この記事内容では、「悪人」のほうが優れた(奢っていない・内省の深い)人間だから救われる、というふうにも読めてしまいます。これは疑問に思います。

また、「善人」が「『悪事を働いたことはない、様々な善行を積んでいる』というような驕りにまみれた者」という解釈は、あまりにもマイナスの価値判断を与えているように感じます。

例えば、以下のようなHPなどで説明されている解釈では、「善人」とはたんに「自分で善行を積もうと励む人」といった程度の意味だとされています(適当な書籍を示せれば本当は最高なんでしょうが)。

http://www2.hongwanji.or.jp/soshiki/yba/houwa3.htm#95

http://www.anrakuji.net/bukken/bukken340.html

http://homepage1.nifty.com/kakueiji/top/9_tan_3.html


私の希望としては、次の三つのどれかの案をとりたいのですが、いかがでしょうか > ALL

(1)善人を「『悪事を働いたことはない、様々な善行を積んでいる』というような驕りにまみれた者」とする解釈と、善人を「自分で善行を積もうと励む人」とする解釈の二つを併記する。

(2)併記ではなく、上記のような解釈をとりいれて、すでに書かれている記事自体を修正していただく。

(3)どちら解釈も載せない。代わりに、例えば「そのゆへは、自力作善のひとは、ひとへに他力をたのむこころかけたるあひだ、弥陀の本願にあらず。…(中略)…煩悩具足のわれらは、いづれの行にも生死をはなるることあるべからざるをあわれみたまひて、願ををこしたまふ本意、悪人成仏のためならば、他力をたのみたてまつる悪人、もとも往生の正因なり。」あたりを現代語訳したものを載せる。


なお、内容的にAdacomさん個人の記述にたいしての攻撃であるかのような問題提起になってしまったことをお詫びします。

また、私は仏教・浄土真宗にとくに深く学んだ者でもありませんので、皆様のご意見・ご指導を請いたく、このようにノートに冗長に書きこまさせていただいた次第です。Mizusumashi 14:04 2003年7月10日 (UTC)


悪人正機説は法然が最初であると言うのが、最新の学説になっています。
booze 15:06 2003年7月10日 (UTC)

軌道修正は構いません。ただ世間一般の解釈が、上っ面で有ることに対し、宗教的な意味(これは世間的に正しいとか正しくないとかではなく、そう考えてられいると言う事)をちょっと誇張して書いてみましたということで。
なんでかというと、自力で善行を積もうとしている人は、ひたすら他力にすがろうという気持ちはないので、弥陀の本願(極楽往生を願う者を助けたい)の対象とはちょっと違う。…(中略)…煩悩にがんじがらめになっている私たちは、どう悪あがきしても命を取ったり取られたりしながらいずれ死んで行くしかないのでそれに心を掛けていただき、願を興された本当の意味は、「悪人」を成仏させるためであり、他力(阿弥陀の助け)だけを頼りとする「悪人」、これが阿弥陀の願った往生の対象者です。
善人を「自分で善行を積もうと励む人」というので間違いではありませんが、その「自力」の善行が、実は善行にさえなっていない・・・と否定する考えもあるため(あくまで教義の上ですよ・・・世間的にはそんな失礼なこと申せません)。逆に私が「悔い改めなければ、永遠の地獄の炎に焼かれるぞ」と云われても、「何言ってやがるんでぃ(笑)」と思うだけ・・・というのと同じ事です。
ここが、宗教の正しさを証明する場所であるなら、さらに考えてみないといけないのですが、冷静に一説を提示する場でしかなく、見た人がそれを気に入るかどうかは別。もちろん、親鸞(法然)の思想に諸説有る場合には、それを仲裁しないといけませんが、思想として間違いでないならば、そのように書いておかないと・・・というのは有ると思います。
もしだれかが、「棚からぼたもち」的な解釈を書いていたら、やはり個人攻撃的であっても、逆に批判せざるを得ないので、特に気にしないでも大丈夫ですよ~Adacom 23:01 2003年7月10日 (UTC)

もちっと、噛み砕いて書いてみます。よく、「風邪を引いたけど気力で直したゼィ」と豪語する人が居ます。直る事もまあ無いわけではないのかもしれませんが・・・。だからといって、誰かが風邪を引いたときに「頑張れ、気力次第で直る!」というのは間違いで、はっきりいって「さっさと病院行けよ」というしかないのですが。

