ノート:稲作/過去ログ1

最新のコメント:9 年前 | トピック:過去ログ化の提案 | 投稿者:Kinori

--125.196.230.13 2007年9月16日 (日) 05:56 (UTC)== 日本への伝来について == ノート:日朝関係史に記したのですが、佐藤氏の研究は「稲作」の半島伝来を否定する論拠なのでしょうか。それと、稲の伝来と稲作(技術)の伝来は区別されているのでしょうか。どうも、稲の伝来が直接伝来ルートであることを論拠に、稲作技術の伝来まで否定しているように見えてしまうのですが。考古学的には朝鮮半島南部から北部九州への伝来を示す考古遺物が見られるようですが、稲作技術の伝来は果たして否定されているのでしょうか?--でここ 2007年5月15日 (火) 19:27 (UTC)返信

逆です。九州から東支那半島へ伝播したものと考えてよいです。ブログの記事で申し訳ないですが、ここが詳しいです。[1]--準特橋本Talk/Contribs2007年8月7日 (火) 16:19 (UTC)返信


一読して、これは「稲」の伝来に関する記事ですよね。わたくしが申し上げておりますのは、佐藤氏の稲の伝来に関する生物学的研究がどう「稲作」の伝来に関わるかという点であります。稲は伝来していても稲作技術が半島ルートで伝来している可能性だってあるわけですし、佐藤氏の研究は従来の説を否定するものではなく修正するものではなかろうかと、確かこれを書いた当時には感じまして、調べて見ようと思ったもののずっとさぼっている状態ですね。ご紹介の記事では「7,8年前から考古学界において変化が」とありますが、ちょうど「王権誕生」出版時にあたりますよね。できれば政治系のブログ記事ではなく、純粋な研究書であると有り難いのですが。--でここ 2007年8月7日 (火) 16:47 (UTC)返信
でここさんの取り上げる「王権誕生」は、2003年の、国立歴史民俗博物館による研究成果、この[2]考古学的インパクトを経たものではありません。これ以前と以後では状況ががらりと変わっています。ここ[3]らあたりが、従来の学説状況や、疑問点も含めて詳しいです。佐藤洋一郎現弘前大学教授についても言及があります。特に留意すべき点は、同一手法(C14年代測定法)による分析で、水田稲作の開始時期について朝鮮半島よりも日本列島の方が早いという結果が出たというあたりでしょうか。歴博説への疑問は分析手法への疑問なのですが、従来の朝鮮半島ルートの根拠となっていた半島南部の水田稲作開始時期の推定がC14年代測定法によって行われていたというのが興味深いです。--60.41.110.236 2007年8月26日 (日) 20:06 (UTC)返信

情報ありがとうございます。わたしは、山梨県史との関わりから日朝関係史に関心を持つ立場ですが、どうも政治系ブログに取り上げられているあたり、そういう着目のされかたもされているようですね。未だ学説は流動状態であると思いますし、「日本への伝来」の節は新説に偏り過ぎず、断定的で無い記述が適当であるように思われます。--でここ 2007年8月28日 (火) 04:15 (UTC)返信

政治的とか、朝鮮文化への過度な妄信から解き放たれ、きちんと比較された結果が、現状の学説と考えてよろしいのではと思います。実際、中国の遼東半島や満州などで稲作文化が無かった点も踏まえ、朝鮮半島からの稲作の技術も、稲自体も伝来するはずがありません。稲作の文化も無い地域において、技術だけが突発的に発生し得たというのは、どう考えても異常ではないか・・・というのが現在の多くの研究者のスタンスです。
私もこの主張こそ、論理的に矛盾もなく、正しいものと理解しております。もし、否定なされるのでしたら、それ相応のソースと理論を示していただければと思います。--さんちゃまん 2007年9月16日 (日) 05:57 (UTC)返信

わたしは、そもそも読者として記事を読んで疑問を提示したのがはじめでして、いずれかの説に荷担するという立場ではないのですが、典拠を言うのであれば、現状の中国伝来説を有力と断定する典拠が佐藤氏の研究を紹介しているのみであることが不十分であると思うのですよね。佐藤氏はじめ一連の研究は考古学的な定説と乖離するものですし、そこから生じているはずの論争は収束したのでしょうか?朝鮮半島に稲作文化が無かったとは、考古学的な定説とは異なります。相変わらず「王権誕生」に拠りますが、半島→北九州への伝来を示す考古学的証拠は存在しています。これらがどう否定されるのか、わたしの疑問は未だに氷解しておりません。--でここ 2007年9月16日 (日) 07:33 (UTC)返信

私の説明も拙く、誤解を生じさせたと思われます。そのため、もう少し詳細に説明いたします。
まず、朝鮮半島での稲作文化が確実に存在していたと思われるものは紀元前2000年頃のもので、それ以前は確実に畑作文化であった事が証明されています。まず、平安南道龍岡郡弓山里遺跡などでは開墾や耕作のための石鍬、石鋤などの一連の農耕を示す遺物が出土していますが、これに伴った遺跡群としては、平壌市南京遺跡の櫛目文土器文化後期の住居跡からの雑穀と共に出土した250粒の炭化米だけで、これは畑作米でした。他にも、あくまで水耕ではなく畑作で米を栽培していた証左も多く発見されています。
一方、この出土された時期に、日本においては多くの水耕田が見つかっております。つまり、熱帯性/温帯性の稲において、この時期やその1500年前の時代幅で最も最適といわれる水耕の証左が、中国以外には、朝鮮半島ではなく日本及び東南アジアからにおいてのみ見つかっているのです。もしかすると、”ほんの一部”、半島→九州という部分において半島で発展なり改善があって、逆輸入されたこともあったかもしれませんが、これらの遺跡群が否定しています。そのため、でここ氏及び「王権誕生」による説が論理的に破綻しているのではないかと感じています。
まして、考古学の定説とおっしゃる部分も、朝鮮からの伝来説が多勢を締めていたのは過去のお話で、現在の主流ではありませんよね!?
その点も踏まえ、再度、確認をお願いします。--さんちゃまん 2007年9月21日 (金) 07:51 (UTC)返信

おおよその骨子は理解いたしました。後はその論旨が典拠文献付きで本分に反映されれば、わたしの読者としての疑問は氷解いたします。ただ、半島伝来説が過去のお話というのは、先端研究をフォローしている人にとってはそうなのかもしれませんが、町で100人に聴いてみる場合を考えると、一般の人にとって常識化しているとは思えません。ですので、明確な出典が必要であるかと感じます。あと、考古学会からは異論や反論が無いのか、議論は収束しているのか、といった点も気になります。

それと、はじめから白状しております通りわたしはこのテーマについて門外漢ですので、これまでの議論をご覧になっている第三者の方からのご意見も伺いたいです。--でここ 2007年9月21日 (金) 08:42 (UTC)返信

でここさんはご自身のこと門外漢とおっしゃってますが、ではなぜ”朝鮮半島に稲作文化が無かったとは、考古学的な定説とは異なります。相変わらず「王権誕生」に拠りますが、半島→北九州への伝来を示す考古学的証拠は存在しています。”などとおしゃることが出来たのでしょうか? 自分の知るかぎり、半島→北九州への伝来を示す考古学的証拠はないと考えてます。すくなくても韓国人の学者が発表した説に”考古学的”資料はなかったと記憶しています。 現在初等教育の場で使われる教科書などでも半島経由の表記(地図上の表記)が変更されました。もしくはされています。反論があるのは主に韓国の学会や朝鮮系の在日知識人又はそれに近しい人に限られています。これはたとえば稲の伝来と稲作はほぼ同時と考えられ、日本外からの人の移動が稲作の伝播と同様に起こったと考えられてきたからです。また異を唱える人に朝鮮人が多いのは、稲及び稲作の伝来が半島経由であれば渡来人が半島人(本来の朝鮮系ではないですが)であると言え。それが韓国の学会での他の学説の下地になったり、在日朝鮮人社会に好意的に受け止められているからです。 この件についてはでここさん仰る通り、佐藤氏以外の典拠文献を本分に反映することで解決したいと考えます--2009年12月11日 (金) 012:51 (UTC)


出典の明示について 編集

良く書けている記事だと思います。ただ記述の出典が示されていないのが惜しまれます。参照した書籍や論文を明示することは、より詳しい情報を得たい人にとって助けになることでしょう。参考文献の紹介や脚注の編集にご協力いただけますようお願い申し上げます。赤い飛行船 2007年5月29日 (火) 10:36 (UTC)返信

出展の明示の主張をされるのは構いませんが、現状、考古学・人類学において定説と化しているような内容に、一々出展を求めるのはおかしいと思いますが、如何でしょうか。問題や反論が無ければ、出展の明示タグは外したいと思います。--さんちゃまん 2007年9月16日 (日) 05:57 (UTC)返信

反対します。上記議論の通り、大陸伝来説が定説化していることには疑問を抱きます。--でここ 2007年9月16日 (日) 07:33 (UTC)返信

本文の「かつては1.の朝鮮ルートが有力視されていた」て事は事実でなく、かつては教科書でも三つの説は併記されていた。朝鮮ルート説に特に深い根拠が有った訳でもく、稲作伝播のルートを想定した3ルートの一つに過ぎずなかった。近年の研究で段々と大陸伝来説が有力になり、他の2説は相対的に低下しているのは事実でしょう。出展は不要だと思います。--Denki 2007年10月12日 (金) 11:29 (UTC)返信
いろいろ議論があって収束してきているのなら収束させた論文なり著述を示すことは必要です。なぜならWikipedia:出典を明記するにもあるように、より詳しい情報を求めている人に手がかりを与えるものだからです。参考文献としてまとめて提示しても良いし、脚注で示しても良いと思いますけど、ともかくできる限り典拠を示すべきです。研究者のコミュニティーを対象としている学術論文なら定説化しているものの出典を示すなんて無意味でしょうし、何をバカなことをやっているのだと思われることでしょう。しかし、『ウィキペディア(Wikipedia)』は百科事典なんです。研究者のコミュニティーじゃありません。配慮すべき点が変わってくることを理解していただければと思います。 --赤い飛行船 2007年10月12日 (金) 17:07 (UTC)返信

朝鮮、韓国の学者は朝鮮経由説をまだ主張してますね。しかし根拠は不明。--Denki 2007年10月22日 (月) 09:04 (UTC)返信

もういい加減、DNA及び、その渡来ルートにおいて結論が出てるんですけどねぇ。
例えば、日本人のルーツとしての話からの流れで、日本人が北方系コーカサスに属するウタリ人(アイヌ人)と縄文期に南方系モンゴロイドの混血による縄文人と中国から流れてきた弥生人(旧中国漢族という説が有力)の混血ということで、明確に現在の朝鮮人との遺伝的な直系としての共通項が無い事も証明されています。
しかも、長江から九州までの渡来ルートは、海流の関係から対馬には上陸する可能性があっても、半島に上陸する場合が殆ど無いという事実も無視されているんですね。さらに、半島を通ってきた弥生人の一団は、押し出されて出てきている以上、現在の朝鮮民族との関わりは全くと言って良いほど無いんです。
相変わらず、事実を認められないんですねぇ。韓国って。--さんちゃまん 2007年10月24日 (水) 08:09 (UTC)返信
日本の稲遺伝子は二種類で、いずれも中国にある。
韓国には七の遺伝子があるが、日本の二つの稲遺伝子の一つはない。
つまり、日本へも朝鮮半島へも稲作は中国から直接伝わった。稲の種類によっては、朝鮮半島を経由して日本伝わったりや逆に日本を経由し朝鮮半島た場合も考えられるが、共通が一種類しかないから朝鮮半島と日本で稲が交流した可能性は低い。--Denki 2007年11月27日 (火) 12:15 (UTC)返信
結論が出てるなら出展を明示してくださいよ。それでオシマイなんだから。ここは持論をかます場所じゃない。できないなら消すだけのこと。--2007年12月25日 (火) 03:28 (UTC)

