観点から差し戻す、とのことですが、表組みの内容に出典がなく、根拠不明の記述が多いので、典拠を明らかにして下さい。「編集強行」は「出典の明記」の原則に反しています。私が出典を付しても良いのですが、してほしくなさそうでらっしゃるので、それならご自分でお願いします。

次に、ジャムリンさん、典拠のない文を消したところ、「武田征伐」や「本能寺の変」との重複、根拠不明な記述が少なくなり、見やすくなったと思います。私もこれなら分割しなくていい、と思いました。しかし、出典さえ補えばすぐ元の分量くらいにはなりますので、「武田征伐」「本能寺の変」「上田合戦」などと重複する内容までここに書く必要があるのか、コメントお願いします。

最後に、EULEさんは、自分が出典なしで書いたことは常識だから出典を付す必要がない、と仰りたいのでしょうが、本能寺の変で信長が殺害された、或いは自害したくらいなら分からなくもないですが、それ以外で貴方が出典無しで書いたことは常識的ではないので、「出典の明記」の原則に従って私にも出典がわかるようにして下さい。

今残してある記事も、検討してみると根拠史料不明が多いので、なるべく典拠を補って下さい。

『日本城郭大系』の「壬午の乱」「天正壬午の戦い」についての論考は、1999年に平山優が『能見城跡』に書いた「天正壬午の乱」の出典とされており、内容にも共通点が多いので、当然にこの記事と関係があると思います。その点も補足しようかと思いましたが、これまた私には編集して欲しくないようでらっしゃるので、しばらく間を置きます。--小峯堂会話2021年8月21日 (土) 13:32 (UTC)返信

「編集の強行」というのは小峯堂さんの方では無いでしょうか?小峯堂さんの編集内容には異論が示されております。書く内容については、出典の有無を含めて改めて調査期間を設けるべきです。あと、テンプレートは本文を読まなくても概要を理解するのに必要不可欠な要素であり、これをいきなり除去するのは容認できません。それから、コメント内に登場する「能見城跡」は[3]の事でしょうか?議論に不可欠だと思いますので、コメントをお願いします。--China会話2021年8月21日 (土) 14:11 (UTC)返信

Chinaさんも「編集の強行」って失礼な言い方だと思われますか?私はそう思うので以後使わないように気をつけます。私も編集の強行はしていないと思います。出典の調査期間は1ヶ月以上設けました。テンプレート(表組み)が記事に必要不可欠だというルールは存在しないと思いますが、典拠を明確にして頂ければ敢えて消すつもりは有りません。『能見城跡』はご指摘のとおりで1998でしたが定義と出典14、35頁にあるかと思います。平山の2011年の本、2015年の本の定義と比べると、もとの典拠が消えて「近世の軍記」などが出典という言い方に変わっていると思いますので、その辺のことですね。他の人に論評といって削除された箇所、少し調べた結果で、有る無しの事実関係ですので、復元して頂けるとありがたいと思います。--小峯堂会話2021年8月22日 (日) 08:29 (UTC)返信

  返信 返答いたします。
自分が出典なしで書いたことは常識だから出典を付す必要がない、と仰りたいのでしょうが
まったく違います。意図的に論点をずらされているのかわかりませんが、私が指摘しているのは、第1に、小峯堂氏は御自身が読んだと挙げている参考文献にすら書いてある通史程度のものすら除去している理由は何か(それこそ今回の『能見城跡』のpdfにすら氏が除去された信長による地領分配が載ってますが)、第2に自分は明らかな独自研究や出典のない記述をしているのは何故かです。それに対して客観的で合理的につく説明は、氏は記事の質の向上のために逐次出典の有無を問題視されているのではなく、自分の書きたいもののために逐次出典を理由にしているだけではないかと確認しているのです。その場合にはWikipedia:腕ずくで解決しようとしない、特にルールの悪用にあたります。これに適切な理由があると反論するのであれば、私の意図を邪推するのではなく、合理的で客観的な理由を述べてください。
『日本城郭大系』の「壬午の乱」「天正壬午の戦い」についての論考は(中略)当然にこの記事と関係があると思います
これもまったく私の指摘に対して反論になっていません。私は『日本城郭大系』を一切使うなと申しておりません。氏の使い方に問題があると指摘しています。例えば、今回、具体的な資料として平山優の『能見城跡』のpdfが閲覧でき、小峯堂氏もそれを根拠に挙げられておりますが、該当箇所は以下のようになっています。

なお、信長横死後の争乱は、「壬午の役」「壬午の合戦」と呼ばれているが、本稿では「天正壬午の乱とする」(1) — 平山優『能見城跡』p14

そして補足の内容が

(1)天正壬午の乱に関する研究は以外に少なく、その甲州局面については、わずかに田代孝「天正壬午の戦い」(『日本城郭大系8長野・山梨所収』)、山下孝司「天正壬午の戦いと甲斐国内の山城」(『定本山梨県の城』)などのコラムがあるに過ぎず(後略)

まず、これを普通に読むなら、平山は「天正壬午の乱」の名称の根拠を田代や山下の文献に求め、それとは別に「壬午の役」「壬午の合戦」という名称もあったと述べているだけです。しかし、本項やノートで小峯堂氏の主張はあたかも、①平山は「天正壬午の乱」という名称が近世の軍記にあると主張している、②「天正壬午の乱」という名称は『日本城郭大系』にはない、③現代における「天正壬午の乱」が差す範囲は既に『日本城郭大系』で広くまとめられている(特に総説で扱われている)、かのようなものです。
言うまでもなくこれはおかしいです。①に平山は「天正壬午の乱」の名称自体は「近世の軍記」を根拠とせず田代や山下の先行研究を挙げているし、(当時としては)あくまで「本稿では」と確立した名称でないことにも留意している、②小峯堂氏御自身が認めているように『日本城郭大系』に所収される田代のコラムに(ではないが)「天正壬午の戦い」の名称がある、③平山自身がいうように、従来のものは「甲州局面」に限定されているものであって現在の意味が指すものとは一致していない(まして平山が言及しているのはあくまで田代のコラムであって総説ではない)、です。
もし、氏が今までの主張を本気でなされているというのであれば、私としては、氏は意図的に誤読して自分の望む記述をしたがっているか、読解力あるいは明らかに誤った説明を書く文章力に問題があると言わざるを得ません。正直、はっきり申し上げると今まで氏が記述された「見聞集」などにおいても、ここまで酷い誤読があると出典の使い方や読み取りに問題があるのではないかと疑念を抱きます(もし、これが私の邪推に過ぎず、小峯堂氏としては自信があるものと思われるのであれば、Wikipedia:査読依頼されてみてはいかがでしょうか)。
最後に、出典問題と『日本城郭大系』の部分しか、反論されていませんが、それ以外の部分(そこも割と重要なはずですが)は私の指摘をお認めになられるということでよろしいでしょうか。--EULE会話) 2021年8月29日 (日) 12:45 (UTC) 修正--EULE会話2021年8月29日 (日) 12:58 (UTC)返信

節を変えます 編集

  •   提案 独自研究・編集強行はダメなのですが、小峯堂さんがもたらした観点というか問題提起そのものは、興味深いと思っています。
  • 私自身で直接確認してはいないのですが、小峯堂さんによれば、「平山優は『天正壬午の乱 増補改訂版』(2015年)で、“天正壬午の乱”は自分の造語だと主張している」とのこと。まずは下記の点について、情報集めするところから、じゃないでしょうか。
    • (1)平山がそう主張しているとして、平山は「天正壬午の乱」をどう定義したのか
    • (2)平山以外で、「天正壬午の乱」という語を用いた例がどの程度あるか。
    • (3)また、その定義は平山の定義と合致しているのか、変化が見られるのかどうか
  • 「天正壬午の乱」というのは、一つの歴史観でしょう。5W1Hというか、いつ・どこで・だれが・なんのために・なにをしたか、をパッケージして「天正壬午の乱」というラベルを貼るわけですよね。
  • ここらへんは検証に値するなと思っています。私は群馬・長野・山梨の地誌系に関心があり、地歴の概説文献はいくらか持っているのですが、大雑把に言うと群馬(上野)の通史の文脈では、あまり「天正壬午の乱」とは言わない気がしています。上野国ではもっと、鎌倉公方と関東管領の対立(上杉禅秀の乱とか)みたいなところから歴史観が一続きで、河越城の戦いあたりで一つの潮目があり、その後はずっとゴタゴタしていて、天正10年を特別視するわけでもない、という感じがします。ただし上野国というよりは真田が「天正壬午の乱」の当事者として登場するので、真田に関する文脈では使うだろうと思います。(徳川・静岡方面については私はよく知らない。)
  • 関東の室町・戦国時代に関する本は山程ありますが、「天正壬午の乱」という括り・表現は出てこない、というのはたくさんありますね。
  • いわゆるガチな歴史学者の文献では「天正壬午の乱」と言わないとしても、もっとライトな歴史本、ムックとかでは使うのではないかなあとも思います。『真田丸 (NHK大河ドラマ)』便乗本とかね。
  • 実際に検証をしていないので仮説ですけども、世の中には「天正壬午の乱」という語があって、誰がどう定義して、どういうふうに使われている、ということを記事にできると思うんですよね。きっと定義や用例にはブレがあって、○○を含むという人と○○は含まないという人がいる、みたいにはなるでしょうけど。
  • ここまで突っ込んだことを書けるかは不明ですが、「信長が死んだことで天正壬午の乱が起きた」というのは一つの歴史観で、「信長の死に関係なく、北条と上杉は争ってましたけど」みたいな歴史観もあるだろうと思います。--柒月例祭会話2021年9月2日 (木) 04:00 (UTC)返信
    「国立国会図書館サーチ」で「天正壬午の乱」で検索すると、[4]最古が1998年のようです。そして、これは先述の[5]です。
    本文中では「信長横死後の争乱は、『壬午の役』『壬午の合戦』と呼ばれているが 、 本稿では『天正壬午の乱』とする」と明記されています。
    なお、「壬午の役」で検索すると、[6] 1982年の本がヒットしました。なお、詳細は不明です。
    平山氏は積極的に「天正壬午の乱」を用いているようですが、この用語が一般的なものかは不明です。--China会話2021年9月2日 (木) 11:29 (UTC)返信
  コメント小峯堂氏を待とうとも思いましたが、㭍月例祭が挙げられている観点について述べます。
まず、平山の書籍ではどう記述されているかというと、以下の通りです。

(前略)この一覧の争乱を、当時の干支(天正十年・壬午)にもとづき、本書では「天正壬午の乱」と呼称することにしたい。

この争乱は近世の軍記物や江戸幕府編纂の諸記録をはじめ、甲斐国の地誌である『甲斐国志』等には、「壬午ノ役」「壬午ノ合戦」などと記述されているが、同時代史料では「甲斐一乱」と呼ばれていたらしい(補1)。しかしこの争乱は、甲斐一国だけではなく、旧武田領全域にわたって展開していた事実や、(中略)東国における広域争乱という意味あいを込めて、「天正壬午の乱」(以下、天正壬午の乱)と名付けた次第である。

(補1)江戸東京博物館所蔵「高橋秀三氏旧蔵文書」所収小幡文書のうち、<天正十七年>八月十七日付小幡信定宛原三左衛門尉書状。丸島和洋氏のご教示による。 — 平山優『天正壬午の乱(増補改訂版)』「はじめに―― 天正壬午の乱とはなにか」pp5-6

