ノート:神聖ローマ帝国

最新のコメント:5 年前 | トピック:冒頭・概要の内容過剰 | 投稿者:Toto-tarou

皇帝の記事名ですが、他国の君主の記事で使用されている「名称 (神聖ローマ皇帝)」という形にしませんか?統一した形式の方が、わかりやすいと思うのですが。 秀の介 03:34 2004年6月5日 (UTC)

賛成です。フリードリヒ1世と2世だけは既にそうしてしまいました。
ブリキの太鼓叩き 2004年7月1日 (木) 02:31 (UTC)返信

分割の提案 編集

量は多くないですが、君主一覧は分割したほうがカテゴリが見やすいと思います。例Category:オーストリアの君主Zz2 2005年12月3日 (土) 01:48 (UTC)返信

本文の記述がもっと増えてから分割しようと考えていましたが、分割に賛成します。記事名は、各皇帝の記事名の括弧内にあわせて、「神聖ローマ皇帝の一覧」の方が良いかもしれません。--oxhop 2005年12月6日 (火) 14:07 (UTC)返信

分割には賛成します。ただ現在の一覧は王朝別になっていますが他の君主一覧と同様に代数順にすることを提案します。また、英語版にはen:List of German monarchs(「神聖ローマ皇帝一覧」)とen:List of Holy Roman Emperors(「ドイツ君主一覧」)の二つがありますが、この辺はどうしますか? 併せて、皇帝に戴冠した人物に全て「_(神聖ローマ皇帝)」を付け、戴冠しなかった人物を「_(ドイツ王)」あたりに移動したいと思うのですがいかがでしょうか。 ええとそれから現在、Category:神聖ローマ皇帝Category:ドイツの君主という二つのカテゴリがありますが、これはどうなんでしょうか…。―霧木諒二 2005年12月9日 (金) 18:14 (UTC)返信

神聖ローマ皇帝というリダイレクト記事があるので、新たに「神聖ローマ皇帝の一覧」という記事を誕生させるよりも再利用したらいかがですか?また霧木様が述べられているように日本語版独自の記事名ばかり勝手に誕生させないで、各国の記事名ともしっかりと関連付けていくべきと思います。とくにこのテーマでしたらドイツ語版とのリンク形成を重要視したらよいのではないでしょうか?ちなみにドイツ関連の記事名については英語版は結構いい加減です。オランダ語版やデンマーク語版などが関連性も高く信頼性があります。Treue 2005年12月10日 (土) 14:50 (UTC)返信
神聖ローマ皇帝とドイツ王を分けるのは反対です。この2つは形式だけの違いで、実質上の違いはほとんどありません。現在のリストは神聖ローマ皇帝・ドイツ国王一覧で英語版のドイツ国王一覧に対応します。神聖ローマ皇帝になっていない者にマークを付けるくらいで十分でしょう。リストの名称は正確さをきすのだったら「神聖ローマ皇帝・ドイツ国王一覧」ですが、「神聖ローマ皇帝」や「神聖ローマ皇帝一覧」でも良いかと思います。
それからCategory:神聖ローマ皇帝は、神聖ローマ帝国内の皇帝とドイツ王、ローマ王が含まれ、Category:ドイツの君主はドイツ帝国や領邦国家の君主ということで問題ないでしょう。 61.210.161.11 2005年12月10日 (土) 16:42 (UTC)返信
英語版でも皇帝一覧とドイツ王一覧の内容は大部分重複してますので、私は一方にしか記載しないように二つの一覧記事を作ろう、と提案したわけではありません。61.210.161.11さんの仰るとおり同じ一覧に皇帝と国王を区別できるように記載する、でよいと思います。それから「Category:ドイツの君主」は現在冒頭文と内容では「皇帝に戴冠しなかったドイツ王」と「ホーエンツォルレン朝のドイツ皇帝」を収めるようになってますね。この辺運用を変えたほうがいいのではないでしょうか。
個人的には「Category:ドイツの君主」は
といった風にメタカテゴリとしたほうがいいような気がします。(この場合Category:ドイツ王Category:ドイツ皇帝あたりを新設する必要がありますが。)―霧木諒二 2005年12月10日 (土) 17:05 (UTC)返信

