ハリー・グリンデル・マシューズ

ハリー・グリンデル・マシューズ(Harry Grindell Matthews,1880年3月17日 - 1941年10月11日)は、英国、イングランドの発明家である。1920年代に殺人光線(death ray)を発明したと主張した。[1]

ハリー・グリンデル・マシューズ(Harry Grindell Matthews)
Harry Grindell Matthews 1924.jpg
マシューズ 1924年
生誕 (1880-03-17) 1880年3月17日
英国、イングランド、グロスタシャー、ウィンターボーン
死没 1941年9月11日(1941-09-11)(61歳)
英国、ウェールズ、リディーパンディー(Rhydypandy)(スウォンジー)、トー・クラッド(Tor Clawdd)
死因 心臓発作
教育 マーチャント・ヴェンチャーズ・スクール(Merchant Venturer's School)
職業 発明家
配偶者 ガナ・ワルスカ
(結婚 1938年-1941年 彼の死亡)

前半生と諸発明編集

1880年3月17日に、ハリー・グリンデル・マシューズは、グロスタシャー、ウィンターボーン(Winterbourne)に生まれた。彼は、ブリストルのマーチャント・ヴェンチャーズ・スクール(Merchant Venturer's School)で勉強し、電子技師(electronic engineer)になった。第二次ボーア戦争のあいだ、彼は、南アフリカ警察隊(South African Constabulary)に勤務し、そして2回、負傷した。[2]

1911年に、マシューズは、エアローフォーン装置(Aerophone device)、無線電話(radiotelephone)を発明したと言い、そしてメッセージを地上局と2マイル離れた航空機とのあいだで交信した。彼の実験は、政府の注意を引き、そして1912年7月4日に彼は、バッキンガム宮殿を訪れた。しかしながら、英国海軍がエアローフォーンの実演を依頼したとき、マシューズは、専門家がその場に立ち会わないことを要求した。実演が始まるまえに観測者のうち4人が装置の一部を分解し、ノートをとったとき、マシューズは、実演を取り消し、観測者らを追い払った。

新聞諸紙は大急ぎで、マシューズを弁護した。陸軍省は、不正工作を否定し、そして実演は失敗であると主張した。政府はのちに、事件は、たんなる誤解であったと述べた。

1914年に、第一次世界大戦の勃発ののち、英国政府は、ツェッペリン飛行船あるいは遠隔操作の無人の乗り物に対する兵器をつくった者への25000ポンドの賞金を発表した。マシューズは、自分は、セレン光電セル(selenium cells)を使用した遠隔操作システムを創作したと主張した。彼はリッチモンド公園のペン・ポンド(Penn Pond)で、海軍の代表者に対して、遠隔操作のボートでそれを実演して成功した。彼は、25000ポンドを受け取ったが、しかし海軍は、その発明をけっして使用しなかった

つぎに、マシューズは1921年に公の場に現われ、そして世界最初のトーキー映画を発明したと主張したが、それは1921年10月16日に記録された、アーネスト・シャクルトンの最後の探検の直前のさよならインタヴューであった。映画は、商業的に成功しなかった。他のトーキー映画のプロセスはマシューズの前に発達していたが、そのプロセスのなかにはウィリアム・K・L・ディクソン、フォトキネマ(Photokinema)(オーランド・ケラム(Orlando Kellum))、そしてフォノフィルム(Phonofilm)(リー・ディフォレスト(Lee DeForest))によるものもふくまれる。しかしながら、マシューズは、自分のプロセスは最初のサウンド-オン-フィルム(sound-on-film) プロセスであると主張した。たとえマシューズのプロセスが実際に動いたとしても、じつはそれは最初ではなかった。