そろそろ、タグを取りたいのですか、1週間待って見ます。--さんちゃまん 2008年2月12日 (火) 14:22 (UTC)返信

きちんと出典が示されない限り取れませんよ。残念ながら不十分です。--赤い飛行船 2008年2月12日 (火) 23:52 (UTC)返信
>韓国には七の遺伝子があるが、日本の二つの稲遺伝子の一つはない。
これ逆。日本の方が品種が多く、朝鮮の方が少ない。どこで間違えたら逆になるんだよ。
--QQ 2010年9月7日 (月) 3:52 (UTC)

訂正(削除)--黒い猫ちゃん 2008年4月5日 (土) 22:07 (UTC)返信

最近韓国人(特に金海金氏)の方々(結構自分たちの祖先と血統を調べることに関して、マニアックな人が多いと聞きます)が、DNA解析を通して、彼らの祖先を特定したそうです。それで、2000年も前になくなられた方の墓参りに行ったという旅行記を目にする機会がありました。関連して「斉の御田」の裏づけとなるような資料もありました。日本と韓国にほぼ同時期にスキタイ文化が渡来したと想定できます。稲作の伝来形態には、これ以外に陸路での伝来があるようにも思えます。今から2000年前なら、高句麗は長城を築いていませんから。韓国に多様な米の品種が到来したというのは、そのためかもしれません。地図に矢印レベルの学術的な根拠が薄い情報なので、今後の検討課題でしょう。

この「稲作」は稲という植物の話でなく、食用米の話なので、イネ→米にカテゴリー変更はいかがでしょうか。なお2500年程度前にも中国を出帆した民族があるようです。民族的にはヨーロッパ系の人種とされています。文字が確立していない時代ですから、記録はないようです。当時でも稲作は行われていました。ですが鉄器はなく、青銅器だけだったようです。本文中に記載するにはまだまだ検討の余地があります。ただこの民族も長弓を用いていた可能性があります。夷(東の異民族:長弓の人の意)--米匠 2008年4月5日 (土) 16:18 (UTC)返信

中国の王朝は夏→殷(商)→周→戦国(春秋)→前漢→新(王莽)→後漢:孔子(こうし、紀元前551年‐紀元前479年:約2500年前)は商の貴族の末裔とされ、身長は190cmあったそうです。殷は夷であったという説もあります。王莽の時代が約2000年前です。--米匠 2008年4月5日 (土) 23:42 (UTC)返信

ずいぶん昔のことですが、日本から朝鮮半島に稲作を伝えようとしたら、気候が合わないために、日本から持ち込んだ米は全滅したそうです。それで苦労して朝鮮半島でも生育できるように品種改良を行ったという話を聞いたことがあります。ただ文献を見つけられなくて、本文中に書くことはできませんねぇ。猫--黒い猫ちゃん 2008年4月6日 (日) 15:25 (UTC)返信

日本の最古の水田址は縄文時代晩期水田址で、約2500年前である。--米匠 2008年4月7日 (月) 11:11 (UTC)返信

稲作についての「稲作伝来の三つの波」など、多くの稲作伝来説があります。日本の最も初期の水田は九州北部で、約2600年前です。しかし、それが津軽平野にまで至ったのは約2300年前で、300年間かかっています。さらに、東北の稲作は寒冷期には消滅するなど、稲作は気候との戦いであったと思われます。日本列島での稲作が6000年前とされていますが、それ以前の海水面は現在より低いので、6000年より古い稲作の遺跡が仮にあったとしても、今は海の中です。

稲作を司る日本の神は、大きく分けて二つあります。その一つは稲荷神ですが、それより古い神として、飯玉神があります。この飯玉神話は、詳細には解釈できませんが、天照の一族以前の稲作民の神であったと、推定できます。飯玉神の司るものは、米以外に他の五穀、山野の野菜、海の幸を含んでいます。ですから縄文時代の生活の神であったと考えることもできます。この神は月読み神により殺されています。そして新たに稲荷神をおいたようです。ですが、まだ飯玉神を信仰する土地が現在もあります。

かねがね不思議に思っていたことは、関東の男は体が大きく、関西の人間は小さいということです。いわゆる弥生人自体が、大きく2度渡来人により、古日本人の上に書き加えられたような感じです。関東人は第一派、関西は第二派という雰囲気です。時期は、第一波が約2700年前、第二派は2000年前と推定します。理由は神武天皇の即位は紀元前660年だからです(第一派)。当然そのときの日本には文字も無かったはずですから、違和感を感じるでしょうが、当時の渡来人には文字(言語)も年号もあったのですから、最初の年号は正しいという判断は、成立するでしょう。ところが、その天皇が100年以上も生きたような記述となります。これは複数の天皇を、たとえば、4~5代の天皇を合体して神武と称するから、そうなってしまうような気がします。同様な例は韓国の国王についても言えます。こちらも生誕の日とか即位の日は正しくて、やはり100年以上生きちゃいます。そして第二派は、いわゆる神話時代から古墳時代の王朝でしょう。この王朝も初代は神武となりますから複雑になるんだと思います。

最近邪馬台国は徳島にあったという説が脚光を浴びています。だとすれば、大和王朝とは無関係ですので、邪馬台国の推定年代とは区別できます。ただし女王卑弥呼の登場により、倭国の戦乱が収まったとあります(紀元230年~250年ごろ)。このころは、第一波・第二派の渡来人の来訪は終わり、稲作が完成も完成することにより、食料の大増産が行われたころです。日本は東夷の倭国と表現されています。

ですから、第一波は関東人。第二派は関西人ということになります。ただし九州北部は第一波の人がいるように思えます。人種的な特徴としては第一波の人種は色が白く、長身で、ひげが濃い。第二派は小柄で足が短い。などです。もちろん第一第二派以後も大陸の王朝が滅びるたびに日本列島に渡来人が来訪しています。第二派以後は百済・新羅あるいは高句麗など韓国系が多いようです。

では第二派の渡来人がもたらしたものは、というと鉄器とその鋳造技術でしょう。この後多くの日本人が鉄鉱石を求めて、朝鮮半島に渡ったという記録があります。物々交換だったようで、日本から送られた商品はどうも人間だったようです。戦争の捕虜かどうかは不明です。 --飯玉の僕 2008年5月6日 (火) 05:18 (UTC)返信

山口県土井ヶ浜遺跡は弥生人のものとされる多くの人骨が発見されています。年代は紀元前100年~200年ごろらしいです。高身長で長頭だそうです。九州北部でも、こうしたタイプの人骨が多く発見されています。これらは前述の第一波に相当すると考えられます。つまり、紀元前1000年~紀元前(100~200)年は、中国の戦乱により追われた民族が、長い年月をかけて渡来したと推定できます。なお彼らは確実に、水田耕作を行っていたようです。なおこの頃も鉄器はありましたが、それほど良質なものではなかったようです。またかなり広範囲で交易を行っていたようです。--飯玉の僕 2008年5月6日 (火) 11:38 (UTC)返信

やや、脱線染みた話になるのですが、私は最近鋳方貞亮氏の『日本古代穀物史の研究』(吉川弘文館、1977年 ISBN 978-4-642-02059-6)という本を読んだのですが、同氏はその中で、一般に温帯作物とされて大陸から伝来したとされる麦や木綿の栽培は日本ではなかなか定着しなかったのに、熱帯作物とされる稲の生産が数百年で日本列島の大部分の地域に広まると言うのは、高度の品種改良技術がない縄文~弥生期において矛盾しているとしていること、『播磨国風土記』の石海の里の条に安曇連百足が百枝の稲を孝徳天皇に献上して天皇から、この地に田を墾やすように勅が下された、すなわち野生の稲が先に存在してそこに田を開いたと解すべきであることを挙げて、かつて稲作開始以前の日本がより温暖で熱帯に近い気候であった時期に先に稲の原種が日本列島に入り、その後温帯化という環境変化に耐えて生き残ったものが日本の稲であって、大陸から伝わったのは稲を人為的に生産する農業技術に過ぎないとする「日本自生説」を唱えていらっしゃるのですが、現状において自生説は採られていないものなのでしょうか? 伝来説の記述はあって、そちらの記述が全くなかったので気になったのですが。(農業史にはあなり精通していないもので)--水野白楓 2008年5月26日 (月) 17:27 (UTC)返信
少し古い書籍ですね。その当時ならば、そんな発想でよかったのでしょうかね。稲の変異が発生しやすいのは現在の雲南省(中国)付近の気候風土のようです。おそらく1万2千年前から約3千年前の間では揚子江中流域がその役割を担っていたのでしょう。また「うまい米」という視点からとらえれば、相当味の分かる貴人が日本に持ち込んだことが考えられます。ともかく朝鮮半島からの稲作の到来説はほぼ否定されます。同様に日本国内で自然に大規模な稲の遺伝子変異が発生したというのも、現在の知識の範囲ではありえないでしょう。--飯玉の僕 2008年6月3日 (火) 23:05 (UTC)返信

英語wikiのRiceのカテゴリーで、韓国人と思われる書き込みの、例の怪しげな「泥炭層から発見された米」だの、日本への伝播などが力説されています。誰か英語の上手な人、きちんと記述しなおしてください。そもそも寒冷地型泥炭が発生するような気候で稲が生育するはずがありません。また日本統治前の朝鮮半島は夏の昼夜の1日の気温差が稲が生育不可能な状態にあることが明治政府使節団によって記録されています。半島に以前から稲はあったにしても韓国で米飯が本格普及するのは戦後の最近の事です。114.164.204.239 2009年4月9日 (木) 17:54 (UTC)返信


飯玉の僕さんの第二派以後は百済・新羅あるいは高句麗など韓国系が多いようですということについて。 鉄器なら半島にある倭の直轄地で生産していましたよ。あと、百済は中国系のツングースの国家ですお間違えないように。確かに稲と一緒に稲作技術が持ち込まれ、それが人の移動。ようは渡来人の日本移住の根拠とも言えたわけです。ですが今は逆に日本→半島で移住が起こったのではないかという方向に進んでいます、これらは今後の研究が明らかにするでしょうが、これまでの半島からの中国人などの流入という説が覆ったのは間違いないです、一部少数の亡命者を除いて。 現在半島からの稲の伝来を定説に加えるのは無理があると思います。以前は数ある説の一つとされてきましたが、稲の品種が日本より少ない、稲の年代も日本のほうが古い等優位性が逆転した以上、他の説と同じに扱うことは出来ないと考えメインのおもな定説と分けたいと考えます、違なる意見があればよろしくお願いします。 --2009年12月11日 (木) 17:54 (UTC)

>飯玉の僕さん こことは関係ありませんが背が高い低いは寒い地域と暑い地域と言うさの方が日本人の中では大きいと思いますよ。それと百済・高句麗は中国人の国家です。またそのころの半島へは日本人も入植しています。韓国起源説の披露もほどほどにね。 --2010年9月6日 (日) 1:54 (UTC)

稲の伝来について比較的新しい説に対し10年以上前の説を対論としてぶつけるなど、わかりにくい表記になっていましたので出来るだけ時系列あとわかり易いように順序変更し加筆しました。もとの各説については出来るだけ削除せずに残しています。 今更ですが飯玉の僕さんは韓国人かな?今後あまり感情的・主観的に編集されないことを希望します。 -- rrrwww 2012年3月20日12:00(UTC)