ヴェストファーレン条約の評価 編集

「(このためウェストファリア条約は帝国の死亡証明書とも呼ばれる。)そして神聖ローマ帝国は全く名目だけの存在となり、」

この部分に関してですが、近年のドイツ史研究(例えば山川の『ドイツ史』であるとか、当記事の参考文献にも挙がっている『神聖ローマ帝国 1495‐1806』であるとか)では、ヴェストファーレン条約は必ずしも帝国の死亡証明書ではなく、マクシミリアン1世に始まる帝国改造の帰結として帝国は新しく生まれ変わったという積極的な評価が為されているように思われます。こういった研究を反映させるべきではないでしょうか? カラジチ 2007年2月24日 (土) 08:59 (UTC)返信

反応が全くないので反映させました。 カラジチ 2007年11月2日 (金) 01:39 (UTC)返信

出典削り 編集

ユーザーWakadoshiyorill が2月20日から50日ほどかけて3万バイト増やす編集をしていますが、出典削りが30件ほどあるようです。編集の全体量が膨大なため一つ一つの合理性を判断することはできませんが、他の項目で似たような編集をしていないか注意が必要です。--153.204.142.95 2016年4月25日 (月) 04:05 (UTC)返信

冒頭・概要の内容過剰 編集

当記事の冒頭と概要ですが神聖ローマ帝国自体の内容ではない記述が増えているように思います。検証可能性や中立的な観点などの良質な記事の目安を満たしてはいるものの、そもそも冒頭、概要に載せるにふさわしい記事か疑問がある内容が多いと言うことです。特に2015年冬以降からの加筆に顕著です。本記事は2011年に良質な記事に選出されておりますが、その頃とは全く異なる記事になっております。以下、長くなりますが削除・あるいは他の項目に移動させたほうがよいと判断している記事を列挙します。まず冒頭部分です。

  • 1512年以降の正式名称は「ドイツ国民の神聖ローマ帝国」(ドイツ語: Heiliges Römisches Reich Deutscher Nation)である[nb 1][nb 2]。
-国号の項目があるため、そちらと統合すべきかと思います。
  • 大空位時代に諸侯の台頭を許し、ヴェストファーレン条約でフランスに領土を割譲した。以後、その体制は諸領域の連合体に近いものになっているとはいえ、その版図に限られない国際的影響力を誇った。
-中世、近世前期を無視していきなり近世後期の状況を記述しているため不自然です。概要あるいは歴史の項目に移動すべきかと思います。
  • カール5世のときにイングランド王家と閨閥をつくったほか、
-神聖ローマ帝国ではなくカール5世個人、あるいはハプスブルク家の内容のため冒頭からは削除すべきと思います。
  • ヴァチカン公認の中世大学を版図の外にも複数抱えた。
-神聖ローマ帝国ではなくローマ教会関連の記述のため冒頭からは削除すべきと思います。
  • 版図消滅後は、財政基盤をロスチャイルドに残すかたわら、多民族を統治した勢力均衡の要領をウィーン体制に継承した。
-帝国消滅当時はヘッセンの御用商人に過ぎなかったロスチャイルドが神聖ローマ帝国の記事冒頭で出てくるのは不自然です。出典も無いため削除すべきかと。
  • 多民族を統治した勢力均衡の要領をウィーン体制に継承した。
-近世以降に多民族を統治していたのはハプスブルク君主国であって神聖ローマ帝国ではありません。また末期の神聖ローマ帝国は事実上国家連合であって統治体制と呼べる者でもありません。以後も神聖ローマ帝国とハプスブルク君主国の混同が見られます。出典も無いため削除すべきかと。
  • 諸侯でも特にハプスブルク君主国は事実上の帝国とみなされた。
-明確にハプスブルク君主国の記述であり、神聖ローマ帝国の記述ではありません。少なくとも冒頭からは削除すべきかと。
  • 宗教改革から続く帝国郵便をルドルフ2世は1597年に公認して領邦郵便を禁じた。しかし、君主国の郵便は堂々と営業した。[3][4]ゲラルド・ファン・スウィーテンはイエズス会の検閲制度を段階的に帝国のものへと転化した。その過程ではモンテスキューによる『法の精神』が発禁解除となった。[5]帝国郵便は新聞の流通を掌握し、検閲網となった[6]。このような体制はドイツ統一まで続き、万国郵便連合の基礎となった。
-明確に帝国郵便の記述であり、神聖ローマ帝国の記述ではありません。少なくとも神聖ローマ帝国記事の冒頭にはふさわしくなく、削除あるいは帝国郵便記事への移動が必要かと。