そして、この本能寺の変勃発から徳川・北条同盟成立までの関東・中部・東海地方の争乱を、私は「天正壬午の乱」と名付けた。このことについて、旧著出版後、おもにSNSで、わかりにくいとか、安易なネーミングだと一部から酷評された。すでに序章でも指摘したことだが、私は江戸時代に「壬午ノ役」「壬午ノ合戦」と呼称されていたことを重視し、「天正壬午の乱」としたのである。徳川・北条両軍の対峙を、それが展開された地名から「若神子陣」と呼ぶ事例もあったが、これでは争乱の広まりや意義を表現できないと考え、近世の先人が干支でその大乱を記憶、記録しようとした歴史観を引き継ごうと考えたわけである。争乱の意義はもちろん、その経過や内容すらほとんど知られていなかった旧著出版当時では、そうした反応も当然だったかも知れない。だが、現在では「天正壬午の乱」は広く一般にも認知され、歴史漫画、雑誌、ゲームにも取り上げられるようになったという。 — 平山優『天正壬午の乱(増補改訂版)』「増補改訂版あとがき」pp357-358

以上と、先に挙げた『能見城跡』上での記述が判断材料になるかと思います(ちなみに、平山の『天正壬午の乱』では『能見城跡』においてなぜ天正壬午の乱をまとめることになったかの経緯も説明されています)。
とりあえず、類例を含めた用例の話をすると、この時点で1つ言えることは、小峯堂氏の主張に反して平山は少なくとも『甲斐国志』が典拠の1つであることを明かしています。そして『甲斐国志』は、国会図書館デジタルアーカイブ(明治の活字本)とか、山梨デジタルアーカイブ(写本)で内容確認できるわけで、まあ私もザッと見ただけで精査したわけではありませんが、これらを読むと確かに「壬午の役」の使用例は実際に見られて、何なら第41巻には「壬午の亂(乱)」があって、国会図書館の方で確認できる明治時代に刊行された活字本の方だと「天正壬午の乱」と書かれている。また、そんな不慣れな史料を漁る真似をしなくても、北島正元柴辻俊六服部治則の書籍でも「壬午の役」の例はあるし、そもそも小峯堂氏自身が挙げられた『日本城郭大系』にも用例があるわけです(だから、この時点で史料上での用例を出せという小峯堂氏の主張には意味がまったくない)。戦前の竹越與三郎の日本経済史にも『甲斐国志』からの引用という形で「天正壬午ノ役」の例が見られます(ただ、竹越の引用箇所は、上記の写本や明治の活字本だと「壬午の後」になっています。これが竹越の誤りなのか、写本の誤りなのかは私は専門家ではないので判断つきかねます。ちなみに竹越は具体的な巻数は書いてないのですが第2巻の話です)。
次に「役」と「乱」の用例については、これは今回に限らず歴史的に曖昧な部分があります。有名なところだと当該の記事中にも説明がある通り「承久の乱」があります。上記の『甲斐国志』の第41巻の用例もそういった文脈で読むべきものでしょう。
その上で、従来においては主に甲斐での争乱を指して「壬生の役」などと呼ばれており、戦後においては同様に甲斐方面の局所戦闘に限定して「天正壬午の戦い」という用例もあった。それを1990年末に平山が単純に甲斐での出来事に留めるべきではなく、「本能寺の変後の甲斐国・信濃国・上野国の混乱期に際して、徳川・北条・上杉及び在郷諸勢力が関わったもの」とまとめるべきだと考え、これら概念を「天正壬午の乱」と名付けて2011年の書籍でまとめ上げた。現代においては「天正壬午の乱」という用例は広く認められているというところです。そして、別に平山氏はそれを隠してはおらずオープンにもしてる。
ただ、本記事は2004年に作成されていますが、この時点ではマイナーな学説だったはずで、その意味では大きなフライングであったように思います。--EULE会話2021年9月4日 (土) 04:20 (UTC)返信

相済みません、時間にも限りがありますので、単刀直入にお聞きしますが、「天正壬午の乱」を「若御子対陣」と同じことをさすと考えて、分割を認めないのか、別の事を指すと考えて、分割を認めるのか、どちらのご意見ですか。

私は別概念だから分割した方がいいと思っています。EULEさんの平山『天正壬午の乱』からの序の引用で省略されている箇所には、起点は信長の武田攻めだと書いてありますでしょう(なぜ肝心の定義を省略?なお上でEULEさんが否定されていますが、2015年の序跋には田代や山下の先行研究に言及がなく、「近世の軍記物」が出典とされていることも確認頂けるでしょう。「若神子陣」の用例も、EULEさんは上に「探しても無い」と書かれていますが、平山の跋には言及がありましたね?)

書中でも本能寺の変以前のことについて70-80頁くらい書いてあると思います。跋で起点は本能寺の変としているのは、序と食い違います。しかし例え起点が本能寺の変だとしても「神流川の戦い」なども立項されており、EULEさんが上で書かれたように「天正壬午の乱」が徳川氏と後北条氏の対陣に止まらない広い事象を指すのであれば、分割をした方がいいと思います。「天正壬午の乱」の記事には、8-10月の後北条氏と徳川氏の対陣に当てはまらない、『甲斐国志』以来の?山梨県史における伝統的な「壬午の乱」「壬午の時」の意義や、「天正壬午の乱」を織田氏の遺領を巡る争いと解釈する時に記すべき天正壬午年以降慶長3年に至る出来事について述べ、柒月例祭さんが仰る研究史的な話題に触れるのが良いと思います。

調べて頂くと用例も見つかって興味深いですが、典拠を明記の上、記事の方に追記して頂けないでしょうか。Chinaさんも1982年の佐久の本の定義などお願いします。私も自分で教えて頂いた典拠にあたってみたいと思います。--小峯堂会話2021年9月5日 (日) 01:24 (UTC)返信