ここでいう「自力」「他力」の関係はそういうことであって、なんか「イイ事しなきゃ!」とあれこれ思い巡らして必死になるより、「往生の専門家に任せなさい」という意味です。もしヤブ医者だったら・・・!?。案外、ニセ薬でも安心して直ることがあるらしいですよ。
もとより、科学的に念仏に何の根拠があるのか?といえば???ですが、「往生の為にあれしろ、これしろ」と煽られて、それが出来ずに嘆くより、「念仏唱えなさい、それで大丈夫」と言われれば、どれほど癒しになるでしょうか。

あと「出来上がった料理を食べているだけだから悪くない善人」と「食料とする為に手を下した殺生を嘆く悪人」とどっちがどうなの?という位にややこしいんですよ
言うだけのことは言ったので、それを解釈して一般人の方に編集していただいた方が良いかと思います。

↓それにしても「本願寺」カッコ良すぎ
http://www2.hongwanji.or.jp/soshiki/yba/houwa3.htm#95
釈裕信Adacom 01:07 2003年7月11日 (UTC)


懐かしい。むかし、卒論がらみで歎異抄を少し調べたことがあります。あくまで歎異抄に書かれたことによるとですが、

  • 阿弥陀仏は他力本願の仏様であり、仏の慈悲にすがらなければ救われない人(悪人)が救済対象だ。
  • それなのに、自力で成仏しようとする人(善人)まで阿弥陀仏は救う。
  • だから、本来の対象である悪人が救われないはずがない

というのだったと記憶しています。(当時は、浄土宗でも、(弾圧を避けるために)善行が推奨されていた、だけれども、それは間違いだ、というのが趣旨ではないか、というようなことを述べてた本があったような・・・昔のことなので忘れました。)それ以上は、解釈の問題です。時代と共に解釈が変わったのかもしれませんし、はじめから複数の解釈があったのかもしれません。「善人」を「驕りにまみれた人」という解釈は、Wikipedhiaとしては、誰の解釈(視点・観点)なのか書いてほしいところです。i_t 03:58 2003年7月11日 (UTC)

>Wikipedhiaとしては、誰の解釈(視点・観点)なのか書いてほしいところです。 そういえば、それ自体は「我聞」なだけで、いろいろ見聞きした中の一説でしかないですね。ただ要旨はまとめていますが、私個人の意見ではありません。
「自力の否定」というのは、「念仏者は自力に依らない」というだけでなく「自力はダメ(禁止ではなく、ムダ・役に立たない的なニュアンス)」は頻繁に聞きますので。Adacom 04:15 2003年7月11日 (UTC)

議論で出ているみなさんの意見を「一般の」者として編集してみました。一応、ウェブで読めるあれこれの解釈をざっと読んでみてあまり妙な言い換えにならないしないようにですが、何分門外漢ですので、推敲・修正などよろしくお願いします。Tomos 05:38 2003年7月11日 (UTC)

私的には、「棚からぼたもち/二階から目薬」的でなければOKなんで、いいと思いますAdacom 05:40 2003年7月11日 (UTC)

とってもよくまとまっていると思います>Tomosさん。後に易行品で触れておきますbooze 05:58 2003年7月11日 (UTC)


私もTomosさんの編集で問題ないと思います。
何よりも、Wikipediaの「中立的な観点」の方針にも合致しているので、これで良いのではないでしょうか。
皆様のご教授に感謝いたします。Mizusumashi 16:45 2003年7月11日 (UTC)

「専門家」の部分、もう少し具体的に記述できないでしょうか。「浄土真宗の宗学では」「門徒の一般的解釈として」などとしていただけると、参考になる記述だとおもいます。(失礼な言い方かもしれませんが、個々人の意見など百科事典にいちいち記述するものでもありませんし、親鸞本人の思想はわかりようもありません、よね。現在、どこでどのように解釈されているかは、あったほうがとてもよい情報だと思います。)マイコン坊主さん、Adacomさん、期待しております。i_t 12:22 2003年7月15日 (UTC)

>個々人の意見など百科事典にいちいち記述するものでもありませんし
まさに、それと同じ事を考えさせられているところですが・・・(笑)