死の光線(Death ray)編集

 
フラット・ホルム島(island of Flat Holm)で夜間実演を見せると称している1925年の写真

1923年にマシューズは、自分は、マグネトー(magneto)を故障させるであろう電気光線(electric ray)を発明したと主張した。[3]選ばれた数人のジャーナリストへの実演において、彼は、遠くからオートバイのエンジンをとめた。彼はまた、十分な力があれば4マイルの距離から、航空機を撃墜し、火薬を爆発させ、船をとめ、歩兵を無能力にすることができると主張した。新聞諸紙は、彼の発明のセンセーショナルな記事を掲載することによって貸しを作りありがたく思わせた。

陸軍省は1924年2月に、マシューズにコンタクトを取って光線の実演を要求した。マシューズは彼らに答えず、ジャーナリストに話しかけ、1人の『Star』の記者に対して、遠くから火薬に点火することによって光線を実演した。彼はそれでもなお、どのように光線が実際に働くのかを言うのを拒み、ただそれは働くと主張しただけである。英国政府がまだ、彼のアイデアを急いで買うことを拒んだとき、彼は自分はフランスから申し出が来ていると告知した。[4]

空軍は用心深かったが、これはひとつには、発明家気取りの人間らの、以前のいやな経験のためであった。マシューズは、4月26日に武装部隊に対して光線を実演するためにふたたびロンドンに招待された。マシューズの研究所で、彼らは、彼の光線が電球のスイッチを入れ、モーターを動かなくするのを見た。彼は、公務員らを納得させられなかったし、彼らは、ごまかしあるいは信用詐欺を疑った。英国海軍がさらなる実演を要求したとき、マシューズはそれをすることを拒んだ。

1924年5月27日に、ロンドンの高等法院(High Court)は、マシューズの投資家らに、彼が死の光線の権利を売ることを禁じるという差止め命令を出した。あらたな取引を交渉するためにマシューズの研究所に到着したとき、マシューズはすでにパリに飛んでいた。マシューズの後援者らも姿を現わし、それからクロイドン空港に急いだが、しかし遅すぎた。

公衆の激怒は、陸軍省に対して死の光線を実演したかったさまざまな他の発明家気取りの人間らの関心を引き付けた。彼らのうちだれにも、説得力はなかった。5月28日に第10代ストラボルジ男爵ジョセフ・ケンワーシー(Joseph Kenworthy, 10th Baron Strabolgi) は、庶民院で、政府は、マシューズが光線を外国勢力に売ることを止めて何を意図しているのか質問した。[5]空軍担当の次官は、マシューズは、彼らが光線を満足するまで調査させておこうとしなかったと答えた。政府代表者も、或る高官は、光線の前に立ち、生き延びていると述べた。新聞諸紙は、マシューズを応援し続けた。

政府は、マシューズが、航空省を満足させる条件下でガソリンのオートバイのエンジンをとめることを依頼した。彼は、1000ポンドとさらなる考慮を受け取った。フランスから、マシューズは、自分はよろこんでそういう証拠を示さないこと、自分はすでに選ぶべき8つの入札があると答えた。彼はまた、自分は実験のために左眼を失明したと主張した。彼の、フランスの後援者ウジェーヌ・ロワイエ(Eugene Royer)とのかかわりは、英国におけるさらなる疑惑をかきたてた。

サー・サミュエル・インストーン(Sir Samuel Instone)とその兄弟セオドア(Theodore)は、もし彼が光線を英国内にとどめ、それがじっさいに働くことを実演するならば巨額の俸給を与えようと申し出た。マシューズはふたたび断った - 彼は、自分が主張したように光線が働くということを証明したくなかった。

マシューズは1924年6月1日にロンドンに戻り、そして『Sunday Express』のインタヴューを受けた。彼は、自分はロワイエと取引があると主張した。 報道はふたたび彼に味方した。マシューズがよろこんでしようとした唯一の実演は、『パテ』(Pathé)映画『The Death Ray』に、自分のアイデアを、自分なりに満足するまで宣伝させることであった。映画のなかの装置は、政府高官が見た物とは似ていなかった。[6][7]