続けて概要部分です。

  • すなわち、カール大帝の皇帝戴冠から東フランクにおけるカロリング朝断絶に至る「ローマ帝国」期(800年-911年)
-削除する必要があるとまでは思いませんが「東フランクにおける」が加筆されて強調しているのが気になります。ローマ皇帝の断絶はベレンガーリオ1世暗殺による924年ですし、最後の統一フランク王カール3世肥満王が廃されたのは888年です。東フランクにおけるカロリング朝断絶だとドイツ地域しか見ていない表現になってしまいます。
  • 「ローマ帝国」期のヴェルダン条約でアウストラシアを原型とする中フランク王国が生まれた。ライン川でつながる現在のオランダ・ベルギー・ルクセンブルク・アルザス・ロレーヌ・スイス・モナコ・イタリアであり、国際金融市場の母体である。多様な方言が交錯する中フランクはメルセン条約により分割されて、ベルギーが西フランク王国へ、アルザスが東フランク王国へそれぞれ吸収された。モナコをふくむプロヴァンスからスロベニアまでの東西に横たわる地域はイタリア王国を新たに形成した。
-中フランク王国及び中世イタリア王国の記述であって、神聖ローマ帝国の記述ではありません。「ローマ帝国」期の概要は必要かも知れませんが、カール大帝の戴冠からベレンガーリオ1世暗殺、あるいはオットー1世国王即位直前までの要旨であるべきではないでしょうか?
  • 1241年、ワールシュタットの戦いで疲弊しハンザ都市同盟の結成を許した。
-全くのでたらめとも思えませんがワールシュタットの戦いの記事にもこのような記述はなく、出典もないので削除でいいかと思います。
  • 1291年スイス原始3州の独立を許した。
-神聖ローマ帝国の記事としては明かな誤りです。正確には自治権の獲得、あるいはハプスブルク家からの独立です。冒頭でも「~を許した」と結んで神聖ローマ帝国の弱体ぶりを示す記述があるのですが、これはもしかすると同じ方の加筆でしょうか。
  • また、カール5世はセバスチャン・カボットを投獄していたので彼を離反させてしまった。
-カール5世個人の記事で神聖ローマ帝国の記事ではありません。セバスチャン・カボットもイギリス人であり、神聖ローマ帝国からは縁遠い人物です。出典もないので削除でいいかと思います。
  • ハプスブルク家の所有した官僚制はフェルディナント1世 (神聖ローマ皇帝)が再編成し多様化させた。その頂点に枢密顧問会議デア・ゲハイメ・ラートが置かれた。この最高機関は、ドイツ各地が甚大な被害を受けた三十年戦争のさなかにあっても皇帝の意見よりオーストリア王朝の利益を優先した。議員には常にボヘミア人がいた。会議はヴェンツェル・オイゼビウス・フォン・ロプコヴィッツにより枢密院ディ・ゲハイメ・コンフェレンツへ刷新されて、レオポルト1世 (神聖ローマ皇帝)の政治判断を左右した。[14]枢密院以外では軍が強かった。官房間では政治闘争が繰り返された。会計局は、自由都市の経済と、戦中でも豊かなボヘミアからの収入を完全管理した。大トルコ戦争の後は、解放域の開発・通商による収益を誰にも掠め取られることなく帝国宝庫に納めた。こうした財源は軍事費につぎこまれた。宮廷軍事局の指令は法律同然であり、辺鄙な村落すら軍規に従わされた。[14]
-帝国や宮廷の文字に攪乱されそうになりますが、ハプスブルク家の記事であって神聖ローマ帝国の記事とは言いにくいものです。この時期、ハプスブルク家は事実上家領の制度でしか無い機構の多くに「帝国」「宮廷」とつけています。また皇帝と帝国の関係性は未だ議論の分かれるところであり、概要にオーストリア宮廷の記述をいきなり持ち込むのはいかがなものでしょうか。ハプスブルク君主国の記事へ移動、あるいは削除でどうでしょう。