この項に関しては、既にノートに書いたように、私が考えたことではなく、
一般的に浄土真宗の伝道(法話や文書)で見聞きし・・・て、私がそのように
受け取った内容の受け売りですので、浄土真宗一般と思っています。

記述に関しては、それを第三者に修正して頂いたので、とくに加えるところも
削るところも無いと思いますが、もちろん不適切な点の指摘はどうぞ。

>親鸞本人の思想はわかりようもありません
・・・では、宗学が根本から成り立たないことになってしまいますので、
一応、宗学は「親鸞本人の思想」を正当に受け継いでいることに
なっているはずです・・・よね?まあ理屈よりまず「なもあみだぶつ」なんですがAdacom 15:40 2003年7月15日 (UTC)

こんなん書いてみたんだけど‥‥


浄土真宗の教義の中で重要な意味を持つ用語。「悪人こそが阿弥陀仏本願による救済の主正の根機である」という意味。つまり、阿弥陀仏が本当に救いたいのは悪人であり、善人は自らの力で成仏を目指せるので、眼目ではないというものである。
ここで「善人」「悪人」をどのように見ているのかがもっとも大切な部分である。もちろん法的な善悪を問うているのではなく、阿弥陀仏の真実に照らされたときに自らが悪人であるということを自省した上での悪人である。つまり、真実に目覚めたときに、自らが何ものにも救われようがない悪人であることに気付かされ、すべての衆生を救うとの本願によって救済の本当の目標が悪人である自分自身であったと気付かされるすがたを悪人正機と言うのである。ここに「親鸞一人がためなり」と阿弥陀仏本願に救われていることを喜ばれる親鸞の法味がある。
この説はをただ無条件に許容するものではない。どこまでもの誘惑に打ち勝とうとすべきものであるが、に励もうとすればするほど、真にに打ち勝てない自分を悲嘆するのである。

以上が浄土真宗の立場であり、それを示すのが続く引用である。

善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや。しかるを世の人つねにいはく、「悪人なほ往生す、いかにいはんや善人をや」。
この条、一旦そのいはれあるに似たれども、本願他力の意趣にそむけり。
そのゆゑは、自力作善の人(善人)は、ひとへに他力をたのむこころ欠けたるあひだ、弥陀の本願にあらず。しかれども、自力のこころをひるがへして、他力をたのみたてまつれば、真実報土の往生をとぐるなり。煩悩具足のわれら(悪人)は、いづれの行にても生死をはなるることあるべからざるを、あはれみたまひて願をおこしたまふ本意、悪人成仏のためなれば、他力をたのみたてまつる悪人、もっとも往生の正因なり。よつて善人だにこそ往生すれ、まして悪人はと、仰せ候ひき。(歎異抄第3章)
本願寺の聖人(親鸞)、黒谷の先徳(法然)より御相承とて、如信上人、仰せられていはく、「世のひとつねにおもへらく、悪人なほもって往生す、いはんや善人をやと。この事とほくは弥陀の本願にそむき、ちかくは釈尊出世の金言に違せり。そのゆゑは五劫思惟の苦労、六度万行の堪忍、しかしながら凡夫出要のためなり、まったく聖人のためにあらず。しかれば凡夫、本願に乗じて報土に往生すべき正機なり。‥‥(中略)‥‥しかれば御釈(玄義分)にも、「一切善悪凡夫得生者」と等のたまへり。これも悪凡夫を本として、善凡夫をかたはらにかねたり。かるがゆゑに傍機たる善凡夫、なほ往生せば、もっぱら正機たる悪凡夫、いかでか往生せざらん。しかれば善人なほもって往生す、いかにいはんや悪人をやといふべし」と仰せごとありき。(口伝鈔 覚如著)

親鸞以前の悪人正機説 編集

この悪人正機説は、親鸞の独創ではないことはすでに知られている。浄土宗法然が、7世紀の新羅(現在の大韓民国)の華厳宗の学者である元暁(がんぎょう)の『遊心安楽道』を引いている。

四十八の大願、初にまず一切凡夫のため、兼ねて三乗の聖人のためにす。故に知んぬ。浄土宗の意は本凡夫のため、兼ねては聖人のためなり。

このように、すでに古くから阿弥陀仏の目的が凡夫(ぼんぶ)の救済を目標としていることは指摘されていた。
法然選択集(せんじゃくしゅう)に「極悪最下の人のために極善最上の法を説く」と述べており、悪人正機説を展開している。親鸞の悪人正機説は、この法然の説を敷衍したものと思える。
しかし、法然はどこまでもを行う努力を尊んだのであり、かえって善人になれない自己をして、より一層の努力をすべきだという立場である。『和語灯録』に「罪をば十悪五逆の者、尚、生まると信じて、小罪をも犯さじと思ふべし」とあるのは、これを示している。法然は悪を慎み善を努めることを勧めたのである。