稲作の伝来について、農学者佐藤洋一郎氏の研究の一部を切り取って、氏の推論とは真逆の「日本から朝鮮半島への伝播した」とする根拠不明の風説が本項ではまかり通っていますが、これは明らかに論述の誤りであり氏への冒涜ともいえる悪意のある編集であります。 編者が『稲のきた道(著:佐藤洋一郎)』に一切目を通していないことは明確ですが、ではなぜ佐藤洋一郎氏の著書を引用しながらまったく逆の結論を導いているのか。 これについて、編者は説明する必要があります。 できないのであれば、虚偽の出典に基づく上記の説については編集の巻き戻しを行います。 --Rasksverse会話2012年5月5日 (土) 17:05 (UTC)返信

虚偽の出典に基づく起源および稲作の伝来について取り消しを行い、2012年3月8日以前の版に戻しました。日本から朝鮮半島へ稲作が伝播したという説を掲載するのであれば、提唱者が明らかで、かつ論旨の明快な出典を明示してください。佐藤洋一郎氏は前述のような説は提唱しておりませんし、国立歴史民俗博物館の研究成果はこのような説を後押しするようなものではありません。--Rasksverse会話2012年5月22日 (火) 08:48 (UTC)返信


> 日本最古の水田址遺跡は約3200年前であり、近年の炭素14年代測定法によっても、水稲栽培で定義される弥生時代の始まりが紀元前12世紀まで遡る可能性も出てきた。

「弥生時代の始まりが紀元前12世紀」との記述と、それに関連した朝鮮半島との時系列の問題についてですが、十分な出典の提示がされていません。

なお、「近年の炭素14年代測定法」によって弥生時代の開始年代を遡らせたとされる歴博発表に関連した資料「弥生時代の開始年代」http://www.rekihaku.ac.jp/archives/promenade/yayoi_kaishi.pdf においては、以下のような記述です。

検証可能な新しい資料があるのであればご教示ください。

弥生時代の開始年代

 学術創成「弥生農耕の起源と東アジア」の研究グループでは、日本列島で本格的な水田稲作が始まった時 期をもって弥生時代とするという佐原真の定義にしたがっているので、現状では灌漑式水田稲作が出現する 山ノ寺・夜臼Ⅰ式土器の成立をもって弥生時代の始まりと認定している。これまで山ノ寺・夜臼1式土器に 付着した炭化物を試料に得られた較正年代はわずか2点である。このうち夜臼Ⅰ式の年代は新しく出ている ので再計測と類例の増加を必要とするが、山ノ寺式の較正年代は、直前の土器型式である黒川式新段階の年 代や直後の土器型式である夜臼Ⅱa式の年代からみても整合性のあるもので、総合的にみると弥生時代は前 945 ~ 915 年のどこかで始まったと考えられる。すなわち弥生時代が前10 世紀後半に始まったとする根拠 である。

 弥生時代の始まりと深く関連している韓国南部だが、最古の水田は慶尚南道蔚山・オクキョン遺跡で見つ かっており、孔列文~突帯文土器が伴っているところから、前11 世紀頃と考えられている。 現状では各型式毎の測定値が1~2点しかないので、これ以上十分に絞り込むことはできない。暫定的な 較正年代と理解いただきたい。

219.116.196.29 2013年12月26日 (木) 20:33 (UTC)返信

蔚山遺跡から見つかっている遺物と遺跡は、日本や中国では水田や水稲の跡とは認められていない。現在最古とされているのは、金海遺跡の前3世紀の物が最も古い水稲の痕跡であり、水田跡と認められる遺構は更に遅く紀元以降の物。--36.2.184.112 2014年1月10日 (金) 09:08 (UTC)返信


ここでの問題は「前12世紀の弥生開始」に根拠となる出典が一切提出されていないことです。話題を逸らさないようにお願いします。
また、朝鮮半島側の前11世紀の水田遺跡を否定したいとしても、日本側の確かな資料に「最古の水田は~前11世紀」と記されている以上、それをこの項目で否定するのであれば、せめて同等の資料を出典として記述する必要があるでしょう。
簡単にまとめますと、2010年頃までこの欄では、2003年の国立歴史民俗博物館による発表と、佐藤洋一郎氏の著作を根拠として、「日本から朝鮮半島に水田稲作が伝わった」「中国からの直接伝来が確定した」という主張がまかり通ってきました。
しかし実際にそれらの原典にあたると、この項目での主張とは裏腹に、朝鮮半島からの伝来の可能性を示唆するものばかりでした。これはどういう意図によって起きた事でしょうか?
中国からの直接伝来を主張したいにしても、自己の論にとって不利となる資料を意図的に捻じ曲げ、出典なしの断言を繰り返す行為はきわめて不当なものであり、その主張の説得力を失わせる行為です。
さらに言えば、ここは個人的な研究や主張を発表する場ではなく、根拠の明確なもののみをまとめる場だと理解しているのですが、いかがでしょうか。
客観的な記述をお願いします。(219.116.196.29) --C.camphora会話2014年1月11日 (土) 21:14 (UTC)返信

問題はC.camphoraが複数の出典を削除している事です。前12世紀の弥生開始、という誤った内容があったならばその部分を出典に書かれている通り、前10世紀に訂正すれば善いだけ。--112.138.253.89 2014年1月13日 (月) 13:33 (UTC)返信

それは確認不足です。要約で理由は説明したのですが、たとえば貴方による2013年12月14日の版を見てください。
12.^ 研究報告会「弥生時代の実年代」配布資料国立歴史民俗博物館
13.^ 「弥生農耕の起源と東アジア-炭素年代測定による高精度編年体系の構築-」
これらはリンク切れになっていますね? 私はそうした脚注の削除やリンク修正をしたのみです。この点については貴方も気づいたようで、最新の編集では修正されていますね。


また、以下の記述について確認させて頂きます。

4.については、山東半島の楊家圏遺跡、朝鮮半島南部の大坪里遺跡、無去洞玉?遺跡、松菊里遺跡などで、山東半島からは日本に先行する時期の、朝鮮半島からは日本に遅れた時期の炭化米や水田跡と思える遺構が見つかっている[8][9][10]。

この部分に付けられた脚注のうち、『日本水稲農耕の起源地に関する総合的研究』は山東半島から遼東半島への伝播の可能性を示すもの。『第3回歴博国際シンポジウム 東アジアにおける農耕社会の形成と文明への道』では蔚山遺跡の水田遺跡についての報告がされています。
であれば、今回2014/1/13の編集で突然新たに付けられた『中国東北先史環濠集落的演変与伝播』がこの記述の後半部の根拠となりますが、単純にネットで検索した限りでは本記事以外に発見できない名前のため、検証のために著作者名や出版元、出版年、参照ページなど詳細を記述して下さい。存在を確認できるURLを本ノートに記して頂けることが望ましいです。この出典が確認できない場合は、差し戻しさせて頂きます。また、歴博発表『弥生時代の開始年代』よりも確度の高いものではない場合は両論併記の形にさせて頂きます。ご了承ください。--C.camphora会話2014年1月13日 (月) 20:08 (UTC)返信
一週間近く待っても『中国東北先史環濠集落的演変与伝播』への詳細説明が行われず、また対応への異論もなかったため、信頼性に欠ける・もしくは虚偽の出典とみなし当該記述および関連箇所を修正します。重複ですが、歴博発表『弥生時代の開始年代』を脚注として当該箇所に付記しておきます。なお、国立国会図書館リサーチ・ナビから辿れるリンクすべてを当たっても同一の書名は発見できませんでした。再度同様の記述を行う場合は、検証のために必要な情報を加えてからお願いします。十分な説明の無いまま同様の編集が行われた場合は、差し戻しの上で何らかの対応を検討する必要があるかと考えます。
また、「九州北部で最も古い水田は3000年前頃」とは何を指すものでしょうか。「栽培が広く行われ始めた時期の水田稲作遺跡群」を菜畑遺跡や板付遺跡とすれば、この3000年前のものが不明であり、具体的な説明が必要かと思います。
脚注のうち『研究報告会「弥生時代の実年代」配布資料国立歴史民俗博物館』のリンクが切れたままでした。トップページのみアーカイブhttp://archive.is/RWkNに残っていますが、公式な場所ではない、pdfファイルに繋がらない、などの問題があるのと、他の出典と同様の内容が含まれているため削除しました。どうしても必要であれば追記をお願いします。(ちなみに、一読すれば分かるとおり「朝鮮半島の試料も通説より古かった。韓国南部と北部九州の土器形式の併行関係は調査前と同じように維持されている」といった内容が含まれています)--C.camphora会話2014年1月19日 (日) 22:28 (UTC)返信

なぜコメントアウトという形で隠してあるのかわかりませんが、以下の脚注について確認させて頂きます。

大坪里遺跡、無去洞玉?遺跡の農田は等高線と直角に形成されており、水田ではない。崔徳卿『古代韓国旱田耕作法和農耕制度的考察』中国農業歴史学会

そういった記述がされているのは大坪里のみでは? 大坪里に関してはこちらとも整合するため合意します。

[24] 據慶南大學校博物館外,《蔚山无去洞玉?遺跡》,1999年排水条件好的水田要維持水位,可以分成小塊的田,在青銅器?代,田?的寬是16~25cm,高1.4~6m,?外的水溝的長度相等。然而在排水條件不好的稻田裏,就沒有設置田?。

無去洞玉峴遺跡については、上のように書かれているようです。

朝鮮半島から見つかっている古い時代の炭化米は、金海貝塚の物を除くと性状から判断して全て陸稲と思われる。黄粟嘉『呉文化対日本史前稲作的影響』蘇州市職業大学

確かに「1920年に発見された金海貝塚」について書かれています。ですがその一方で、後の発掘による朝鮮半島の遺跡について否定的な言及すらされず、ただ他に痕跡がないとしか書かれていません。環濠集落や土器石器の併行関係を検討したわけでも、歴博のように炭素14年代測定法で金海貝塚や無去洞玉峴の水田跡など各地の試料データを記述し比較したわけでもありません。徐福の話をしてみたり、かと思えば「イネ」の音が昔の言葉に似てると言ってみたり。意外と面白いのですが、とうてい確定した歴史的事実として通用する内容ではありません。

誤読がありましたら申し訳ありませんが、しかしこれまで提示された資料を見ると、中国のものばかりですね。「中国の人が」「中国から日本への直接伝来を主張している」わけです。ですから、「中国の一部の学者の主張」として、歴博資料による比較的常識的な説や客観的な記述とは別に併記するのならそれはそれで構わないと思います。

それと、議論が呼びかけられているのに会話拒否したまま編集するのは良くないと思いますよ。--C.camphora会話2014年1月21日 (火) 06:01 (UTC)返信

現在本記事では、IPユーザー 112.138.253.89 や 36.2.184.112 など(確認しましたが、同一地域からの接続ですね?)による不誠実な編集が執拗に続けられています。 一例として「水田耕作は揚子江中・下流域に起源し、日本もこの地方から伝播したと考えられている」と他の説を否定して断言している箇所や、 「朝鮮半島で水田が確認される時期は日本よりも遅く」という箇所ですが、これらは歴博発表による

総合的にみると弥生時代は前945 ~ 915 年のどこかで始まったと考えられる。すなわち弥生時代が前10 世紀後半に始まったとする根拠である。 弥生時代の始まりと深く関連している韓国南部だが、最古の水田は慶尚南道蔚山・オクキョン遺跡で見つかっており、孔列文~突帯文土器が伴っているところから、前11 世紀頃と考えられている。

により明白に否定され得ます。 にも関わらず当該ユーザーは同様の編集を繰り返し、その出典を中国の黄粟嘉氏の論文などとしていますが、これは「呉から日本に稲作が伝わった、弥生人とは中国人である」といった主張のために近年の発掘調査を無視したものであり、年代測定データ等を伴っていないなどの問題点があり、信頼に足るものではない。少なくとも定説として現在広く受け入れられているものではありません。また他の同様の出典には朝鮮半島の水田についての記述があるようですが、これは提出した当人によって無視されています。加えて、当人の編集によってこれらの出典はコメントアウト状態にされており、閲覧者が確認できない状態にされています。