1924年7月に、マシューズは、発明を市場に売り出すためにアメリカへ発った。彼は、マディソン・スクエア・ガーデンでラジオ・ワールド・フェア(Radio World Fair)で光線を実演するのに25000ドルを出そうと申し出を受けたとき、彼はふたたび断り、そして根拠なしに、自分はイングランド以外でそれを実演することを許されていないと主張した。アメリカの科学者らは、強く印象づけられなかった。ウッズ(Woods)という或る教授は、自分の不信をはっきりと表示するために死の光線装置の前に立とうと申し出た。おかまいなしに、マシューズは、イギリスに戻ったとき、アメリカが自分の光線を買ったと主張したが、しかしだれがそれを買ったのか、またいくらでなのか、言うことを拒んだ。マシューズはアメリカに移り、ワーナー・ブラザースのために働き始めた。

さらなる発明編集

1925年に彼は、彼のいわゆる「ルミナフォーン」("luminaphone")を発明した。[8]

1930年12月24日にマシューズは、新しい創作物を持ってイングランドに帰ってきた - 雲に絵を投影するスカイ・プロジェクター(Sky Projector)。彼は、ハムステッドで、天使、「"Happy Christmas"」というメッセージ、そして「正確な」時計の文字盤とされるものを投影することによって、それを実演した。彼は、ニューヨークでふたたびそれを実演した。この発明も成功しなかったし、そして1931年までに彼は破産に直面した。彼は、高価なホテルで暮らすことに投資家らの金銭の大部分を使っていた。

1934年にマシューズは、あらたな投資家仲間を得て、そしてサウス・ウェールズ、カーマーゼンシャー、ベトウス(Betws)、トー・クラッド(Tor Clawdd)に移転した。彼は、要塞化された研究所と自身の飛行場を建てた。彼は1935年に、自分は航空機雷(aerial mines)に取り組むと、そして1937年に自分は潜水艦を探知するシステムを発明したと主張した。1938年に彼は、ポーランド系アメリカ人のオペラ歌手、調香師、そしてフェミニストガナ・ワルスカと結婚したが、その以前の夫らはあわせて125000000ドルの財産を所有していた。[9]

のちに彼は、「ストラトプレーン」("stratoplane")のアイデアを宣伝し、そして英国惑星間協会に加わった。彼の評判は彼に先行し、そして英国政府はもはや彼のアイデアに関心は無かった。

私生活編集

ハリー・グリンデル・マシューズは、歌手ガナ・ワルスカの5人目の夫であった:2人は1938年に結婚した。[10]彼は、1941年10月11日に心臓発作で死亡した。[11]