Adacomさんのも捨てがたいし‥‥booze 00:23 2003年7月16日 (UTC)

> http://www2.hongwanji.or.jp/soshiki/yba/houwa3.htm#95
を読んでも、世間一般な「善悪」では言ってないのですが、それを世間一般に伝えるテクニックに欠けている面があるのだと思います。
あまり理論を重ねても、一見して分かる(納得行く)ことではないでしょうから、できる限りの資料提示を行い、偏っていないユーザーにまとめて貰うのが一番だと思います。そうすれば、理解を得るにはどういう説明が足りないのかという重要なサンプルも得られるわけで。
ところで、悪人正機の基礎的な検討は既に先人が行なっていたとしても、発想の転換を行なって言い切った点で、やはり親鸞の業績と云って良いのではないかと思います。Adacom 00:44 2003年7月16日 (UTC)

>『悪事を働いたことはない、様々な善行を積んでいる』というような驕りにまみれた者

というのを、単に「イケナイ事」と受取られたなら、言葉足らずであったということですが、そういった事(自力で何とかなる)を考えてしまう事自体が凡人の煩悩の為せる業なので、そういう奴もひっくるめて「しょうがねぇなァ、助けてやるか・・・」と阿弥陀仏が思っているという話なのです。Adacom 01:00 2003年7月16日 (UTC)

マイコン坊主さんの内容はすばらしいと思う。(僕の以前の書き込みが完全に不要になります。)既存の内容も凡そ踏まえているようなので、今あるものと置き換えたい…TomosさんとAdacomさんにはとても申し訳ないですけど。(「専門家」を「浄土真宗一般」と変えれば、現在の記事も良いとも思います。)なぜ「真宗」や「門徒」にしたいかというと、、、

> 悪人正機の基礎的な検討は既に先人が行なっていたとしても、発想の転換を行なって言い切った点で、やはり親鸞の業績と云って良いのではないかと思います。

悪人正機は、親鸞以上に、解釈し伝え広め実践し継承してきた「浄土真宗」の業績だと思います。だからこそ、宗学や門徒一般の解釈こそがスタンダードとなりえるものではないかと。別の解釈があったとしても、ここをふまえたものにすべきだ、と。 ちなみに、僕は「専門家」という言葉にひっかかったのですが、それは昔調べたとき、鎌倉仏教や親鸞の専門家の歴史学者の方々は、悪人正機に対しては、あえて解釈を行わない(あるいは、とてもつつましい表現に抑える)立場をとっていたからです。彼らも「専門家」かといえば専門家なので。(僕が門徒一般の考えを知っていたら,直接編集したのですが。)

> 正当に受け継いだ思想と本人の思想は別物です、思想内容が同じだとしても。
> 僕の学んだ宗教学では、教祖様の思想に忠実であることは、推奨されることではありません。 宗教学の脱字ではなく、宗学の話をしているのですよね。
無批判に「教祖様の思想」を受け容れるような、低レベルな宗学もあるかもしれませんが、
基本的には、宗祖・教祖の著述から必死にその思想を読み取り、それに対して批判的な
検証を加えてなお、揺るぐ事の無いものがあってこその継承だと思うので、もし容易に
宗祖の思想と別の所に行ってしまうのだとしたら、それは異端か別の宗教なのだと思います。

Tomosさんの言う所の「専門家」というのは、門徒でもない人々に対しての、真宗教学関係者
もしくは、門徒のことを指して云って頂いていると思うので、間違いではないでしょう。
ただ、単なる比較宗教学の学者もそれに入ってしまうので、範囲が漠然とするという指摘は
当たっていると思いますが。Adacom 00:17 2003年7月17日 (UTC)

あ、それから、直球ど真ん中過ぎて素人にわからなくなってしまっている面がありますが、
もう少し平易なたとえもつけ加えて表現してほしいです。>booze師
Adacom 00:44 2003年7月17日 (UTC)