何度もノートでの議論と合意形成を呼びかけてきましたが、会話を拒否したまま上記の指摘を無視しての編集が続けられました。この状態では、当該ユーザーには誠実な編集の意思がないものと見なさざるを得ません。--C.camphora会話2014年1月21日 (火) 22:43 (UTC)返信

C.camphoraはちょうど歴博の諸文献がリンク切れになる時期を見計らって荒らし行為を始めた様ですが、残念ながら歴博の文献を読む限り本記事の内容通りですよ。出典を付けておいたのでちゃんと読むように。--112.138.251.214 2014年1月24日 (金) 11:45 (UTC)返信

リンク切れ荒らしことC.camphoraの願望は、孔列文土器に突帯文土器が僅かに伴う玉峴遺跡で水田が出現している「可能性はあるものの」。韓国から水田稲作文化と伴に突帯文土器がもたらされたという説に同意する事は難しい。により明白に否定され得ます。--112.139.72.131 2014年1月24日 (金) 11:51 (UTC)返信


ようやく会話してくれるようになったようで有難いです。まず、意味不明な言いがかりはやめて下さいね。私が行ったのは、以前の「前12世紀の弥生開始」という根拠のまったくない記述とそれに拠っている部分を修正するとともに、リンクの切れていた部分を繋ぎ直したことです。たとえば、現在でも 弥生農耕の起源と東アジア-炭素年代測定による高精度編年体系の構築- http://www.rekihaku.ac.jp/research/list/subsidy/2008/gakujutsu.html

等のURLが生きていて歴博の発表内容を確認可能です。測定データを直接確認できるようになっていますが、このリンクを書名へと変更し、それは良いとしても元の発表を直接見られなくしたのは(2014年1月21日の版)貴方です。元に戻すべきでしょうか?

この『弥生農耕の起源と東アジア-炭素年代測定による高精度編年体系の構築-』 からは歴博発表の各種資料を閲覧することができるのですが、その中でも分かり易い部分を挙げますと

ニューズレター1号 http://www.rekihaku.ac.jp/research/list/subsidy/pdf/news_letter01.pdf このp4などでは簡潔に、稲作の拡散ルートをまとめています。前2000年に山東半島、前13~10世紀に朝鮮半島南部まで。前10世紀後半に北九州。前8~7世紀に近畿まで、といった具合です。誰でも一見すれば簡単に確認できることですし、個々の研究者の考えはともかく、「歴博が公的にそういった発表をした」という部分については争う必要は無いかと思います。

今のところ歴博発表が「複数のルートが存在した」という説に繋がることはあっても、「南方ルートだと確定した」といった説に繋がることはありません。これらを踏まえた上で、付記された脚注部分について質問します。

9.^ 朝鮮半島から見つかっている古い時代の炭化米は、金海貝塚の物を除くと性状から判断して全て陸稲と思われる。黄粟嘉『呉文化対日本史前稲作的影響』蘇州市職業大学

「性状から判断して」と言いますが、「性状」とは具体的に何を指すものでしょうか。形でしょうか。遺伝子でしょうか? 形であれば、朝鮮半島の炭化米と日本の北九州のものは共に短粒種で、類似しています。 遺伝子でしょうか? であれば、佐藤洋一郎氏が朝鮮半島の温帯ジャポニカの分析も行っています。そもそも、金海貝塚の出土品で何か語るとしたら「3000~3500年前のイネのプラントオパール」の方では?

10.^ 韓国南部は突帯文土器は畑作文化。また瀬戸内や中国地方の突帯文土器は韓国南部の突帯文土器よりも古い。玉峴遺跡の農田遺構も、突帯文土器は陸稲作文化に見られる物で、水田である可能性もあるが同意する事は難しい。[1]

11.^ 松菊里段階の炭素14年代はほぼ2600BP前後であって、較正年代によれば前8~7世紀になる。春成秀爾, 今村峯雄『弥生時代の実年代』学生社、Ⅳ-4

「同意する事は難しい」と言われましても、実際水田であると公的に言われているのだからどうしようもありません。また、脚注が付されているのが無去洞玉峴遺跡なのですから、松菊里式の話を付記するのはミスリードです。 これらの点、返信を見た上で、または返信が無いなら無いなりに後に修正致します。

それと、・「性状」とは具体的に何を指すのか お答え願います。あと、注釈欄で会話するのはやめて下さい。--C.camphora会話2014年1月25日 (土) 01:38 (UTC)返信

論争になっている部分について、事実のみを書いた中立的な観点からの記述に修正しました。ここで言う事実とは、「○○は××と語った」ということであり、「××である」と編者自身が主張しない、ということです。Wikipedia:中立的な観点 こちらもご一読ください。

それと、これの解釈を間違えてるようですよ。この該当記述の肝は「突帯文土器と水田稲作は共に来たわけではない。石器も見ないといけない」です。同じ藤尾慎一郎氏による水稲農耕と突帯文土器も読んでみてください。--C.camphora会話2014年1月25日 (土) 18:48 (UTC)返信

  • 出典から抜き出した文言に対して「「同意する事は難しい」と言われましても、実際水田であると公的に言われているのだからどうしようもありません。」と言われてもどう仕様も無い、当の研究者に「我々に対する愛は無いのかー!」とでも伝えたらどうだろう、出典に「同意する事は難しい」とあるのだから。また、[4]を勝手に解釈してはいけません、玉峴遺跡の農田遺構を水田とする主張に強い懐疑を呈する文言をそのまま載せないといけない。藤尾慎一郎氏の文献は1990年に書かれた物です、意味は解りますね?
  • 江南の賈湖から出土した水稲や河姆渡遺跡から見つかった2種類の水稲のうち長幅比の小さい種類は短粒種に収まる数値が公表されている。
  • 先ず上限をAから、下限をCから絞り込み、それに山の寺式の年代を考慮して統計学的に処理すると、黒川式新段階と山の寺式の境界を95%の確率で前945~915の間に絞り込む事が出来る。菜畑遺跡12層から発見された水田跡と同じ層からは黒川式新段階と山の寺式の土器が出土しているので、水田は遅くとも前945~915の間には出現していた事になる。とあるにも拘わらずC.camphoraが灌漑式水稲作の開始を前9~8世紀としているのは改竄に当たる。
  • 弥生農耕の起源と東アジア-炭素年代測定による高精度編年体系の構築-韓国の場合、各型式毎の測定値は1~2点しかなく、十分に絞り込む事は出来無い為、暫定的な較正年代と理解頂きたい。--112.138.38.6 2014年1月26日 (日) 06:06 (UTC)返信

では。

1.まず、土器の年代測定の以前以後も各地域の併行関係は維持されており、歴博の各発表はそれを前提に行われています。また、「④突帯文土器の韓国祖型説について[5]」と「水稲農耕と突帯文土器[6]」の論旨は共に同じく、「中国地方・瀬戸内の突帯文土器成立は稲作開始と一致せず、韓国のものとほぼ併行している。しかし北九州の突帯文土器は韓国に後出している。よって中国地方・瀬戸内の突帯文土器は稲作と共に来たものではない」です。 藤尾慎一郎氏の当該記述は「韓国の突帯文土器を西日本の突帯文土器の祖型とみる説」に対する反論として書かれ、「難しい」という記述も「水田稲作文化とともに突帯文土器がもたらされた」という言葉の結びとして使われています。このくだりが言及している時期は「湾曲型一条甕1310~890calBC」「谷尻式1400~1030calBC」「韓国北部?沙里式(それより遡る)」といったように両地域の稲作開始ぎりぎりまたはそれ以前の時期であり、よって「出現している可能性」は「蔚山市オクキョン遺跡に水田がある可能性」ではなく「オクキョン遺跡で稲作が開始されている可能性」と読むのが適当かと思われます。よって、これをオクキョン遺跡水田址の実在に対する疑問と取る貴方の読み方は原典の歪曲です。

2.江南の賈湖や河姆渡遺跡から出土した水稲二種に短粒種が含まれている、という記述によって何を主張したいのか分かりかねます。であれば、そこから各地に渡ったのだろうな、としか言えません。

3.「先ず上限をAから、下限をCから絞り込み、それに山の寺式の年代を考慮して統計学的に処理すると、黒川式新段階と山の寺式の境界を95%の確率で前945~915の間に絞り込む事が出来る。」このくだりの前には「山の寺・夜臼I式の即測定数の少なさは否めず、直接年代を絞り込むことはできない」後には「その意味で、灌漑式水田の出現は前10世紀後半を下ることはないと考えられる」と続きます。つまり測定結果を基にした推測です。よって「日本最古の水田址遺跡は約3000年前であり」と断言することはできず、だからこそ「紀元前10世紀まで遡る可能性も出てきた」という記述になるわけです。よって、この部分の記述は過大です。

4.測定結果が少ない状態で推測しているのは山の寺・夜臼I式も同様です。朝鮮半島無文土器早期が4点、山の寺・夜臼I式が2点。また、「5点の測定から韓国南部の突帯文土器は前13~10世紀の幅をもつと考えられるが、韓国では前15世紀まで上がる測定値も公表されているので、上限はさらにさかのぼる可能性がある」(「弥生時代の実年代」p16)といった部分もあり、より古くなる可能性も考えるべきでは。そもそも、「弥生時代の実年代」を読んでいながら、何故「朝鮮半島からは日本に遅れた時期の炭化米や水田跡風の遺構が見つかっている」といった記述になるのでしょうか? 炭化米のみ見ても慶尚南道Aで2910±50ですし、寒冷化前に北から水田稲作が半島を南下してきた、といった記述もある本ですよ。--C.camphora会話2014年1月26日 (日) 07:44 (UTC)返信

また、前回の質問にお答え頂けていないようなので再度質問します。黄粟嘉氏『呉文化対日本史前稲作的影響』中に一部含まれる「朝鮮半島から見つかっている古い時代の炭化米は、金海貝塚の物を除くと性状から判断して全て陸稲と思われる」が貴方の主張の根拠のようですが、この「性状」が何なのか不明です。形でしょうか。遺伝子でしょうか? 形であれば、朝鮮半島の炭化米と日本の北九州のものは共に短粒種で、類似しています。 遺伝子でしょうか? であれば、佐藤洋一郎氏が朝鮮半島の温帯ジャポニカの分析も行っています。そもそも、金海貝塚の出土品で何か語るとしたら「3000~3500年前のイネのプラントオパール」の方では? そもそも、「弥生時代の実年代」を読んでそれを出典として使いながら「朝鮮半島の古い炭化米はすべて陸稲」とする主張をともに支持できるのはとても不思議なのですが。--C.camphora会話2014年1月26日 (日) 07:57 (UTC)返信