  2点。「小峯堂さんによる独自研究」の話と、「若御子対陣という用語」の話をします。
  • 小峯堂さんによる歴史史料や軍記と現代資料の扱い方について、百科事典的ではなく、研究論文的だと思っています。いわゆる独自研究的です。
今回小峯堂さんが加筆した「研究史/近世」での「『◯◯』に(天正壬午の乱についての)言及あり」などの列記は、このノートでの議論には有益な情報だと思いますが、百科事典の記事本文に書くことではない。小峯堂さんによる用例収集・研究です。(たとえばですが、もしかすると、小峯堂さんの探索に偏向がある、という可能性もあります。)小峯堂さんがご自身のHPなどで研究成果として発表するにはとても価値ある内容と思いますが、百科事典的ではないです。
たとえば仮に「史料における若神子対陣と天正壬午の乱の用例研究」みたいな論文が存在したとして、その論文を出典として、こういう用例がある、こういう用例がある、と列記するのはいい。でも我々執筆者自らが、史料文献から用例・言及をみつけてきて「言及がある」と列記するのは独自研究的であり、「研究史」とは違う。
我々が参照すべきなのは基本的には二次資料(高次情報源)です。ここでいう「二次・高次」というのは、歴史史料=1次というのではなくて、相対的なものです。史料Aに「ホニャララ」とある場合に、田中が自著の中で「史料Aにホニャララとある」と指摘すると、それは高次情報源ということになります。さらに、鈴木が自著の中で「田中は、史料Aにホニャララとある、と指摘した。」と言及すると、意味が変わります。
同じ理屈で、今回の場合に理想的なのは、平山の著作から「天正壬午の乱は私が命名した」というのを直接引っ張ってくるのではなくて、別の著者が「YYYY年に平山は『◯◯』のなかで「天正壬午の乱」と命名した」と書いているのを引っ張ってくることです。ただしこの辺はあくまで「理想」です。古典的な学説や論文では上のようなことが成立するでしょうけれど、1990年代とかの新説だと、こうした高次言及を得るのは難しいかもわかりません。
  • 現状の「若御子対陣」節には、私はなんか違和感を感じています。それは
若御子対陣(わかみこたいじん)は(中略)甲斐国の若神子・新府における徳川家康と北条氏直の対陣に象徴される、織田信長の遺領を巡る両氏の抗争。
この部分です。原義では「若御子対陣」は甲斐国若神子・新府での出来事だけを指しているようにみえます。それを「遺領を巡る抗争」全体に適用している。もちろん世の中にはこういうことはありまず。たとえば「関ヶ原の戦い」には、美濃国関ヶ原での出来事だけでなく、佐和山城や上田城や九州での出来事も包括させたりしますから。
これは「小峯堂さんによる定義」では?
まだ仮説ですが、一連の争乱のうち、甲斐国若御子での事象・局面に限定して、それを「若御子対陣」などの記事名で詳述するのは、わかります。その場合も、ほかに適切な記事名があるかどうかの検討は必要ですが。しかし、適用範囲を広げて、一連の騒乱を「若御子対陣」と称するには、史料や軍記ではなく、現代的な根拠を要すると私は考えます。もしかすると十分な調査の結果それが出て来るかもしれないな、とは思っていますが、今すぐ結論を出すには材料不足だと考えます。
私はまだ結論を下したわけではないのですが、小峯堂さんは史料の「若御子対陣」という表現にこだわっている。私は「天正壬午の乱」という、よりモダンな概念について考えています。両者は、地理的空間・時間については、重なる部分の多い概念のようだ、とは思います。しかし完全に重なるわけでもない。歴史観にも違いがある。「若御子対陣」は当事者的な感じがし、「天正壬午の乱」は俯瞰的な感じがします。そしてなにより、一番最初に示したように「若御子対陣」は現代的な文献・高次情報源での用例が無い/乏しい。
「一連の争乱」について書くなら、平山(一次)以外の現代的な用例が複数ある「天正壬午の乱」という記事のなかで、史料での「若御子対陣」という用例についても触れるのは可能でしょう。もしくは、甲斐国若御子での局地的な事象に限定して「若御子対陣」等の記事名で、詳しい記事を書くのも、ありだと思います。
平山「天正壬午の乱」は「時間と空間」(いつ・どこで)を定義しています。小峯堂さんの「若御子対陣」は、「時間と人物」(いつ・だれが)を定義しています。小峯堂さんの定義では、徳川と北条が登場人物なので、上杉や真田らは蚊帳の外です。「天正壬午の乱」は登場人物を限定していないので、その時間空間に出現した人物は対象です。「なんのために」についても、平山「旧武田領全域」・小峯堂さん「織田信長の遺領」と、歴史観が違うんです。
ただ、私はまだこれを結論とは考えていないです。途中経過という感じ。最終的には考えを変えるかもしれません。--柒月例祭会話2021年9月5日 (日) 04:42 (UTC)返信
  コメントまず、小峯堂氏の本日の編集を取り消しました。柒月例祭氏が指摘されている点もありますが、編集を強行しないでください(なお、直近で私が除去した部分は8月21日に予告しており、小峯堂氏が返答せず、さらに数日待ってからのものです)。
>EULEさんの平山『天正壬午の乱』からの序の引用で省略されている箇所には、起点は信長の武田攻めだと書いてありますでしょう(なぜ肝心の定義を省略?
 正直、なぜそこに突っかかるのかわかりませんが、正確には「3月の武田氏滅亡とそれに続く本能寺の変を契機に勃発した、戦国大名間の勢力変動を目指す新たな争乱のうち、旧武田領国の分割をめぐる局面全体の俯瞰、叙述を目的とした(要約)」の部分のことを言われているのでしょうか? あくまで旧武田領の争奪戦が主旨であることに違いはないはずですし、あるいは、もし私が武田征伐や本能寺の変についてここで書くべきではないと主張しているならわかりますが。
>「近世の軍記物」が出典とされていることも確認頂けるでしょう
何度も言っておりますが、これに関する小峯堂氏の主張はまったく無意味です。ウィキペディアとしてはさしあたって平山がそう言っていること示せばよく、そこで具体的な史料を出せというのは、ただの独自研究に過ぎません。そして実際に「壬生の役」という名称が当時の史料で用いられたらしいことは、他の史料や資料からも確認できており、ここに拘る理由がないです。他の史料や資料でもまったく「壬生の役」などという名称が見つからないというなら、氏の言い分もわかりますが。
>「若神子陣」の用例も、EULEさんは上に「探しても無い」と書かれていますが、平山の跋には言及がありましたね?
現代における用例が見つからないと述べてます。平山は当時の史料にそういう名称があった言及しているのであって、史料にそういう名称が無かったなんて私は主張してません。また、史料の現代語訳版は、発行年が新しくとも一次資料であって現代の用例とは言いません。
>書中でも本能寺の変以前のことについて70-80頁くらい書いてあると思います。(後略
この辺は背景や前史にあたるものです。そして本項でもそういう構成になっていたものです。それを執拗に除去しようとしているのが小峯堂氏であって、立場が逆です。
>分割を認めないのか、別の事を指すと考えて、分割を認めるのか、どちらのご意見ですか。
これも何度も言っているのですが、まず氏はウィキペディアにおける「分割」が何を意味することなのか、ウィキペディアにおける一般的な記事構成を理解できていないです。戦役と戦闘(合戦)という形で並立する記事はいくらでもあるのですから、まずそれらと比較して、今回、氏がやろうとしていることが何で(私だけじゃなく)他の人から受け入れられないのか、考えてみてください。--EULE会話2021年9月5日 (日) 07:49 (UTC)返信
遅ればせながら、平山『天正壬午の乱(増補改訂版)』を入手しました。ここから先は全て私の「独自研究」です。
今回の議論については、同書「はじめに」が全てを物語っている。
結局、平山『天正壬午の乱』の課題は、別の歴史家による評価・承認を待たねばならない、というところにあると思う。信長の野望とか、真田丸とか歴史街道 (雑誌)とかのムックとかの学術的でない媒体からは既に承認されているとはいえる。(これに較べると、「若御子対陣」は、まだそのステージにも到達していない。)
「天正壬午の乱」という名称は中立的。「旧武田領全域」(p5)が舞台ではあるが、「東国における広域争乱」(p6)の総称でしかない。そこに登場するのは、大大名では上杉、北条、徳川がいるが、ほかにも「甲斐の地侍」「信濃の国人衆」(p6)もいるし、真田もいるし(p7)、小笠原ほか5氏の「中小国衆」(p8)の動向も注目される。これに較べると、「若御子対陣」という名称は、若御子での徳川と北条の一件がこの争乱の核だ、という歴史観を押し付ける。それは「大国中心の歴史叙述」「徳川中心史観」(p8)であり、徳川北条偏重主義であり、「天正壬午の乱」歴史観はそうした非中立的な歴史観を「相対化」(p8)(≒否定する)するもの。すなわち(平山の言に従えば)より中立的な名称/歴史観である。
情報源の価値としては、正直、一級の歴史文献には見劣る。まず、本書の概念・歴史観が、第三者に拠る批評を受けていない。著者の平山の経歴は、日本史学のメインストリームを歩んできたものとは言えない。(それでもただの一般人である私よりは遥かに高みにいるけれど。)基本的に学問としての歴史学分野では、論文での被引用を以て、「定説」などと認められることになるのだが、平山は今のところはその蚊帳の外にいる。(平山の説が1990年代以降の新しいものだ、という点は割り引いてあげる必要はあるけれど。)本文は、「良質な史料」(p12)onlyによって書かれた純然たる史学研究ではなく、史料に欠く部分を信長公記とか甲陽軍鑑とかの軍記類で補完しているし、人の行動の動機などを「だろう」などと推論することが目立つ。全体の情報量に対して、情報源の明記が少なすぎる(参考文献一覧さえない)。全体として、よくない意味で、「在野の郷土史」的なにおいがする。(学術論文はもっと慎重かつ情報源の明記が逐次的で、不明部分は不明なまま残すもので、それゆえに俯瞰的大系的に歴史を語るには不向き。)勿論、肩書的には、山梨県では信頼できる専門家として認められていることを示している。
よい点は、信玄の死、または「長篠」以降の武田家の動向を大系的にまとめたものとしては、稀少で、貴重。平山が自画自賛しているように、一連の東国の争乱を「詳細に紹介した歴史書は存在していない」(p8)のだろうと思う。
  • 今後のこの記事の編集方針としては、平山の著作を中心に据えるほかないと思うけど、平山以外の歴史家が「天正壬午の乱」をどう取り扱っているのかを収集するのが重要だと思う。(数はあまり多くなさそうなので、大変だと思う)--柒月例祭会話2021年9月6日 (月) 14:42 (UTC)返信
  •   コメント小峯堂さんとの話し合いがいまひとつ噛み合っていないと感じているのですが、それは、小峯堂さんが「天正壬午の乱という名称の根拠」の話をしているのに対して、私は「なぜ平山は天正壬午の乱という新名称を発明する必要があったか」に着目しているからだと思いました。--柒月例祭会話2021年9月6日 (月) 15:18 (UTC)返信
  •   コメント プロジェクトのノートを見てやってきました。結論としては、記事名は天正壬午の乱でよく、そのうえで、柒月例祭さんの仰るとおり「平山以外の歴史家が「天正壬午の乱」をどう取り扱っているのか」も含めて書いていくのが望ましいと思います。若御子対陣への分割は不要です。若御子対陣という名称には二次資料による学術的概念だという裏付けはないからです。
平山優とその著作『天正壬午の乱』の信頼性については、史学雑誌の『回顧と展望』を見るのが一番確実(権威がある)と思うのですが、現物がない状態で恐縮ですが、おそらくおおよそ肯定的に取り上げられているかなと思います。平山氏は経歴的にはメインストリームではないですが、通常の歴史学者として引用等はされているようです(ちょっとライトな本ですが専門の研究者が信長研究の動向をまとめた堀新・井上泰至編『ここまでわかった信長徹底解説』文学通信、2020年のうち東大准教授の金子拓による「長篠の戦い」の解説では平山の著作が引用されている)。もちろん基本的に『天正壬午の乱』は一般書なので、学術論文と比べればその信頼性は落ちるのですが、戦国史の研究は特殊で新書などの一般書と論文・専門書が入り乱れる形で学術上の議論が進んでいるという面もあったりします(平井上総、2017、「織田信長研究の現在」、『歴史学研究』955号、青木書店。たとえば、今谷明の書いた新書を、池享が学術誌掲載の論文で批判するなど)。
とりあえずG-searchで確認できたものだと、著名な歴史学者の今谷明による平山の『天正壬午の乱』に対する書評「歴史書の棚 史料から浮かび上がる信長急死後の武将の興亡」(『エコノミスト』93巻50号、2015年)74頁があり、「長年の地道な研究によって丹念に裏付けられた重厚な著作」と評価されています。ただし、名称については「天正壬午の乱とは、4年前に刊行された同題の著作による命名」と記載されており、定着しているかどうかは判断できません。他方で、手持ちの新書で恐縮ですが、丸島和洋『真田四代と信繁』平凡社、2015年は、平山の著作を参考文献に挙げた上で、一連の流れを「天正壬午の乱」とカギカッコ付きで呼称しています。丸島和洋は『全国国衆ガイド』星海社新書、2015年の甲信地域の用語解説(p.190)でも、見出しを設けて「天正壬午の乱」の項目を作っているので、おおよそこの呼称を認めていると考えて良いと思います(なお丸島は天正壬午の乱を「甲斐・信濃をめぐる、徳川家康・北条氏直・上杉景勝の争い」としています)。あとこの駒澤大学の紀要論文でも平山典拠で天正壬午の乱の呼称を認め、肯定的に取り上げているようです([7])。おそらく調べればもう少し用例が出てくるでしょうし、複数の研究者が使用している用語を記事名に採用する(分割も不要)ということでよいのではないでしょうか。--伊佐坂安物会話/履歴2021年9月6日 (月) 16:08 (UTC)返信

皆さまコメントをどうもありがとう御座います。伊佐坂安物さんから初めてコメントを頂きましたので、改めて「転記分割」の趣旨をご説明しますと、「平山の著書を確認した結果、「天正壬午の乱」は、時間的には信長の武田攻めから織田氏の遺領争いが収束する天正11年以降まで、地域的・関係者的にも徳川氏と北条氏だけでなく上杉氏や真田氏の動向をも含む壮大な叙事であり、天正8-10年の若神子・新府間の両氏の「若御子対陣」より広い範囲を包含する別概念なので、別記事にしたい」ということです。

しかし、平山の著書の「天正壬午の乱」の定義には揺れがあります。うち1998年の『能見城跡』では、1980年の田代「天正壬午の戦い」(若神子対陣と同義)を山梨県だけでなく武田旧領に拡大し、織田氏の遺領を巡る争い全般を指す、という説明だったと思います。しかし、同書の叙述の範囲は山梨県だけでした。2011年に平山『天正壬午の乱』ともう1冊、『武田遺領を巡る動乱と秀吉の野望』が刊行されており、『天正壬午の乱』には「天正壬午の乱」のうち天正10年中のことが信長の武田攻めから書いてあり、『武田遺領を巡る動乱と秀吉の野望』には「天正壬午の乱」のうち天正11年以降のことを中心に書いてあります。この2冊目の題名がミソで、平山は自身が約束したとおり山梨県以外の武田遺領における本能寺の変後の領地争いを書きましたが、その結果「乱」が天正壬午年には収まらない、という、前々から長野県では知られていた事実に直面し、「天正壬午の乱」という言葉で「上甲信駿における織田氏の遺領争い全体」を言い表すことを諦めたようにも見えます。2015年にEULEさんや㭍月例祭さんも参照されている『天正壬午の乱』の増補改訂版が刊行されましたが、『武田遺領を巡る動乱と秀吉の野望』は再版されておらず、天正11年以降の織田氏の遺領を巡る争いは、「天正壬午の乱」から除外されたような格好になっていると思います。しかし、本来の定義に照らして「若御子対陣」と別概念であることには変わりがありません。従って、別に記事を書いても問題ない、と私は考えます。

次に、「若御子対陣」の用例です。先にEULEさんが示された平山の2015年の『天正壬午の乱』増補改訂版あとがきには、「徳川・北条両軍の対峙を、それが展開された地名から「若神子陣」と呼ぶ事例もあった」が、「すでに序章でも指摘したことだが」江戸時代に「壬午の役」「壬午の合戦」と呼称されていたことを重視して「天正壬午の乱」と呼ぶことにした、「若神子陣」では争乱の広まりや意義を表現できないと考え、「近世の先人」の「歴史観を引き継ごうと考えた」とあります。

これを信じれば、「若神子陣」(十巻本『北条記』では「若御子対陣」)の用例があり、それを平山も知っていたことは自明です。そして平山は序章では『甲斐国志』の他に「近世の軍記物や江戸幕府編纂の諸記録」にも「壬午の役」「壬午の合戦」と記述されている、と書いています。『甲斐国志』は江戸幕府の編纂物には違いありませんが、「近世の軍記物」における用例は私には確認できません。「近世の軍記物」における呼称のうち、中立的な表現として徳川・北条両氏系統の軍記におけるコンセンサスとなっているのが十巻本『北条記』や『参陽実録』にみえる「若御子対陣」という呼称です。近世の軍記物が必ずしもウィキぺディアの典拠としての性質を満たさない、とは限らないと思います。例えば『甲斐国志』巻47にある若神子対陣の概要は、『御年譜』などの「二次資料」や『家忠日記』や甲州の諸文書など「一次資料」を基にして書かれた考証です。『北条記』も古記録の中では信憑性が高いとされており、六巻本・五巻本二種の翻刻も刊行されていますから、これらに依拠して記事を書くことが妥当でないとは思えません。平山も、歴史的な名称を受け継ぐべきだ、としていますから(彼の主張する歴史は根拠が疑わしく、争乱の時間的な広まりにも合致していませんが)、歴史的な名称・概念も尊重して頂きたいと思います。『小田原北条記』の現代語訳などでも用例は確認頂けると思います。