  • 1685年、フランスで発せられたフォンテーヌブローの勅令(いわゆる「ナントの勅令の廃止」)を受けて、ブランデンブルクの選帝侯がポツダム勅令を出した。これにより、フランスから亡命したユグノーがベルリンなどに定住し、農工業と金融・貿易をふくむ商業のめざましい発展に寄与した[17][18][nb 5]。マクデブルクですら瞬く間に復興したのである[19]。
-直後の「18世紀に帝国はスペイン継承戦争に備えてプロイセンに兵力を頼ることになった」に繋げたいのはわかるのですが、これでは神聖ローマ帝国の記述でなくプロイセン公国の記述です。直前の文章と合わせて「しかしやがて諸侯のバランスは崩壊し、帝国はやがて機能不全に陥った[16]。その中で台頭してきたのはプロイセンだった」程度の記述とするのはいかがでしょうか。
  • オーストリア継承戦争をきっかけに外交革命を果し、ついにプロイセンと7年戦争で相対した。
-ハプスブルク君主国の記述であり、神聖ローマ帝国の記述ではありません。7年戦争自体は帝国末期の歴史の重要なポイントですので、冒頭に「一方で皇帝は」あるいは「一方で皇帝のハプスブルク家は」とつけるのはいかがでしょうか。
  • そしてポーランド分割に参加した。食糧輸出で栄えたシュラフタが分解し、ポーランド継承戦争以前からユグノー資本を注入されていたポーランドの市民と諸都市が台頭した。
-明確にハプスブルク君主国の記事です。またポーランドについての記事が神聖ローマ帝国の概要で出るのは不自然です。出典もないので削除でいいかと思います。
  • そして後に南ドイツ連邦の候補となる各国の資金力がドイツの外交と近代化に貢献した。その中の一つ、ヴュルテンベルク王国は公国時代に宮廷軍事局の資金供給源であったが、王国となってロスチャイルド資本に支配された。もう一つ、バイエルン王国はギリシア独立戦争の仕上げとして摂政を派遣し、オソン1世を傀儡にしてしまった。
-帝国解散後のドイツにおける経済的な記述で神聖ローマ帝国とは無関係です。出典も無いので削除でいいかと思います。というかまたロスチャイルド……

以上です。出典無しの記述は一ヶ月待った上で削除しようかと思います。よろしくお願いします。--シンジ568会話2017年6月9日 (金) 09:18 (UTC)返信

一か月間意見が出なかったため、出典無しの箇所については削除しても良いと見なしました。段階的措置としていきなり削除ではなくコメント化しております。さらに一か月待った上で出典のある箇所にも上記で提案した処置を行います。ご意見のある方はよろしくお願いします。--シンジ568会話2017年7月11日 (火) 13:16 (UTC)返信

一ヶ月意見が出なかったため、上記提案の通りとさせていただきました。それだけだと記述内容がスカスカになってしまったので、英語版や本記事歴史項目の記述を参考に加筆しました。また、明らかに誤っている箇所の訂正も行いました。--シンジ568会話2017年8月15日 (火) 12:18 (UTC)返信

この提案に関連して貼付された内容過剰テンプレですが、提案通り実行したとの上記記載を勘案して除去しました。--toto-tarou会話2018年8月25日 (土) 16:08 (UTC)返信
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