  • 勝手な作文をしちゃいけない。『弥生時代の実年代』では「先ず上限をA(菜畑遺跡の水田が発見された層から出土した物を含む、前1120~910年、黒川式新段階)から、下限をC(山の寺・夜臼I式の即測定数の少なさは否めず、直接年代を絞り込むことはできない)から絞り込み、それに山の寺式の年代を考慮して統計学的に処理すると、黒川式新段階と山の寺式の境界を95%の確率で前945~915の間に絞り込む事が出来る。」として水稲作開始を「遅くとも」前945~915年までに開始しているとあるので推測ではなく結論、C.camphoraの願望による前9~8世紀は改竄記事となる。
  • 2005年の[7]では、中国地方の突帯文土器と韓国南部の突帯文土器はほぼ併行か日本の方が古いとしている。又、孔列文土器に突帯文土器が僅かに伴う玉峴遺跡で水田が出現している可能性はあるものの基本的には畠稲作の土器が突帯文土器、或は、韓国南部突帯文土器は畑作文化だし、と水田農耕の文化が存在しない点を強調し。韓国から水田稲作文化と伴に突帯文土器がもたらされたという説に同意する事は難しい、としている。つまり、朝鮮半島南部からの水田稲作文化伝来と突帯文土器の伝来を共に否定している。これと矛盾する内容の古い1990年文献は無意味。また、中国の学会でも玉峴遺跡の農田は水田ではなく畑と判断されていて、韓国人のみが水田だと主張している。--42.124.60.83 2014年1月26日 (日) 11:12 (UTC)返信

1.それはつまり、統計によって推測している、という話です。よく読んでください。

 以上、AからCまでみてきたが、山の寺・夜臼I式の測定数の少なさは否めず、直接年代を絞り込むことはできない。そこでA~Cの関係から、弥生時代の開始年代について、統計学的に現状を示せば次のようになる。  まず上限をAから、下限をCから絞り込み、それに山の寺式1点の年代を考慮して統計学的に処理すると、945~915年の間に95%の確立で黒川式新段階と山の寺式の境界を95%の確率で前945~915の間に絞り込む事が出来る。その意味で、灌漑式水田の出現は前10世紀後半を下ることはないと考えられる。(「弥生時代の実年代」p11)

つまり、実在の土器形式や発掘された水田に対するものではなく、両形式の境目を仮定して年代を割り出し、それを稲作開始、弥生時代の開始年代と仮定している、という話です。

2.ですから、玉峴遺跡は「孔列文土器に突帯文土器が僅かに伴う」なのでしょう? 突帯文土器が畑作文化圏のものであるという記述は、孔列文土器がメインであるらしい玉峴遺跡の水田遺跡を否定する根拠になりえません。ちょっと見ればすぐに分かることではないですか。また、「中国の学会では畑と判断されている」という点は真実か判断できかねます。崔徳卿氏の論文一つ読んでも、脚注には玉峴遺跡の水田らしき記述がありますし。また中国でそう判断されていたとしても、熊本大学の甲元氏をはじめ、日本と韓国では水田だと判断しているようですね。--C.camphora会話2014年1月26日 (日) 11:43 (UTC)返信

  • C.camphoraの願望は解かりましたが、『弥生時代の実年代』や[8]によれば、菜畑遺跡から見つかった水田と同じ層から出土した、黒川式新段階と山の寺式のそれぞれの土器の境界を95%の確率で前945~915の間に絞り込む事が出来る。つまり、では、発見された土器(黒川式新段階、前1120~910年)と発掘された水田について、灌漑式水田の出現は前10世紀後半を下る事はなく、山の寺式土器の古い段階の物はもう少し繰り上がる可能性も残っている、としている。勝手に改竄しては駄目
  • C.camphoraが幾ら独自見解を述べても、上記の出典では、「水田が出現している可能性はあるものの基本的には畠稲作の土器が突帯文土器」、「韓国南部突帯文土器は畑作文化だし」、「韓国から水田稲作文化と伴に突帯文土器がもたらされたという説に同意する事は難しい」と書かれてる以上そう書くほかはない。そもそも、突帯文土器が伴出する事が朝鮮半島南部から水稲作が伝わったと主張する根拠なのだから--42.124.60.83 2014年1月26日 (日) 13:25 (UTC)返信

1.黒川式の年代だけ見ることに意味があるのでしょうか? 黒川式新段階と山の寺式の出現が重なり合うピークを稲作開始と推測してるのですから。そして、なぜ「灌漑式水田の出現は前10世紀後半を下ることはないと考えられる」なのですか? 「1000calBPである」と言い切れないのですか? それは統計によって導き出した推測だからですよ。

2.「突帯文土器が伴出する事が朝鮮半島南部から水稲作が伝わったと主張する根拠なのだから」と言いますが、そもそも藤尾慎一郎氏は別の考えを持っている人です。以前から、中国地方や瀬戸内の突帯文土器に限っては、朝鮮半島由来のものとは別に、稲作より早く成立した。石器などを見なければならない、と。ここで否定されているのは、章タイトルにあるように、「韓国の突帯文土器を西日本の突帯文土器の祖型とみる説」です。日本語の読解力の問題になりますが、「朝鮮半島からの稲作伝来」という大事なものを否定しているなら、もっと他のタイトルになるでしょうし、日本語としては当然「韓国から水田稲作文化とともに突帯文土器がもたらされたという李や安の説に同意することは難しい」ではなく「韓国から突帯文土器とともに水田稲作文化がもたらされたという李や安の説に同意することは難しい」になるでしょう。

しかし、なぜ自分に都合の良い記述ばかり見て、それを自分に都合よく解釈しているのですか? 出典を字義通り受け止めるというのなら、下記のような記述をどう受け止めているのですか? これらと、「藤尾慎一郎氏はこう書いている、だから朝鮮半島からの水稲伝来はなかった」という主張はどう両立しているのでしょうか。

(2)韓国南部では前13世紀ころには本格的な畠作農耕が、前10世紀には灌漑式水田稲作が始まっていたことがわかる。九州北部に伝わるのはそれから100年以内である。これまで500年かかったと考えられていただけに、その拡散スピードの速さがわかる。(「弥生時代の実年代 炭素14年代をめぐって」p18 I-1韓国・九州・四国の実年代 藤尾慎一郎)

何故かネット上にある歴博発表よりも一世紀遅めですし、この手の数字は測定方法計算方法でころころ変わりそうですから、研究が進めばひっくり返ることもあるかもしれません。でもそれは今じゃありません。今はただ、藤尾氏の記述を噛み締めるべきです。--C.camphora会話2014年1月26日 (日) 14:29 (UTC)返信

「日本への伝来」の一部記述について 編集

議論が長くなったので、項目をあらためました。

朝鮮半島からは日本に遅れた時期の炭化米や水田跡風の遺構が見つかっている。

現在の記事本文 稲作#日本への伝来 にある上記部分等について疑問があり、修正か他説の併記をすべきではと思います。 下記を(長いですが)参考のうえで意見を頂ければと思います。--C.camphora会話2014年1月27日 (月) 13:32 (UTC)返信


変更すべきと考える根拠となるものを挙げますと、2003年の国立歴史民俗博物館による発表等があります。

総合的にみると弥生時代は前945 ~ 915 年のどこかで始まったと考えられる。すなわち弥生時代が前10 世紀後半に始まったとする根拠である。 弥生時代の始まりと深く関連している韓国南部だが、最古の水田は慶尚南道蔚山・オクキョン遺跡で見つかっており、孔列文~突帯文土器が伴っているところから、前11 世紀頃と考えられている。現状では各型式毎の測定値が1~2点しかないので、これ以上十分に絞り込むことはできない。暫定的な較正年代と理解いただきたい。--弥生農耕の起源と東アジア -炭素年代測定による高精度編年体系の構築-[9] ニューズレター1号 弥生農耕の起源と東アジア[10] (※半島南部までを前13~10世紀、九州北部を前10世紀後半とする図像あり
(2)韓国南部では前13世紀ころには本格的な畠作農耕が、前10世紀には灌漑式水田稲作が始まっていたことがわかる。九州北部に伝わるのはそれから100年以内である。これまで500年かかったと考えられていただけに、その拡散スピードの速さがわかる。--春成秀爾 今村峯雄編「弥生時代の実年代 炭素14年代をめぐって」p18 Ⅰ-1韓国・九州・四国の実年代 藤尾慎一郎)
(5) 韓国南部と九州北部との関係 (中略)A遺跡の突帯文土器の較世年代は1260~1000calBC(90%以上)であった。松竹里遺跡の木炭は1320~970calBCでAの年代と同じである。以上、5点の測定から韓国南部の突帯文土器は前13~10世紀の幅をもつと考えられるが、韓国では前15世紀まで上がる測定値も公表されているので、上限はさらにさかのぼる可能性がある。  後続する孔列文土器は未公表試料1点と、孔列文土器の最終末に位置づけられる先松菊里式の玉房例(図4)から、孔列文の下限を知ることができる。玉房の年代は990~820calBC(92.4%)で、黒川式新段階の後半部分と古い部分が一致しており、武末純一氏が示す韓国と九州の土器の併行関係とも調和的である。未公表の孔列文土器の年代が玉房よりも古いところを指していることを勘案すれば、孔列文の年代も現状では前13~10世紀と考えておきたい。春成秀爾 今村峯雄編「弥生時代の実年代 炭素14年代をめぐって」p16 Ⅰ-1韓国・九州・四国の実年代 藤尾慎一郎)
 紀元前一千年紀第2四半期の弥生文化の形成は、今のところ中国における移牧民との関係は直接にはたどることが不可能である。この頃の考古学的資料では、孔列文土器の分布の拡大と南下[尹 1987] が唯一の明確な事象であり、寒冷化にともなって半島を南下した水稲栽培民の動向と深くつながるものであることの推定は可能であろう。 このことは、寒冷化以前の段階で朝鮮半島には水稲栽培が導入されていたことを想定しなければならないことを意味している。--春成秀爾 今村峯雄編「弥生時代の実年代 炭素14年代をめぐって」p179 Ⅳ-1東アジアの動静からみた弥生時代の開始年代 甲元眞之)
 朝鮮の南部地域でイネが単独で遺跡から検出される事例が増加するのは青銅器時代中期以降の時期であり、朝鮮の東南部(忠清南道や全羅南北道)の沖積平野に立地する遺跡ではことにそれが顕著である。このことは、忠清南道論山郡麻田里遺跡や慶尚南道蔚山市の玉峴遺跡などの小区画水田や階段式水田遺構などの発見で示されるように、紀元前一千年紀中頃になって畑作栽培に加えて、水田経営が本格化する兆しをみせたことを強く示唆している。--甲元眞之氏『日本の初期農耕文化と社会』同成社 p63 (追記 2014年2月5日 (水) 13:38 (UTC))

これらに基づいた記述がなく、併記の形で追加してみても拒否されるのは、中立性に欠けているものと考えます。--C.camphora会話2014年1月27日 (月) 13:32 (UTC)返信