更に、平山の著書における史料解釈や先行研究の取り扱いの不適切さについては、2015年に長篠の戦いに関連して藤本正行『再検証長篠の戦い』が問題点を指摘して回答を求め、別に石川博氏も雑誌『甲斐』136号で、藤本の指摘が本当であれば問題、と指摘し、更に「一切ない」のような無理な表現の多用(論拠が充分であれば不要な表現)を批判され、また著書では論文より記述量が多い分、問題のある内容が多くなり易いとして、出版社の校閲も含めて批判しました。最近でも2019年に本多隆成『徳川家康と武田氏』が本文中で平山に藤本の批判に応えるよう促しています(異例のことだと思います)。しかし平山からまだ回答は出ていないと思います。

私が見る限り、『天正壬午の乱』にも同様の問題が認められます。従って、平山の著書の内容を無批判に「信頼のできる情報」として扱うべきではなく、先行研究からの無断転載などは、なるべく参照元の文献から採った方がよく、根拠が不確かな内容は採るべきでもない、と考えています。柒月例祭さん、EULEさんそして伊佐坂安物さんは、こうした論壇の状況をふまえて「平山の著書は信頼できる」と主張されるのでしょうか。

転記分割の条件とされる事柄のうち、記事の分量は、出典のない記述を削った段階で条件を満たさないほど少なくなっています。しかし、信長の武田攻めのことや天正11年以降の争乱の全体像も含めて、「天正壬午の乱」の記事を充実させれば、2冊に分けなくてはならないほど分量が多くなることは平山の経験から明らかですから、「若御子対陣」については別記事とさせてください。以上--小峯堂会話2021年9月7日 (火) 10:03 (UTC)返信

  • 私も平山と藤本のあいだで長篠合戦について論争があることは承知していますが、研究者のあいだでの対立・論争はよくあることで、それをもってその研究者の資料の信頼性をすべて否定するものでもないと思います。現に今谷明や丸島和洋は信頼できるものとして扱っているわけですし。そして仮に平山の資料が信頼できないとしても、「若御子対陣」を分割して記事名とするためのウィキペディア用語の「二次資料」(論文や書籍)が存在しません。ウィキペディアは二次資料に基づくことが、「独自研究」を禁止する方針で求められています。別記事とするのは難しいと思います。--伊佐坂安物会話/履歴2021年9月7日 (火) 10:46 (UTC)返信
  返信 (小峯堂さん宛) 平山の「天正壬午の乱」の定義について指摘させて下さい。「天正壬午の乱 信長死後の旧武田領争奪戦について」(1998)の本文には
本稿は、武田家滅亡とそれに続く本能寺の変による戦国大名間の勢力変動に伴う新たな争乱のうち、旧武田領の分割をめぐる局面の全体を俯敵することを目的とする。旧武田領をめぐる争乱は甲斐・信濃・駿河・上野国の広範囲にわたり、またその余塵は争乱決着後も、真田昌幸の帰属や沼田領の処遇をめぐる北条・ 徳川・上杉・豊臣の相剋に引き継がれ たことに示される如く、長期にわたって燻り続け、天正十八年の小田原出兵の遠因をなし、最終的には北条氏滅亡と、豊臣秀吉の天下統一によって決着がつけられるまで戦国争乱の最終段階を規定し続けたのである。しかし、予めお断りしておきたいのは、これらを全て取り上げることは出来なかったということである。本稿は時期を天正十年二月から十一月に限定し、しかも甲斐を舞台にした徳川家康と北条氏直の対戦に叙述を絞らざるを得なかった。不足分については、後日を期したいと考えている。なお、信長横死後の争乱は、「壬午の役」「壬午の合戦」と呼ばれ ているが、本稿では「天正壬午の乱」とする。
と記載されています。確かに論文中に甲斐(山梨県)に絞らざるを得なかったと書かれてはいますが、「天正壬午の乱」の定義を山梨県に絞ったとは必ずしも読めませんでした。--China会話2021年9月7日 (火) 10:53 (UTC)返信

伊佐坂安物さん、平山批判は藤本だけのものではなく、論題に立ち入った話でもないと思います。少なくとも上記の3人の研究者が、わざわざ書き物の中で彼の作法を批判しました。平山はそれに対してまだ回答していないと思います。論争にもなっていません。丸島がこの問題についてどのようなコメントをしているのか、私は知りません。何かご覧になられたのでしょうか。

それから、十巻本『北条記』は「若御子対陣」について第三者的な立場で書かれた「二次資料」といえると思います。「独自研究」のルールにも、近世の資料を出典にしてはいけないという決まりはないと思います。それにルール上、一次資料であっても全く使ってはいけないと決められてはいないと思います。

また私は「天正壬午の乱」という記事をなくしたいわけでもありません。ここでEULEさんやChinaさんからもご提示がありましたように、山梨県史の中で天正壬午の年は色々な事が起きた印象深い年であったことは疑いなく、それを平山のように争乱が翌年以降も続いた他県にまで広げようとしたり、田代の定義のように厳密に若御子対陣に限ったりするから話が難しくなっている、と思っておえいます。

Chinaさんのご指摘は私の書き方がよくなかったと思います。1998年には乱のうち山梨県のこと、2011年の2冊には他県の事も含めて書いてあり、しかし天正11年以降の争乱は書名において「天正壬午の乱」とは呼ばれなくなっている、ということです。

議論で大分時間を使ってしまいました。あまり賛同して頂ける風でないようですから、まず出典を補って頂きまた自分でも少し調べてから、時間をおいて改めてご相談するようにしたいと思います。--小峯堂会話2021年9月7日 (火) 12:21 (UTC)返信

  返信 (小峯堂さん宛) 丸島に関しては私から補足します。別の論文となりますが、平山の著作を引用して、「天正壬午の乱」の定義については「天正壬午の乱 本能寺の変と東国戦国史」を参照と明記されてあります。[8]--China会話2021年9月7日 (火) 12:44 (UTC)返信
  返信 (小峯堂さん宛) 本題と逸れそうですが、長篠合戦に関して平山が一方的に批判されており、それゆえ信頼できないと仰っている点についてコメントします。結論からいえば、そんなことはありません。平山・藤本の論争は、金子拓「長篠の戦い 実像編」(堀新・井上泰至編『ここまでわかった信長徹底解説』文学通信、2020年)pp.187-188において、長篠の戦いについて論争があることに触れた上、「おもな論者は平山優氏と藤本正行氏」「平山氏と藤本氏・鈴木氏の論争」と記載されております。金子はこの論争に触れた上で、「激しい議論がたたかわされているなか、筆者にはいずれが是か非かという軍配をあげるような能力はない」「藤本・鈴木氏の指摘や(中略)平山氏の指摘には納得させられる」「批判の応酬の過程で(中略)丁寧な吟味がおこなわれ(中略)専門家による深い検討がなされ、一般に示されたことは大きな意義がある」と述べています。金子が同時代の専門の研究者であることは論を俟たないでしょう。その金子の評価によれば、藤本・平山の論争があり、双方の指摘に理があり、平山を含めた専門家による意義深い議論だったということになります。論争が意義のある専門的な議論だとみなされていたことは明らかで、この論争によって平山の研究者としての能力に疑問が付されることはないでしょう。--伊佐坂安物会話/履歴2021年9月9日 (木) 10:09 (UTC)返信
  報告黒田基樹『小田原合戦と北条氏(敗者の日本史10)』、吉川弘文館、2012、ISBN 978-4-642-06456-9 をみました。
第1章第2節が「天正壬午の乱」という題で、およそ26ページが割かれています。
「天正壬午の乱の展開」・・・彼らが領国を放棄したことにより、旧武田領国における織田氏支配は解体し、信濃では国衆同士の抗争が展開されるとともに、甲斐・南信濃へは徳川家康が、北信濃へは上杉景勝が、上野・東信濃へは北条氏が、それぞれ侵攻し、旧武田領国の獲得抗争が展開される。これを天正壬午の乱と称している。

— 黒田基樹『小田原合戦と北条氏(敗者の日本史10)』、吉川弘文館、2012。pp.48-49

※「彼ら」は滝川一益ら、旧武田領国に封じられていた織田家臣のこと。
この節では、「天正壬午の乱という概念は平山の発明だ」などの説明もとくに無く、普通に使っています。このことは、この呼称がわざわざ説明を要しないことだ、と黒田が考えているということを示唆しているでしょう。(黒田が「日本史学の本流か」と言われると、「法学部教授」という肩書が気になりますが。。。私には本流なのかどうか断定はできませんけど、少なくとも吉川弘文館が歴史シリーズ物の一巻を任せるぐらいには「信頼できる」といえるでしょう。)
巻末には参考文献リストがあり、文献・論文あわせて80件前後が示されています。そのうち平山のは『天正壬午の乱』『武田遺領をめぐる・・・』の2冊です。
このほか参考文献リストのなかの論文で宮川展夫の論文「天正壬午の乱と北関東」も挙げられています。これらから、黒田と宮川は「天正壬午の乱」という呼称・概念を承認しているといえるでしょう。--柒月例祭会話2021年9月8日 (水) 06:46 (UTC)返信

Chinaさん、伊佐坂安物さん、柒月例祭さん、コメントをどうもありがとうございます。

Chinaさん、丸島の論文について教えて頂きどうもありがとうございます。私の疑問は、丸島が平山の作法に対する批判について何かコメントしているのか、という点です。この点、同論文には言及がなさそうでした。若御子対陣の典拠としては有用と思いますが、論文の典拠に平山の著書を引用しているので、引用箇所については記述の根拠をよく確認する必要があるだろうと思いました。

伊佐坂安物さん、金子の言及について教えて頂き、ありがとうございます。指摘の内容について引用に省略がありますので、金子が何を「論争」と呼んでいるのか、批判についてどう解釈したのか、よくわかりませんでした(自分で確認すべきですね、すみません)。私が藤本、石川、本多の三書を読んだ限りでは、批判は長篠の戦いに関することよりもむしろ、平山の著書における先行研究の取り扱いの問題(無断引用、曲解、悪意のある切り取りの疑い)や牽強付会な史料解釈に向けられたものでした。石川は藤本の批判に対して、この内容で1800円はいかがなものか、ということも書き、石川の批判は無料で読むことができます。これは平山批判が主で長篠の戦いに関する議論から離れているという見方だと思います。2019年に本多が著書で平山に回答を促した時点で、平山は批判に答えていなかったと思います。その後、本人から回答が得られたのでしょうか。それがなければ、批判されただけで、議論があったとは言えないと思います。

平山の能力を問う、ということではなく、彼の書き物の信憑性が問題にされていると思います。それは誰か偉い人が何か言ったからということではなく、平山の著書を読むと典拠の記されていない文が多く、根拠不確かだと感じるためです。それが自身の調査でなく先行研究からの孫引きが多いから、というのは妥当な推論だと思います。本題においても、なるべく平山以前の典拠を明らかにすべきだと考えております。

柒月例祭さん、黒田の著書について教えて頂き、ありがとうございます。引用箇所についての感想として、後北条氏の研究者であれば十巻本『北条記』や『北条盛衰記』における「若御子対陣」への言及に触れてもよさそうに思いました。通読してもそれがなかったとすれば残念です。黒田は「近世の軍記物」のことはあまり詳しくないのかもしれません。詳細は自分で確認してみたいと思います。「天正壬午の乱と称している」というのは主体や根拠をはぐらかしているようで、よくない言い方だと思います。