へーい。毎度。平易な解説ねェ。内容が平易なもんですから、どないかなるんでしょうナ。トホホホ。booze 01:23 2003年7月17日 (UTC)

記述の削除・追記について 編集

  報告 1

Okidokiさんの「2009年3月13日 (金) 12:51 時点における版」における記述の改変を、一旦差し戻しました。

Wikipedia:出典を明記した上で、記述の改変の理由をご回答いただけたらと存じます。

また、一部宗派のみで説かれている教義は、Wikipedia:中立的な観点の面からも、その該当する宗派の記事に「教義」のセクションを設けて、書き込むことが望まれます。

議論は、以下にお願い致します。--Resto1578 2009年3月13日 (金) 15:42 (UTC)・(修正)--Resto1578 2010年9月16日 (木) 02:24 (UTC)返信


  報告 2

IP:121.115.137.141会話 / 投稿記録 / 記録 / Whoisが、2010年9月15日 (水) 14:09に要約欄に「経典中の浄土(真)宗に都合の悪い部分をカットしないでください。」と記入し編集[1]した記述のうち、「すなわち、五逆罪を犯した者と正しい仏法を誹謗中傷した者とを除くすべての衆生が救済の対象である。」(太字強調の部分)について、出典が明示されていないためWikipedia:独自研究は載せないWikipedia:出典を明記するWikipedia:検証可能性#出典を示す責任は掲載を希望する側にに準じていないため除去しました。「唯除五逆誹謗正法」については、「四十八願#唯除の文」に詳細を記述しました。

ただし五逆罪を犯した者と正しい仏法を誹謗中傷した者とを除く。」の追記については、「(抜粋・意訳)」とした「唯除の文」を抜いた意訳には問題があり、その意訳についても独自研究は載せないに準じていないため、浄土真宗教学編集所 浄土真宗聖典編纂委員会 編纂 『<浄土真宗聖典>顕浄土真実教行証文類 -現代語版-』 本願寺出版社、2000年、P.29から引用しました。

コメントは、下記にお願いします。--Resto1578 2010年9月16日 (木) 02:24 (UTC)返信

唯除文についての同様の嫌がらせをWikipediaではよく見かけますね。唯除文に拘る方々へ。これについては浄土真宗だけでなく、既に中国の論釈で浄土教としては伝統的に解決済みの問題だと了解して下さい。唯除文に一番拘ったのは他ならぬ浄土教なのです。浄土教の解釈に対する批判を紹介したいのであれば、勿論沢山の批判があるのですから、それらを出典明記のうえで記述されることの方が百科事典として意義があります。まごまご 2010年10月8日 (金) 11:23 (UTC)返信

提言。悪人正機の親鸞の概要・親鸞の救済対象は苦悩者であった 編集

親鸞のいう第一救済は苦悩者であった。しかし、親鸞は常に自らを悪人と自覚していた。これは、深信に入ると阿弥陀仏と同等の「如実修行相応」の苦悩者救済の利他行が起こる。ところが肉体(わが身)の煩悩が真実信心の利他行を「雲霧」となって邪魔をする。そのときに「私は悪人」という自覚が自然に生まれるという。深信によって起こす自覚だから、「機の深信(正確には自利の深信という)」と呼ぶ。

苦悩者救済の一次資料::

<bujockquote>--親鸞著『浄土文類聚鈔』の巻頭文=それ無碍難思の光耀は、苦を滅し楽を証す。(『浄土真宗聖典』p477。『真宗聖典』p402。)</bujockquote>

この文を『教行信証』の巻頭文に整合すると「難度海」とは「苦海」の意味になる。

親鸞八四歳の著・『如来二種回向文』の苦悩者救済説 <bujockquote>--親鸞八十四歳著・『二種回向文』の巻頭文=『無量寿経優婆提舎願生偈』に曰わく、「いかんが回向する、一切の苦悩の 衆生を捨てず、心につねに作願すらく。回向を首として、大悲心を成就することをえたまえるがゆえに、と。この本願力の回向をもって、如来の回向に二種あり。一つには往相の回向、二つには還相の回向なり。(『浄土真宗聖典』p721。『真宗聖典』p476。)</bujockquote> <bujockquote>--親鸞著『正像末和讃』=如来の作願をたずぬれば/苦悩の有情をすてずして/回向を首とした  まいて/大悲心をば成就せり(『浄土真宗聖典』p606。『真宗聖典』p503。)