また、以下は現在の「朝鮮半島からは日本に遅れた時期の炭化米や水田跡風の遺構が見つかっている。」への出典として挙げられているものです。小文字は私のコメントです。

大坪里遺跡の農田は等高線と直角に形成されており水田ではなく、年代も松菊里段階である。崔徳卿『古代韓国旱田耕作法和農耕制度的考察』[11] 中国農業歴史学会
注釈部分には蔚山無去洞玉峴(オクキョン)遺跡の水田についての言及らしきものあり。 「[24] 據慶南大學校博物館外,《蔚山无去洞玉峴遺跡》,1999年排水条件好的水田要維持水位,可以分成小塊的田,在青銅器时代,田埂的寬是16~25cm,高1.4~6m,內外的水溝的長度相等。然而在排水條件不好的稻田裏,就沒有設置田埂。」
朝鮮半島から見つかっている古い時代の炭化米は、金海貝塚の物を除くと性状から判断して全て陸稲と思われる。黄粟嘉『呉文化対日本史前稲作的影響』蘇州市職業大学
該当部原文[1]  1920年発掘の遺跡のみを例として挙げている。末尾資料では弥生時代早期を「公元前300-公元前100年」としてある。また、「性状」が具体的に何を指すのか、稲粒の形状なのか遺伝子なのかの説明はない。前項目と合わせて中国語に詳しい方の意見が欲しい。関係は不明だが、金海市の貝塚からは3000~3500年前のプラントオパールが発見されているとのこと[12]
  1. ^ 「朝鲜半岛自1920年在半岛东南釜山市西的金海邑会岘里贝丘遗址的无纹陶器第七层发现了块状的炭化米,认为无纹陶器时代朝鲜半岛东南部已有水稻种植。但之后的大规模调查至今还未发现其他痕迹。尽管有稻谷遗物出土的遗址发现,但早期稻作不是水稻,而是性状类似陆稻的稻谷。这种稻谷只能称之为杂谷型稻作。而且稻作在整个农业生产中的比重不大,尽管金海贝丘遗址人们发现确实种了水稻,也使用了铁器,但有人认为这是从日本九州西北向南朝鲜传去种稻技术和冶铁技术。」黄粟嘉『吴文化对日本史前稻作的影响』
韓国南部は突帯文土器は畑作文化。また瀬戸内や中国地方の突帯文土器は韓国南部の突帯文土器よりも古い。玉峴遺跡の農田遺構も、突帯文土器は陸稲作文化に見られる物で、水田である可能性もあるが同意する事は難しい。藤尾慎一郎・今村峯雄・西本豊弘「弥生時代の開始年代―AMS -炭素14年代測定による高精度年代体系の構築―」[13]
該当部(p91)の章タイトル「④突帯文土器の韓国祖型説について」を見れば判るとおり突帯文土器について論じた部分であり、「朝鮮半島から水田稲作と同時に突帯文土器が来たと考えることは難しい」という文章であって、「玉峴(オクキョン)遺跡に水田があったと考えることは難しい」という文章ではありません。「突帯文土器は韓国では陸稲作文化に見られる物で、玉峴遺跡にも突帯文土器があったので、水田は無かった」という当該部編集IPユーザーの論理にしても、出典中に「孔列文土器に突帯文土器がわずかにともなう蔚山市玉峴(オクキョン)遺跡で(p91)」と、玉峴(オクキョン)遺跡では孔列文土器が主であったとの記述を見れば成立しません。
出典の当該文章中で語られているのが紀元前1400年頃までと非常に古く、両地域で水田稲作が開始されているか怪しい時期であることを考えると、「玉峴(オクキョン)遺跡で灌漑式水田が出現している可能性」というのは、単に「その時期に既に水田が出現している可能性」について語ったものです。また、執筆者の藤尾慎一郎氏が「弥生時代の実年代 炭素14年代をめぐって」p18において「韓国南部では前13世紀ころには本格的な畠作農耕が、前10世紀には灌漑式水田稲作が始まっていたことがわかる。九州北部に伝わるのはそれから100年以内である。」と書いていることを見ても、当該脚注は単なる出典の誤読によるものと思われます。

--C.camphora会話2014年1月27日 (月) 13:32 (UTC)返信

以上です。

  • 修正すべきか否か
  • 併記をすべきか否か
  • その他修正すべき箇所はあるか

などについて、ご意見を頂ければと思います。--C.camphora会話2014年1月27日 (月) 13:32 (UTC)返信

朝鮮の水田稲作が日本より先行していた、とする説については、C.camphoraさんが示したもので十分な典拠になると思います。世間的にも学問的にも広く流布している説を、一人でも数人がかりでも、ウィキペディアンの考察によって消したり、否定したりしてはいけません。当然に載せるべきです。
IP氏が掲載を求めている、朝鮮が日本より遅れていたとする説については、少なくとも日本語で出典をあげることはできていません。注にあった「弥生時代の開始年代―AMS -炭素14年代測定による高精度年代体系の構築」ですが、C.camphoraさんが指摘したように、IP氏の主張を裏付ける内容ではありません。同論文中の問題の一文は、「孔列文土器に突帯文土器がわずかにともなう蔚山市玉峴遺跡で灌漑式水田が出現している可能性はあるものの、基本的には畠稲作の土器は突帯文土器なので、韓国から水田稲作文化とともに突帯文土器がもたらされたという李や安の説に同意することは難しい。」というものです。
そしてこの一文に至るまでの論旨は、こうです。北九州では突帯文土器が稲作開始と同時に出てくる。突帯文土器は韓国南部にあったものだから、水田稲作もこの土器と一緒に来たのだと李や安は言う。しかし韓国南部の突帯文土器はずっと古く、同地における水田稲作以前からあった。日本の中国地方の突帯文土器は韓国南部と同じか古い時代で、やはり水田稲作はない。そして韓国北部ではさらに古い時代に突帯文土器があり、これも水田稲作はない。突帯文土器はむしろ畑作と結びついていた時代が長いので、この土器の存在は水田稲作伝来に関する証拠にはならない、と言うのです。
ところがIP氏は、突帯文土器が水田稲作の有無の証拠になるかのように書いています。韓国で突帯文土器が出れば、その遺跡に水田がない証拠になる、という説を、出典なく持ち込んで独自の論を展開しているように、私には読めてしまいます。誤読ならばひっこめるべきでしょう。誤読ではなく、同論文を批判した独自の見解を書いたつもりなのであれば、やはりひっこめるべきでしょう。他の出典については何とも言えませんが、もし同じような出典の使い方で書かれた説なら、載せるべきではないです。--Kinori会話2014年1月28日 (火) 04:06 (UTC)返信
複数の研究結果が有るにも拘わらず、どちらか一方の研究に集約して記述しようとすれば永久に決着は付かないでしょう。更に、ウィキペディアは研究結果の決着を付ける場ではありません。そのような行為は研究者と学会に一任すべきでしょう。複数の研究が有るのならば、両論併記としてそれぞれの研究内容に則した記事を執筆してはいかがでしょうか。例えば2種類の「xxx由来とする説/xxx由来とする説に対する反論」で、記述すれば読者にとっても判りやすい記事になるのではないでしょうか。そろそろ、それぞれの説を主張するばかりの編集合戦集結させませんか。--Apple2000会話2014年1月28日 (火) 14:37 (UTC)返信
私自身は併記の形でも良いと思っています。その場合の問題点の1つとして、私などが書くと相手方は納得せず、再度同じことになるかもしれません(なにしろ、要検証タグを付けただけでも無言でタグを消したり位置を移動されるので[14])。なので、できればどなたか中立的な立場のかたに修正して頂ければ助かります。問題点の2つめとして、Kinoriさんが説明して下さったような、出典に対する誤読に基づいた記述がある場合です。これに対して何もしない場合は、「xxx由来とする説」ではなく「×××は△△△だとする編者○○の説由来による説/×××は△△△だとする編者○○の説由来による説に対する反論」になり、読者にとっては「なるほど、×××は△△△と主張しているのか」と誤解しかねない内容になります。それを避ける方法が何か必要かと思います。--C.camphora会話2014年1月28日 (火) 15:20 (UTC)返信


この項目に関係したタグ剥がしが二度行われているので、もう一度あったら全保護依頼をしようかと思いますが、構いませんか?--C.camphora会話2014年1月29日 (水) 12:59 (UTC)返信

学者の意見が対立しているなら、その両方を記すべきです。その点は、Apple2000さん、C.camphoraさん、そして私の間でも、意見が一致しているようです。IP氏は違うのかもしれませんが。
IP氏は、「国立歴史民俗博物館は日本の水田稲作開始を前10世紀後半、朝鮮半島南部を前11世紀頃としている」という箇所を、「付記された出典と内容の異なる記事を取消」、「独自見解を載せない事」などと要約欄に書いて除去しています。歴博ニューズレター1号の5ページ下のほう[15]、ウェブ上で容易に参照できる出典があり、朝鮮のほうが先と考えている他の文献もこのノートで指摘されておりますのに、どうにもおかしな振る舞いです。
それと別の出典がついている箇所について、出典で言っていることとこの記事の本文で書いていることが一致しないという指摘を、C.camphoraさんと私がしております。その論文には本当に韓国のほうが遅いと書かれているのか、という疑問です。これについては今のところ除去まではいっていませんが、議論の結果として、実際にはそれらの論文で唱えられていないことが確かめられたら、除去すべきでしょう。そのための「要出典」タグであり、このノートの議論なのに、IP氏は議論に加わらないまま「2次文献のC.camphora独自見解による検証」と要約欄に書くだけで「要出典」タグを取り除いてしまいます。
当面の編集については、まず併記状態にすべきだと思います。実際にノートで疑問が出されている以上、要出典タグも取り外すべきではありません。そのあとで、出典について吟味する議論を続けるべきでしょう。ノートで話し合いをせず、要約欄で名指しの批判が続く状態は困ります。だらだらと編集合戦が続いておりますので、保護にも賛成です。半保護がかかったら、当面の措置として併記・要出典付きの状態にした上で議論を続けましょう。--Kinori会話2014年1月30日 (木) 04:56 (UTC)返信
とりあえず、両論併記が可能な準備を致しました。項目分けの誤りや、更に必要と思われる内容がありましたら追記を御願い致します。--Apple2000会話2014年1月30日 (木) 08:53 (UTC)返信
当方には異論ありません。他に問題ないようでしたら、お手間をとらせて申し訳ありませんが、両論併記での改稿をお願いします。個々の出典や記述に対する検証は、その後にということで良いと思います。以降は性急頻繁な編集を控え、こちらでの議論や容認を経たうえで行いたいと思います。
また、この改稿や以降の編集に対して議論拒否での差し戻し等が行われた場合、半保護依頼は既にしていたりしますが(Kinoriさん、ご意見ありがとうございました)、それが見送られた場合はどうしたものでしょう。全保護を含めて再依頼するか、あるいは広域ブロック依頼するしかないのかなと思っていますが、取り合って貰える事例なのか良くわからずにいます。--C.camphora会話2014年1月30日 (木) 12:54 (UTC)返信
不十分な内容ですが、それぞれの説に関する情報量が多く整理するだけで膨大な時間を必要としそうなので(もしまとめると、本が数冊執筆可能かも)、一旦、終了いたします。日本への伝来だけでなく、稲作自体の起源、日本国内での伝播に関しても記事の内容としては不足していますので、そちらの方面に詳しい方に執筆していただければ幸いです。佐藤氏の論文(佐藤洋一郎:日本のイネの伝播経路 日本醸造協会誌 Vol.87 (1992) No.10 P732-738)ではルートに関して直接言及していないので一部の記述を除去しています。(個人的には、伝来ルートの論争よりも開始時期と品種に関しての方が興味有り)--Apple2000会話2014年2月3日 (月) 08:03 (UTC)返信
ひとまずお疲れ様でした。ただ現状、論争になっていた部分についての併記がされておらず、当初の提案が併記であったことを考えると、とりあえず可能であれば上記出典等に基づいての追加をお願いできないでしょうか。
また、少し気になった点なのですが、 3.(朝鮮半島ルート)は、山東半島から遼東半島→朝鮮半島北部→南部というルート。 4.(山東半島ルート)は、山東半島から朝鮮半島南部というルートであり、 ともに山東半島を起点としているのですが、現行だと名称から誤解を招くのではないかなと。「遼東半島ルート」「朝鮮半島南部ルート」等とした方が良いのではないかと思います。
佐藤洋一郎氏に関連して変更された部分については、元々は 『稲の日本史』p104-109.などに基づいて書かれた記述なので、できれば確認をお願いします。--C.camphora会話2014年2月3日 (月) 16:52 (UTC)返信
Wikipediaは編集(執筆)する為に誰かの許可が必要なシステムでは有りません。執筆ガイドラインを守って執筆をしていただければ良いでしょう。現在の記述に誤りが有るのであれば、誤りを正すための編集には異論は有りません。今後、当該記事においてWikipedia:中立的な観点Wikipedia:検証可能性Wikipedia:出典を明記するを遵守した執筆が進み充実して行くことを期待してまいす。--Apple2000会話2014年2月4日 (火) 03:01 (UTC)返信
独断での編集にならない形にしたかったのと、併記の申し出が有難かったので無理を言ってしまい申し訳ありません。では後日修正したいと思います。
それとは別の話ですが、「弥生時代の開始年代―AMS -炭素14年代測定による高精度年代体系の構築―[16]」 に対し、「これは玉峴遺跡の水田を否定する内容である」と思われますか? また『古代韓国旱田耕作法和農耕制度的考察』についてはどうでしょうか? 私やKinoriさんは、その解釈は誤読であると判断しているのですが。Wikipedia:中立的な観点 に基づいて帰属化したいとしても、出典に対する特定編集者の意図的な解釈に基づいていると成り立たないため、この点について複数の人の意見を伺いたいと思っています。--C.camphora会話2014年2月4日 (火) 11:16 (UTC)返信
"弥生時代の開始年代―AMS" は、否定しているとは読み取ることが出来ませんね。偏っている事を認識せず、偏った解釈を積極的に進めていく人達と共通の理解を得るためには時間が必要でしょう。まずは、C.camphoraさんが改稿してはいかがですか。--Apple2000会話2014年2月4日 (火) 11:43 (UTC)返信
加筆依頼が、依頼内容の記述が無いとの理由で削除されたそうです。再依頼した方が良いのでは。--C.camphora会話2014年2月6日 (木) 09:52 (UTC)返信
私にはとてもできない整理・加筆でした。Apple2000さんに感謝します。残念ながら私には積極的に意義有る内容を加筆していく能力がありませんので、出されたものを読んでの意見をまた続けさせていただきます。
IP氏が維持しようとしていた3つの注の2つめは、『古代韓国旱田耕作法和農耕制度的考察』にもとづくものでした。その注は、「大坪里遺跡の農田は等高線と直角に形成されており水田ではなく、年代も松菊里段階である。」というものです。確かにこの論文には、大坪里遺跡の年代は松菊里段階だとあります。しかし水田稲作については何も書いていません。筆者の崔徳卿は畑作をテーマにして畑作を論じ、その中で畝の線が等高線と直交すると書いただけで、「だから水田ではない」とは論じていないのです。
この論文によれば、大坪里遺跡では、畑の畝の跡と、畝と畝の間にできる溝の跡がはっきりと見てとれたようです。日本でもそういう凹凸の平行線が見つかれば畑だと考えます。畑か水田かという問題は、地面が出た時点で終わっており、「農田と等高線の方向」のような間接的な証拠を持ち出す必要はないはずです。「等高線と直角に形成されており水田ではない」という考察は、無名のウィキペディアンによるものではないでしょうか。その考察は掲載すべきではありません。
C.camphoraさんが注目した玉峴遺跡に関する注ですが、確かにここに「水田」の語があり、引用元の文献も、崔も、玉峴遺跡には水田があったと考えているのでしょう。しかしこの注は、畑の境界線を考える論じる際の参考として、水田の場合を見たものです。稲作や水田の開始時期について何かの説を肯定したり否定したりする箇所ではありません。そして、この一箇所を除けば、水田や稲作について言及した箇所はありません。
この論文はこれ自体としては興味深いもので、日本語でも大庭重信「韓国無文土器時代の畠作技術-大坪里遺跡を中心に-」という同テーマの論文が見つかります。あわせて読めばより興味深いのかもしれません。しかしともかく『古代韓国旱田耕作法和農耕制度的考察』は、この遺跡で見つかった稲籾の跡について一言も触れないくらい、稲作に無関心な論文なのです。この記事で出典にあげる必要はないと思います。--Kinori会話2014年2月5日 (水) 00:09 (UTC)返信