皆さまコメントどうも有難うございました。上記のとおり、転記分割は少し本文の典拠が補われてから改めてご相談させて頂こうと思います。「天正壬午の乱」用例があることには疑義はございませんが、その指示する時間的・地理的な範囲、「若御子対陣」との異同についてお考え頂きたいと思います。平山以降よりも、平山以前の文献にあたった方が、差異や典拠が明確になってくるかもしれない、と考えております。--小峯堂会話2021年9月9日 (木) 13:18 (UTC)返信

黒田基樹『小田原合戦と北条氏(敗者の日本史10)』には、「若御子」というフレーズ自体は登場しますが、それはあくまでもピンポイントの地理情報を示すのに用いられているだけで、一連の乱の総称としては触れられていません。
六日に箕輪原(北杜市)に進軍(「西村文書」北条二三九三)、徳川方が新府城(韮崎市)に布陣すると、七日に氏直はさらに進撃して若神子(北杜市)に布陣した(「佐野正司氏所蔵文書」北条二三九五)。この時、甲府に在陣していた家康は、八日に同地から出陣して新府城に入った(『家忠日記』)。こうして若神子の北条軍と、新府城の徳川軍の対陣となった。

— 黒田基樹『小田原合戦と北条氏(敗者の日本史10)』、吉川弘文館、2012。pp.56

こうして北条氏と徳川氏は、まさに全面戦争を展開することになった。主戦場となったのは、氏直の若神子陣と家康の新府城とによる、甲斐北西部における本陣の対陣であった。

— 黒田基樹『小田原合戦と北条氏(敗者の日本史10)』、吉川弘文館、2012。pp.57

また軍記についてですが、
確実な史料では確認できないが、戦記物などによると、北条氏は白井領を制圧すると、さらに沼田領の制圧に向かったという。(以下略)(『加沢記』)

— 黒田基樹『小田原合戦と北条氏(敗者の日本史10)』、吉川弘文館、2012。pp.53-54

などとあります。現代の歴史学では、軍記類は基本的に史料とは一線を画すもの、参考資料程度の扱いをします。黒田が軍記に詳しいとか詳しくないとかでなく、取り扱いに慎重なだけであり、ふつうは軍記を他の情報源と同等には扱わないのです。現代的な史学研究よりも、近世の軍記戦記を優先させるということはありません。軍記そのものを研究対象とするのは、歴史学と言うよりは国文学でしょう。
「「若御子対陣」との異同」などとおっしゃられても、そもそも現代的な史学研究のなかで、一連の争乱を「若御子対陣」と総称している例が未だ確認できていませんから、異同を問う以前の段階では?小峯堂さんがやるべきなのは、軍記戦記ではなく、現代的な史学研究の文脈で一連の争乱を「若御子対陣」と総称している例を示すことです。そうでなければ(手続きが分割かどうかを問わず)別記事を作成するに値しません。--柒月例祭会話2021年9月10日 (金) 04:26 (UTC)返信


柒月例祭さん、黒田文献の引用を補完して頂き、どうもありがとうございます。引用文を読みましたら、黒田は「若神子陣」を後北条氏の陣のことを指す語として使っているので、やはり十巻本『北条記』に両軍の対陣そのものを指す語として定義されていることを知らなさそうに思います。

「若御子対陣」の「現代的な史学研究」の用例を示せ、とのことですが、今見た限りで盛本昌広『松平家忠日記』(角川書店、1999年)47-49頁に「若神子の陣」を7月24日-10月29日の対陣の見出しとして使用している例がありました。

それから、1980年・1997年に刊行されている『小田原北条記』(岸正尚による『北条盛衰記』の現代語訳)にも「若御子対陣」の語は用いられています。国立国会図書館サーチにて「若御子対陣」で検索しますと、1917年の『国史叢書』の『関侍伝記』(七巻本『北条記』)翻刻がヒットすると思います。1914年の『異本小田原記』(五巻本二種)翻刻にも用例が見えると思います。少し古いですが、紙の文献では確認して頂くのが難しいようなので、ご紹介しておきます。もし、柒月例祭さんが「天正壬午の乱」と「若御子対陣」の違いについて確認されたいのであれば、上記の諸書を参照すれば、比較はして頂けると思います。

柒月例祭さんは、「現代的な史学研究」の文献でなければ記事の出典にできない、軍記(の翻刻)は「現代的な史学研究」ではない、とされていると思いますが、古記録は後代の作になるため取扱いに難しい点がある、ということであって、古文書などの史料を欠くために比較的信頼性の高い軍記に依拠して通説が形成されている例は、特に戦国史には多いと思います。ウィキペディアに記事を書くにあたって古記録を出典にし、記事を分割するにあたって古記録を根拠にしてはいけない、というのは、ウィキペディアのルールにも無いと思います。

それとも、柒月例祭さんは、「天正壬午の乱」と「若御子対陣」の語義の違いについて考察するつもりが無く、ウィキペディアにそのようなルールが無いにもかかわらず、古記録における語義が異なっていても、別々に記事を書くことは認めない、ということでしょうか?

Wikipedia:信頼できる情報源#歴史」には「検証可能であるには、研究は一次資料に基づいていなければなりません。」と書いてありました。二次資料に書いてあれば、一次資料になくても構わない、という考え方の方が、ルール上、認められておらず、問題があると思います。

平山は2015年の著書において、「近世の軍記物」において、「徳川家康、北条氏直、上杉景勝の三人が(・・・)旧武田領国の奪取を目指して角逐しあうこととなった」「一連の争乱」が「壬午の役」「壬午の合戦」と呼ばれていたというのですが、そのように用語が定義されていることを示す「近世の軍記物」は存在しますか。

もし柒月例祭さんが「天正壬午の乱」と「若御子対陣」の違いについてご興味がおありでしたら、お考えになってみてください。群馬県では天正11年以降も織田氏の遺領をめぐって後北条氏と真田氏の抗争などもあったと思いますが、柒月例祭さんはそれらを「天正壬午の乱」と呼ばれるのでしょうか。また「乱」は天正10年で終わっていて、その後の出来事は別の事象として取扱うことが妥当な割り切りだとお考えでしょうか。私は、「3氏による武田氏の旧領争い全般」と「天正10年8-10月の徳川・北条の対陣」では時間的・地理的な指示範囲が異なると考えますが、柒月例祭さんはいかがですか。--小峯堂会話2021年9月11日 (土) 10:44 (UTC)返信

  返信 「柒月例祭がどう呼ぶか」をお尋ねになられても困りますし、雑談にしかなりません。今はWikipediaの記事の話をしていますから、「世間でどう呼ばれているか」が焦点です。今はその情報収集の段階といったところでしょう。平山や黒田は、「天正壬午の乱」を天正10年の・旧武田領(≒旧織田領)をめぐる争乱と定義しています。その上で、解説するためには天正10年前後のことも説明する必要があるということですね。
記事の構成としては、第二次世界大戦大東亜戦争太平洋戦争日中戦争のように、時間的・空間的に同一部分のある事象でも、歴史観の違いにより別記事とすることもあるでしょう。これらが成立するのは、いずれも十分な用例・知名度・情報源により、各記事がそれぞれ単独記事として認めうる場合です。今問題になっているのは、「若御子対陣」という歴史観に、高次情報源がない・不足している、ということです。もしも仮に、世の中の歴史本に「武田遺領をめぐる数年間の争いを若御子対陣という」などと書いた文献がバンバンあれば、それは「天正壬午の乱」とは別の歴史観ということで記事にするに値すると思います。でも現状はそうじゃない、というところです。
今回の一連の話は、最初は「改名」で、次に「分割」になりました。いまのところの材料では、このいずれも否定的であると私は考えます。改名や分割でなく、「若御子対陣」を新規で立項するというのは、理論上の選択肢としては存在します。ただしその場合は上で述べたように「十分な用例・知名度・情報源」が必要で、いまのところそれも不足していると考えます。
一次史料云々については、いまのところ小峯堂さんお一人だけが、他の利用者とは考え方が違っているようだ、と思います。それで話が噛み合っていないと思うのですが。。。--柒月例祭会話2021年9月16日 (木) 04:36 (UTC)返信
  報告 「図説・佐久の歴史 上巻」(1982)と「戦国・織豊期大名徳川氏の領国支配」(2014)を見ました。 「図説・佐久の歴史 上巻」は平山が「天正壬午の乱」と定義する前の資料で、「岩尾城攻略と戦国の終焉」という章の中に「(1)天正十年の混乱(壬午の役)」という項目があります。
武田信玄は天正元年(一五七三)、西上の途中で病のため没した。それから十年を過ぎずに、天正十年(一五八二)三月、織田信長のために武田氏は滅亡した。
織田信長は滝川一益に上野国と、信州で佐久・小県二郡を与えて、関東八州の警護を命じた。甲州と諏訪郡は河尻鎮吉に、駿河は徳川家康に与えた。滝川一益は信長より拝領した名馬海老鹿毛にまたがって、四月十五日甲府を発し、小幡上総入道(上州国峰城主)を先導として、余地峠を越え、上州厩橋城に入った。
織田信長ははからずも六月二日、京都本能寺において家臣の明智光秀のために討たれた。
滝川一益は、反撃に出た北条氏直のために神流川付近の戦いに敗れた。厩橋の兵を撤し、松井田を経て碓氷峠を越えて小諸城に入ったが、六月二三日小諸をでて、木曽路を経て本領伊勢に帰っていった。甲州では河尻鎮吉が地下人の反乱によって打ち殺されたので、甲・信二州はまったく無主の地となった。これをねらって徳川家康は南から甲州へ、北条氏直は碓氷峠を越えて佐久郡へ大軍を進めた。
芦田城主依田信蕃は武田勝頼に属して、天正八年(一五八〇)から駿河国田中城を守っていたが、武田家が滅亡したので、田中城を家康に渡して佐久に帰り、織田信長に降ろうとした。信長が依田信蕃に切腹させようとしているのを知った家康は、信蕃の武勇を惜しんで、甲州に招いて遠州二俣の奥にひそかにかくまっていた。信長の死によって、信州制覇の時の至ったのを知った家康は、依田信蕃をよんで信州を家康方に引きつけるように命じて、家臣の柴田七九郎を軍監につけて佐久に帰した。
北条氏直は関東の大軍を率いて滝川一益の後を追うようにして碓氷峠を越え、佐久・小県を手中に収めた。小諸城に大道寺政繁を置いて抑えとし、役の行者(雨境峠)を越え諏訪に入り、さらに徳川勢を圧迫しつつ甲州に侵入して、八月若神子に陣して、甲府に本営を置く徳川家康と対陣した。 — 井出正義 [ほか]『図説・佐久の歴史 上巻』、郷土出版社、1982。pp, 74
印象としては、天正十年の信長死後に発生した旧武田領の争いを指している印象を受けました。一方、「戦国・織豊期大名徳川氏の領国支配」の「第三章 徳川氏の甲斐国中領支配とその特質」の冒頭部に平山の「天正壬午の乱」(2011年)を典拠として次のように述べていました。
天正十年(一五八二)、旧武田・織田領国をめぐる政治戦争、すなわち天正壬午の乱を経て、徳川家康は甲斐・信濃両国の領有を獲得し、領国へと編成する。 — 柴裕之『戦国・織豊期大名徳川氏の領国支配』、 2014。pp, 263
これを見ると単なる軍事的な衝突にとどまらないという解釈にも読めます。表現としても今まで見かけたことがない印象です。今までの資料をまとめると、個人的には天正十年の信長に死後発生した旧武田領をめぐる争いという印象を持ちました。一部資料を取り寄せ中のものもあるので、資料による違う表現や新しい解釈があればまたおしらせします。--China会話2021年9月11日 (土) 14:32 (UTC)返信

