バターンを奪回せよ』(原題:Back to Bataan)は、1945年に公開されたアメリカ合衆国戦争映画である。エドワード・ドミトリクが監督を務め、ジョン・ウェインアンソニー・クインが主演した[4]。1941年から1942年までのバターンの戦い英語版を題材としており、フィリピンルソン島を舞台に史実とフィクションを織り交ぜつつ抗日ゲリラの戦いを描く。製作中の仮題はThe Invisible Armyだった[5]

バターンを奪回せよ
Back to Bataan
監督 エドワード・ドミトリク
脚本 ベン・バーズマン
リチャード・H・ランドー(Richard H. Landau)
原作 イーニアス・マッケンジー
ウィリアム・ゴードン(William Gordon)
製作 ロバート・フェローズ
出演者 ジョン・ウェイン
アンソニー・クイン
音楽 ロイ・ウェッブ
撮影 ニコラス・ムスラカ
編集 マーストン・フェイ(Marston Fay)
製作会社 RKOラジオ・ピクチャーズ
配給 RKOラジオ・ピクチャーズ
公開
  • 1945年6月25日 (1945-06-25) (US[1])
  • 1945年9月 (1945-09) (UK[2])
上映時間 95分
製作国 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
言語 英語
興行収入 $2,490,000[3]
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プロット 編集

1945年、アメリカ陸軍レンジャー英語版は日本軍のカバナツアン捕虜収容所を襲撃英語版し、大勢の捕虜を解放することに成功した。ここで1942年の回想が始まる。

1942年、ダグラス・マッカーサー将軍指揮下のアメリカ軍は、バターン半島で劣勢を強いられていた。やがてバターンからの撤退が決定すると、ジョセフ・マッデン大佐は司令部へ呼び出され、フィリピンに残留して戦線後方で抗日ゲリラを編成指揮せよとの特命を受ける。こうして結成されたマッデン率いるゲリラ隊は、まず部隊の精神的支柱とするべくアンドレス・ボニファシオ大尉を救出する。彼はマッデンの部下で、またフィリピンの国民的英雄アンドレス・ボニファシオの孫の1人である。

一方、ホンマ将軍率いる日本軍は着実にフィリピンの支配を強め、マッデンのゲリラ隊を追い詰めていく。

キャスト 編集

※括弧内は日本語吹替(パブリックドメインDVDに収録)

また、映画の冒頭とクライマックスには、1945年1月30日に撮影されたカバナツアンから解放された捕虜たちの実際の映像が挿入されている[1]

製作 編集

本作のプロデューサーであり、また後にジョン・ウェインのプロダクション・パートナーとなるロバート・フェローズは、本作以前にも太平洋戦線での実話を元にした戦争映画を2つ手がけている。すなわち、1942年のドーリットル空襲を題材とした1943年の映画『ボンバー・ライダー/世紀のトップ・ガン英語版』(原題:Bombardier)と、マリーン・レイダース英語版の活動を題材とした1944年の映画『Marine Raiders』である。また、それ以前にもRKO社の元ではウェイン主演の西部劇映画『拳銃の町』(原題:Tall in the Saddle)などを手がけている。フェローズは戦争初期の敗北からアメリカ人およびフィリピン人による抗日ゲリラの抵抗、そしてマッカーサー将軍の帰還までを描くことで非常に収益性の高い映画となるだけではなく、彼らに対する最良の賛辞になりうると考えていた。そしてフェローズは戦争情報局および軍部との交渉を重ね、撮影に向けて全面協力の約束を取り付けた[6]

当時の最新ニュースを元に内容を段階的に修正していった為、撮影完了までには130日を要した。さらに撮影が3分の2ほど完了した時点でフィリピンにおける反攻作戦(レイテ島の戦い)が始まり、脚本の一部が書き直されることとなった[7]。また、第6レンジャー大隊英語版によるカバナツアン襲撃英語版が成功し、大勢の捕虜が解放されると、この際に撮影された映像も映画の冒頭とクライマックスに挿入された。