甲元眞之氏の『日本の初期農耕文化と社会』にオクキョン遺跡についての記述があったので、上のほうに追加しておきました。大坪里遺跡の畑についての記述もありますし、その時期に水田に一気に切り替わったというような考えには否定的でしたが、それは特にオクキョン遺跡の水田の存在を否定するものではありませんでした。「畑があったから水田はなかった」というIPユーザーさんの見方は乱暴すぎないでしょうか? 水田稲作を受容したはずの日本でも長い間熱帯ジャポニカが栽培されていたわけで、佐藤洋一郎氏は「弥生時代に水稲は来なかった[17]」とまで極端なことを言っていたらしいですが、両地域の水田への移行はゆっくりと行われたと見るべきではないでしょうか。


Apple2000さんの薦めもありましたし、私が関連記述の修正をやってみようかと思います。私がやるとなると、1月25日の版[18]をベースに、追記や整理を加えた形になると思いますが問題ないでしょうか? 何か不適切な部分がありましたらご指摘をお願いします。 また、私以外にもKinoriさんの指摘やApple2000さんの合意もあるようですので、脚注のうち

  • 「韓国南部は突帯文土器~~同意する事は難しい。[19]」は出典への解釈に問題あるため除去。
  • 崔徳卿『古代韓国旱田耕作法和農耕制度的考察』は、水田稲作についての記述に付記するには不適切のため除去。
  • 黄粟嘉『呉文化対日本史前稲作的影響』については、併記のための出典として帰属化のうえで残す。

としたいと考えています。異論がありましたら今のうちにこちらでお願いします。--C.camphora会話2014年2月5日 (水) 13:38 (UTC)返信

途中ですが、一旦終了とします。--C.camphora会話2014年2月7日 (金) 14:00 (UTC)返信


C.camphoraは自らに都合の悪い出典の除去を繰り返しているが、そのような行為はよろしくない。

  • 藤尾慎一郎・今村峯雄・西本豊弘「弥生時代の開始年代―AMS -炭素14年代測定による高精度年代体系の構築―」では、「韓国南部は突帯文土器は畑作文化。また瀬戸内や中国地方の突帯文土器は韓国南部の突帯文土器よりも古い。玉峴遺跡の農田遺構も、突帯文土器は陸稲作文化に見られる物で、水田である可能性もあるが同意する事は難しい。」と、はっきり「水田である可能性もあるが同意する事は難しい」との文言を以て、水田であるという韓国側の主張に疑義を呈している。--59.85.27.237 2014年2月7日 (金) 13:40 (UTC)返信
貴方はその出典をそう解釈しているのですね。ですが私を含め他の人間はどうでしょう? 貴方以外に、そうした解釈をしている人間はいません。だからこそ、他利用者からも当該出典の除去を提案される状態になりました。その議論の間、以前から呼びかけが行われていたにも関わらず、貴方はなぜ参加しなかったのですか?
意図的に誤った解釈に基づく編集を行い、議論に参加せず、実際に修正が行われた時のみ Wikipedia:腕ずくで解決しようとしない#いつまでも「納得」しない で差し戻しを行う。それは単なる編集妨害ではないでしょうか。--C.camphora会話2014年2月7日 (金) 14:16 (UTC)返信

出典「弥生時代の開始年代―AMS -炭素14年代測定による高精度年代体系の構築―」付きの抜粋文章を除去する行為は荒らし、という事をC.camphoraは理解しましょう。「水田である可能性もあるが同意する事は難しい。」水田であるという主張に疑義を呈しているのは研究者の藤尾慎一郎・今村峯雄・西本豊弘であって私個人じゃないのですよ。--59.85.27.237 2014年2月7日 (金) 15:11 (UTC)返信

埒が明きませんね。誤読に基づいた出典が、複数利用者の合意の下で削除されたことを理由に差し戻ししてるにも関わらず、
  • 14.^ 慶尚南道蔚山・無去洞玉峴遺跡は、孔列文~突帯文土器が伴っているところから前11世紀頃と考えられている。「弥生時代の開始年代」国立歴史民俗博物館
  • 15.^ 韓国南部では前13世紀ころには本格的な畠作農耕が、前10世紀には灌漑式水田稲作が始まっていた。春成秀爾, 今村峯雄『弥生時代の実年代』学生社 p18
  • 16.^ 忠清南道論山郡麻田里遺跡や慶尚南道蔚山市の玉峴遺跡などで、小区画水田や階段式水田遺構などが発見された。甲元眞之『日本の初期農耕文化と社会』同成社 p63
これらを自分が削除して荒らし行為を行いつつ、先に相手を荒らし呼ばわり。以降は保護依頼やブロック依頼のみで対応すべきなのかもしれません。そちらの手続きは詳しくないのですが。どうしたものでしょう。--C.camphora会話2014年2月7日 (金) 15:25 (UTC)返信
失礼、一部取り消します。--C.camphora会話2014年2月11日 (火) 06:15 (UTC)返信


チャットのほうに相談に行ったところ、一週間の全保護で、合意形成すべきとのことでした。合意形成に反した場合は「「ノート:稲作#どこか」での合意に反する荒らし行為を差し戻し」として再差し戻し可能だそうです。また、Wikipedia:腕ずくで解決しようとしない#いつまでも「納得」しない に該当する行為は投稿ブロック等別の扱いになるとのこと。

KinoriさんやApple2000さんには度々で本当に申し訳ないのですが、

*A(朝鮮半島の水田稲作開始時期に関する出典と脚注)
    • 『慶尚南道蔚山・無去洞玉峴遺跡は、孔列文~突帯文土器が伴っているところから前11世紀頃と考えられている。「弥生時代の開始年代」国立歴史民俗博物館』
    • 『「韓国南部では前13世紀ころには本格的な畠作農耕が、前10世紀には灌漑式水田稲作が始まっていた。春成秀爾, 今村峯雄『弥生時代の実年代』学生社 p18』
    • 『忠清南道論山郡麻田里遺跡や慶尚南道蔚山市の玉峴遺跡などで、小区画水田や階段式水田遺構などが発見された。甲元眞之『日本の初期農耕文化と社会』同成社 p63」』
*B(水田稲作と関係ない、および出典に対する誤読に基づいているため、除去が提案されている脚注)
    • 『大坪里遺跡の農田は等高線と直角に形成されており水田ではなく、年代も松菊里段階である。崔徳卿『古代韓国旱田耕作法和農耕制度的考察』中国農業歴史学会』
    • 『韓国南部は突帯文土器は畑作文化。また瀬戸内や中国地方の突帯文土器は韓国南部の突帯文土器よりも古い。玉峴遺跡の農田遺構も、突帯文土器は陸稲作文化に見られる物で、水田である可能性もあるが同意する事は難しい。[20]

等の脚注を残すべきか否かの賛否。

*C
    • 朝鮮半島南部からは[17][18]同時期か稍先行する時期の水田か否か議論がある無去洞玉峴遺跡(水田かどうか確定していない)[19][20]や日本に遅れた時期の麻田里遺跡から水稲炭化米もしくは水田跡が見つかっている[21][22][23]。

の記述が妥当か否か。

その他修正すべき点、妥協案等について、複数の方から端的な意見を頂ければと思います。--C.camphora会話2014年2月7日 (金) 17:44 (UTC)返信