区切ります 編集

柒月例祭さん、Chinaさん、コメントどうもありがとうございます。

柒月例祭さん、「世間でどう呼ばれているか」は改名の議論では題名を選ぶ基準になるようです(Wikipedia:記事名の付け方)。しかし、「ページの分割」の議論では、分量の総量・バランスと、見出し語(天正壬午の乱)との対応を考えたときに不要・不明確かで判断するとあり、複数の候補の比較ではありませんので、どちらがいいという議論はしなくていいと思います。

「若御(神)子対陣」には上に示した典拠もあり、また検索してみますと他にも『徳川家康文書の研究 上巻』(1958年)『小和田哲男選集5』(2016年)『山梨県史 第6巻第2号』(1996年)など現代の史学研究における用例もありました。「若御子対陣」の語が『北条記』において明確に定義されていることもご確認頂けたと思います。ご懸念のように「若御子対陣」について記事を書くのに典拠が不足しているということは無く、記事を1つ作る上での条件は充足していると思います。それで「記事が作成できる」という点は宜しいでしょうか。

次に、見出し語(天正壬午の乱)との対応関係について、柒月例祭さんは、『平山や黒田は、「天正壬午の乱」を天正10年の・旧武田領(≒旧織田領)をめぐる争乱と定義してい』るとされ、また『世の中の歴史本に「武田遺領をめぐる数年間の争いを若御子対陣という」などと書いた文献が』と書かれていますが、むしろ典拠において「若御子対陣」の定義は、「神流川の戦い」の「次」であるものの、天正10年の中でも8-10月の徳川・北条の対陣、10月の和睦までに限定して定義されており、時間的には天正10年の一部を指す語であり、「天正壬午の乱」より狭い概念だと思います。地理的には、逆に「天正壬午の乱」のように山梨県や武田の旧領に限定されないと思います(相豆遠などもありますので)。

「天正壬午の乱」については、1971年の『中富町誌』に用例がありました。

  • 187頁~「黙々のうち河内領主穴山氏の領地支配の形態や武田総領家との関係、さらに天正壬午の乱に際しての動静を語っている。」
  • 同「天正壬午の乱における梅雪の当時の立場や心境を知る重要な資料として、天正10年4月25日、すなわち武田滅亡の翌月、梅雪が母南松院の17年忌を行なった際の香語(弔辞)を見てみよう。」
  • 192頁「要するに穴山家は武田領国の中において、完全に近い穴山王国を形成していたのである。このことが前記天正10年壬午の際の、梅雪の行動の基礎的伏線となっていると考えられるのであり、単純に梅雪を逆臣と断ずるわけにはいかない所以でもある。と佐藤氏は説いている。」

とあり、穴山梅雪の信長の武田攻めの際の動静を指していました。これが「天正壬午の乱」のわりと古い用例になると思います。既報ですが、1996年の『都留市史』にも郡内地方、小山田氏に関してどちらかといえば「信長の武田攻め」を中心に壬午の乱を記している例がありました。『甲斐国誌』以来の山梨県史の文脈では、天正壬午年中の争乱を漠然と指しており、「信長の武田攻め」を指すのか「若御子対陣」は「乱」のあった地域によっても変わる印象を受けており、それは語義に照らしても当然だと考えております。

Chinaさんのご報告では、「図説・佐久の歴史 上巻」(1982)に「天正十年の混乱(壬午の役)」で「信長死後の旧武田領の争い」を指しているとのこと、それは1980年の『日本城郭大系 第8巻』の田代「天正壬午の戦い」の見方にも似て、「若御子対陣」に近いと思います。田代の論考は、平山(1998)の典拠にも挙げられており、わりと影響力があったのかもしれない、と感じました。「天正壬午の乱」が「若御子対陣」の意味合いに近付いていったのは、この頃からかもしれません。あるいは、山梨県でも国中地方や長野県でも佐久地方などでは「信長の武田攻め」よりも「若御陣対陣」の印象の方が強かった、ということかもしれません。

それが平山『能見城跡』1998年や2011年『天正壬午の乱』ともう1冊では、それが武田旧領全域に広げられ、また時間的にも翌年以降まで続くことになって、「天正壬午の乱」の名と、織田(武田)氏の旧領争いの実態が乖離して、始まりも「信長の武田攻め」なのか「本能寺の変」なのか、平山の定義自体が、著書や序・跋によっても一貫していませんが、「天正壬午の乱」の記事には、そのあたりまで言及して、包括的な記事にすれば宜しいのではないでしょうか。

また平山の著書にある「近世の軍記物」に関しては、それをそのまま典拠とすることは「Wikipedia:信頼できる情報源#歴史」に「検証可能であるには、研究は一次資料に基づいていなければなりません」とある以上、許容されませんので、「近世の軍記物」には「若御子対陣」の定義はあっても「天正壬午の乱」の語を以て定義されている例が確認できないことは、言及すべきだと考えます。よろしくお願い致します。--小峯堂会話2021年9月19日 (日) 08:29 (UTC)返信

  報告 史叢 (84) 2011.3 p.40~42 小川雄「『天正壬午の乱』と城景茂・昌茂」を読みました。「天正壬午の乱」について、冒頭部に次のような言及がありました。
天正一〇年(一五八二)三月の武田氏滅亡、同年六月の本能寺の変によって生起した旧武田氏領国をめぐる動乱は、近年、戦国時代末期の東国の政治情勢を規定した戦乱として、戦国期東国政治史研究において「天正壬午の乱」と称されて注目を集めている。 — 小川 雄 「天正壬午の乱」と城景茂・昌茂 史叢 (84) 2011.3 p.40~42
こちらは武田氏滅亡直後も含まれるような書き方でした。欄外に先行研究として、平山の書のほか竹井秀文「戦国・織豊期東国の政治情勢と『惣無事』」、宮川展夫「天正壬午の乱と北関東」が挙げられていました。竹井の研究については今までの議論で出てきていないので、調査してみます。--China会話2021年9月21日 (火) 13:02 (UTC)返信
  報告 竹井英文『東日本の統合と織豊政権』(列島の戦国史7)、吉川弘文館、2020年。(この「竹井英文」はChinaさんが挙げられた「竹井秀文」と同一人物のはずです。)6章1節(pp.182-190)が「天正壬午の乱と北条・徳川同名の成立」というタイトルです。
こうして、北条・徳川・上杉の三氏を軸にした旧武田領国争奪戦、いわゆる天正壬午の乱が勃発したのである。 — 竹井英文『東日本の統合と織豊政権』(列島の戦国史7)2020.10 p.183
十月二十九日に正式に和睦が成立し、両者は一転して同盟を結ぶことになったのである。それでもなお、各地で紛争は続いていたが、これをもって天正壬午の乱は終結した。 — 竹井英文『東日本の統合と織豊政権』(列島の戦国史7)2020.10 p.186
ここで言えるのは、まず竹井は「『天正壬午の乱』とかいうのは平山が考案した新概念で・・・」のような注意書きを一切することなくフツーに「いわゆる天正壬午の乱」と用いていることです。これは、竹井は「天正壬午の乱というのはわざわざ改めて説明するまでもないよく知られた概念だ」とみなしていることを示唆しています。
また、竹井は10/29の北条徳川の同盟成立を以て「天正壬午の乱」は終結したとしていて、その後も散発的に続いた局地的な紛争は枠外に置いていることです。--柒月例祭会話2021年11月15日 (月) 14:03 (UTC)返信

  報告 ここでの議論はすでに収束していますが、「用例の蓄積」としてここに。

さらに、本能寺の変のために信長による知行割が崩壊して、甲斐・信濃・上野の領有を巡って、徳川・北条両氏間でいわゆる「天正壬午の乱」が起こった(平山二〇一一)。 — 本多隆成『徳川家康と武田氏 信玄・勝頼との十四年戦争』(歴史文化ライブラリー482)、吉川弘文館、2019.04 p.221
戦いの局面を変えたのは、十二日のいわゆる黒駒(笛吹市)の合戦であった(『大日本史料』二六六頁)。 — 本多2019 p.225

--柒月例祭会話2022年6月5日 (日) 03:45 (UTC)返信

改めてご提案します 編集

Chinaさんご報告ありがとうございます。引用部からすると、若神子対陣と同義の「天正壬午の乱」の用例のようにみえます。私は最近、この記事の出典に挙げられている斉藤慎一『戦国時代の終焉』(中公新書、2005)を読みました。天正10年8-10月の対陣は「若神子の合戦」と記してあり、ウェブサイトにあった最近の2019年の用例では「若神子の対陣」でした。話題は本能寺の変の後の北関東での抗争で、若神子対陣の和睦が成立した後、後北条氏は上州で「切り取り次第」を実行するため同年中に兵を起して、動乱が翌年以降まで続いた、という内容で、天正壬午年で区切ることに意味がないので、「天正壬午の乱」の語も使われていなかったと思います。

もう大分例も挙げていただいて、状況も把握出来たように思います。私からは、改めて転記分割をご提案しておきます。

「天正壬午の乱」というのは、『甲斐国志』以来(?)山梨県で使われてきた文字通り天正壬午年の動乱を指した言葉で、甲州崩れ・若神子対陣のいずれかに限定する意味合いは薄かったと思います。同書が「若神子対陣」に特に名前を与えていないことは、第47巻の記述からいえると思います(『甲斐志料集成 5』150-156頁)。

現代の山梨県の地誌研究における「天正壬午の乱」の用例は1998年の平山の『能見城跡』以前にも、1971年の『中富町誌』にみえ、1980年田代孝「天正壬午の戦い」1982年『図説佐久の歴史 上巻』に「壬午の役」、1996年『都留市史』に「天正壬午の乱」が確認できました。田代の、若神子対陣と同義で使う用例は、1982図説佐久、1998能見城跡などにも影響を与えたのかもしれません。しかし1971中富町誌1996都留市史で甲州崩れも「天正壬午の乱」と呼ばれています。

山梨県で「天正壬午の乱」という言い方が通用した背景には、3つの条件があったと思います。

  • (1) 天正壬午年以外は、戦国動乱期でもあまり戦乱に巻き込まれていなかった(『日本城郭大系 第8巻』311-312頁)
  • (2) 天正壬午年には、甲州崩れ、若神子対陣と1年のうちに複数の動乱があった。
  • (3) 天正壬午年に動乱が収まった。

1998平山『能見城跡』はこれを武田旧領全体に拡大して、織田氏滅亡後の動乱全体を指すと主張しましたが、(2)は上・甲・信に共通しても、(1) (3)は山梨県だけで、山梨県以外では天正壬午年で区切ってこなかったし、区切ることもできない(その後も続くので区切る意味がない)のでしょう。斉藤『戦国時代の終焉』からはそういう印象を受けました。また平山自身も2011年に『天正壬午の乱』『武田遺領を巡る争いと秀吉の野望』と2冊を刊行していて、天正壬午年以降の動乱は「天正壬午の乱」ではない扱いですから、結局、「武田氏旧領における織田氏の遺領争い全体」を指す語として使うのには無理がある、と見ていいと思います。

それなら、「若神子対陣と同義」で使う用例にしてしまおうというので、平山2015の『「近世の軍記物」に若神子対陣を「天正壬午の乱」と呼んでいる例がある』という話が出てきますが、これは一次資料の裏付け、根拠のない言説ですので、採用するのはウィキペディアの歴史の記事に関するルールに違反します。『甲斐国志』も、天正壬午年の動乱のうち特に若神子対陣だけを指す言葉として使っているわけではありません。十巻本『北条記』以降の近世の軍記物では若御子対陣は「若御子対陣」と呼ばれていることは確認できます。それが軍記だけの呼称でなく、現代の研究でも呼称に変わりがないことは斉藤『戦国時代の終焉』の例でもお分かり頂けたでしょう。