ベン・バーズマンが手がけた脚本は、フィリピン人のナショナリズムとアメリカ人の愛国心を強調したものだった。これは例えば、学校が日本軍に兵舎として接収された後も校庭の星条旗を下ろす事を拒み、日本軍将校の命令で掲揚台に吊り下げられ処刑されるフィリピン人校長のキャラクターなどに反映されている。そのほか、バーズマンの脚本にはゲリラ戦術そのものの紹介も含まれていた。

音楽の大部分は、マックス・スタイナーが手がけた1933年の映画『キング・コング』のサウンドトラックから流用された。

当時、バーズマンとドミトリクは共産主義への共感を公然と示し、また共産主義の理想を信じていた。ウェインにとってはこのようなアメリカ人と出会うのは初めてのことであったという[8]。ウェインが述べるところによれば、彼ら2人は撮影顧問として派遣されていたジョージ・S・クラーク大佐(George S. Clarke, バターンの戦い英語版におけるフィリピン・スカウト英語版第57歩兵連隊英語版の指揮官。マッデン大佐のモデル)を軽視し、しばしば革命歌『インターナショナル』の替え歌で彼をからかうこともあった。そうした場に居合わせたウェインがドミトリクに主義について尋ねた時、ドミトリクは自分はそうではないと前置きした上で、「アメリカ国民の大半が共産主義を望むなら、それは我らが祖国にとって好ましいものとなろう」と語った[9]。ドミトリク自身は否定していたものの、ウェインは彼が共産主義者であることを確信していたという[10]。一方、バーズマンの妻ノーマの回想によれば、バーズマンはウェインと非常に親しい様子で、ウェインはバーズマンを「クソの共産主義者」(goddammned communist)、またバーズマンはウェインを「ファシスト」(fascist)と、互いに冗談交じりで呼び合っていたという[11]

撮影中、ドミトリクとバーズマンはウェインからスタントマンを使いたくないという申し出を受けた。本作の脚本にはスタントマンの使用を前提とした危険なシーンが多数含まれていたが、ウェインはそうしたシーンを全て自身で演じた[9]

シャロン・デルメンド(Sharon Delmendo)は著書『The Star-Entangled Banner』の中で、本作でウェインが演じたマッデン大佐はマッカーサー将軍の代理人たる立場にあると評した[12]。彼女はマッデン大佐の描写にマッカーサー将軍との共通性を見出しており、それは例えばフィリピン人将校からアメリカ側の支援が不十分であるとの怒りをぶつけられるシーン、任務の為に一時フィリピンを離れるシーンなどである。

脚注 編集

  1. ^ a b Back to Bataan: Detail View”. American Film Institute. 2014年4月28日閲覧。
  2. ^ BBFC: Back to Bataan censor classified 24 August 1945 Linked 2013-07-27
  3. ^ Richard Jewell & Vernon Harbin, The RKO Story. New Rochelle, New York: Arlington House, 1982. p. 204
  4. ^ Crowther, Bosley. “Back to Bataan”. NY Times. http://movies.nytimes.com/movie/3662/back-to-bataan/overview 2011年5月5日閲覧。 
  5. ^ http://www.tcm.com/tcmdb/title.jsp?stid=1529&category=Notes
  6. ^ p.258Roberts, Randy & Olson, James Stuart John Wayne:American 1997 University of Nebraska Press
  7. ^ p.115 Davis, Ronald L. Duke: The Life and Image of John Wayne 2001 University of Oklahoma Press
  8. ^ p.98 Munn, Michael John Wayne: The Man Behind the Myth 2004 Robson Books
  9. ^ a b p.260 Roberts, Randy & Olson, James Stuart John Wayne:American 1997 University of Nebraska Press
  10. ^ “Cinema: John Wayne as the Last Hero”. Time. (1969年8月8日). http://www.time.com/time/magazine/article/0,9171,941296-5,00.html 
  11. ^ アーカイブされたコピー”. 2008年9月3日時点のオリジナルよりアーカイブ。2008年12月31日閲覧。
  12. ^ p83 Delmendo, Sharon Back to Bataan Once More Pax Americana and the Pacific Theatre The Star-entangled Banner 2004 Rutgers University Press

外部リンク 編集