『重誓偈』第二文に「貧苦救済」が誓われる。『行巻』では『如来会』の「貧窮」救済が説かれる。
『唯信鈔文意』の「横超」

<bujockquote>--親鸞著『唯信鈔文意』=「この一心は、横超の信心なり。横は、よこさまという。超は、こえてという。よろずの法にすぐれて、すみやかに、とく生死海をこえて、仏果にいたるがゆえに、超ともうすなり。これすなわち大悲誓願力なるがゆえなり。この信心は摂取のゆえに金剛心となれり。これは『大経』の本願の三信心なり。この真実信心を、世親菩薩は、願作仏心とのたまえり。この信楽は、仏尼ならんとねがうともうすこころなり。この願作仏心は、すなわち度衆生心なり。この度衆生心ともうすは、すなわち衆生をして生死の大海をわたすこころなり。この信楽は、衆生をして無上涅槃にいたらしむる心なり。この心すなわち大菩提心なり。大慈大悲なり。この信心すなわち仏性なり。すなわち如来なり。((『浄土真宗聖典』p711。『真宗聖典』p555。)</bujockquote>

この文から、「度衆生心」は利他行に懸かり果てる還相心といえる。
深信と金剛心は同義語という

<bujockquote>--『浄土文類聚鈔』の「能生清浄願心段」=「一心はすなわち深心なり、深心はすなわち堅固深信なり、堅固深信はすなわちこれ真心なり、真心すなわちこれ金剛心なり……願作仏心はすなわちこれ度衆生心なり、……この心作仏す、この心これ仏なり。」(『浄土真宗聖典』p494。『真宗聖典』p418。)</bujockquote>

先の『唯信鈔文意』とこの『浄土文類聚鈔』の「金剛心」と「願作仏心は度衆生心」が整合できて、第十八願の信心はブッダ完了の信心だと、共通なことを述べていると学べる。==真宗げんり114.156.224.188 2014年9月27日 (土) 21:14 (UTC)返信
  コメント
こんにちは、真宗げんりさん。
真宗げんりさんの編集は、ウィキペディアの編集方針に沿っていません。
Help:ノートページ#記事ページ」を参照してください。「記事ページに用意されているノートページは、主ページの記事についての対話の場であり(略)。」「ウィキペディアは百科事典であり、演説をする場所ではありません。(中略)あくまで、主ページの記事がどうあるべきかという観点から発言するようにしてください。」とあります。
上記の書き込みは、記事ページに用意されているノートページに書き込む内容とはいえません。
次に、上記の書き込みの出典は、一次資料の原文の一部と訓読を収録した『真宗聖典』と『浄土真宗聖典』のみです。
ウィキペディアの方針「Wikipedia:独自研究は載せない#一次資料と二次資料」に、「解釈を含む主張や分析、総合的判断を含む主張は、いずれも二次資料を出典とすべきであり、それらの記述に際して一次資料をウィキペディアンが独自に分析してはなりません。」とあります。
真宗げんりさんの記述は、同方針の「Wikipedia:ウィキペディアは何ではないか#ウィキペディアは独自の考えを発表する場ではありません」にある「3. 個人的なエッセイ」(ある話題に対するあなた個人の感想を書き綴るようなもの)に該当する内容です。掲載すべきは専門家たちの共通見解です。意見が分かれている事項については併記することになっています。
また、「Wikipedia:信頼できる情報源#自己公表された情報源:二次資料としての使用」も参照してください。
まずは、なぜResto1578はウィキペディアの編集方針に沿っていないと真宗げんりさんい言い続けるのか考えていただけないでしょうか?ウィキペディアの三大方針「Wikipedia:ウィキペディアは何ではないか」・「Wikipedia:検証可能性」・「Wikipedia:中立的な観点」を読み込んでいただきたいと思います。
真宗げんりさんが信ずる教義をWikipeidaに書き込みたい場合は、一次資料だけではなく一次資料に基づいて執筆された信頼できる検証可能な二次資料を出典として明示して書き込む必要があります。そしてその記述をWikipeidaに併記することしかできません。
最後に質問です。真宗げんりさんはログインして編集する意思はお持ちではないのでしょうか?--Resto1578会話2014年9月28日 (日) 08:19 (UTC)返信
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