結論として、「天正壬午の乱」は、語義どおり「天正壬午年に(山梨県で)起きた甲州崩れ・若神子対陣などの動乱」を指す語として、若神子対陣は同年8-10月の若神子での対陣に象徴される徳川・北条の抗争」で立項し、平山の説については伝統的な用法とは異なる異種とするのがよいと思います。「織田氏の遺領をめぐる翌年以降も続いた抗争全体」には別の呼称が必要でしょう。いかがでしょうか、差支えなければ、分割も含め編集を進めていきたいと思いますので、コメントをお願いいたします。--小峯堂会話2021年11月3日 (水) 13:58 (UTC)返信

  •   基本的には他のかたのコメントを待ちたいと思います。正直な話、小峯堂さんは一次史料についての接し方が独特で、わたしは小峯堂さんの話がよく理解できません。(基礎的な考え方として、平山に限らず第三者評価を得ている現代の歴史研究書に対し、我々ウィキペディアンが近世の軍記物などの一次史料を直接ぶつけてどうこう言うのはスジがちがっていて、それはもう「そういう本を書いて出版してからにしてください」という話になります。)
  • 一般論としては、戦乱の、特定の一部分の局面を、別記事で詳説することは、通常通りありえます。それは第二次世界大戦西部戦線 (第二次世界大戦)アラスの戦い (1940年)の関係と同じです。
  • 記事の現状は、小峯堂さんによる編集の結果というところもありますが、既に大部分が「若御子対陣」で湿られてしまっています。「天正壬午の乱」の解説記事としてはおかしな状態といえるでしょう。
  • 「天正壬午の乱」の記事としては、平山による文献を中心に据えて全体像を示し、各局面の詳細については別記事・子記事を参照してもらう、という構成とする。その「別記事・子記事」のひとつとして「若御子対陣」を作る、というのであれば、私は「考え方を理解すること」はできます(理解できることと賛成することは違います)。
  • 天正壬午の乱と総称される一連の争乱のうち、7月から10月頃の・徳川と北条の・甲州方面における・若神子城と新府城を中心とした・にらみ合い、のことを一局面として切り出して、詳述することは、あり得ると思います。それに何というタイトルをつけるか、私は要検討と考えます。「若御子対陣」はもしかするとその一候補ではあるかもしれません。私は「黒駒の合戦」が対抗候補だろうと思います。(記事名は「みんながよく知っている名称をつけるのが原則」ですので、そこが焦点になります。)
  • ですが小峯堂さんは、「天正壬午の乱という名称自体が間違いだ。なぜなら一次史料で確認できないからだ。」と主張しているように、私には思えます(正直、よくわかりません)。私にはどうも、小峯堂さんは平山風の「天正壬午の乱」という歴史観・歴史の枠組みを超えたところに「若御子対陣」という新概念を打ち立てようとしているようにみえます。もしそうであるならば、それはWikipedia内でやるべきことではなく、本を書いて出版してくださいという話になります。私の受け取り方がまちがいで、小峯堂さんも平山の「天正壬午の乱」概念を認めた上で、その中の一局面を詳述する記事を作りたいのだ、という話なのであれば理解できます。
  • 「織田氏の遺領をめぐる翌年以降も続いた抗争全体」を一括りにする歴史観・学説が、世間一般に認知されたならば、そういう記事を作ることはありえます。ですがWikipedianが新しい概念を創出するべきではありません。
  • 現状では、世間で認知されている「天正壬午の乱」概念に基づいて、天正壬午の年の出来事をまとめ、前後の事柄は「背景」とか「その後」みたいな節名にしておく、というのが妥当です。--柒月例祭会話2021年11月4日 (木) 09:19 (UTC)返信
  •   基本的には柒月例祭氏のおっしゃる通りですべてではないかと思います。
    ◆正直、事ここに至って、まだそんなことを言われるのが理解できません。現在において「天正壬午の乱」という言葉は、多少の差異はあっても、平山が定義したものが、平山以外の信頼できる情報源で扱われています。今現在において「天正壬午の乱」という言葉が使われる時、それは平山以外の文献であっても、平山の定義を前提として使用されているのです。それに対して、平山以前(もっと正確に言えばそれが広まる以前)の史料や資料を持ち出して、その当時はそんな意味で使われていなかったと主張されても、そんなものに意味はないです。せいぜい、研究史というような一節で、かつては「壬午の役」と呼ばれていて、その場合の範囲は○○と 触れるくらいが関の山であって、現在の用法・用例に超越するものではないです。
    ◆そういった点を無視して、一次資料などを駆使して、「正しい意味はこうだ」などとやるのは、それはまごうことなき独自研究であって、分野は違えど、それをやってブロックされた人もいます(Wikipedia:投稿ブロック依頼/天体名プロジェクト)。--EULE会話2021年11月6日 (土) 08:33 (UTC)返信
  •   コメント 分割提案の上の方にあるので気になって見に来て一通り議論の流れに目を通しましたが、正直なんで分割するのかまったく理解できないというのが正直なところです。現状の記事に必要なのは分割じゃなく加筆じゃないでしょうか。現状だと記事名の説明すら不十分で、本来簡潔であってしかるべき定義文の中で(ノートの混乱具合を反映したかのような)よく分からない文章で説明してるような説明してないような感じで、その後は各戦役の話が唐突に始まってMAINテンプレートが2個並んだあとでほとんど聞いたことのない謎の戦役名で徳川・北条戦だけ多少詳しく書かれて終わり、というのはどう考えてもおかしいと思います。普通に考えると、定義文(現状の脚注の1までの記述で十分に思えます)・乱全体の流れを軽く書いた概要節・各局面ごとに切り分けて適切にmainをつけた各節(感覚的には背景節・今と同じ切り分けの3節・役の影響節、ぐらいで十分と思いますが無論もっと細かく分ける書き方もあるとは思います)・史料批判なり論争なりを扱った節(役の名称については整理のうえで小節の一つにする形でしょう)、ぐらいの構成じゃないでしょうか。現状は多分、この完成形の2割もないぐらいの記述量に思えます。どうしても記事を分割したいのであれば話は簡単で、単にこの記事を充実させて、誰の目で見ても記事の肥大化を避けるために分割が必要だと理解が得られる状況を作ることではないでしょうか。そんな風に思いました。--シダー近藤会話2021年11月13日 (土) 18:36 (UTC)返信
  返信 これが、小峯堂さんがいろいろやり始める前の状態です。シダー近藤さんがおっしゃるような、多くの読者が期待するようなあるべき状態は、これでしょう。
ただこの版の問題は、全般的に出典を大きく欠いていることでした。なのでいったん全消しして、出典に沿っていちから書き直すという発想自体は悪くなかったと思います。--柒月例祭会話2021年11月14日 (日) 02:53 (UTC)返信
うーん。なんというか言葉にしづらいですが、外野の感想としては「このノートに費やされた時間があったら『いろいろやり始める前の状態』に相応の脚注を付けてなお余りがあったんじゃないか」ぐらいになります。確かに出典はついてないものの、(織田武田徳川北条と著名勢力がかかわるテーマなので)参考文献探しが困難だったとは考えにくく、構成も(「もう少し○○が欲しい」的な物が出ないとは言いませんが)大枠としては正しい物に見え、現状と比較するとはるかに真っ当なものに見えます。申し訳ないですが、これ以上何を書いても小峯堂さんの編集を全否定する感想しか浮かばないです。--シダー近藤会話2021年11月15日 (月) 01:50 (UTC)返信
  シダー近藤さん お言葉を返すようで恐縮ですが、この議論に関わったものとして参考文献探しについては、難航したのが正直なところです。国会図書館サーチによると、天正壬午の乱の契機となった「本能寺の変」については734件ヒットします。[9] 一方、「天正壬午の乱」に関しては10件に留まっております。[10] また、10件の多くがこの名称を提唱した平山優が関わっているものとなっています。個人的には、Wikipediaの質向上という点においてはこの議論は必ずしも無益だったとは捉えていません。--China会話2021年11月15日 (月) 12:41 (UTC)返信
  統計的とか定量的でない「感想」なのですが、私も私なりにこの時代・地域のことを扱った文献を何十冊か眺めてみて。文量が少なすぎるものを除外し、ある程度の文量・ページ数を割いているものをながめると、「天正壬午の乱」という語句を用いている文献は、「多い」というわけではないです。むしろ、「旧武田領をめぐる戦乱」のことを、特定の固有名詞を用いずに(「東国の状況」的な感じで)解説するもののほうが多数派だと思います。
「天正壬午の乱」という語句を用いるのは、かなり近年(2010年以降とか、或いはもっとここ数年)の書籍に偏っているようにも思います。逆に言えばここ数年の文献に限定すると「天正壬午の乱」を用いるものが増えつつある、という感じ。要するに、平山説がここ10年ほどで受け容れられつつある最中、という感じなのだろうと思います。
一方で、一連の戦乱を「若神子対陣」と呼ぶものは(私がみた限りは)ない。ただし一連の戦乱の一局面を説明するなかで「若神子対陣」の語が登場するものは稀にある。むしろ「黒駒合戦・黒駒の戦い」のほうが登場率は高い。--柒月例祭会話2021年11月15日 (月) 14:19 (UTC)返信


区切ります 編集

㭍月例祭さん、EULEさん、シダー近藤さん、コメントをどうも有難うございます。なかなか説明が至らず、私の考えをご理解頂けていないように感じます。㭍月例祭さんのご指摘に反論するような形で、再度整理いたしますと、

(1)まず「若神子対陣」というのは、新たな概念ではありませんし、近世の軍記物にしかない概念でもありません。近世の軍記物にも使われている上に、1998年の盛本の『家忠日記』解説や、最近の2019年の斉藤慎一さんの講座の見出しでも使われている、歴史的に一貫した、現代の研究者も用いている、用語です。

(2)次に、「天正壬午の乱」は、伝統的には、1582年に山梨県で起きた一連の争乱、具体的には、「甲州崩れ」「若神子対陣」のいずれか、または両方を指す言葉として使われています。「伝統的に」とは、『甲斐国志』まで遡ることができ、また最近では1971年の『中富町誌』1996年『都留市誌』まで用例が確認できている、という意味です。また田代、平山の用例もその亜流と言えると思います。

(3)平山の著書に使われている「天正壬午の乱」は、(2)から出た「新概念」で、1982年に田代孝が「若神子対陣」を「天正壬午の戦い」と呼んだ例があり、平山は1998年に田代を出典にして「天正壬午の乱」とは「若神子対陣を武田の旧領における織田氏の遺領争い全般に拡張した概念だ」と主張していたと思います。しかし、この概念がうまくいかないことは、平山自身が2011年に証明しました。山梨県以外では、「織田氏の遺領争い全般」は1582年では話が完結せず、平山は、天正壬午年とそれ以降の年を区切って2冊本を書きましたが、翌年以降の「織田氏の遺領争い」は名無しになってしまいました。つまり、山梨県以外に話を広げると、「織田氏の遺領を巡る争い全般」を「天正壬午の乱」と呼ぶことはできなかった、ということです。

斉藤がその後も「若神子対陣」を使い続けているというのは、そういう流れもあるからだと思います。平山は2015年の本の後書きでは「天正壬午の乱」を「若神子対陣」と同義のように解釈していますが、(1)と(2)は別概念です。また同じ本の前書きではむしろ(2)のように定義していて、定義が一貫していません。平山は、「近世の軍記物」に「天正壬午の乱」の用例がある、と書いていますが、それは偽だと思いますし、EULEさんには前々からお願いしていたと思いますが、平山の主張が正しい、と主張されるのであれば、どの「近世の軍記物」に「天正壬午の乱」の用例があるのか、典拠を明らかにして下さい。