なお私としましては、A必要。B不要。C「水田かどうか確定していない」等の記述は不要。と考えています。Bについては、他の方も言ってるように不適切なものであり、どうしても必要と主張するのであれば、私が示した疑問[21]および他の方の疑問[22][23]に全て反論する必要があります。--C.camphora会話2014年2月7日 (金) 22:15 (UTC)返信
A・Bについて、C.camphoraさんの提案に賛成します。Aが不要とする理由は示されておらず、除去は容認できません。ただ、今回IP氏は1番目と2番目を除去したものの、3番目の甲元眞之『日本の初期農耕文化と社会』による注は直後に書き戻しています。いずれにせよ、理由なく除去することは容認できません。
Bの1番目について、IP氏は誤読の指摘をまったく無視して書き戻しました。IP氏は、2番目の論文の中にある「水田である可能性」と「同意する事は難しい」を文脈と無関係に組み合わせて拠り所にしています。このあたり、IP氏は特定の解釈にもっていくために意図的に自らの理解力を狭めていると感じざるをえません。
Cについても賛成します。朝鮮半島ルートに対する反対は、説そのものの説明とは段落分けして、遺伝子の話とまとめて書くべきだと考えるからです。つまり、ここでも併記の形にすべきです。その際に、Bの提案を通じて除去される注と、対応する本文は、当然除去されなければなりません。Cのほうで注17として現われるのはBの1番目(崔徳卿論文)、注20はBの3番目(「弥生時代の開始年代」)です。また、注19の黄粟嘉氏の論文は、まだきちんと読んでいないのですが、玉峴遺跡に水田はないと遺跡名をあげて書いてあるのでしょうか。そうでなければこのような注を付けるべきではありません。残る注18「松菊里段階の炭素14年代はほぼ2600BP前後であって、較正年代によれば前8~7世紀になる」以下ですが、松菊里段階の年代を、ここで孤立して注に付ける意味がわかりません。はっきりした理由が示されないのであれば、除去すべきだろうと思います。——以上の署名の無いコメントは、Kinoriノート履歴)さんが 2014年2月8日 (土) 00:11‎(UTC) に投稿したものです。
黄粟嘉氏の論文で言及されているのは、1920年発掘のものについてのみで、玉峴遺跡など近年に発見されたものについては、私の見た限りでは書かれていないようです。であれば、朝鮮半島の稲作開始年代についての資料としては不適切でしょうから、これも一旦除去しておきましょうか。もしどうしても必要と考える人がいる場合は、再度ノートで合意形成したうえで追加して貰えば良いでしょうし。できればその際には、中国語に堪能な人による保証などもあると良いのですが(Wikipedia日本語版には、中国語を母国語としている方も複数いるようですし、出典を追加したい人が手順を踏めば協力して頂けるかも知れません)。
注18「松菊里段階の~~前8~7世紀になる」の注釈の除去、およびこれらを出典とした本文の削除にも賛成します。
(異論のある方がいる場合は、この場所でお願いします)
ところで、議論拒否の上での合意無視に対してはどういった対応が適当でしょうか。合意無視を理由に明記して差し戻し。数回続いた場合は半保護を再依頼。それで駄目だったらブロック依頼(可変IPのブロックは面倒だそうなので後回し)。のような形なら良いのかな、と思っているのですが。 --C.camphora会話2014年2月11日 (火) 08:22 (UTC)返信
残念なことですが、今までの例からみて、ノートでの合意が無視される可能性はあると思います。しかしその場合にも、差戻しで対抗しないでください。管理者が履歴を見たときに、リバートのやりとりがあれば、両方に非がある編集合戦と判断される可能性が高いです。差戻しせず、あくまでノートで話し合おうとする姿勢を崩さない場合には、強行した側が「合意を無視した編集強行」「対話拒否」とみなされます。即時のブロックにあたる行為です。もしノートでの合意を無視した編集強行がなされた場合には、当面そのままにしておいて、半保護と投稿ブロックの両方を依頼しましょう。可変IPですので、半保護のほうが良いと思いますが、「悪いことなんだよ。このままではいけないよ」というメッセージをはっきり届ける意味で、短期でもブロックの意義はあると思います。
もちろん、IP氏がノートで誠実に対話してくだされば、多少時間がかかるとしてもそれが最上です。IP氏にお願いします。異論がある場合に、差し戻してから反対意見を投下し、あとは次の差戻しまで沈黙する、というようなやり方はとらないでください。今このノートに提案があり、議論が交わされているのですから、ここで拠り所とする出典を並べて検討しましょう。--Kinori会話2014年2月11日 (火) 09:24 (UTC)返信
わかりました、差し戻しは控えます。正直なところブロック依頼の方は不安だったのですが、必要な事みたいですし同時の方が良いようです。まだちょっと私はルールを把握しきれていなかった気がしますが、特定IPへの即時ブロック依頼という事でしょうか?
一応、広域ブロック依頼をする場合を考えていたものの、当該IPユーザーさんは時間帯や時期によって二種類の接続環境を使用しているようで(参考)、一人として扱って良いのか悩んでいたところです。--C.camphora会話2014年2月14日 (金) 00:35 (UTC)返信

気がつけば半保護して頂いていたようです。全保護期間中に異論が出なかったため、合意形成されたと見なして改稿します。 当該IPユーザーさんはアカウントを取得したような感じですが、行動が変わっていない場合は対応も予定通り即時ブロック依頼という形で良いのでしょうか。--C.camphora会話2014年2月15日 (土) 21:50 (UTC)返信

お疲れ様でした。内容はこれで穏当なものだと思います。今後いろいろ増強していくべきことは当然として、この議論を受けての改稿はこれで一段落としていいのではないでしょうか。当該IPユーザーと思われる利用者:無丁鍬ノート / 履歴さんには会話ページでお願いをしました。聞き入れてくださらない場合には、対話をうながすための即時ブロックを依頼したいと思います。--Kinori会話2014年2月16日 (日) 03:11 (UTC)返信


  • 先ず第一にC.camphoraは併記する事無く出典[24]の削除を繰り返している。
  • 次に[25]によれば、「韓国南部の突帯文土器は畠作農耕文化だし、美沙里の突帯文土器も畠作が想定されている。」と半島南部が畑作地域である事を看破し考古学的に紀元後に至るまで稲作の遺構が殆ど無い点を重視している、また「蔚山市玉峴遺跡で灌漑式水田が出現している可能性はあるものの、基本的には畠稲作の土器は突帯文土器」と玉峴遺跡の遺構が水田であるとする韓国側の主張に当然の疑義を呈している、また「韓国から水田稲作文化とともに突帯文土器がもたらされたという李や安の説に同意することは難しい。石器の組み合わせをなども含めて総合的に検討する必要があろう。」と突帯文土器を以て韓国から水田稲作が伝わった根拠とする韓国側の主張に反論している。新民族主義史観によって論文を都合よく解釈してはいけない。--112.138.166.56 2014年2月17日 (月) 17:16 (UTC)返信
第一に、弥生時代の開始年代 ―AMS -炭素14年代測定による高精度年代体系の構築― 中の「④突帯文土器の韓国祖型説について」は、繰り返し説明してきたように、「水稲伝来と共に突帯文土器が伝わった」とする説への反論であり、「朝鮮半島からの水稲伝来」の否定を意図したものではありません[26] 。これは貴方以外の利用者からも賛同を頂けていることです[27] [28]。出典に対する貴方のその解釈は、誤読または曲解であり、同意できません。左記の指摘に対して貴方は何も答えていません。
第二に、上記の事柄は、下記の編集を合意形成の過程を無視して行うことを正当化するものではありません。
  • 脚注から削除― 『慶尚南道蔚山・無去洞玉峴遺跡は、孔列文~突帯文土器が伴っているところから前11世紀頃と考えられている。「弥生時代の開始年代」国立歴史民俗博物館』 『韓国南部では前13世紀ころには本格的な畠作農耕が、前10世紀には灌漑式水田稲作が始まっていた。春成秀爾, 今村峯雄『弥生時代の実年代』学生社 p18』
  • 参考文献から削除― 「日本の初期農耕文化と社会」「弥生時代の実年代」
第三に、貴方は全保護期間中やそれ以前の合意形成を目的とした議論に参加せず、改稿が行われると合意を無視した差し戻しを行い、それまでの指摘や批判[29] [30] [31] [32] に答えないまま同じ主張を繰り返すのみ[33] [34] [35] で、実質的に会話が成立しないまま編集が強行されています[36]。これでは合意というプロセスを経ること自体が無意味化してしまいます。
以前から他の記事でも似た事がされているみたいですし、私には手に余るようなので、できればkinoriさんや他の方にこれらへの対処をお願いしたいです。(すみません……)--C.camphora会話2014年2月17日 (月) 22:19 (UTC)返信
半保護された直後にアカウントを動かして差し戻した無丁鍬さんについて、Wikipedia:管理者伝言板/投稿ブロックでブロックを依頼しました。それに関連して、IP氏に二つ尋ねたいことがあります。まず、ここで意見を開陳しているIP氏は、本文ページを編集している無丁鍬というユーザーと同じ人ですか。そしてもう一つ、私が2014年2月11日 (火) 09:24にお願いした、「異論がある場合に、差し戻してから反対意見を投下し、あとは次の差戻しまで沈黙する、というようなやり方はとらないでください」という文を読みましたか。読んだ上で無視してよいと考えたのでしょうか。それとも読まなかったのでしょうか。--Kinori会話2014年2月18日 (火) 12:47 (UTC)返信
無丁鍬さんは無期限でブロックされました。同一と思われるIPに対しても、ブロックは適用されます。無丁鍬さん=IP氏が現在ウィキペディアでできることは、編集可能に残されている利用者‐会話:無丁鍬でご自分のブロック解除に向けて努力することだけです。ですので、上記の質問に応える必要はありません。というか、ここにIPで書き込んだら、それがブロック逃れとみなされてしまいますので、ご注意ください。
本文は、合意にもとづいて編集された版に戻しました。--Kinori会話2014年2月20日 (木) 01:29 (UTC)返信
2年まえに取得され、今日までまったく編集履歴がなかった別のアカウントが差戻しを行い、即座に無期限ブロックされました。何年も前からアカウントを持って準備していたのだとすると、既に別のところで数多く問題を起こしていた人だったのかもしれません。--Kinori会話2014年2月20日 (木) 13:41 (UTC)返信
ブロック依頼、本当にありがとうございます。気がつけば別のアカウントが、という可能性もあるのが気がかりですが、ソックパペットとしてのブロックのようですし、その場合もたぶん対応されそうですね。--C.camphora会話2014年2月20日 (木) 14:48 (UTC)返信
少し気づかなかったけれど、やはり 別アカウント→ブロック というのが続いてるんですね。たぶん問題ないと思うので戻します。--C.camphora会話2014年2月22日 (土) 01:32 (UTC)返信
すみません。[37]の要約は、巻き戻しではなく差し戻しでした。
と、別アカウントでのブロック破りが続いたので全保護にして頂いたようです。--C.camphora会話2014年2月23日 (日) 14:05 (UTC)返信

過去ログ化の提案 編集

このノートでは、日本から朝鮮半島へ稲作が伝播されたという記述をめぐって長い議論がありました。

2007年にはじまる前半の議論では、双方とも、Wikipedia:検証可能性が求めるような、信頼できる情報源の提示ができませんでした。一方は確実な説だから疑うべきではないと説き、もう一方はそれなら何かしら根拠となる文献を出せるだろうと言う、そういう対峙であったと思います。2013年からの後半の議論は、本文中で日本から朝鮮に伝播したという説に出典がいろいろ注記された状態でなされました。反対側は、それらの出典を読んだ上で、それらが本文を支えるものではないと指摘しました。

前半の議論では、利用者:黒い猫ちゃん利用者:米匠利用者:飯玉の僕が多重アカウントの不正利用によりブロックされました。後半の議論では、IPユーザーが利用者:無丁鍬などのアカウントを動かしてブロックされました。

そういった経過を経て現在は、日本から朝鮮へ稲作が伝播したという記述は本文から除かれています。

前半の議論はもう何年も前のことであり、昨年までの議論も一方が無期限ブロック状態ですから継続の見込みはありません。また何かあるとしても、それは新しい文献にもとづいた新しい議論になるでしょう。ノートもだいぶ長くなりましたので、ここで一区切りをつけるため、ノートの過去ログ化を提案します。--Kinori会話2015年1月8日 (木) 11:15 (UTC)返信

異論がありませんでしたので、移動により過去ログ化しました。--Kinori会話2015年1月15日 (木) 01:02 (UTC)返信
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