外部リンク編集

脚注編集

  1. ^ Harry Grindell Matthews of Winterbourne”. 2007年2月14日閲覧。
  2. ^ “Grindell 'Death Ray' Matthews”. Fortean Times. (2003年10月). オリジナルの2007年9月27日時点によるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20070927200934/http://www.forteantimes.com/features/profiles/193/grindell_death_ray_matthews.html 2007年7月21日閲覧. "By any standards Harry Grindell Matthews led a remarkable life. Born in 1880 at Winterbourne in Gloucestershire, he was educated at the Merchant Venturer's School in Bristol before training as an electrical engineer. During the Boer War he enlisted in the Baden-Powell South African Constabulary and was wounded twice. On his return to Britain he pursued his interest in the burgeoning electrical sciences on the estate of Lord de la Warr at Bexhill-on-Sea. There he displayed a natural aptitude for "thinking outside the box" and began to first visualise and later produce a remarkable series of inventions." 
  3. ^ “Denies Britisher Invented 'Death Ray'. E.R. Scott Asserts He and Other Americans Preceded Grindell-Matthews.”. New York Times. (1924年9月5日). https://query.nytimes.com/gst/abstract.html?res=9B04EFD7163FE733A25756C0A96F9C946595D6CF 2007年7月21日閲覧. "Washington, DC, September 4, 1924 Edwin R. Scott an inventor of San Francisco, today challenged the assertion of Mr. Grindell-Matthews, who sailed for London on the Homeric last week, that the latter was the first to develop a "death-ray" that would destroy human life and bring down planes at a distance."  ( 要購読契約)
  4. ^ “Invisible Death”. Time. (1924年4月21日). http://www.time.com/time/magazine/article/0,9171,929239,00.html 2007年7月21日閲覧. "H. Grindell-Matthews, inventor of a method of controlling motorboats at sea by wireless, for which the British Government awarded him $125,000, has perfected a principle by which aeroplane or other engines can be stopped in full operation through an invisible ray." 
  5. ^ Air Service Tests”. 2007年7月21日閲覧。
  6. ^ “Diabolical Rays”. Time. (1924年6月9日). http://www.time.com/time/magazine/article/0,9171,727972,00.html 2007年7月21日閲覧. "Harry Grindell Matthews plunged deeper into an orgy of mysterious dickering with prospective purchasers of his invisible "death ray."" 
  7. ^ “Grindell-Mathews”. Time. (1924年8月25日). http://www.time.com/time/magazine/article/0,9171,846539,00.html 2007年7月21日閲覧. "A beam of light shoots from a projector. It seeks out a mouse in its cage. The mouse blinks, surprised, into the glow. A switch is turned. Terrible energy flies along the beam. The mouse jumps into the air, quivers, is dead. So, in the future, Prof. Grindell-film such prophetic visions—the death ray will sweep whole armies into oblivion, whole cities into bleak, smoldering ruins, explode bombs in midair, blow up ammunition dumps from great distances; in a word, make existence for those who do not possess its mysterious secret impossible, and, so he says, end war." 
  8. ^ “Luminaphone”. Time. (1925年11月23日). http://www.time.com/time/magazine/article/0,9171,928756,00.html 2007年7月21日閲覧. "Last week Harry Grindell-Matthews, British inventor of the "death-ray" demonstrated certain devices with which he had turned theoretical flippancies of the dilettanti into mechanical realism. It is of course an impossibility to rearrange the human nervous system so that one kind of sense impression is substituted for another, but it is quite within the scope of science to turn light into music, sound into color. His instrument, called the "luminaphone," releases light from a series of searchlights to strike through a pattern of holes on revolving disks." 
  9. ^ “Married”. Time. (1938年2月7日). http://www.time.com/time/magazine/article/0,9171,789466,00.html 2007年7月21日閲覧. "Ganna Walska d'Eighnhorn Fraenkel Cochran McCormick, 45, Polish-American opera singer, perfumer, feminist, whose four previous husbands had owned fortunes totaling $125,000,000; to Harry Grindell-Matthews, 57, inventor of the "death ray," which knocked out a cow 200 yards distant at its first British War Office tests; in London. The bride went on her honeymoon alone, while the investor rushed to his Clydach, Wales laboratory (fenced with electrified wire) to perfect an aerial torpedo." 
  10. ^ “Scientist Asserts He'll Wed Walska. Grindell-Matthews,'Death Ray' Inventor, Says He Will Marry Polish Opera Singer Soon. They Met 3 Months Ago. Marriage Would Be the Fifth for Mme. Walska, Once Wife of Harold Fowler McCormick”. New York Times. (1937年8月20日). https://select.nytimes.com/gst/abstract.html?res=F0081EF935541B728DDDA90A94D0405B878FF1D3 2012年9月4日閲覧. "Harry Grindell-Matthews, genial 57-year old 'death ray' inventor, said today that he would marry Ganna Walska, Polish opera singer whose fourth husband was Harold Fowler McCormick, Chicago harvester magnate." 
  11. ^ “Died”. Time. (1941年9月22日). http://www.time.com/time/magazine/article/0,9171,795510,00.html 2007年7月21日閲覧. "Harry Grindell-Matthews, 61, inventor of a highly publicized "death ray," fifth husband of Singer Ganna Walska; in his lonely, electrically guarded bungalow laboratory near Swansea, Wales. An electrical researcher, he developed submarine detectors, 'aerial mines,' remote-control devices, sound-film synchronization, in 1911 established wireless communication with a plane in flight."