「天正壬午の乱という名称自体が間違い」ということではなく、「天正壬午の乱」を「若神子対陣」と同じ意味で使うのはおかしい、と考えております。私は新概念を打ち立てるつもりもありません。若神子の対陣は天正壬午の乱の一局面といいますか、両者はもともと重なる所のある別概念ですので、若神子対陣に含まれて、天正壬午の乱に含まれないこともあると思います。「信長の武田攻め」「神流川の戦い」が「天正壬午の乱」と別に立項できるのに、「若神子対陣」が立項できない理屈はないと考えております。

黒駒の合戦は若神子対陣の期間中に起きた局地的な戦闘ですので、若神子対陣とは別概念と見るべきだと思います。

㭍月例祭さんのご意見は、改名の議論を念頭に置かれている、天正壬午の乱と若神子対陣が同一概念をさし、その優劣を決めなければいけない、という論の立て方をされているように感じます。しかし、平山の『天正壬午の乱』をお読みになればおわかりのように、「天正壬午の乱」には「甲州崩れ」も含まれていますし、山梨県以外の事情には言及が少なくて(2)に近いと思いますので、(1)とは別義語、と解釈していただいた方がすっきりすると思います。

シダー近藤さんご指摘の点は今この記事は中途半端な状態になっているからだと思いますけれども、見出し語との関係が不明確な記述があるのはWikipedia:ページの分割と統合#分割の検討を検討すべき場合ですので、転記分割について前向きにご検討頂いた方がすっきりすると考えております。

EULEさんからは、投稿ブロックにするぞ、というような脅迫めいたコメントを頂いているようですが、「出典の明記」という基本的な原則もないがしろにされているように感じます。その点、他の方はどのように受け止めていらっしゃるのか、お聞きしてみたいです。--小峯堂会話2021年11月15日 (月) 14:47 (UTC)返信

  コメント 基本的なこととして、Wikipediaでは「合意形成」が行われます。
各利用者が思い思いに自己の主張をすることは自由です。が、それらがある程度出揃ったところで、「合意形成」のフェイズに移行します。「様々な意見が出揃ったところで、落とし所を決めましょうか」ということです。
小峯堂さんが小峯堂さんの主張をすることはよいのですが、それが他利用者から受け容れられないのであれば、「あきらめる」というのも必要です。「私の考えをご理解頂けていない」のは、「understandされていない」こともあれば「agreeされていない」こともあるでしょう。仮にそうである場合には、いつまでも「反論」を繰り返したところで、それはもはや「合意形成」の妨げになっている、とみなされる時期がやってくるでしょう。
WP:IDIDNTHEARTHAT - 「自説を何とか通したい編集者は、自分の主張や観点が否定された後もぐだぐだと固執し、いつまでも言い続け、他者の言葉を受け入れたり自らの過ちを認めたりすることを拒否し、いつまでも論争を続けようとします。」「ある主張をしつづけることが常識的な程度を超え(中略)納得の拒絶を継続することは(中略)自説を通したいがために合意形成の方針を悪用した、妨害行為です。
Wikipedia:妨害的編集#いつまでも納得しない - 「利用者が「正しい意見」を持っていると信じていることは、その意見がコミュニティに受け入れられるということとは異なります。」「時には、利用者が善意に基づいて行動していても、その活動が妨害行為の継続となってしまい、他者の時間を無駄にさせることがあります。例としては「コミュニティは問題を正しく理解していない」と言い続けることが挙げられます。
「いつまでも納得しない」は行動の問題として、コメント依頼や投稿ブロックの根拠となります。これを示すことは「脅迫」ではなく、「今後の可能性」を提示した上で、小峯堂さんが「今でも自分は正しいと思うけれど、皆がそう思わないのであればしかたがない、あきらめる」という大人の判断をなさるかどうか、選択肢をお示ししたものと受けとめていただくとよいでしょう。
「出典の明記」は記事内容の三本柱であるWikipedia:検証可能性を実現するための重要なメソッドです。これを重視することは間違いではありません。ですが三本柱の残りの日本はWikipedia:中立的な観点Wikipedia:独自研究は載せないです。これらも検証可能性と同等に重要です。世間で認知されている様々な文献・諸説を恣意的に扱ったり、それらに採用されていないオリジナル説を記事の中心に据えるのは、これらの二方針に反するでしょう。(「中立的な観点」は、「記事内容のバランスをよくする」も含まれています。)--柒月例祭会話2021年11月17日 (水) 03:05 (UTC)返信

Chinaさんコメントを有難うございました。編集が行き違いになってしまい、失礼致しました。㭍月例祭さんも、コメントを有難うございます。拝読致しましたが、もう内容に立ち入った議論はしない、ということだと理解致しました。「妨害的編集」と看做されるとは予想しておりませんでした。お互いにわかり合えないこともあると思いますので、転記分割は諦めます。「出典の明記」のない文の削除に関しては、一定ご理解頂けたと解釈しております。--小峯堂会話2021年11月20日 (土) 02:10 (UTC)返信

  横から失礼 すみません、「転記分割は諦めます。」とのことですが、記事にはまだテンプレートが残っており分割提案ページにも取り下げの旨が記載されていません。まだ分割提案の議論は続いている、ということでしょうか。----リトルスター会話2021年12月5日 (日) 07:56 (UTC)返信
議論は終了しております。テンプレートを削除しました。文献調査の結果を少し反映しておきました。--小峯堂会話2021年12月10日 (金) 13:54 (UTC)返信
ご対応ありがとうございます。テンプレートが除去されたことを確認いたしました。Wikipedia:分割提案には記載がありませんが、こちらで代理報告をしてもよろしいでしょうか。----リトルスター会話2021年12月13日 (月) 09:26 (UTC)返信
ご指摘ありがとうございます。報告させて頂きました。--小峯堂会話2021年12月16日 (木) 08:47 (UTC)返信
ご対応ありがとうございます。確認いたしました。----リトルスター会話2021年12月17日 (金) 09:20 (UTC)返信

記事改善へ向けて PJ天正壬午の乱やりませんか 編集

シダー近藤さんが「大枠としては正しい」「現状と比較するとはるかに真っ当」と評されたように、(細部はともかく)大筋では、以前の記事の内容は悪くないものだったと思います。ただし「全体的に出典を欠く」という問題がありました。

そこで、あらためて「出典をつけてリライトする」かたちで記事の再生をはかりたいと思います。勝手ながら、「こんな感じでやりませんか?」というものをご提案します。こんなイメージで。(もうちょっと具体的な案は利用者:㭍月例祭/sandbox/私案/PJ天正壬午の乱に書いておきました)

  • 共同作業でしあげる(仮称:PJ天正壬午の乱)
  • 基礎的な底本として、平山『天正壬午の乱』をベースにしつつ、大体の構成をあらかじめ決める(この段階に数ヶ月要してもいい)
  • 専用の合議・共有ページを用意する(PJ日本史の下あたりに)特に、参考文献リストなどを共有するとよいのでは。
  • 「完成」までのスケジュールをざっくり共有する
  • 期間は急ぎすぎず、いちおうの「完成」目安は「2022年12月末」(1年後)あたりでどうか(もっと先でもいい)
  • 何らかの方法で分担作業をする。(たとえば、第2節は誰々、第3節は誰々、とか。)
    • そのためにいくつかの約束事を決めておく。(ただし、最終的には校正で調整できるので、気にしすぎなくてもよい)
  • 途中段階で下書きを公開するかは各自におまかせ

「いいや、オレ一人でやる!」という方が手を上げるならば、それでもいいです。(そのほうがやりやすいのはわかります。)

まずは、賛同される方がいるかどうか・・・意見・感想を募りたいです。--柒月例祭会話2021年12月14日 (火) 03:04 (UTC)返信

平山の著書を絶対、唯一のものとみなし、他の文献の存在を無視するようなスタンスは「中立性」の観点から望ましくないと思います。様々な文献によって定義の範囲を明確にした現状から、内容が後退しないか懸念します。㭍月例祭さんは、上州の動向に関心がおありとのことだったと思いますので、齋藤慎一『戦国時代の終焉』なども参照して観点を客観的なものとしてから、構成を検討されてはいかがでしょうか。
また、根拠資料は各記述について必要だと思います。平山の著書は、根拠資料が明らかでない文が多く、学術書というよりも、軍記物語のような印象を受けます。Wikipediaに歴史記事を書く際に要請される一次資料の裏付けを担保するためには、むしろ平山の著書によって筋書きを立てない方が、根拠不明な文が生まれなくていいと思います。
分量も多いですから、通常どおり、各々が調べた箇所について、直接、記事を更新していけば、宜しいのではないでしょうか。--小峯堂会話2021年12月16日 (木) 09:18 (UTC)返信
  返信 「PJ天正壬午の乱」という目論見については、手を挙げる方がいなければ絵に描いた餅ですので、まあ、それはそれ。
(1)「平山を底本として構成を定める」というのは「他の文献の存在を無視する」のではありません。[利用者:㭍月例祭/sandbox/私案/PJ天正壬午の乱#構成案|構成案]]の「本論」部分で、節構成(章構成)を平山に準じるということです。「天正壬午の乱」を叙述しようとすると、(a)時間、(b)地域、(c)勢力、のどこに軸を置くかを考える必要があります。たとえば単純に時系列に沿って書こうとすると、色々な場所・人物を同時並行で記述することになります。場所を軸にすると、ときには色々な人物が入れ替わっていきます。いろいろなやり方が考えられますが、今回は平山『天正壬午の乱』の章構成を参考にするということです。
Wikipediaの記事は、世間に広く知られて一般的になっている事柄を中心にまとめることになっています。

既にこれまでの議論で複数の利用者によって具体的に示されたように、平山説は複数の第三者によって被引用されることで「通説」として「承認」されているものです。したがって本記事において平山説を中心に据えることは正統性があります。議論において第三者だったシダー近藤さんも、小峯堂さん以前の状態を「大枠としては正しい物に見え、現状と比較するとはるかに真っ当」と評しています。小峯堂さんによる独自定義や平山批判は、どうぞそういう本を出版なさり、それが世に認められてから似してください。

「平山『天正壬午の乱』は軍記物語のような印象を受ける」について、これはだいぶ前に私も述べましたが、ある程度は同じ感想を持っています。それでも「第三者に受け容れられている」という事自体は動きませんけどね。ただ、Wikipediaの歴史記事の書き方としては、私は下記のような記述が最高だと思っています。
○月○日、誰某はホニャララした(『信長公記』○月○日条)<ref>山田太郎『誰某研究』、2021年、123ページ。</ref>。
こうやって、この事象についての根本資料(一次史料)と、一次史料を適切に解釈した二次資料の両方を示すことになります。(厳密には、「ホニャララした」と「ホニャララしたと伝わる」では意味の違いがあります)
平山『天正壬午の乱』は、本文中では根拠となる一次史料提示はあまり行われておらず、本格的な研究論文だと思って読むと物足りなさはあります。(論文ではなく一般書なので、そこまでする必要はないともいえます。巻末に参考文献リストがあり、それで十分ともいえますし、なによりも第三者が承認しているわけで。なお、平山『武田氏滅亡』はそこが改良され、本文中で一次史料がバンバン示されます)
この点について、平山や他の文献で補えるのであれば、そうするのが望ましいとは思います。
(3)記事のメインとなる部分では基本的な節構成は平山に準じつつ、研究史や異説などの節も補完することになるでしょう。
はっきり言いますが、本記事における小峯堂さんの独特の主張に賛同する利用者はなく、複数の利用者により既に否定されています。同じ話を繰り返さないでください。--柒月例祭会話2021年12月30日 (木) 03:37 (UTC)返信
ページ「天正壬午の乱」に戻る。